さよならの魔法
一
「お手をどうぞ、お姫様」
「言うわね、カール」
アニエスは両手を腰にあてて口をとがらす。
湖岸に繋がれた船に飛び乗ったカールが、桟橋に置いてけぼりを食ったアニエスを優雅で洗練された仕草で誘ったのだ。
二十人ほどが乗ることができる屋根つきの中型船は、カールの乱暴な乗船に抗議するかのごとく船体を大きく揺らしている。
それに驚いたのだろう。魚が近くで跳ねて水音をたてた。
カールはアニエスの憎まれ口などどこ吹く風と、涼しい顔で微笑んでいる。
上品なつくりの顔を縁取る、背中で結べるくらいにのびた艶やかな黒髪が強い日差しを照り返してキラキラ輝き、なんとも清々しい。
アニエスは、黒髪でも金髪でもない自分の栗色の髪が少し恨めしかった。長さだけなら勝っているのだが。
「レディをエスコートするのが僕の役目だからね」
カールは言いながら軽くウインクをしてみせた。
昨年の意趣返しだろう。
年にいちどだけ行われる、カールの別荘から船着き場までのマッチレース。
久しぶりにアニエスが先着した昨年、カールは地団駄を踏んで悔しがったものだ。
もっとも、カールが悔しがったのは駆けっこに負けたからではあるまい。すでにお互い十四歳。もう背丈は頭ひとつ分向こうが高い。本気で勝負したら、足のはやさで勝てるわけはない。勝ちを譲ってくれたに決まっている。
では、なにが悔しかったのだと言えば、勝ち誇ったアニエスの「レディファーストなんて、まるで王子様みたいね」というひと言がよほど不本意だったのだろう。
なにしろカールは本物の王子様なのだから。
ノルドストレーム王国第三王子、カール=エリクは、毎年初夏、ちょうど今頃の季節に三日間だけこのスヴァール湖畔の別荘に滞在する。
避暑の意味もあるが、周囲を歩いて一周すると半日近くはかかる大きさの湖の中央に存する島を訪ねることが大きな目的となっている。いや、正しくは島に建つ教会を、だ。
幼少のみぎり、生死の境を彷徨うほどの病を患ったカールがその島に群生していた薬草によって命を救われたことから、国王フレデリク・ノルドストレームが神への感謝を示すために建立した教会だ。
ただし、当時国王を継いだばかりのフレデリクへの忠誠が薄かった当地に対して威光を見せつけるためとも、薬草を献上したのが異教徒であったことに焦慮した教会が国王に要望したとも噂されており、本当のところはわからない。まあそれが政というものだろう。
いずれが真実であれ、地方の弱小貴族、しかも名目だけそう呼ばれているにすぎない底辺貴族の娘であるアニエスが、王位継承権の順位こそ低けれど一国の王子たるカール=エリクに目通りできるのはそのおかげである。また、対等の口がきけるのは、同い年であることと、物心つく頃にはすでに互いを知っていたという気安さからくるものだ。
もちろん、いずれそうはいかなくなる日が来るのだが、そんなことを意識したことはなかった。いや、しないようにしていたのかもしれない。
「私ではご不満ですか? 姫」
「いえいえ、姫と呼んでくださることに戸惑っておりますのよ? 麗しき王子様」
アニエスはできるだけ淑やかに、カールの手に自分の手を重ねた。
その手を、カールがしっかりと握りしめてくる。
年頃の女の子だと思って気を遣ってくれているのだろうか。
しかし、年にいちどしかここに来ることのないカールと違って、アニエスは月に何回かはこの船に乗って教会へ足を運ぶ。むしろこちらが気を遣ってやらなくてはならない立場なのだが。
とはいえ、厚意は厚意。カールの顔を立ててやろう、と思った瞬間。
「それでは、足下にお気をつけください。たおやかなお姫様」
優しげな言葉とは裏腹に、カールが思い切りアニエスを引っぱった。
「きゃっ」
アニエスは慌てて船に飛び乗るものの、勢い余ってカールの胸に顔面をしたたか打ちつける。
船が大きく揺れて、舫いのロープがきしきしと音を立てた。
「僕の時より揺れが大きいかも。アニエスのほうが重いとか?」
「もう、あとでひどいんだからね!」
