羅刹猛襲 二話
月が水面に映し出され時刻。
ソーマは毛布に包まりながら、待ち人が還って来るのを待ち続けていた。
ジッとヴリトラの消えた水辺を眺めている。
その水面に不思議な影が差した。
「こんな処に隠れてらっしゃったのですね、探しましたわよ」
声は上空からし、そして影が差し込んくるのも、そこからだった。
ソーマは影を追って上空に視線をやると、そこには五メートルはあろう空中を飛ぶものがいた。
獲物を射るような眼。
鋭い嘴と鍵爪。
黒き衣に身を包みし、空の王者。
鷹のフォルムをした、凶鳥が幻想的に舞っていた。
本能的に、この舞うものがやばいものであると感じ取ったソーマは毛布を抱きかかえて、林の中に身を潜めた。
見ているだけで身が竦み、歯がガチガチと震え出す。
そしてこの場に留まっていれば、襲いくるものは絶望だけだと深層心理が訴えてくる。
逃げ出したい衝動に翻弄されながら、ソーマはギュッと手にしているものを握り込む。
自分が握っているものを確認すると、不思議とこの場から離れようとする気持ちが消え去る。
最早、温もりの欠片すら残っていない毛布を胸に抱きしめる。
恐怖が和らいでいくのを感じていた時だった。
湖に光が落ち、そして音が消える。
瞬間、膨大な水が爆発に乗って舞い上がる。
そして舞い上がった水が林にも及び、ソーマの身体を強かに打つ。
流されないように樹にしがみ付き、その異様な事態に耐える。
「底からは出てきてはくれないのですか?
折角、貴方様の為に、こうして出向きましたのに」
辺りに散った水は斜面と伝い、湖に戻っていく。
それを耐えきったソーマは、耳にどんな轟音すらも邪魔されない神秘的なまでに美しい声を聞いた。
「ならば、引きずり出すだけです。
抵抗しても無駄ですよ」
妖艶な声で宣言すると、凶鳥の背から光の弾が生まれる。
そして再びそれが水面に落ちる。
パッーーーーン!!
凄まじいまでの音がし、水面が大きく凹んだ。
そして又も大量の水が舞い、そしてソーマを含む周りに降り注いだ。
何とか耐え切り、そしてソーマは上空に待機している凶鳥を睨んだ。
先程の台詞で、この化け物がヴリトラを狙って現われたのを知ったソーマは、恐怖を脱ぎ捨てた。
次なる攻撃が完成する僅かに間に、ソーマは転がっている大型の石を拾いあげ、全力で凶鳥に目掛けて投石した。
自分でみも信じられないくらいの速度で石は飛翔し、狙い通り凶鳥の眼球にクリーンヒットした。
「キュユゥゥゥゥ!!」
脳を突き抜けるような絶叫が木霊した。
眼球に弾かれたものの、この投石は強烈な痛みを凶鳥に与えた。
屈斜路湖の真上で、凶鳥は暴れ狂うように飛翔した。
「鎮まりなさい」
脳を突き抜けた声を凌駕する、圧倒する響きを秘めた声。
最早、大気を震わせ振動で伝える音とは一線を画している。
直接脳に訴え掛け、その言葉を実行させる威力を持ち合わせた脅威だった。
自分の向けられたものではないのに、ソーマはその場に佇み、一歩も行動を取れなくなる。
ソーマと同じく、凶鳥も眼球を強打された痛みを押さえ込み、暴れるのを止めた。
そして、その背に乗った人物が此方を見下ろしていた。
「私の可愛い分身に怪我を負わすなんて、なんて悪い子がいるのかしら。
…あら、貴方その気配は」
蛇に睨まれた蛙のような状態で硬直しているソーマを見下ろす妖艶なる瞳。
値踏みするように眺めながら、舌なめずりとした。
「そう、貴方は影なのね。
でも、神氣が殆ど感じられない。
それに、人の匂いが混じってる。
貴方、名前は」
逆らうことを許されていない。
答える事が義務であると決められているように、口が勝手に与えられた名を喋っていた。
「ソ・・・マ・」
それを耳にした人物は、あまりに滑稽な事実に耐え切れずに笑い出す。
「ふっ、ウフフフフっ、アハハハハァ、なんて、なんてことを!
こんな小さな生き物に、名を与えるなんて、はっハハハハハっ!!」
心底可笑しいのか、お腹を抱え込み、あらん限りに笑い続ける。
「まさか、私を笑い殺しにしたいのかしら、くっふはははっ!
