第十五話
「警視庁の多田倉です。この事件の捜査を担当しています。」
自己紹介をしながら、多田倉は目の前でベッドに腰掛けている、パジャマにサマー・カーディガンを羽織った若い女性に見入っていた…何ていい女だろう。写真で見た姿とは次元が違うし、事件現場ではほとんど分からなかったが、こうやって落ち着きを取り戻して髪を整えた姿は、今まで自分が見た全ての女性を凌駕する程美しい。こりゃ、左菜海でなくても多くの男が夢中になるだろうな…多田倉はそう思わずにいられなかった。
「ご主人の事はさぞかしショックだと思いますが、我々の立場としては、事件の真相を究明しなければなりません。あの時一体何が起こったのか、お教え頂けませんか?」
緑がかった黒真珠の様な輝きを湛えた両の瞳で見つめられながら、多田倉は心の奥底で理性を保ちつつ、伝えなければならない事を伝えた。左菜海怜奈は小さく頷き、おそるおそるといった口調で経過を語り始めた。
「…左菜海と殺しあった男は、甲田麻砂鬼と言います…左菜海とは学生時代からの友人で…強盗の仲間でもあります…」
「…強盗…」
「本当に申し訳ありませんでした。緋賀を殺した時にあたしが左菜海を諌めていたら、少なくとも昨日の事は避けられたかも知れないのに…」
「緋賀を殺した…? 緋賀利康の事ですか? 左菜海蓮司が緋賀利康を殺したんですか?」
「………」
「貴女は、それを知っていたんですか? 知っていて黙っていたんですか?」
「はい。お詫びの言葉もありません。でもまさか、こんな事になるなんて…」
一度深呼吸をしてから、左菜海怜奈は再び話を続けた。
「一ヶ月ほど前の事でした。買い物から戻ったわたしは、顔面蒼白で応接間に座り込んでいる左菜海を見つけました。彼の目の前には、首を絞めて殺されている男がいました。それは緋賀利康という男で、半年ほど前から何度か家を訪ねて来ていた男です。左菜海は最初あたしに、緋賀を友人だと紹介しましたが、二人の間に変な空気が漂っていたのを感じていました。」
「半年ほど前ですか…」
見荻野からの情報を頭の中で照合しながら、多田倉は小さく頷いた。
「緋賀を絞め殺した様子の左菜海はこういいました。この男は俺を恐喝しに来ていたんだ、と。」
「恐喝?」
「はい…左菜海の話では、三年前、自分と緋賀そしてもう一人の仲間と供に強盗に及んだとの事でした…その時、左菜海はある電気工事会社に務めていたそうです。そして汐見ホールディングスという会社に仕事で頻繁に出入りしていました。この会社の社長は左菜海と同郷で、事のほか目をかけてくれていたそうです。そのため電気工事などはすべて左菜海を指名した形で発注していた様です。ところが親しくしているうちに、左菜海は汐見ホールディングスの裏の顔を知ってしまいました。金権政治家と癒着し、影で違法な政治献金を続けている、という事を。」
「………」
「しかも、そのお金は銀行に置いておくと監査の段階で発覚してしまうので、常に億という金額を自宅の金庫に用意している…それを知った左菜海は、強盗に押し入ってそのお金を横取りしようと考えました。性質上、警察にも届ける事が出来ないだろうから必ずうまく行く…しかしどう計画を立てても一人では無理だと判断した左菜海は、高校時代の友人だった二人に話を持ちかけ、共犯者に引き入れたのです。」
「さっきの説明では一人は緋賀ですね。そしてもう一人が、最初に言った通り…」
「はい、甲田麻砂鬼です。当時は三人とも不況で金回りが悪く、なんとかしようと思っていた様で、左菜海の提案は緋賀と甲田にとって願っても無いチャンスだったそうです。汐見社長を会社の駐車場で待ち伏せ、二人がかりで社長を押さえつけて車に乗せ、そのまま社長の自宅に乗り付けて金庫を開けさせました。中には二億円近い現金が入っていたそうです…ところが、その現金を見て三人とも気が緩んだ瞬間、汐見社長は彼らの手を振りほどき、逃げようとしたのだそうです。慌てた三人はなんとか押さえ込もうとしましたが、バルコニーに出て大声を出そうとしたので、それをやめさせようと左菜海が突き落とした様です。」
「…社長は投身自殺したと思われていましたが、それが真相という訳ですね。」
「わたしが聞いた限りではその様です。予定外の殺人が発生したものの、計画はそのまま続行し、三人は現金を奪った後の金庫を元通りに閉め、玄関を出た後に覆面や手袋も外して何食わぬ顔で逃げ出し、事件の動向を見守りました…ところが警察は汐見社長が自殺したと発表、三人が盗んだお金については一切言及しませんでした。彼らは狂喜しつつも、おそらくは裏金を受け取っている政治家が警察に圧力をかけ、事件そのものをうやむやにさせたのかも知れないと考えたそうです。」
「………」
返答に窮した多田倉を他所に、左菜海怜奈はさらに話を続けた。
