第十四話
「元警視庁の土山支頭夫警部補ですね? 見荻野といいます。」
午後三時頃…閑静な住宅街の一角に建てられた、これといって特徴の無い日本家屋の庭先で、その老人は盆栽の手入れにいそしんでいた。見荻野が警察手帳を見せながら挨拶すると、老人はうさんくさそうな表情で見荻野を見やった。
「五葉松ですか。盆栽の基本だけに逆に難しいそうですね。」
「興味も無いものを無理やり話題にして場をつなげようとしても白けるだけだ。用があるならさっさと言え。」
「…失礼しました。実は貴方が定年の前に担当した事件について、幾つかお伺い出来ないかと思いまして…」
「捜査記録なら整理された資料として本庁に保管されている筈だが?」
「お伺いしたいのは、その捜査記録が本当に正しいかどうかという事です。」
「何の話だ。」
「汐見和宏の件です。」
老人の右手にある剪定用のハサミの動きが一瞬止まった。
「汐見ホールディングス社長、汐見和宏…彼は三年前、自宅の三階のバルコニーから地上に落ち、脳挫傷で死にました。当時の捜査の結果、自殺と断定されています…この捜査の指揮を担当していたのが土山さんですよね。」
「……ああ、そんな事件もあったな。今の今まで忘れていたが。」
「思い出して頂いて感謝します。では、その捜査の過程で得た汐見和宏の娘の証言の事も思い出して頂けませんか?」
「…さあ、どんな証言だったかな。年をとるとそういう細かい記憶はどんどん抜け落ちて行くのでね。」
「娘は、証言した私服が土山と名乗った事から、その証言がどう扱われたかまでを当時の恋人に話し、どうすれば良いのか相談しています。もっとも、相手との関係に深刻な亀裂が入っていたので、相談は実を結ばなかった様ですが。」
見荻野は、自分が今担当している事件の概要を説明し、その過程で不審な点が浮かび上がった事を告げた。
「…で、その相手の記憶では、娘の目撃証言はこうです。父親が自殺した当夜、外出先から帰ってくる途中、三人の男が妙にせわしない様子で、家の玄関に通じる路地から出てきた。不自然なくらい大きな荷物を抱えてね。そしてその内の一人が、以前会社に寄った時に会った事がある電気工事会社の社員だと気がついた。彼が何故こんな所にいるのだろうと不思議に思いながら帰宅したら、庭先で倒れている父親を発見した。当然ながら娘はパニックに陥り、救急車を呼ぶのが精一杯だった。しかし三日ほど経ってようやく落ち着いた娘が、自宅の金庫を開けて調べたところ、いつも必ず用意されている筈の億単位の現金が消えて無くなっていた。担当の刑事である土山さんにその事を告げた所、土山さんからは翌日になってこう言われたそうです。『そんな現金の事は会社では把握していない様だが、一体何を根拠に言っているのかね。』…娘も世間知らずではありませんから、汐見ホールディングスが一部の金権政治家と癒着していた事は薄々気づいていたし、自宅に用意されていた現金がそれに関係している事ぐらいは把握していた様です。しかしどんな種類の金であれ、父親が死んた時点で億単位の現金が無くなったのは、娘の記憶では確実な事であり、それは当然ながら先の三人を目撃した記憶に結びついた。娘は改めて自分の目撃証言を土山さんに訴えたが、それにも関わらず警察は汐見和宏の死を自殺と断定、事件発生後たった一週間でそれを正式に発表しました…そう、まるで娘の証言を黙殺するかの様にね…」
そこまで一気に話した見荻野が土山老人の横顔を僅かに見た。相手は冷静な表情を崩していなかったが、こめかみの部分が僅かにけいれんしていた。
「娘はそれを恋人の男に相談しました。その後はマスコミにも接触した様子があります。ですが最終的には彼女の主張は誰からも受け入れられず、娘は四十九日の法要の後、周囲の人間全てに別れを告げ、そのまま姿を消しました。行き先は分かっていません。」
「………」
「本庁に残っていた記録は、もちろん自殺と断定したものです。汐見亜矢の証言は記録されていませんでした…土山さん。教えていただけませんか? やはり捜査に政治的な圧力が加えられたのですか?」
「…確か、見荻野と言ったな、年は幾つだ?」
「? 三十六歳ですが。」
「まだ未来にやりたい事がたくさんある年齢だな。生きてる内に営業運転のJRリニアモーターカーにだって乗れるかも知れない。うらやましい事だが、若いだけに見えないものも多い様だ。」
「………」
「盆栽いじりと、正月にお年玉目当てにやってくる孫の顔を見るのだけが今の俺の楽しみなんだ。細々と暮らしている老人の平和を乱すのは止めて貰えないか?」
「三人死んでるんです…いや、汐見和宏を加えれば四人。それが全て三年前に起こったこの事件が基点となっている。何とも思わないのですか?」
「思わんね。外国で見知らぬ連中が一〇〇万人餓死したという報道と、自分は今夜何を食べるかという問題のどちらが重要かと問われて、前者の方が重要だと言い切れる連中を、俺は心底軽蔑しているんだ。」
「死んだのは見知らぬ連中ではなく、貴方が担当した事件の関係者ですよ。」
「帰ってくれ。もう話す事は無い。」
優美な盆栽の群れに彩られた庭に、沈黙のベールが舞い降りた。僅かの間があって後、見荻野は小さく一礼してその場を立ち去り、近隣の駐車場に停めてあった覆面パトカーに乗り込んだ。大きなため息を突いた見荻野は、渋面をつくりながら独り言をつぶやいた。
「こりゃ、難物だな。何しろ手の内は全部知られている。果たして陥落するかどうか…」
携帯電話が鳴ったのはその時だった。多田倉という発信者名が液晶窓に表示されていた。
「もしもし…左菜海の奥さんに事情聴取が出来たのか。で、どうだった?……ふたつの事件の核心と思える証言が得られた?」