苦しいわ!」
髪を掻き揚げながら、俯きながら、爆笑は収まりを見せない。
その光景を瞳に投影されて、ソーマは知らぬ間に唇を噛み切り、歯軋りをしていた。
「わらうなっ!」
咆哮していた。
獣が敵を威嚇する、雄叫び。
それを切欠にし、癒着していた身体が自由を取り戻す。
四肢を地に付きながら、唸り声をあげる。
「…それは私に言ったのかしら」
見下ろす者からサッと感情が消えた。
先程まで腹を抱えて笑っていた面影はなく、冷酷なる視線で此方を見下していた。
ソーマは確りと四肢を地面に押し付け、いつでも動ける状態で、これを睨み返す。
先程まで際限なく膨れ上がっていた恐怖がぶり返すこともなく、その視線を真っ向から睨み返していた。
「ぐっぅぅぅぅ!!」
喉を鳴らし、鋭き眼光を宿す。
感情の奔流が猛り、目の前の絶対的な存在に噛み付いた。
それがどんな些細な抵抗でも、死という幕引きが約束されていても、己が想うままに反逆の狼煙をあげる。
「小生意気な生き物。
己の分を弁えないで、私に喧嘩を売るなんて。
良いわ、遊んであげる」
液体窒素でも吹きかけられたような、全身が凍える錯覚。
声音に含まれた静かなる感情が、そのまま心を凍結させようと荒れ狂う。
それを唸りながら、必至に抵抗を決行。
そして、やっと戦うだけの権利を入手した。
圧倒的なる意志の流れ中から、己の意志を浮かび上がらせる。
猛りという名の柄杓で掬い上げた、勇気。
それを振り翳し、逆らう事を前提としされていない状況を捻じ伏せた。
凶鳥の背に乗っていた女は降りると、湖の水面に着地した。
両足から波紋が絶え間なく発せられていた。
それは反発の証。
そして当然のように水の上に立つ。
「行きなさい」
それに応え、凶鳥はその大きな身体に似つかわしくない動きで上昇し、そして勢いに乗り急降下してくる。
視認が難しい程の速度に瞬間に加速し、鉄板すら貫きそうな嘴をソーマに向かって突き立ててくる。
黒き禍々しい風。
ソーマは臆する事無く、噛み締め喉を鳴らしていた口を開き咆哮する。
堪っていた恐怖を全て吐き出し、行動に移る為に。
凶風が大気を切り裂きながら、神速で迫ってくる。
四肢が地を抉り、それを紙一重で躱す。
すれ違い様に、無造作に伸ばされていた爪と突き立てた。
その一連の行動がどれ程並外れた能力が必要か、ソーマにはわからない。
只、それが当たり前にできるのだということを、本能が知っていた。
これまでの躰の動きと天と地の差だった。
投擲すら弾き返した眼球へ爪がめり込み、凶鳥は自分の神速の動きで身を削っていく。
傷自体は浅いものの、眼球から沿って尾の部分まで爪が通り、凶鳥はソーマの後ろに広がっていた林にぶつかりながら不時着した。
ソーマは凶鳥の背後から迫ってきた大気の群に弾かれ、地面に叩きつけられた。
背中からモロに叩きつけられ、肺から空気が捻り出される。
「くはっ!」
一瞬だけ意識が跳ぶ。
その鼓膜に、大気のうねりが聞こえた。
脳内の警笛が鳴り響き、視界が回復する間もなく、闇に覆われた状態から更に闇が広がる。
咄嗟に手前に腕をクロスさせてた。
次の瞬間、腕に圧力が掛かり、躰が地面から引き剥がされていく。
凶鳥は地面に無様に転がされながらも、その巨大な翼でうってきていたのだ。
完全にソーマを捉え、強打されると空中に投げ出される。
浮遊感に襲われ、暫し後に又も背から地面に叩き付けられ、バウンドする。
その途中で回復した視界が地面を捉えた。
上肢を突き出し、着地を決行する。
両腕を着いた時、痺れが生じ、付き返すだけの膂力を得られない。
肘が折れ、肩から着地してしまう。
だが、それが上手い具合に受身となり、前転の要領で転がり、投げ出された手が地面を叩き威力を軽減してくれる。
そのまま転がり、上体を起こす。
痺れが生じた腕を確認してみる。
別段折れている様子もなく、強打された影響で両腕共に痺れているだけだった。
敵を視界に入れるべく、黒き鳥を探す。
横手から獣の呻き声がし、其方に視線をやると無慚になった凶鳥の姿があった。
反撃を想定してなかった凶鳥は、自分の神速で自爆した形で林に横たわっていた。
カウンターで喰らった攻撃の所為で体勢が崩れ、無理な状態で反撃に出たまではいいが、強襲した勢いがそのまま残っており、眼前に広がっていた林に身を打ちつけたのだ。
その巨体が災いして、枝などが全身に突き刺さっていた。
本当なら、樹に激突したくらいではビクともしない羽毛に覆われているのだが、偶々ソーマが引き裂いた眼球を抉るような形で大枝が突き刺さり、その際に弛緩した躰に次々に枝が串刺しにしてしまっていた。
喉元にも枝は入り込み、黒き鳥は虫の息だった。
意外な展開に、女はこれまで見せていた余裕が消えていく。
「痛いわ」
そう告げると、右に人差し指を掲げて見せた。
そこにはズタズタに引き裂かれた、指があった。
特に関節部分をアイスピックで貫いたような穴が、横手に転がっている凶鳥の姿に酷似していた。
「脆弱なる人の器。
しかも神影の成り損ないが、私を傷つけるなんて」
その台詞が凶鳥と女が繋がっているのを示していた。
女は屈辱だわと続け、水面が闇に覆われた。
闇から何匹もの畜類が湧き出てくる。
「引き裂いてあげる。
呆れるぐらいに粉々になるまで。
後悔って言葉を身に刻んであげる」
闇は屈斜路湖を半ばまで包み込むほどに成長し、次々に獣を誕生させていく。
「なるほど、それがお前の細胞というわけか、ラークシャサ」
湖の底からする清涼なる声が響いた。
「…私としたことが、貴方様を疎外してしまうとは。
もう少し遅ければ、貴方の従者を細切れにしてから献上してさしあげましたのに」
屈斜路湖に影が底から照らし出す淡い光に曝されて、霧散した。
ラークシャサを中心に獣の群が跋扈し、それに相対するように月明かりの元に男が浮上してくる。
「生憎と、そこに転がっているものは、朕の従者ではない。
気紛れに生かしただけの、つまらぬ愚行の成れだ」
「ご冗談を。
気紛れで如きで半身を与えるなど、愚行などというのもおこがましい行為。
それを信じろと?」
「別に信じて貰おうとは思わぬよ。
あれとは無関係。
自分の仇を討ちたかったら好きにするが良いさ。
その間に、朕は退場させて貰うがな」
相手が本気でそう言っているのを感じ、ラークシャサと呼ばれた超越者は不快さが露にする。
「貴方は、そんなどうでも良いと言える事に、半身を与えたというのですか?」
「そう言った筈だ」
「それは私達、神影を侮辱、いえ、蔑ろにしていると言っても過言ではない」
それを聞いたヴリトラは破顔し、濡れた髪を掬いながら苦笑する。
「そうだな。
つまり朕にとって別称など、その程度だったということだろう。
価値的には、物と変わらぬ。
傍迷惑なだけの、作り物」
自分の存在を物と称されたラークシャサは、獣達にまで殺気を反映させてヴリトラを射抜く。
それを涼しいげに流し、ヴリトラはトドメとばかりに
「くだらぬ俗称だ」
と言い捨てた。
「…貴方は神の位に立ちながら、人だった頃(過去)の記憶を引き摺り過ぎている。
所詮、その程度の器だったのですね」
「…そうかも知れんな。
だから朕は、この祭りを機に神の座を降りたのだ」
「!!
