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「主……」
外套を翻させて、籬は真の目の前に片膝をついた。
それでも真は何の反応も見せない。
「たとえ主がどのような姿になったとしても、我々は主の味方だ。何があっても」
誰にも聞かせないような声色で、籬はささやいた。
「そうだな。エ霞、睡蓮」
「……当然よ」
エ霞は静かに頷いて、うずくまるように座る睡蓮を見下ろす。
感情があるかないか。
それは合成人間と似たようなものだ。
彼らは感情というものはない。計算したものを口に出し、あるいは「表情」に出す。
だが、今の真は「誰かのための存在」にしかならない。
それが――悔しい。しかしこの感情に似たものも、本物ではないのだ。
「真……もう、あなたが失うものは何もなくなってしまった。傷つく場所がなくなってしまったくらいね」
睡蓮は、ぼんやりとしている真の頭を、いとおしそうに撫でた。
すべてを失ったに近しいだろう。睡蓮の言う通り。
真だけのもの――人間でいうならば「感情」と呼ばれるものは、もうない。どこにも。どこを探しても、ない。
「抜け殻になったこいつでも、あんたらは守るというのか」
「命がある」
真っ先に答えたのはエ霞だった。
「命は、ある。生きている。たとえ、真のすべてをお前らが殺しても、命だけはある。ここにあるんだよ、真の心は」
あの病院の屋上で言ったことば。
命も、思い出も、そこにある。
エ霞たちの記憶媒体に、それはあるのだ。
「生きてる、か……。そうだな。こいつはまだ生きてる。たとえ、その命が誰かのものだったとしても。おい、行くぞ」
「は……」
枝藤は合成人間の3体に背を向けて、部屋から出ていった。
黒服を連れだった枝藤は、真の部屋からかなり遠い場所まで歩いていったようだ。
「この命さえ、誰かのもの、か……」
「馬鹿言ってるんじゃないわよ、エ霞。この子の命はこの子のものよ。誰がなんて言おうと!!」
「分かってるさ、そんなこと」
ふいに、3体同時に顔をあげる。
葵重工から無線が入ったのだ。
「みんな、聞こえる?」
「ああ……百合子か。どうしたんだ」
「大変なの。例の爆破事件、犯人が捕まったって」
「紅葉賀の連中だろ」
エ霞が答えた直後、百合子は大げさに「違うのよ!」と叫んだ。
「一般人よ。けど、変なの。その人、日本のどこを探してもいない人間なのよ」
「顔写真も出てるのにか?」
「だからよ。顔写真は、合成された痕跡がある。よって、この事件は上部……五室か何か分からないけど、もみ消しされたってこと」
確かに、五室を牛耳っている観世水の分家が犯人だとしたら、都合が悪いだろう。
それは想定内のことだ。
そのことを伝えると、百合子は頭痛をやりすごすような声色で、こう言った。
「そうなんだけどね……。室長……観世水高峯が倒れたって話、前にしたでしょ? それが、結構悪いみたいでね。身動きできない状態なの。それで、今事実上室長をしているのは琳さん。彼が……紅葉賀を擁護したということ。何だかおかしくない? あんなに、自分の家を嫌っていたのに」
「まあ、確かにな……」
「私たち、ちょっと気になって琳さんを独自に調査しているのよ。最近の彼、様子がおかしいから」
「様子がおかしい? どんな風にだ」
「五室にこもりきりで、外に出ない。それは仕方ないとして、おかしいのは行動。まるで……高峯さんのように、冷酷かつ残虐。遺物と戦っている姿を見た鏡埜と槻乃が怖がっちゃってね。もう完全に機能停止しているのに、何度も何度も……」
彼と戦った遺物は、目をそむけたくなるような「物」になってしまっているという。
あの琳が、そんな残虐なことをするだろうか?
真にとって「やさしかった兄」が。
「それとね……。調査していて分かったことなんだけど、どうも六合の皆元のあの女の子と頻繁に連絡を取っているみたい」
「名前のないあの主って奴か。分かった。こっちも注視しとく。そっちも、引き続き調査しといてくれ」
「分かったわ。くれぐれも……気をつけてね」
「ああ」
そこで無線は切れた。
エ霞と百合子の会話を聴いていた二体は、難しい表情をしてエ霞を見据える。
「そう。琳が……」
「俺らには人間の心理は分からねぇよ。だが、真にとってそれはおそらく……哀しいことなんだろうな。琳がそうなっちまったってのは」
「……主には、我々がついている。それでいい」
今も赤い瞳はぼんやりと宙をさまよっている。
籬は自分に言い聞かせるように呟いて、すっと呼吸をした。何かを決意したように。
「どこに行く、籬」
「――その、名のない主、とやらの所だ。おまえたちはそこにいろ」
「わかったわ。まあ、攻撃されることはないと思うけど、気をつけてね」
「ああ」
外套をひるがえして、真の部屋から出てゆく。
すでにそこは、何らかの「術式」というものを外されているのだろう。
自力では扉さえ開けることができないということだ。
籬が居住区から神殿についたのは、ほんの1、2分後だった。
無論、神殿の前には枝橘が立っていた。
「そういえば、今日帰ってくる予定だったか……」
「ああ」
「まさかとは思うが、この神殿に何か用が?」
「ある。お前たちの主とやらにな」
「……主様は今、祈祷中だ。通すことはまかりならん」
「そんな事、どうでもいい」
吐き捨てるように呟く籬を、怪訝な青い瞳で見据える。
「我々の目的は、主の保護だ」




