現世隔離 三話
原初、宇宙は天地未分化の深淵なる{混沌}に満ちていた。
この混沌から光明が出で、軽く澄んだ氣、{陽}の氣が満ちたりて天となる。
次に混沌から暗黒が出で、重く濁った氣、{陰}の氣が沈んで地となり天地開闢と成す。
陽の氣の集積が{火}となり、火の精が{太陽}となる。
一方、陰の氣が集積は{水}となり、水の精は{太陰}、つまり{月}となる。
原初なる混沌を{太極}といい、これから派生した天地をそれぞれが{乾}{坤}とした。
{易に太極あり、両儀を生ず}とあり、両儀は天地、陰陽、乾坤を指す。
天の氣は下降し、地の氣は上昇し、お互いが作用し人類及び万物が発生した
これは一つの天地開闢。
宇宙に一人の原人がいた。
巨人を祭獣として祭式をした結果、賛歌、歌詠、祭祀が生じ、馬、牛、羊、山羊等のすべての畜類が生じ、口よりバラモン、双腕より王族、双眼よりヴィイシャ(農工商階級)、両足よりシュードラ(奴隷階級)が生じた。
また、心臓より月、眼より日、口よりインドラとアグニ、息より風神ヴューユが生じた。
また、頭より天界、臍より空界、足より地界、耳より方位が生じた。
北欧に伝わりし、巨人解体による天地創造似た流れを持つ、原初。
その根源は混沌へと繋がり、そして各地により天地開闢の唄が流れた。
それはどれも真実であり、どれもが真実ではない。
どれを天地開闢とするかは、魂の故郷であり、根源から離脱した原初である。
幾重にもある天地開闢は後の流れによる、結果に過ぎない。
全てが起き、幾重もの創造がなされて世界は構築されている。
成し続けられる天地開闢。
平行なる世界には、未だ誕生していない世界すらあるのだから。
この世界は、どの天地開闢に拠って生まれたものだろうか?
それを記憶している者は誰もいない。
ならば、世界は何れの天地開闢にも該当し、そして該当しない。
ハッキリしているのは、根源への道は幾重にも用意されているということだけだった。
歴史的観念から見ても、これは貴重な文化財だった。
京の人里離れた場所に立てられた社殿の数々。
手前には兜の飾りのような突起物が、天を交差し指した千木を冠にした住吉造の社殿。
それに続きへの字のような屋根が特徴の流造。
他にも春日造、大社造、八幡造、浅間造、神明造と多々あり、一番奥には豪華な造りで、本殿と拝殿が幣殿で繋ぎ合わせたような、権現造の社殿が存在した。
その様は、あたかも時の権力者が居座るに相応しき造りで、実際、二週間前までにはこの地を治めし者が住んでいた宮殿でもあった。
その権現の社殿から潰れたような喚き声が聞こえてくる。
「貴様ぁ!
一度この場から逃げた者が、今更我が物顔で居座るとはどういうつもりだ!!」
不快感だけを募らせるような罵声。
それをサラリと流しながら、畳の上で寝そべっている男が口を開く。
「別に、私としては、こんな血生臭い場所に居座りたくはないのですけどね」
如何にも此処にいるのが厭だといわんばかりに、大げさに被りを振りながら寝そべっていた躰を起こす。
「ならば出て行けっ!
貴様の居場所など、此処にはないわっ!」
「確かに、私の居場所は、こんな罪の権化たる場所ではないですね。
私としましても、新宮寺に戻り、余生をのんびり過ごしたいのですが、どうにもそういう訳にはいかないみたいで」
普段から手入れしてなく、無精髭が点々としている顎を撫でながら、憤慨している人間を丁重に煽る。
どこか飄々(ひょうひょう)とした雰囲気を漂わせている無精髭男は、気だるいといわんばかりに欠伸で大口を開ける。
「ふざけるなっ!!