まさか、貴方は!」
「此処に居るのは、ヴリトラなる無縁なる者。
只の人よ」
「莫迦なっ!」
「気付いている筈だ、この肉は人の物だと。
ならば、貴様が思い描いているものは事実」
「そう、なの。
…何処までも冒涜した行為の数々。
喩え、過去に置いて神であった方でも許しがたい。
存在そのものを抹消してあげます。
誰の口にもされぬ、過去無き存在に貶めてあげます」
「それこそ望む処だが、生憎と消え去る気はないのでな」
「ならば公約通りに、戦いに身を投じればどうです?」
「その気もない。
誰かの掌で踊らされるのは趣味ではないのでな。
戦っては遣らぬ」
ヴリトラは童子のような理屈を持ち出し、全くの戦意を見せない。
「結構です。
逃げ遂せるものなら、試してみると良い。
貴方にこれだけの私から逃れる術があるなら」
それを合図に、畜類が一斉に行動を開始する。
上空から鷹やはげ鷲。
水上には黒犬が。
その数、万にも及ぶ。
とてもではないが、これだけの獣の群から逃れるなど、不可能な芸当だった。
「流石に逃げの一手では殺られるだけだな。
間引きせねばな」
ヴリトラの周りを包み込むようなオーラが立ち昇る。
それはヴリトラに纏わり着くと、形を成していく。
それは薄布の衣となり、ヴリトラの素肌を隠す。
闘衣。
神の防衛本能がそのまま形を成し、身を守る物体へ昇華する。
それは神氣が大気を交じり合い顕現化した物質。
己が潜在に秘めし防衛本能に比例し防禦力と成す。
防衛本能の低いヴリトラの闘衣すら、戦車の砲弾すら通さぬ防禦力を具現化できる。
これを纏うということは、命の危険を感知して、本能が自動的に守りに入ったことを告げていた。
ヴリトラが闘衣の装着を完了すると、戦いは開幕した。
黒犬が水面に波紋を盛大にたてながら、ヴリトラの四方をから跳び掛ってくる。
それを迎え撃つは、ヴリトラが瞬時に虚空に書きあげた光の印。
上空の描かれた印は大気に干渉し、圧縮されて刃と化す。
それが四散し、四方から迫る黒犬を寸分違わずに中枢線を両断した。
それを全く確認せず素早くしゃがみ込んで、水面に印を書き連ねる。
直ぐに印は発動し、ヴリトラの周りに直径五センチ程度の水球を何百も浮上させる。
その水球は、真っ二つにされた黒犬を巻き込みながらヴリトラの周りを旋回し、次の迫ろうとしていた鷹と黒犬の第二波を穿ちながら、上昇していく。
その螺旋のバリアの合間をすり抜け、弐匹の鷹が鋭き嘴を突き立てに来る。
神速なる動きで迫るそれを、止まったものを掴むぐらいアッサリと両手でキャッチする。
上肢に陽炎のように立ち昇るオーラを纏うと、躊躇なく圧殺する。
「散!」
螺旋を描き上昇していた水球がその一言で八方へと散らばり、凶弾となりて敵を討つ。
しゃがんだ状態で、未だ印を水面に描き続ける。
今度は水壁が生まれ、勢いをつけ突っ込んでくる獣達は自爆していく。
水壁が生まれる瞬間、微妙であるが、水位が下がったような感覚があった。
広大な面積を誇る屈斜路湖。
僅かであるが、その水位を下げる程に圧縮された水の壁。
それはコンクリートとは比較にならない密度、硬度を持ち得た。
それに神速なる速力でぶち当たれば、只ではすまない。
黒犬は中には首の骨を折るものもおり、鷹やはげ鷲は嘴を砕き、湖に沈んでいく。
そんな交戦を何度か続けると、獣達は猛襲を止め、いつの間にか距離をとって囲むだけになっていた。
僅か二分程の乱戦だったが、その際にヴリトラがかすり傷すら負うことはなかった。
「このまま続けても無駄。
貴方を殺すには、この行進は余りに脆弱」
獣達は割れるように、ラークシャサに道を造る。
「ならば、道をあけて大人しく朕を見逃すのだな。
そうすれば被害は軽微で済む」
「生憎、あれだけの暴言を受けて引く神影などいません。
貴方は私達の存在そのものを軽視、侮蔑した。
命を賭したとしても、引く訳にはいかない」
「どうやら、この口は災いを呼び込んだようだな」
「ですね。
もし、それさえ口にされなければ、リスクを考慮したかもしれない。
でも、一度口にした事は取り消けせはしない」
獣達が放つ小さな波紋を打ち消すような、巨大な波紋を放ちながらラークシャサは戦場へと自らを出陣させる。
