エピローグ
汐見亜矢が飛び降り自殺を遂げたビルの屋上には、左菜海怜奈に対して責任をとる、とだけ書かれた遺書が残されており、それ以外の件については何ら記述していなかった。
「あれ程の事をやってのけた汐見亜矢にしては、随分あっけなかった様に思うがね…それに、仲間を犯罪者にした事がそれほどショックだったというのも、汐見亜矢の人となりにそぐわない様な気がするけど。」
本庁の霊安室に一時置かれている汐見亜矢の死体を見ながら見荻野はそうつぶやいたが、死体の検分のため小出貴美恵と供に出向いてきた七尾一朗の見解は、それとは少し異なっていた。
「亜矢は、左菜海怜奈に対して友情や信頼以上の感情を抱いていた様に思います。」
「…恋愛感情を持っていたというのか?」
「あの時、得意げに今回の一件を説明する亜矢は、話が怜奈の事になると、何かとても嬉しそうな…夢見心地の様な表情を浮かべていました。今にして思えば、俺と亜矢が一番うまく行っていた時に何度か見た顔とちょっと似ていたんですよ。」
隣にいる小出貴美恵の顔に、それまでとは少し異なる真摯な表情が浮かんだ。
「もしそうなら、怜奈を殺人犯にしてしまった事は亜矢にとって耐え難い苦痛だったかも知れない。それに、怜奈が殺人罪で刑務所に入ったら長く…もしかしたら永久に会う事が出来ない、という苦しさが加わったとしたら…まあ、あくまでも推測ですけど。」
「ところで汐見ホールディングスの件だが、やはり再捜査は難しそうだ。世間は大騒ぎしているが、加害者の三人に加えて土山元警部補まで死んでしまったからな。まあ考えてみれば、汐見亜矢は自分で父親の死の真相を暴く機会を潰した、という見方も出来る…」
七尾一朗の視線に込められた無言の非難が、ひとりの警察官である見荻野に突き刺さった。
「…いや、この言い方は適切ではなかったな。気に触ったのならすまない。」
「…俺も同罪ですから…」
そう言った後、七尾一朗は口を真一文字に結んでうなだれた。見荻野は何も返答する事なく、二人に霊安室から退去する様うながした。
一時間後…庁舎を辞して表通りに出た二人に、うだる様な都心の熱気が襲い掛かった。
「相変わらず暑いな。まあ幾ら文句を言っても夏が終わってくれる訳じゃないけど…」
敢えて軽い口調でそう言った七尾一朗に対し、小出貴美恵はにこやかな表情でうなずいた。
「夏季休暇はまだ半ばですし、気分転換も兼ねてどこかに遊びに行きたいですね。」
「それはいい考えだな。行くならどこがいいと思う?」
「もちろん銚子です。あそこなら泳げるし、魚も美味しいし、それに犬吠駅で食べた焼きたてのぬれ煎餅…今は何よりもあれが食べたいんですよ。」
「銚子ねえ…」
「駄目ですか?」
「いやそんな事は無いけど、あんな事があった場所だし、行く先々で思い出して気分転換にならないんじゃ…」
「だから行くんですよ。今度は切符も宿泊クーポンも自分達で買って、わずらわしい用件も抱え込まずに観光だけの目的で、しっかりと遊んでけじめをつけて来ましょう。」
「なるほど、そういう考え方もあるか。」
「決まりですね。それじゃさっそくインターネットでホテルを検索してみます。二名一組、ひとり当たり一泊一万円くらいで探してみますね。」
「あ、ちょっと待ってくれ。『二名一組』で申し込むと一緒の部屋にされ…」
「七尾さん。あたしはけじめをつけると言いました。」
「………」
「あの時言った通り、あたしは誰にも負けません。そして、貴方を誰にも譲る気はありません。」
その満面の笑みの中に獲物を狙う猟犬の様な表情を見てとった七尾一朗は、苦笑の面持ちで細かく頷いた。真夏の昼下がりに、背中を冷たいものが通り過ぎた感覚を得た事は、むろん口にはしなかった。