貴様にくれてやるものなど、此処にはないわっ!」
「抜け殻の権力。
そんなものに固執して、なんになる」
怒鳴るだけに小太りした人物に対し、飄々としていた男は掌を返す。
鷹にように鋭く、知的な眼光。
心の奥底まで暴露しそうな、容赦の無い染色の眼差し。
小太りの男は怯み、その背後に居た権力の傘に入っていた者達も射竦められる。
静かに、それでいて重圧を秘めた言葉と、只に一睨みでこの場に居る全ての者を掌握した。
余りに格が違いすぎた。
「静姫崩御は、最早周知。
それを隠し通せるなど、無知にも程がある」
「な、なにを」
「馬鹿な芝居に明け暮れる暇があるなら、少しは自分達の立場に目を向けたらどうです。
この地点で、泥沼に腰まで浸かっているというのに」
「どういうことだ」
「脂ぎった脳では、先の末路までも推し量れませんか。
手遅れだったのかもしれませんね、特に貴方は」
諦めたように言葉を紡ぐ。
その言い方はどこか、腐った林檎に用は無いと言ってるかのようだった。
「き、貴様っ!」
小太りの男は懐に手を差し込み、一枚の符を構える。
そして符に五行を流し込む。
五行とは生命の創設する五つの司り。
「甘い蜜を啜りすぎたのですよ、貴方は」
「黙れっ!」
この言葉に言霊法を載せ、符に刻まれた術式の留め金が外れる。
符から風が舞い起こり、カマイタチと成りて、目の前の男に斬り刻みにいく。
「仁様、此処は」
「構いません。
待機してなさい」
人影の無い背後から労わる声が掛けられるが、それを拒否すると、仁なる男はも袖口から素早く符を滑り出し、指で軽く弾く。
「界」
符はその言葉に反応し、効力を露にする。
符から流れを司る水行が溢れ出し、言葉の意味を具現化する。
結界。
仏教用語で、仏道修行の為、障害が無きよう一定区域を俗世から切り離した場所。
それを結界と言う。
つまるところ、隔離こそ結界の本質といえよう。
その意味を載せた発動体により、遮断した狭間を形成させる。
結界は符術の中でも高等で、熟練した者でも手放しには行うことは困難とされていた。
それを手放し、自分のカマイタチの間に狭間を生み出した。
符術遣いが見れば、それは驚嘆すべき事であり、目の前の男がどれ程並外れた符術遣いであるかが一目でわかる。
流れが溢れ出した符は、仁を覆うように狭間を創り上げる。
それは打ち寄せるカマイタチを尽く弾き、大気へと還していく。
「だらしないですね。
水行の結界ぐらい突破して欲しいものですよ」
仁なる人物には、この高等なる技すら、初歩的で高等と値する程のものではなかった。
過去、新宮司において神童と呼ばれし人間がいた。
その者は八歳にして記述されている全ての符術をマスターし、独自で新たなる符術を確立した。
結界は未だ消えておらず、強固な流れを宿したまま滞在していた。
「弱いもの苛めは性に合わないのですが、折檻は必要ですよね」
等と朗らかに宣言すると、結界は仁の元を離れ、カマイタチを放った者へと進行し始めた。
「うっ、ああああっ!」
その速度は相手が逃げ出す前に接触を果たし、カマイタチを弾いた力で男を壁へと弾き飛ばした。
バンッ!