「しかも人の業で駆逐されていく屈辱、耐えがたい」
「ふんっ、被害妄想だな。
こちらは消費を抑えた戦いを展開させたに過ぎん。
物に適応させなくとも、五行が捻り出せるこの空間ならではの戦法だ。
まぁ、魂が秘めし力こそ、人が神に対抗しうる唯一の方法だろう」
人の体は木、火、土、金、水の五つから成り立つとされ、これは中国の風水の在り方になぞられている。
符術などは人の体に宿るこの五行を引き出し、具現化させるもの。
五行の総括、魂は肉にのみ受理されるものなので、簡単に外部へと摘出することできない。
それを他の物に投与し、引鉄となる言霊(言葉)により術とするのが符術の原点となる。
だが、魂と肉体の在り方が同じ位置にあるこの空間は、本来外へと出ない五行が、弾みなどで漏れ出すような危険極まりない空間と化していた。
それを利用し、ヴリトラは物に投与することなく、五行を自然そのものに適応させて行使していた。
印で術の選択と増強を、声により発露を促す。
符術は符が術の選択、声が引鉄、印を切ることで術の増強を計る。
ヴリトラの行った術は、符術の形式に近い。
これも五行が外へと漏れやすいという、不自然な空間ならではの事だろう。
そう、五行なる肉体に宿りし魂の輝きは、生き物の証であり、あくまで人の身業なのだ。
ヴリトラの行った行為は、人間が神を打倒可能だという証明に他ならない。
これを神の従者たる、ラークシャサに許容できるだろうか?
これは屈辱以外のなにものでもない。
「貴方は最早人と位。
ならば、これを破らねば面子が立たぬは道理」
「くだなぬな。
所詮は人の上に胡坐をかく者。
思い上がりだな、それは」
平行線で互いを侮辱していく。
ラークシャサは両手に光の弾が生まれる。
それは割れると二本の剣へと姿を変えた。
刃筋が反りあがった青龍刀をモチーフにしたような型をしていた。
「シヴァ様に次ぐ術の遣い手である貴方に、遠距離戦を挑むのは愚。
ならば、貴方を倒せるとするなら、本領である接近戦だけ」
(駄目か。
頭に血が昇るタイプかと思いきや、冷静に知略的ではないか。
…鬼神たる、羅刹天の神影だけのことはある。
事、戦闘に関しては、右に出る者はそうはいまい)
だが、ヴリトラの挑発確かに冷静さをラークシャサから奪っていた。
ラークシャサは時間を稼ぐだけで、確実な勝利を得る事ができるのだ。
それを捨ててまで、自分の手で勝利を捕りにきた辺り、冷静さを欠いていた。
神影である誇りを賭け、ヴリトラを討ちにいく。
(インドラよりも御し辛い。
このままでは押し切られる事は必至)
冷静に自分の能力と推定で弾き出した敵の能力を比較して結果、このまま接近戦に縺れ込めば勝率は半分を下廻っていた。
敵の実力が此方よりも上でも、インドラのように自分の一撃に溺れた者をならば、その後から勝機を見出す事はできた。
それに生命の鏡を失った今、あのような無謀な作戦は二度と行えない。
ラークシャサは破壊と死滅を司る神、羅刹天が影。
闘いを嗜好するのではなく、壊れ行くものを嗜好する。
過程は単純で、そして隙のない壊し方を選んでくる。
その方法は、自分の勝っているもののみの戦いを仕掛けるということだ。
波紋を描きながら迫るラークシャサは、憤怒の形相を讃えていた。
ヒシヒシと伝わる、全身を縛るような殺気に晒されながら、ヴリトラ迎え撃つ為に真言を唱える。
それにより腕から三日月杖が生えてくる。
それを引き抜き、これより行われる猛攻に備える。
撤退を試みようにも、獣達の壁に阻まれて逃げ道がない。
この壁を突破しながらもラークシャサを相手にすることは、愚の骨頂といえた。
少しでも背を見せる素振りをすれば、次は無く、斬り伏せられているだろう。
「落ちぶれたとはいえ、仮にも十二天が一角だった方。
油断はしませんわ」
双剣を前方に交差させて構え、ジリジリと間合いを詰めてくる。
距離が後一踏みの場所まで達した。
互いの緊張感がピークに振り上がった。
「脆弱な行進も、私が加われば宴に変貌する。
私は踊り子。
我分身達は、それを囃し立てる観客。
興奮し過ぎて割り込むのは致し方ないこと。
そう思いますわよね」
「朕の役どころは」
「そうですわね、この宴は我が神に捧ぐもの。
