12
「枝藤。真殿の様子はどうですか」
主の部屋に呼ばれたのは久しぶりだった。
頭を低く垂れ、どう言えば正解なのか、考えを巡らせる。
「少々、疲れているようです」
導き出した答えは、素直なものだった。彼女にはどうせ嘘は通じまい。
少々の沈黙の後、主は「そうですか」とそっけない返事をした。
「枝野の店の近くにまつろわぬ神が出現したことは、主様もご存じですよね」
「ええ、知っております。だから、問うたのです」
「真……様には言ってはおりませんでしたが、また、まつろわぬ神の気配があります。まだ、完全には出現していませんが」
「あなたの検知能力は三家のなかで随一。あなたが言うのですから、それは早々に排除したほうがいいでしょうね」
褒めてもらっているのだが、その声には抑揚がなく、枝藤はこうべを垂れたまま逆に表情をかたくした。
おそらく、その口調からするに真を出撃させる気なのだ。
半分は分かっていたが、まだ浅い傷とはいえ、完全には治ってはいない。
「失礼ながら。真様は怪我がまだ完治しておりません」
「擦り傷でしょう。たったそれだけのことで出撃を否定する皇など、いりません。無論、ひとりで行けとは言いませんよ。枝藤。あなたとまるね、枝柊をお連れなさい。これは決定事項です」
「まるね様も……ですか」
「久しく、出していませんからね。腕が鈍っては困ります」
「……かしこまりました」
枝藤は深くこうべを垂れてから、主の部屋を出た。
彼のこめかみには、知らずうちに汗が滲んでいる。
暑いからではない。主と一対一で会話をするなど、久しいからだ。彼女はおそろしい、と、枝藤は思っている。
口には出していないが、おそらく彼女も分かっているのだろう。
無意識に汗をシャツでぬぐって、自室に戻ろうとした、が、その途中で枝柊とすれ違った。
そのまますれ違おうとしたが、彼は枝藤の名を当たり前のように呼んだ。
「何だよ? 俺はさっさと風呂入って寝たいんだけど」
「彼のことだ」
「彼? ああ、皇のことか」
「よく、見やっていてくれ。おそらく、不安のただ中にいるはずだ」
「……へえ」
正直、驚いた。
枝柊がほかの者を心配することばなど、ひさしく聞いていなかった。
「あいつのこと、皇って認めたわけだ」
「まだ完全には認めてなどおらん。留意すべきのことをいったまで。合成人間は今、いない。情緒が不安定になるのも分かっているはずだが。枝藤。まだ、あの少年は幼い。年齢からすると、すでに自立傾向にあってもおかしくないが――。育った環境が特殊だからな。自我が幼いのは仕方のないことだろう」
「ふうん。まあ、いいけど」
枝藤はそのまま背をむけて、自室へ戻った。
自室は、古い本を棚にしまっている以外、ほとんど家具を置いていなかった。
本は置いてあるものの、ほとんど読まないので埃をかぶってしまっている。
枝藤は自室は眠るときのみに使用する場所、という意識が強いようだった。
彼はゆるいスウェットと下着を持って、風呂場にむかった。時刻にしてすでに深夜と言っても過言ではない。
黒服の男たちも、もう自室に戻っているようだ。風呂場には誰もいなかった。
枝柊は、回廊に出て月を見上げている「まるね」を見つけた。
「なにをしている」
「月を見ていました。久しいですね。こうして外に出られるのは。明日のことも、姉様から聞いております」
「そうか」
「月はいいものですね。名を変え、形を変えられる。たったひとつの姿なのに……」
彼女のことばには、羨望がふくまれていた。
枝柊はなにも答えず、ただおなじく月を眺めているだけだ。
「では、また明日に」
まるねはそれだけ囁いて、回廊を上って廊下へ出た。自室に戻るのだろう。
枝柊はひとり残り、まるねも見ていた月を見上げていた。
風が吹いた。
ねっとりとした、肌をざわめかせる風だった。
枝柊はかすかに顔をゆがめ、まるねと同じように回廊の階段をのぼり、自室へと戻った。
次の日、真に出撃の準備をしろと伝えたのは、やはり枝藤だった。
真は嫌な顔ひとつせずに、わかった、と頷く。
「どこにいるの?」
「ここからおおよそ三キロメートル先だ。時間がない」
「時間がない? 人を襲っているということ?」
「その通りだ。俺の読みが正しければ、の話だがな」
真はつい5分ほど前に食事を終えたばかりだった。
それを待っていてくれたのだろう、と真は思えた。
「車で行く。時間が惜しい。被害者が出てからでは遅いからな」
「うん」
鳥居のちかくに、真にとって驚くべき人物が立っていた。
まるねだ。
少女は白い着物を身につけ、そして橙の帯を締めている。
「まるね!?」
「真どの。私も、出撃いたします。どうぞ、よろしくお願いいたします」
「君が心配することはない。まるねは戦うことはできないが、守ることはできる」
真は素直に頷いて、すぐに車に乗り込んだ。
三キロメートル先ならば、すぐにつくだろう。枝藤が運転手の隣に座ると、すぐに車は発進した。
運転手は、六合の皆元で呼ばれる「黒服」の男だった。
80キロ以上のスピードを出して、車を走らせる。
それほど、急いでいるのだ。
「民家のちかく、っていうこと? 神が現れたのは」
「実際にはまだ現れる前だ。現れてからじゃ遅い」
「人間が一度神を認識してしまうと、もう神からは逃れられませんので、気づかれる前に始末しなければなりません」
そうも話している間に、あっという間に現地へ到着した。
いち早く車から出たのは、名も知らぬ黒服の男性だった。男性はごくごくふつうの民家の玄関へ行き、チャイムを鳴らした。そして、年配の女性が出てきたところで黒服の男性は、当然のように家のなかに入っていった。
「おい、なにをよそ見してんだ。もうじき、出現する。体を整えておけ」
「うん、分かった」
そうは言いながらも、まるねが心配だった。
ちら、とうしろを見ると、まるねの前に枝柊が立っている。
ならば大丈夫だろうと、彼の戦い方も知らないのに安堵した。
それほど、彼の陰陽師としての腕を信じていたのだった。