と言ったつもりなのだが、ぶつけた鼻を押さえているのでもごもごとした発音だし、なにより迫力がない。
「ごめんごめん。ほんとはとても軽かったよ、アニエス」
「そんなのでごまかされないんだから」
背を向けて拗ねてみせると、意外なことにカールは神妙な顔で尋ねてくる。
「じゃあ、どうしたら許してくれる?」
「そうね……」
べつに、本気で怒っているわけではない。どうしたら、と言われても特に思いつくことはない、が。
「ちゃんとレディとして扱ってくれたら嬉しいかな」
「承知いたしました、レディ」
カールが片膝をついて頭を垂れる。
「お手を……」
「あ――」
アニエスは戸惑いつつも、怖ず怖ずと手を差し出した。
カールは恭しくその手に触れ、丁重に口づける。
またからかわれているのだろうかと思ったが、唇をはなしてからもカールの態度はかわらない。ダンスに誘うかのようにアニエスの手を引いて、屋根の下へと向かう。
「みんなも追いついてきたみたいだよ」
桟橋を見やりながら、カールが告げる。
言葉どおり、カールの従者たちがゆっくりと歩いてくるのが見えた。
ふたりきりの時間の終わりだった。
「ちょっと残念だね。もう少しゆっくり来ればいいのに」
カールが耳元で囁いた。
「うん」
うなずいて、そのまま下を向く。
アニエスは、みながここにたどり着くまでに、頬の火照りが静まるかどうかを心配していた。
***
「アニエス、食べないの? 野いちごのタルトは好物でしょう?」
笑いを含んだ声で我にかえる。
柔和という言葉を絵に描いたような笑顔がそこにあった。
母の顔だ。
ここ数年でだいぶふくよかになったせいか、笑顔の穏やかさも増しているように見える。
ふたり、庭先で午後のお茶を楽しんでいる途中だった。
気がつくとタルトは半分に減っていた。
そのあたりが母の笑顔を作り上げている秘密に違いない。
それにしても、日差しが気持ちよくてうとうとしてしまったらしい。
夢を見ていた。
去年カールが来た時の夢だ。
なにか変な寝言など言わなかっただろうか。
「ちゃんと食べないから眠くなるのよ。ダンスに着ていくドレスが心配なの? 仕立てたばかりだし、サイズが合わなくなったりするわけないじゃないの。だいたい、それでなくてもアニエスは細いんだから気にしなくてもいいでしょうに。それとも、あのドレス、気に入らなかった? ちょっと地味だものね」
明日、カールが例年どおり避暑にやってくる。そして、いつもどおり三日間ほどここに滞在し、その間にいちどこのあたりに領地を持つ貴族五家を招いて小さな舞踏会を開く。まあ、パーティーのついでにダンスも踊るという程度のものだ。楽師もほんの数人だけということもあるし、舞踏会と呼ぶには少々規模が小さすぎるのだろうけれど。
「そんなんじゃないわ。カールにきちんとしたお祝いを言わなくちゃいけないと思うと、緊張するのよ。それで寝不足なの」
「あとひと月くらいか。カール殿下がお后をお迎えになるの。ご結婚がこんなはやいなんて思ってもいなかったものね。まあ、お兄様方も同じくらいでご結婚されてはいるのだけれど。でも、カール殿下は末っ子でいらっしゃるんだから、国王陛下もそんなにお急ぎになることもなかったでしょうに。寂しくなるわねえ、アニエス」
やぶ蛇だった。
話題は好ましくない方向へと向かっていく。
「そんなことないよ。年にいちどしか顔をあわせないんだし。それに、結婚しても毎年ここには来るんじゃないかな。あの教会はカールのための教会なんだから」
アニエスは木立の向こうに見える、島の教会へと視線を向けた。
昨日降った雨で空気が澄んでいるせいもあるのだろう。漆喰壁の教会は日差しを受けて白く輝き、真っ青な湖面からぽっかりと浮かんでいるように見えた。
「そうでしょうけど……今までみたいに気軽に話しかけたりできなくなるかもしれないわね。カール殿下は、王子としてふさわしい言動を取らなくてはならなくなるし、なにより王子とうちでは家格が違いすぎるもの。ダンスの相手をしてもらえるのも、今年で最後になるかも」