ならば生贄がいても奇妙ではありませんわね」
そして刹那が切って落とされる。
背後にあった殺気が膨れ上がり、獣の壁が崩れるようにして雪崩れてくる。
ヴリトラは杖を旋回させ、見もせずに背後を一閃する。
肉を駆逐していく感触を腕に伝わってくる。
その旋回を早めながら、前方から迫る神速なる双剣が迫る。
反りあがった青龍刀は、蛇が地を這うような動きで振り上げられる。
全身を逸らし、先程獣を駆逐した空間に身を投じる。
足元にネチャリとした液体を踏みしめ、旋回した杖をラークシャサに叩きつける。
それを素早く身を屈めて躱し、獣を彷彿させる動きで、掻い潜りながら喉元に剣を突き立ててくる。
それを見越し、バックに思いっきり跳び退る。
そこに獣の群があろうとも。
杖を半ばで持ち、バトンのように旋回させながら全体を被うように振り回す。
だが、それは獣達には届かず、空を切るのみ。
その隙間を縫って、鷹が飛び込みその凶悪な嘴で、死の接吻をしようとしてくる。
それは届くことはなく、月明かりのような方陣に囚われてしまう。
それは杖が旋回して軌跡に展開された方陣。
獣の力ではこの方陣を敗れず、何匹もこの網に捕縛される。
印を切り、この方陣の網目を小さくする。
それを刹那に間に行い、刃とする。
ヴリトラ囲んでいた方陣に捕まっていた獣達が、次の瞬間ズタズタの肉隗にへ成り果てる。
紅き飛沫が方陣を濡らし、ヴリトラの周りは血の池と化す。
それに怯むことなく、ラークシャサが生み出した光球が、その手から離れていた。
それは立体的な方陣に激突すると、相殺し合い、両術とも虚空に霧散してしまう。
盾を無くしたヴリトラに殺到する獣。
(切りがないっ!
このままではっ!)
僅かの交戦だったが、両者ともに先が結末が見えていた。
ラークシャサは未だ余裕を持って戦っているのに比べ、ヴリトラにはまるで余裕が見受けられない。
攻撃しているように見えるが、所詮は防禦のついででしかない。
自分から仕掛けるだけの間を持たせて貰えない。
術を組もうにも、それらは獣の波状攻撃の前に消費してしまい、本体であるラークシャサへと向けられないのが現状だった。
獣達を無視し、本体に強襲をかけるのも手だが、あれだけの群に一斉に攻撃されれば、ラークシャサから本人からの攻撃を凌駕したダメージを追うだろう。
それに一撃を喰らうということは、波状に乗ってしまうということ。
延々に続く攻撃は此方に息の根が止まるまで止むことはないだろう。
黒犬がチャプチャプと水面を揺らしながら、足首を目掛けて噛み砕こうとしてくる。
それを無造作に下げた杖の尖ったツンが、黒犬の眉間を貫く。
それでも絶命していないのが伝わってくると、杖を通して神氣を叩き込む。
それで頭部が爆発して完全に息の根を止める。
そんな余興が終わると、空から鷹とはげ鷲、下から黒犬が跋扈してくる。
(持久戦に望めば、分身を片す頃には回復しかけの神氣が底をついてしまうっ!)
敵の陣地で戦わされているようなものだった。
敵の策略通りに事態は展開していき、持久戦しか望めない形にさせられていた。
獣達をいなしながら、前方の一番の脅威に気を配らせる。
その矢先、圧倒的な身体能力を用いて、踏み込んだラークシャサ。
インドラに比べれば一ランク遅い。
それでもヴリトラよりも速い。
首を刈る為に放たれた青龍刀を、下がらずに杖で迎撃する。
続けざまに腹部に来る双刀も杖を傾けて、何とか防ぐことに成功する。
「ナウ」
流れるような連撃が発露する前に、ヴリトラは敵の攻撃を反動にして、間合いを微かに離してから術式を展開する。
三日月杖がそれに応えるように閃光を放ち出す。
させまいと、ラークシャサが蛇が地を這うような動きで片刀を振り上げる。
それを迎え撃つべく、ヴリトラが杖を叩きつける。
カンッ!
甲高い衝突音をさせてぶつかり合う。
神氣を積めた一撃がラークシャサの攻撃を押し返し、体勢が僅かながらに崩れる。
だが、それは危機を回避しただけで、チャンスには繋がらない。
もう片方の刀が眼前を横切る。
数ミリ踏み込まれていれば、両目が光を失うところだった。
攻撃を押し切ることで体勢を崩していなければ、間違いなく決まっていた一撃。
(拙いっ!)