「もしそうだとすれば、これ以上は追いかけられる心配は無いものの、ある意味でもっと恐ろしい政治家という存在を敵にまわした可能性もあるので、ほとぼりがさめるまでは会わない様にしようと約束し、奪ったお金を山分けにして別れたそうです。それから半年ほどして、どうやら自分の周囲に不穏な動きが無いと思った左菜海は、奪ったお金を元に、汐見ホールディングスに出入りした事で多少覚えていたデイ・トレーディングを始めたそうですが、これが思ったよりもうまく行き、序々に軌道に乗っていきました…あたしが左菜海と出会ったのはその頃でした。」
「その様ですね。なんでも、かなり熱心なプロポーズを受けたとか…」
「…ええ。最初は迷っていましたが、あたしも少しずつ左菜海の情熱に惹かれて行きました。結婚後、左菜海はさらに仕事にまい新し、あたしも僅かながら事務などを手助けしました。この時は物心両面が満たされていて、本当に幸せでした…ところが半年前、あたしたちの前に緋賀利康と甲田麻砂鬼が現れてから事態は一変しました。左菜海が経済的に成功した事を知った彼らは、汐見和宏の事をバラされたくなければ、今後は自分に売り上げの一部を寄こせと言って来たそうです。以前よりも遥かに護るべきものが増えた左菜海は、仕方なくその要求に応じ続けました。」
「恐喝というのはそういう事ですか。」
「はい、甲田はそれだけでした。」
「?」
「左菜海が緋賀を絞殺した時、左菜海はわたしに全てを打ち明け、さらにこう言いました。緋賀が図に乗って、絶対に受け入れられない要求をしてきた。だから殺した…最初は何の事か分からなかったのですが、よくよく聞いたら、緋賀の新たな要求とは…」
左菜海怜奈はそう言いながら、屈辱と侮蔑をかみしめる様な表情を浮かべ、両腕で胸を隠す仕草をした。それが何を意味するのか気が付いた多田倉は、自分が左菜海怜奈に感じた思いと重なる気がして、不快な自己嫌悪にさいなまれた。
「おっしゃりたい事は分かりました。それで、緋賀を絞殺した後はどうしたのですか?」
「それまでの事はともかく、左菜海が緋賀を殺したのは、結果的にはあたしのためです。彼を責める訳にはいかない…あたしはそう考えたし、左菜海も自首する気がない様子でした。あたし達は相談の末、緋賀の死体を奥多摩の山中に埋めて、何も知らないふりをする事に決めました。」
「貴女は自分が何をやったのか分かっているんですか。少なくとも死体遺棄…下手をすれば殺人幇助に問われるかも知れないんですよ。」
「よく分かっています。でも左菜海を見捨てる訳には行かなかった…」
震える声でそう答える左菜海怜奈を前に、多田倉は無言で顔をしかめた。
「ところがそれから何日かして、左菜海に一通の手紙が届きました。」
「手紙?」
「はい。手紙といっても、うちのポストに直接放り込んだもののの様でした。差出人が書いてなかったので誰の手紙かは分かりませんが、その手紙を読んだ直後から、左菜海の様子が明らかにおかしくなりました。何かを恐れている様な、悩んでいる様な…そして手紙が届いた翌日、自分の目を疑う様なニュースがテレビや新聞で流れ始めました。奥多摩に埋めた筈の緋賀の首だけが、よりによって緋賀や左菜海の故郷である銚子の林の中で発見された…と。あたしは訳がわからず、何が起こっているのかを左菜海に問いました。しかし彼は何も言いませんでした。」
「その報道の後に甲田麻砂鬼が来た訳ですか。」
「はい。電話がかかってきて…応対した左菜海によると、甲田は電話の向こうでひどく恐れた様子で、とにかくこちらに来て今後の事を相談したい、と言った様です。甲田の正体は、左菜海が緋賀を殺した時点で聞いていましたから、甲田と会うのはやめた方がいいと言ったのですが、左菜海はあたしの言う事を聞き入れず、どうしても会わなければならない用があると言って…甲田がやって来ると、あたしは命じられた通り応接間に案内して…その後の事はよく覚えていません。頭の中が真っ白になって…気が付いたらこの病室にいました。二人が死んだという事も、ついさっき教わったばかりです。」
重苦しい沈黙が病室を支配した。多田倉はメモを閉じ、椅子から立ち上がった。
「今日はここまでにしましょう。明日、またお話を聞かせて頂く事になると思います。」
一呼吸するだけの間があって後、多田倉は左菜海怜奈に対してさらにこう告げた。
「貴女の行為に対して司法が最終的にどう判断するかは断定出来ません。ただ、お話を伺った限りでは情状酌量の余地はあると思います。」
その言葉を聞いた左菜海怜奈は多田倉に深々と頭を下げた。落ち着いた表情で一礼をかえした多田倉は、病室から出て本庁への帰路についた。廊下を歩く自分の歩調が変に軽やかな事を、多田倉本人は気づいていなかった。