「今年だって、婚約者がいらっしゃるのに私と踊るわけにはいかないんじゃないかな」
「それくらいは許されるでしょう? この村で貴族の若い娘と言ったらあなただけだもの。殿下がパートナーをお連れにならない以上、ダンスの相手をつとめるのはあなたしかいないわ」
「私……ダンスは辞退しようと思う」
母は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにもとのもの柔らかな笑顔に戻って首を傾げる。
「どうして? もったいないわよ? 公務を離れて避暑に来た王子が、非公式な舞踏会で幼なじみと踊るだけだもの。誰に遠慮する必要なんてないわ」
「でも……」
「もしも都合が悪いようならダンスには誘われないでしょ。誘われたら堂々と踊ればいい。あなたはなにも心配しなくていいのよ」
「……うん」
母は立ち上がって、テーブルをよけてまわり込むようにゆっくりと近づいてくる。
アニエスは目でそれを追うが、やがて母が背後にまわると追いきれず、あきらめて視線を前方に戻し、俯いた。
母の手が、アニエスの両肩に置かれる。
「きっと殿下は踊ってくれるわ。だって殿下はあなたと踊っている時はとても楽しそうだったもの。だから、あなたは殿下とのダンスをしっかり楽しみなさいな」
母の言葉に、心がうずく。
踊りたい。
もちろん踊りたい。
けれど、踊ってしまったら自分は素直にお祝いを言えなくなってしまいそうな、そんな気がしていた。
べつに恋人だったわけではない。
カールが自分のことをどう思っていたかもわからない。
それでも、仲はよかったと思う。あくまで、幼なじみとしてだが。
笑顔でお祝いを言えないようではカールに嫌われてしまうかもしれない。
それだけは、避けたかった。
「大丈夫。ご結婚前で時間がないのに、わざわざいらっしゃるのよ? きっと殿下もあなたと会っておしゃべりして踊りたいのよ」
優しい声。
返事のないことを心配したのだろう。母が顔をのぞき込んでくる。
アニエスは母の視線から逃げるように、慌てて立ち上がった。
「眠気覚ましにちょっと散歩してくるね」
「え? じゃあ馬車を用意させるわ」
「いいの、ひとりで歩きたいから」
「ひとりで? そう……気をつけてね。危ないところに行ってはだめよ」
母がどんな顔をしているのかわからない。
心配そうにこちらを見ているだろう母の顔を、確かめる気分にならなかったからだ。
いや、そうではあるまい。
自分の顔を見せたくないのだ。
落ち込んでいる自分の顔を。
だから。
精一杯の笑顔をつくって、ふり返る。
「うん。夕食までには戻ってくるね。きっとお腹減ってるだろうから、おいしいものたくさん食べたいな」
「ええ。じゃあ今夜はアニエスの大好きな香草を効かせた鱒のソテーにしましょう。そのかわり、ニンジンもきちんと食べてもらいますよ」
「あはは。ニンジンはグラッセにしてくれると嬉しいかな」
「ふふ。料理人に伝えておきますよ」
「ありがと、母さん。じゃ、行ってくるね」
笑顔がくずれる前に、アニエスは手をふって駆け出した。
「行ってらっしゃい」
いつもどおりの穏やかな母の声が追いかけてくる。
それは嬉しくもあり、重くも思えた。
二
木々の葉が陽光を遮って薄暗くさえ思える森の中、アニエスは馬の背に揺られていた。
子馬の頃から知っている馬で、父の持ち馬の中ではいちばん賢くておとなしい。
父はアニエスが馬に乗ることを好まなかったが、この芦毛に乗ることを条件に黙認してくれているようだった。
湖を見やると、カールの教会の向こうに自分の屋敷と、騎士、村人たちの家屋が建ち並んでいるのが見える。
日差しを受けた集落がひどくまぶしい。
まだ陽はそれほど傾いてはいない。
屋敷を出てから、どのくらい経っただろう。
なにも考えず、湖の岸に沿ってはや足で馬を駆けさせているうちに対岸あたりまで来てしまったようだ。
