第十一話
左菜海投資株式会社社長の左菜海蓮司と、その自宅を訪ねてきた知人が、応接間で殺しあった…という事件が発生したのは、その夜の事だった。夫人である左菜海怜奈が一一〇番に通報してきたが、その電話に応対した者は、相手が何を言っているのか理解出来ず、最初はいたずら電話として処理するつもりだった。だがいたずら電話では無い事は、現場に最初に到着した警察官が強烈にこみ上げて来た嘔吐感とともに確認した。
捜査を担当したのは見荻野の後輩である多田倉という刑事で、その多田倉が現場に到着したのは通報から一時間程後の事である。豪華な造りの邸宅の玄関から応接室に踏み入った多田倉も、その瞬間顔をしかめた。
「こりゃ、ひどいな…」
事件現場はバケツで大量の血をぶちまけた様な光景だった。両者とも出刃包丁で相手の身体を数十箇所に渡って突き、或いは斬り裂いて相手を殺そうとしていた事は、その死体の状況が物語っていた。同じ部屋にいた左菜海の妻である怜奈も二箇所ほど切り傷を負っていたが、命に別状は無さそうだった…ただし、発見された時の左菜海怜奈は、胎児の様な姿勢で全身を縮めながら震え続けており、何を訊いても意味不明の音声しか発しなかった。多田倉が現場に到着した時は、左菜海怜奈は現場である応接間から少し離れた寝室に運び出され、救急車が来るまで婦人警官の一人が懸命になだめている、という状態だった。
「そうか、まあ無理も無いとは思うが…それで、殺し合いを演じた二人の身元は分かったのか?」
「部屋着姿の方はこの家の世帯主である左菜海蓮司です。もう片方の外出着姿の男も、持っていた運転免許証から正体が判明しました。」
鑑識はそういいながら、保護用のビニール袋に入れられた運転免許証を多田倉に手渡した。
「甲田麻砂鬼…この生年月日だと今日の時点で二十八歳か。住所は東京都…」
「そして、こちらが寝室にあった左菜海蓮司の運転免許証です。」
「…ん? この二人、どちらも二十八歳で本籍が銚子市だな。」
「その様ですね…とにかくこの二人が殺しあったというのは間違いなさそうです。奥さんの左菜海怜奈を含めて三人以外の誰かがこの現場にいた様子はありませんし、出て行った形跡もありません。」
「左菜海怜奈が犯行に加担した可能性は?」
「それは何とも…この部屋の状態では、誰が誰を殺したかといった事を軽々に判断出来ません。まだ凶器の分析も済んでいませんから。」
「で、その凶器は?」
鑑識が保存していた二本の包丁は、どちらも刃渡りが二十センチほどあり、血で赤黒く染まっていた。
「死体を解剖するまで断定は出来ませんが、二人とも刃物で全身を傷つけられ、出血性のショック死を起こしたものと推察されます。」
鑑識が説明をしている最中に救急車特有のサイレンが接近し、玄関付近で止んだ。降ろされたタンカは左菜海怜奈がいる部屋に行き、入院させる為に運んでいった。それらを見送りながら、多田倉は小さなため息をついた。
「唯一の目撃者があんな状態では事情聴取のしようがないな。まあ何日か経てば落ち着くだろうから、その時あらためて病院に行ってみるとして、まずはこの甲田麻砂鬼という男の家に…」
「多田倉刑事。玄関に見荻野警部補がお見えですけど。」
「…え?」
慌てた様子の多田倉が玄関にかけつけ、狐につままれた様な面持ちの見荻野と相対した。
「多田倉? おいどうなってるんだ、これは。」
「どうって……見荻野さんこそ、何故ここに?」
「俺はこの家に聞き込みに来たんだ。そうしたらこんな有様だったから…」
「聞き込みですか?」
「ああ。俺が今担当している事件の捜査でな。例の生首事件だが、その被害者がこの家と頻繁に連絡を取っている事が分かったんだ。この家の者に事情聴取をしたいのだが。」
「…残念ながら今のところ、この家の者は誰も事情聴取に応じられません。奥さんはたった今入院しましたし、その夫と思われる人物は、応接室で血の海に横たわっています。」