読みが勝っているのにも関わらず、自分が不利な状況に陥っているのが先程の二手で理解した。
手数と能力の差は遺憾ともしがたい。
後、ラークシャサの心構えが拙い。
基本的に勝ちに来ているのではなく、負けない事を前提に戦いを挑んできている。
その心はヴリトラと同じなのだが、質が違う。
ヴリトラは戦うことを拒み、勝とうという気構えがない。
だが、ラークシャサは勝機が此方より高いにも関わらず、相打ち狙いでの勝敗を決しようとしていた。
確実にヴリトラを葬る為に。
(…覚悟を決めないとならないか)
逃げにまわっていれば、ズルズルと流れ、勝機をいつか失ってしまう。
逆をいえば、未だ間に合うのだ。
「っ、覚悟を決めろっ!」
怒声をあげながら、神氣を纏いて杖を獣達に振るう。
その杖に掠っただけで、粉砕し爆発していく獣の肉。
そしてヴリトラは通告する。
「引き下がる気はないっ!」
猛攻を止めぬ獣をあしらい、押さえ気味にしていた神氣をフルに遣って、圧倒的な火力を用いて敵を殲滅していく。
これまでのが小径銃で応戦していたなら、これは砲に相当する。
爆発が拡がり、波状して襲い掛かろうとする獣を吹き飛ばす。
接近することすら許さない爆心地。
神氣の遣い方としては、最悪な部類。
理に基づき、その先から選び出す力の流出口。
今の状態は手順など全く踏まずに、あるだけの質量を垂れ流しにして殲滅しているだけに過ぎない。
だが、その分理を通さずに直ぐにエネルギーとして扱える分、時間短縮できる利点はある。
「戯言を。
引き下がる気など毛頭にありません」
急速に神氣を消費させていくヴリトラを、ラークシャサは足掻きとして侮蔑を投げる。
「なら、死しても怨むなっ!」
爆発が急速に縮み、ヴリトラの杖に吸い込まれていく。
それを視認したラークシャサは、自分の考えが間違えであることを悟る。
神氣を転換し事象としたものを、ヴリトラは元の神氣に戻して消費した分を少しばかり回復させていた。
単純に事象に転換したエネルギーは、複雑に世界と絡み合い、元の姿に戻すことは叶わない筈だった。
だが、ヴリトラは尺杖をその絡み合いに差し込むことで干渉し、柵を解きほぐして元の神氣とし回収した。
(こんな芸当がっ!
これが月の守護神十二天、月天っ!)
術とは本来、その事象に等価となるエネルギーを支払い、展開させる等価交換に他ならない。
使えば減る。
そんな子供でも知っている理屈を覆すことを行ったのだ。
複雑に絡み合う世界に干渉して、術そのものを倒壊させ、元のエネルギーに戻してしまう。
爆発が消え、そして空間が生まれる。
間合いが生まれたのだ。
大型の術を展開させるには、十分の間合いが。
(しまったっ!)
即座に反応したラークシャサは、直ぐに追撃を行う。
欠片の迷いもなく、攻撃に転じた。
獣達では、ヴリトラの術が完成する前には届かない。
かといって、術式を組あげ、光球などの飛び道具を生成して攻撃していては時間が掛かってしまう。
この間合いならば、刀の間合いまで踏み込み斬りつける方が速い。
ヴリトラは杖を水面に突き立てる。
まるで地面に突き立てられたように、杖は水面に起立したまま定まる。
上肢を組み、そこから印を流れるように組み上げていく。
指が光の粒子を産み、それらは杖の周りを煌びやかに浮遊する。
それも式となり、杖を中核とした術が組み上がっていく。
逡巡しなかったラークシャサ。
それは功を奏し、術が完成する前に青龍刀の間合いまで詰める事に成功した。
「リリャァァ!!」
奇声と共に放たれる斬撃。
鋼鉄をも紙と同じように斬り裂く、視認不能なまで高まった速力の斬。
それがヴリトラの首を刈りにいく。
(っ!)
それを僅かに遅くするものが内部から生じた。
痛み。
表向きな痛みではなく、内側から芯に響くようなに現われたもの。
それは刹那だった。
だが、その刹那にヴリトラは術を展開へと持っていく。
「―――ヤ ソワ カっ!」
ラークシャサの斬撃はヴリトラの術の完成を阻止出来なかった。
放たれた矢が止まることもなく、鋭利なる斬撃は生涯でも類を見ない程に加速し、ヴリトラに降りかかる。
首元を狙った青龍刀。
ヴリトラの首を庇うためにあげた右手首だが、枯れ枝を鉈で切るかのようにアッサリと切断されてしまう。
そのまま青龍刀は、吸い込まれるように首へと流れていく。
だが、その射線を塞ぐ物体があった。
ギッンッ!
火花が散り、鉱物と鉱物がぶつかる不快音が鳴り響き、ヴリトラの躰は薙ぎ倒されるように横手に吹っ飛んでいく。
首を胴体に備えるまま。
ヴリトラはギリギリで首と青龍刀との隙間に、三日月杖を差し込むのが間に合わせた。
ラークシャサの斬撃の鋭さと威力は想像を超えており、三日月杖を握っている左手が軋みをあげた。
躰を水面から浮かせて、吹き飛ばされる事で威力をいなし、場の逃れる。
角度が下向きだった為、背を強かに水面に打ちつけられた。
水面はコンクリートのように硬く肉体を跳ね返し、何度か渋きをあげながら叩きつけられ、最後にはチャポンと水柱をあげながら、湖に沈んでいく。
(術は完成しなかったのか!?)