顔面から壁に突っ込んだ小太りな男は、その反動でひっくり返り、伸びてしまう。
鼻が折れているらしく、止め処なく鼻血を流しながら。
その光景に硬直する者達。
意見していた男が軽々と伸され、自分達の主張など頭から跳んでしまっていた。
「さて、これでも私は殺生を好まぬ、優しい人間です。
恐怖政治も終わりましたし、清い国造りを始めようと想うのですが、ご協力願えませんかね」
最大級の笑顔で、恐怖を誘う。
「待遇は良いと言えますよ。
欠片の能力も持たない者が、静姫の下で生き残れる事もないかったでしょう。
理不尽なる瞬間が牙をむかぬ限りは。
ならば、その力、貸して欲しい」
「かっ、貸せだと。
…こんな脅し方をしておいて、そんな台詞を吐くかっ」
小太りの取り巻きらしき男が、竦みながらも抗議してきた。
「なら、現状を見ろと言っておきましょう。
貴方方は権力という傘で私欲と保身だけを費やしてきた。
一人の力の具現に諂う事で。
だが、最早その力は、この地にはない。
貴方方の命を守るもの、そしてこの国を不本意ながら守っていた者は、この世を去ったのです。
それがわからぬ程、愚か者ではないでしょう」
「…っ!」
三大勢力であった混沌の巫女、新宮司 静。
これまでこの国が良い目見ていた、全てこの恩恵を受けてのこと。
それが外された今、この国に有する権利は無いだろう。
これまで虐げられていた者達や、他の三大勢力の一つが攻め込んでもくれば、恩恵だけで生かされていたこの国に未来などない。
「逃げるのも一つの手です。
強制はしませんよ。
命を保障するユートピア等、この世界には存在しない。
唯一、その理不尽に対処する為に組織された教会も、この国一つに感ける余裕などある筈もない。
自分の身は自分で守るしかなくなったのですよ。
この国は恩恵お蔭か、治安が大きく乱れる事無かった。
統率し、そして組織化されていたからです。
そして、それを運営する為に社会形態、基盤が必要だったこの国は、力が優先される時代でいながら、人の尊厳を大いに繁栄している」
この先仁が言うべき事がわかったのか、反抗してきた男達は押し黙り、仁の話に耳を傾けていた。
「ユートピアなんて大層な事は言わない。
だが、せめて安らぎを得れる場を維持する事を、我らが保つべきではないのか?
元となる統率する力は無くなってしまったが、中核となる基盤は私が何とかしましょう」
「それは貴様が、静姫の代わりをするということか?」
「そこまで大層な宣言を出来る程、私は器の大きい人間ではありません。
ですが、人一人の力、捨てたものではありません。
貴方方が、少しだけでも分配してくれるなら、維持ぐらいは可能だと想っています」
そこで、仁は浴衣を脱ぎ捨て全ての武装を床へと投げ捨てる。
褌だけの姿。
普段ならマヌケにしか見えない姿だが、その真剣な眼差しに、此処にいる誰もが静寂を守り、彼の行動を静に見守っていた。
「力を貸して欲しい」
なんの偽りもなく、仁は正座をすると目の前の者達の頭を下げた。
「あの逃げるだけの小僧っ子が、成長したものですな」
しゃがれた声が沈黙していた場に流れる。
それに反応した人々は、入り口から歩いて来る者に道を開け、人垣が割れた。
「老長様」
ポツリと誰かが洩らす。
この新宮司の裏方の権力者。
老長、新宮司 桔梗。
桔梗は頭を上げた仁の元まで歩むと、皺だらけの唇を動かす。
「確かにお主の言うとおり、このままならばこの国、生き延びる術はない。
他の者とて、それは薄らとも感づいております。
…本気で、この国を維持できるとお考えか?」
「生憎と勝算のない話は持ち出さない主義なのです。
それに、私には約束がある。
誰が相手でも、この国、潰させる訳にはいかないのですよ」
迷いを微塵も含んでいない、宣言だった。
真摯な眼差し。
どんな事があろうが、自分の主張を譲らない括弧たる決意がそこにはあった。
「…良いでしょう。
暗部、今日より貴方の配下として、手と足となりましょう」
「きっ、桔梗様っ!」
アッサリと実権を手放してしまった、現最高権力者に非難的な声があがる。
だが、それを諭すかのように、現状を語りだす。
「良かろう。
この男が何の持ち札もなしに、この場に現われたと想うか?
