第十話
「では鑑識の報告から。」
ほぼ同じ時刻、警視庁の合同捜査本部で会議が始まっていた。本部長の席に座っていた初老の男に指名された鑑識の係官がおもむろに立ちあがり、手にしている報告書を読み上げた。
「まず、手紙に使われたPPC用紙や封筒、紙袋、クーラーボックス、封印していた布テープ、クーポン券からは『発見者』である七尾一朗の指紋が検出されました。手紙やクーポン券などからは小出貴美恵の指紋も検出されています。その他にも幾つかの指紋が検出されましたが、照合の結果、いずれの指紋も犯罪者リストに該当するものがありませんでした。」
「次に、遺留品の購入ルートの捜索状況は?」
現場聞き込みを担当した捜査員が、あまり色良くない表情で立ち上がった。
「品物の多くは全国チェーンのディスカウントショップで毎日大量に売られているものだと判明しました。特にクーラーボックスは大分長い間モデルチェンジをしていない定番商品で、メーカーからの情報では、出回っている数は何千という単位だそうです。」
「切符やクーポンは何かつかめたか?」
「北南大学ミステリー研究部で発見された三日前の昼頃に、都内の旅行代理店で売られた事が分かりました。ですが、その時間帯は混雑していて従業員は記憶が曖昧ですし、監視カメラも、映像を記録しているハードディスクが既に上書きされてしまっていて、購入者の特定は出来ませんでした。購入申し込み書の氏名欄には『七尾一朗』と記入されていますが、その時間は七尾一朗も小出貴美恵も大学の前期試験を受けている最中だった事が判明しています。」
「なお、申し込み書の筆跡が異なっていますし、該当する指紋も検出されていません。」
鑑識係がそう付け足した報告に、本部長もまた憂鬱そうな表情を浮かべた。
「つまり、その点でも七尾一朗のアリバイは成立した訳か…印字された文字は?」
「ごくありふれたゴシック体です。しかもご丁寧に一旦コピーを通してますので、プリンタやソフトの特定はかなり困難です。」
「ビーコンの出所は?」
「受信機と発信機のどちらも自作品の様です。使われていた部品はどれも秋葉原あたりで簡単に手に入る類のもので、工作自体もそれなりの電子工作の知識と経験があれば製作はそれほど困難ではありません。」
「見荻野。七尾一朗か小出貴美恵のいずれかが電子工作の知識を持っていそうな気配はあるか?」
本部長に指名された見荻野が手を振りながら返答した。
「いえ、二人とも文系の学生で、それらしい様子もありません。」
「…となると、やはり七尾一朗が犯人という可能性は低いだろうな。真犯人は冤罪をひき起こすのが目的だったという事か?」
「というより、本気で犯人に仕立てるつもりなら、もう少しやりようがあると思うのですが…むしろ七尾を事件に巻きこんで迷惑をかけてやろう、或いは恥をかかせてやろうという意思が感じられます。」
「いずれにせよ、七尾が『被害者』である事はどうやら確実らしいな。」
「ええ。ですが、多少気になる点があります。」
見荻野の発言に、本部長は怪訝そうな表情を浮かべ、続きをうながした。
「七尾一朗には以前かなり親密にしている恋人がいた事が判明しました。当時七尾と同じ北南大学のミステリー研究部に所属していた汐見亜矢という学生で、三年前に自殺した汐見ホールディングスの社長、汐見和宏の一人娘です。」
会議室にいる何人かの捜査員が、その会社名に反応した。
「…それはまた意外な名前が出てきたな。確か会社自体はもう無くなっているんじゃなかったか?」
「はい。別の投資会社に売却されています。残された社員もその投資会社に移動しました。」
「それで、その汐見亜矢がどうした?」
「七尾は『銚子』という地名に心当たりが無いと言っています。ところが調べたところ、汐見親娘は銚子の出身なんです。」
「ほう?」
「十年前、汐見和宏が地元の醤油会社に務めていた時に、和宏の妻…亜矢の実の母親でもあります…が病気で他界しました。その直後に和宏は退社し亜矢を伴って上京、ベンチャー企業の汐見ホールディングスを立ち上げ、IT関連の投機が成功して数年で急成長を遂げました…もっとも、裏で色々えげつない事をやっていたという噂もあり、自殺した時も二、三のマスコミがその辺をつっついていた様です。いずれにせよ、当時の七尾一朗と汐見亜矢の親しさは周囲の人間も認めていますから、七尾が汐見の出身地を知らなかったというのは不自然でしょう。」
「今の関係はどうなっているんだ?」
「実は、父親が自殺した後、汐見亜矢は消息を絶っています。」
「失踪したのか?」
「父親の葬儀を執り行い、法律上の手順に従って遺産相続を済ませた後、もうたくさんだ、探さないで欲しいと周囲に言い残して蒸発した様です。無論七尾とも別れました。その後はどうなったかはわかりませんし、七尾と連絡を取っている形跡も無い様です。」
「だとすると、今回の事件とのつながりは考えにくいな。七尾が銚子の事を知らないと言ったのも、別れた彼女の事を思い出したくないという気持ちがあったとすれば無理も無いだろうし。」
「その通りですが、実は問題がもうひとつあります。」
「何だ?」
「被害者の緋賀が、務めていた倉庫会社を退社したのがやはり三年前なのです。その後別の会社に再就職した形跡が無い上、アルバイトをしていた形跡も、金融機関から金を借りていた形跡もありません。それなのに、緋賀の暮らしぶりは就職していた頃より格段に良くなっています。それまでは六畳一間の木造アパートに住んでいたのに、十六畳ものリビングがある鉄筋のマンションに引越して新車も購入しているし、そのリビングには豪勢なソファーや五十インチの薄型テレビが置かれていました。」
「こちらは親が金持ちという訳ではないのか?」
「いえ、調べたところ、緋賀の両親は彼が小学生の頃に交通事故で死亡しています。その後は親類の家を転々としていて、あまり恵まれた境遇にあったとは言えない様です。」
「なるほど、そんな境遇で、さらには退職して安定した収入が得られない状態になったのにも関わらず、そんな生活を営める金を持っている。しかもそれが始まったのが三年前…汐見和宏が自殺したのと時を同じくして…か。確かに何かある様には思えるな。汐見亜矢の指紋のサンプルは手に入ったのか?」
「大学から願書を提供して貰って照合しましたが、七尾に届いた手紙には一致する指紋はありませんでした。」
「それでは汐見亜矢を被疑者に挙げるのは難しいな。だが、いずれにせよ緋賀の金の流れは解明する必要がありそうだ。無論、緋賀の交遊関係もな。」
「はい。室内に携帯電話の充電器が残されていたので電話会社に問い合わせた所、携帯電話の契約をしていました。本体は見つかっていませんが、電話会社の方に過去三ヶ月間の通話記録が残っていましたので、これから緋賀と電話連絡をした相手に聞き込みを開始しようと思います。」
「わかった。ではその線で捜査を続行。それと見荻野はちょっと残れ。では解散。」
捜査員たちが退室した後、見荻野は怪訝そうな表情で本部長に相対した。
「何か問題でも?」
「…見荻野。汐見ホールディングスの件だがな…くれぐれも深追いだけはするな。」
「は?」
「君自身が言っていただろう?『裏で色々えげつない事をやっていた』と…だが、ああいう連中がそういう事をするという事は『そういう事に応じる相手が存在する』という事だ。意味は分かるな?」
「……なるほど。よくわかりました。ご忠告感謝いたします。では。」
型通りの敬礼を施した見荻野の顔には、何かを読み取れる様な表情は浮かんでいなかった。