ラークシャサは出遅れたと想った。
だが、それを発動させることなく斬撃が奔り、敵に加えられていた。
疑問は多々あったが、それでもこの絶好のチャンスを生かさない手はない。
獣達は主人の意思を受け取り、敵を追い湖に潜り込んでいく。
犬という形状をしていても、ラークシャサの分身。
水中で身動きが取れないといことはない。
魚顔負けの動きで水中を駆け巡り、沈没していくヴリトラに凶牙を突き立てた。
肩口に牙がめり込み、紅い絵の具が透明な液体に透過していく。
口から大量の泡が零れ、絵の具と共にゆらゆらと上昇していく。
他の黒犬達もトドメを刺すべく、空いている部分に牙を刺しにいく。
(やばかったな。
牙を刺されたのが肩でなく、頭蓋なら終わっていた)
激痛が肩口に奔り、跳んでいた意識が戻ってくる。
肩に食い込んでいる牙を冷静に観測しながら、次々に襲い来る畜類を見て苦笑してしまう。
「そっちから舞い込んでくるとは。
もう、遅いがな」
水を透過し、ラークシャサに不吉な声が届く。
分身が傷つけば確かにダメージはある。
だが、この程度の分身では軽く小指を傷つけられたくらいの痛みしかしない。
なのに、ヴリトラの近場に分身達を置くことに厭な予感を覚える。
咄嗟に水中から戻そうとするが、その前にヴリトラは肩を噛み砕こうとしている黒犬の眼窩に杖を差し込んだ。
「欠月っ!」
それに応えるは杖。
月の部分に刻まれていた文様が輝き、そして杖全体を包むようにクリーム色の印が方陣のように引かれていく。
先程、ヴリトラが紡いだ印が杖を周りを展開した。
万象月杖。
これがこの杖の名。
神が振るう宝、神具に位置付けされし宝具。
インドラが愛用していたヴァジュラと同じランクにあり、それぞれが強力な意味を刻まれた神に力に耐えうる神秘。
ヴリトラが行った術式は、この万象月杖の封を解く為の儀式だった。
ヴァジュラに刻まれた意味は雷。
シンプルに一つの意味を用いたこの神具は、その分強大な力を有し、その真の遣い手が持てば、山をも蒸発させるといわれている。
そしてこの万象月杖は意味の一つ、欠けが黒犬を侵食していく。
侵食は瞬間で全身を覆いつくし、そして毒は出口を求めて、繋がりのある場所へと流れ込む。
「なっ!」
ラークシャサの腹の部分に違和感が生まれた。
それはヴリトラの肩口に噛み付いた黒犬の母体となる細胞だった。
それが生じた途端、体中から抜け落ちていく力。
突然肉体が重く感じ、病魔に犯されたように、全身が気だるく崩れそうになる。
違和感が生じた腹の部分に視界を移すと、薄黒く点が穿たれていた。
それは認識した途端に破滅的な速度で全身へと魔の手を伸ばし、侵食していく。
「っっっっ!!」
痛覚には何も起こっていない。
だが、全身から力だけが失せていき、肉体を支えるのが困難になっていく。
それは他の獣達も同じだった。
鷹は飛翔するだけの羽ばたきを奪われ、湖に落ちていく。
はげ鷹も同じ末路を辿った。
黒犬もへばったかのように俯き、そのまま湖に沈んでいく。
獣達が屈斜路湖の自然に飲み込まれて、姿を消すと、代わりにヴリトラが杖を掲げながら水面に現われた。
「機嫌は如何なものだ、ラークシャサよ」
全身ずぶ濡れ。
その上に斬り跳ばされた右手に、肩口からは未だ血が流れ出していた。
闘衣がなければ、この肩は残っていなかっただろう。
滴る血を神氣を発露させて、新陳代謝を強めて塞いでいく。
そして湖に浮かんでいた手首を拾うと、斬れた箇所にあてる。
そして傷が巻き戻しでも観るかのように消え去っていく。
「形勢逆転だな」
万全の状態に戻り、ヴリトラは勝利宣言をする。
「ど、うやって」
ラークシャサは波紋が薄まり、湖に立つことすら侭ならなくなりそうな状態でも、その瞳に宿した憤怒で睨みつけながら問う。
「種明かしなど意味はなかろう。
答える義理もない。
まぁ、交換条件ならト答えてやろう。
どうしてあの一撃、僅かな間があった。
あれさえなければ、勝利はそちらに傾いていた筈だ。
それが」
「窮鼠、猫を噛む…、それね」
忌々しげに視線を砂浜に寄越すと、そこにはズタズタな姿のソーマがいた。
牙や爪、嘴で破損させられた身体は、無事な箇所が無く、蟲の息で横たわっていた。
「…どういう事だ」
「なにも、貴方が差し向けたのでは。
騙されましたよ。
あれが私の分身を何匹もあの瞬間に引き裂いてくれたものだから、突然生まれた痛みに半瞬ながら間を置いてしまった。
まぁ、まさかその後で溺れているとは想いませんでしたが、なんとも頼りがいのない従者ですわね」
負け惜しみのように、皮肉を交えながら答えた。
(どうして、そのようなことを)
「どうしましたか?」
「どういう事だ。
何故奴が朕を助ける」
まるでわからないという風にヴリトラが呟いた。
それが死に損ないのラークシャサに、薪をくべることになる。
憤りのあまり、溶鉱炉のようにドロドロと、そして度しがたい熱さの怒りでラークシャサが染まっていく。
「本気でっ、本気で吼ざいていたのかっ!