筧家を初め、新宮司の末端を掌握しておる。
判るかの。
初めからこの本家を鎮圧できるだけの武力など備えておきながら、この者は二人だけでのこのこと火の粉舞う場に姿を現した。
のぅ、筧家頭首、字菟螺よ」
その問いに答えるべく、仁の背後から気配を零れる。
それは人の輪郭に膨れ、スッと仁の横手に移動すると、肩膝を付いた。
「御見それしたしました。
皆様方の前に姿を現さなかった無礼、お許しください」
気配を殺し、主を守る者としてずっと仁の背後に待機していた男がいた。
この場にいた者達は絶句した。
彼の存在に気が付いた者は、この桔梗以外にいなかった。
「良い。
元々、筧は新宮司を守る為の一族。
新宮司 仁。
間違いなく、新宮司の血族なれば、その行動、使命であろう」
「そう言って貰えるのは有り難いのですが、私は新宮司の仕えているつもりは御座いません。
私が仕えているのは、あくまで仁様。
それ以外の該当は御座いません」
「使命ではなく、己が忠義に拠って動くか、頭首よ。
…それも良かろう。
最早、新宮司も名だけの存在。
ならば、それも又一興」
桔梗は踵を返し、そして動揺しながらも事の成り行きを観戦している者達に言い渡す。
「これが現状。
お主らは二者択一の選択をせねばならぬ。
この場を去り、新たな旅路に出るか、この男、新宮司 仁を長と認め、新たに国造りをするかじゃ。
熟考し、慎重に答えを出すがよい。
必ずしも、この国造りが成功するとは言えぬ。
これまでの煽りを受け、風下に立たされる事は間違いなかろう。
強いて言うならば、マイナスからのスタートとなる。
それでも、付いてゆける者だけ残り、尽力して差し上げなされ」
桔梗はそう告げると、振り返り
「どちらにしろ、この男がこの国の長になることには変わりない。
で、いつまでその汚いケツを晒しておくつもりかな?」
「誠意を、汚いの一言で片付けないでください」
字菟螺が回収してきた浴衣を受け取ると、それを羽織、帯びを締める。
「血がこびり付き、腐敗臭をさせるこの場は、焼き払う。
これにて、凶の時代を終わりとし、新たなる道を模索する。
我、新宮司 仁が開拓者となろう」
その宣言は、途方もなく無謀な試みに聴こえた。
だが、それ故に耳にした者達が惹かれるのは、それが奥底に秘めし、既望だからだろう。
全てに者を建物から追い出すと、仁は一枚の符を高らかに掲げる。
「混沌に終止符を。
これが門出での祝宴なり」
(三百年の及ぶ怨念、焔に還そう。
静なる痕跡を消し、只一つの命を望んだだけの少女に戻そう)
符に火行を注ぎ、社殿に投げ入れる。
「戦焔円陣」
仁の声を引鉄として、符に術式が展開する。
符から吹き出る劫火に新たに取り出した符を投げ入れる。
「重戦焔」
最初の符が社殿を中心に炎の円陣を作り上げ、二個目の符でその円陣が炎の壁と化し、焔で被い尽くす。
そして三枚目の符を取り出し、再び符を投げ入れる。
「爆輯天焔」
炎の壁が球体に姿になり、内部で連鎖的に爆発が起こる。
二つの符でフィールドを形成し、内部の敵を塵すら残さず焼き払う符術、三戦焔。
社殿は瞬時に爆炎に沈んでいく。
爆発が爆発を呼び、フィールド内は煉獄と化す。
暫しの破壊が蹂躙し、そしてフィールドが解き放たれると、そこには爆発により粉々に散らばっている破片により残り火だった。
灰燼への帰路をその残り火が導いていく。
その小さな焔を見ながら、仁は決意を新たにするのだった。
権現造の社殿を焼き払った後に、脇に社殿に三人が集っていた。
仁、字菟螺、そして桔梗だった。
畳に座し、仁と桔梗が対峙するように場がなっている。
仁の脇に字菟螺が肩膝を付き、いつでも動作をとれるような型で待機していた。
これは桔梗を警戒してのものではなく、常日頃からそうあるように鍛錬された自然なものだった。
筧家は、本来新宮司の者を命を賭して守る者として存在していた。
この体制は、主をどんなものからも守り通すという意味の表れ、否、当たり前の構えだった。
桔梗は年齢を感じさせる皺だらけの指で茶碗を拾うと、切り出す為に潤いを喉に流す。
「さて、頭首よ。
お主は現状について、どう考えておるつもりじゃ」
その声音は、先程の権力争いの時には感じささせなかった悲痛さが篭っていた。
「…惚けても、無駄のようですな。
先に末端を掌握したのは、上に情報が渡り、無闇に起こる混乱を避ける為だったのですが。
流石というか、妖怪婆の隠れ道を侮っていましたか」
等と、軽口を叩きながらも、仁にも先程までの余裕に満ちた面影が失せていた。
「…冗談は抜きでいきましょう。
ご存知の通り、この日本は世界より隔離されています。
範囲はアイヌ辺りから、九州全土まで。
琉球は含まれておりませんが、日本と呼ばれる区画の殆どが、世界から排泄された場所に、隔離されてしまっています」
「そうか、誤情報では無かったか。
やはり、三日前から生じた違和感が、そうか」
「術士ならば覚えずにはいられなかった、浮遊感に似た感覚。
私にはこの現状に似た事を体感した事があります。
起源への帰路を歩みかけた空間を断されし感覚。
浮遊感は世界の規格が摩り替わった為に起こった、感覚により認識のズレ。
人の中に備わっている、世界を認識する規格、地球から日本という島国だけに縮小されてしまった為に起こった欠落。
術士の世界を認識する感覚は訓練により、普通の人より鋭敏になっていますから、違和感を覚えるのは無理ないでしょう」
「頭首はこの状況、どうお考えか?」
皺だらけに顔を更に歪ませながら、余裕を失っても冷静に事に及んでいる男に問う。
「婆やは、これを何と想う?」
昔懐かしい名称を口にしながら、問いを問いで返す。
「これは人の身業に非ず。
神の悪戯としか口に出来ぬ」
「それが正しい見解ですよ。
少しでも術を齧った者なら、これが如何に馬鹿げた現象か推し量る事ができるでしょう」
「しかしお主は、その現象を一度体感していると申した。
それは」
一途の希望を託して、桔梗はそのことに聞出そうとした。
「婆や、貴女も言ったではありませんか。
これは神の悪戯だと。
私が関与できるものでは無かった」
「それでは、このままか」
「それは無いでしょう。
私にはこの隔離、自然の摂理を折り曲げて、形成されています。
こんな馬鹿げた現象、いつまでも保てる筈がない」
「ならば、この異常は自然に摂理に帰還すると」
「…それは早計ですね。
これは明らかに意思が絡んでいます。
これを仕出かした者は、日本という地が必要だったのか、それとも日本しか隔離できなかったのか。
どちらにしろ、場所を限定している。
この地点で確実に意思が見え隠れを認識することができる。
これだけの空間を隔離する等、正気の沙汰ではない。
研究次第では、私もこれに似た現象を起こせるでしょう。
でも、それは数珠程度の大きさぐらいなものでしょう。
人には過ぎた術ですよ、これは。
この隔離を外側から見た者の話では、私達の遣う隔離、結界とは掛け離れている部分を肉眼で確認できるそうです」
「それは」
「私達の使用する結界は、空間を隔てる事。
ですが、これは世界そのものから隔離する。
隔離された場所には、同じもの、同じ情景があったそうです」
「…頭首の話が真なら、隔てではなく、軸そのものをズラしていると」
「恐らく。
今日まで座につくのを引き伸ばしたのは、それを目で確認してくる為でした。
…海が途中で斬られていましたよ。
そして、その先は空白だった」
「それは水槽の中という訳ではないのですな」
「隔てではありませんよ。
正真正銘、空白なのです。
先などない。
この日出国は、我らの居た空間から隔絶されてしまっているのです。
固有から外されてしまった軸。
異空に」
「…頭首には、これを戻す術はないと」
「私には無いですね。
これだけの空間隔離を維持するのは相当の何かを使用しているでしょうから、何れは果てて、帰還するかもしれません。
ですが、その時は意思の目的を果たした時でしょう。
私にはその祭に、この国が現存しているとは想えない」
「笑い話にして、忘れてしまいたいですな。
その意見は」
「言った筈です。