貴方はっ!」
何処かで相手を惑わす為の詭弁だと想っていた。
戦いにおける駆け引きだと。
自分と同価値である力を、事も無げにくれてやったなどという戯言を。
本気で気紛れに生かしただけの、つらぬ愚行の成れだったと知らされ、ラークシャサは自分が否定されたような絶望感と、そんな 巫山戯たこと仕出かしたヴリトラに自分が見えなくなるぐらいの怒りを覚えた。
怒りが失われた力を補い、着き掛けていた膝が臨戦態勢、跳びかかれるまでに戻っていく。
誇りであり、自慢であり、そして存在そのものだった。
それを完全否定されたのだ。
汚点は消し去れねばならない。
どんなことを持ってしても、この馬鹿げた存在を抹消せねばならない。
自分の存在価値を取り戻す為に。
「ボおおオオオオオオオおおおぉぉぉぉ!!!」
人の発したものとは根底的に違った。
生き物ならば嫌悪を隠せない、そんな咆哮だった。
憤怒の塊。
そんな叫びだった。
人の形をしていた外装が割れる。
罅がそこら中に奔り、ボロボロと崩れ去っていく。
中から現われたのは、犬、人、鷹の三頭、五足、四眼。
顎が短く、手には指でなく角が生えている化け物だった。
これこそラークシャサの真の姿であった。
最早なんの知性もない。
あるのは本能的に覚えている憤怒。
腸が煮えくり返り、白く染まった思考の先にあるのは、蟲の息しかしていない、汚点だけだった。
(ホロボセ、ホロボセ、ホロボセ、ホロボセホロボセホロボセホロボセホロ……)
月が欠けていくように、全身から奪われていく力。
残された力で成せるものを、存在意義を取り戻せる方法を本能的に悟る。
思考を埋め尽くす、凌駕した純粋なる怒りが肉体を突き動かす。
駆けていくラークシャサの矛先に、ヴリトラは戸惑った。
てっきり自分へ、最後の特攻を賭けるのだと想っていた。
その矢先に、ラークシャサはソーマに向かいその巨体を疾駆させたのだ。
「なっ!」
驚愕。
このまま進めば、間違いなくソーマは息の根を止められるだろう。
ラークシャサの姿を端から観測しているだけで、その殺気がどれほどのものか推し量れた。
殺気が物語るものは、息が詰るほど物悲しく、全てを賭してでも成し遂げねばならない使命感、そして純粋なる怒りを醸し出していた。
自分の行為がどれ程ラークシャサを侮辱し、蔑ろにしたかを痛感させられた。
そしてその矛先は、気紛れに向けられたのだと。
(…朕の暗然が、人を殺す)
呆然と胸を占める不快感。
ソーマを見殺しにしようとした時と同じく、否、それ以上に苦々しい、まさに苦渋が押し寄せてくる。
あそこにいるのは、自分なのだと。
見返りが欲しかった訳ではない。
でも、心の何処かで繋がっていると想っていた。
情けは人のためにならずならば、孤独なる死を迎えることも無かったのではと。
だが、実際薄情で醜く世界、そして人は出来ていた。
決して、少年は見返りを求めて自分を助けようとしたのではないだろう。
彼が求めているのは、何処かで願っていた繋がりそのもの。
だから、それを求めて自分に付いてきたのだと、本当はわかっていた。
死に掛けていた少年に瞳には、死すら受け入れてしまう、孤独しか映し出されていなかったのだから。
そして唯一の繋がりを自分が断とうとしたのだ。
過去に受けた傷を自分が作りだそうとしていたことに愕然とし、死期を与えようとしていた。
最も自分が嫌う、裏切りという形で。
「っ、やめろっ!!」
ラークシャサが駆けた方向に、ヴリトラも駆け出していた。
形振りなど無い。
只我武者羅に追い縋り、この殺戮を止めなければならない。
そうしなければ、自分(心)が死ぬのだと。
命を賭したラークシャサの進撃は、ヴリトラの身体能力では追いつけない。
この凶行を止めさせる方法はある。
自分がその凶行に及べばいい。
それだけだった。
ラークシャサだけでなく、ヴリトラも思考が真っ白に染まっていく。
「うわあああああっ!!」
万象月杖の神氣を詰め込み、それをラークシャサに向けて放つ。
瞬間、世界から音が失せ、そして白き閃光だけが視界を埋めた。
静寂が占めた世界が、元に戻る。
そこにラークシャサの残骸だけがあった。
肉が消し飛び、半身が失せていた。
淡い呼吸音をさせながら横たわり、唯一残った人の頭だけが虚ろな瞳のまま、使命は果たすべく残った足で浅瀬を掻く。
パシャパシャ。
音を取り戻した世界は、その水を掻く音だけに紡いでいた。
そんなラークシャサに近づくと、ソッと水に半分浸かっていた顔を抱き上げる。
「ラークシャサ」
その問いかけが、ラークシャサに僅かな意識を取り戻させる。
そしてゆっくりと視線を潜らせると、現状を知り絶望感に打ちひしがれた。
致命傷だった。
神氣に拠って齎らされた傷は、普通の傷よりも再生されにくい。
それで、これだけの破損を負ってしまっては助かる術はない。
「済まない。
命まで奪うつもりは無かった」
「どこまで、酷な人だ。
流石に憎しみを通り越して、呆れてしまいます。
…どうして、そんな顔を」
ヴリトラには自分がどんな表情をしているのか分からなかった。
只、無性に悔しく、虚しくかった。
そして、安堵していた。
恐らく入り混じって、困ったような表情をしているのだろう。
「勝っておいて、そのような顔をされてもこちらが困ります」
「…済まない」
これは自分の愚行がラークシャサを穢したかを知った、謝罪だった。
「少しだけ、安堵しました。
貴方は、只の気紛れではなくあの者を助けたのだと知りましたから。
それだけでも、少しは救われた」
言葉を紡ぐことが、崩壊を早めていく。
ボトボトと肉が腐り落ち、形を保つことを出来なくなっていた。
「戦いに負けた、それだけだと。
残念です。
神影としての祈願、到達できなかった」
語り終えたとばかりに、ラークシャサは瞼が下りていく。
最後に見えた顔は微笑を浮かべ、どこか勝利者のような感じがした。
そして掌から零れ落ちていく肉体だったもの。
湖に落ちると、痕跡すら残さぬように世界に透過して、消えていくのだった。