私には約束があるんですよ。
この国に帰ってくる事を笑顔で迎えるという、何ものにも勝る、大切な約束が。
誰が相手でも、潰させる訳にはいかない。
彼と、大切な一人娘の帰るべき故郷を」
「それが…、神でもですかな」
「誰でもですよ。
まぁ、十中八九、その意見は当たるでしょうけどね。
祭るべき神は、この前にこの世を去りましたし、信仰心は魔術師である私にある筈もない。
外道は外道らしく罪に塗れながら、足掻くのみです。
生憎と諦めは悪い方なので」
「神と一戦交える。
それは、この国はその運命を背負っていると、決定されているとしてもですか?」
「絶対的なるものは、干渉しないものですよ。
自然と同じ。
あるがままに影響を与えし者達。
その暗黙があるからこそ、神は神である。
干渉してきた地点で、神は神足らん。
それは核兵器を持つ人と印象は変わりませんよ。
そんな神に、貴女は死ねと言われて受け入れる御つもりか?」
「…お主の問いは意地が悪い。
成程、ならば足掻くとしよう。
母なる者の使い、陰璽星瀾と喧嘩を繰り広げた馬鹿者の台詞じゃ。
そして、殺せぬ者はいないと言わしめた、現在の錬金術師。
マイセル カイルの次ぐ者、希世の魔術師。
そして今、最高の符術士にして、この国の統治者である貴方が、形振りを構わずに勝ちに来ておる。
それ以外の望みがないなら、乗らぬ者は、臆病者と罵られるしか無くなってしまう。
お主は勝算を導き出す為に、早急に長に納まったのでしょう。
人類という武器を手に入れる為に」
「流石婆やだ。
ミイラ化しても、裏の統治者だった事はある」
「相変わらず口が悪い。
…貴方が居なくなった、二十三年の月日が蘇ってくるようですな」
仁の口悪い饒舌聞き、懐かしそうに桔梗は目じりを下げる。
「辛い想いを押し付けましたね。
もう、荷を下ろしてもいいですよ」
「ご冗談を。
筧が盾ならば、我ら暗部は刀となりましょう。
存亡を賭けた貴方の戦いの終焉、老いぼれの後生の楽しみさせて貰いましょう。
共に」
「…感謝しますよ、桔梗」
「で、戻るべき人物達は、何処へ」
「海外に旅行中ですよ。
隔離される五日前に日本を旅立ちを確認しています。
世間知らずな上に、外国語も話せないのに行ってしまった。
この国の異常事態に気が付く頃には、何かしら決着してるでしょうね。
…今は、あの疎さが有り難い。
あの子達には、もう身を刻む行為に及んで欲しくないですから」
「親莫迦ですな」
「結構。
それは私には喜ばしい台詞なのですから。
あの子は、こんな愚か者を父と呼んでくれた。
それだけで十分、この事態と対峙する心が生まれる。
それに、私は返しきれない恩に酬いる必要があるんですよ。
だから、書き割りではなく、この国で地で、彼を迎えなければならない。
彼が愛した少女が眠る地で。
字菟螺、桔梗。
貴方達は私の両腕として、存分に働いて貰います。
私の我侭を実現させる為に」
「御意」
「良いですとも。
それが、犠牲の上に成り立ち、新たなる道を進み始めた国の門出になるならば」
字菟螺、桔梗共に同意した。
仁は一枚の和紙を畳に置くと、親指の薄皮を噛み切る。
そしてそれを墨代わりにし、自分の名を認める。
字菟螺は懐から短刀を抜き出すと、先端で軽く斬り付ける。
仁の名の右横手に、自分の名を認める。
字菟螺から短刀を受け取り、桔梗も親指を刃の上に走らせる。
そして左横手に、自分の名を認める。
「もう、抜ける事は許しませんよ」
仁は三人の名を認めた和紙を掴み、二人に視線を配る。
「元より」
字菟螺は頭を垂れながら、迷いの無い声で当然のように答える。
「老い先短い命。
気兼ねなど要らぬ」
桔梗は膝を擦り下げ、一歩下がった後に深深と頭を下げた。
「頭首。
これより、貴方の命をまっとうして参りましょう」
と、仁を主として契約を結ぶ。
「相手がどんなものかわからない以上、準備にどれだけ時間を掛けても万全ということはありません。
馬車馬のように働いて貰いますよ」
「「存分に」」
血文字を懐に仕舞い、仁は立ち上げる。
それが開戦であるかのように。