いちおう道らしきものはあるものの、草が生い茂って、油断すると道をはずれてしまいそうだった。
なにもないところだけに、とおる人間が少ないのだ。
いや、なにもないというのは間違いということになるだろう。
少し奥に、魔法使いの館があったはずだ。
古よりの魔法を受け継いでいるという魔法使いが住む小さな館が。
まだ幼かった頃、父の馬に乗せられて見に来た記憶がある。
もっとも、住んでいると言われているわりには、誰もその魔法使いの姿を見たものはいないのだが。
あるいは、住んでいた、というのが正しいのかもしれない。
そもそも、世間では魔法使いという存在自体が疑問視されている。魔法など、おとぎ話や伝説の中にしか存在しない、と。
けれど、もしも魔法があったなら。
館に魔法使いがいたのなら。
おぼろげに、かなえて欲しい願いが浮かんだ。
アニエスはゆっくりと馬を降り、森の奥へと視線を向けた。
枝が多くて見とおしが悪い。
騎乗したまま進むのは危ないだろう。
手綱を引いて、そのまま歩きだす。
小石や丈の長い草、ぬかるみなどで足下が良くないが、それほど気にならない。むしろそれ以上に、乗馬服の長いスカートが足にまとわりついて邪魔に思えた。
裾を引きずってよごしたくないということもあるが、足に絡ませないためにスカートを軽くたくし上げながら進む。
はしたないが、誰が見ているわけでもない。
ひとりで来てよかった。
従者がいては止められただろう。
スカートをたくし上げることも、森の奥へと足を運ぶことも。
確かめてみようと思った。
館に魔法使いがいるのか、いないのか。
魔法が存在するのか、しないのか。
日暮れまではまだ充分時間がある。少々道草を食っても夕餉までには戻れるはずだ。
どうせあてがあって出かけてきたわけではない。早く帰りたいわけでもなし、時間つぶしにはちょうどいい。
アニエスは葉の密度の高い、さらなる暗がりへと歩を進めた。
ほんの少しの期待を、小さな胸に抱きながら。
進むか引き返すか迷いはじめた頃、木々のトンネルのような小道の先が明るくなっていることに気づいた。
そこで森が途切れているらしい。
おそらくそこが魔法使いの館だ。
アニエスは小走りになって先を急ぐ。
馬は突然足をはやめたアニエスに驚きもせず、歩調をあわせてそれに続いた。
トンネルの出口に近づくにつれ、下草は少なくなり、木々の小枝が払われて歩きやすくなっていく。
もしかしたら誰かいるのではないか。
いや、誰かではない。
いるとすれば、魔法使い。
胸が、高鳴った。
やがて、トンネルを抜ける。
急に明るくなったこともあるし、ちょうど正面に太陽があったせいもあるのだろう。
まぶしくて目を開けていられない。
アニエスはまぶたを閉じ、手綱を握っているのとは逆の手を顔の前にかざした。
そのとたん。
「大丈夫? スカート、よごれない?」
「え?」
思ってもみないほど近くから声をかけられた。
しかも、若い女性の声だ。
幾分ハスキーだがよくとおる声で、明るく人懐こい話し方は魅力的な女性を連想させた。
「引きずってるよ? 昨日の雨でぬかるんでるところがあるから気をつけて」
「あ……」
アニエスはまごつきながら、両手でスカートをたくし上げた。
前を見ると、声に見あった快活そうな少女が立っていた。
着ているものは真っ白なシャツに黒のベストと同じ色の膝下くらいのスカートで、白のエプロンを腰に巻いている。どれも質のよいもののように見えた。
歳は自分より少し上くらいか。若干癖のある蜂蜜色の髪と、真っ白な肌。そして澄み切った空のような色の瞳がとてもきれいだった。
目が明るさになれたのだろう。
もうまぶしくはなかった。
少女の後方に、古いがしっかりした造りの家が建っているのが見える。
傾斜の急な切妻屋根は昔見たままでちっともかわっていない。
「いらっしゃい。なにかご用かしら。それとも、道に迷った?」
言いながら、少女は躊躇うことなくこちらへ歩み寄り、馬の手綱を引いた。
スカートをたくし上げた拍子に、手を放していたようだ。
「あ、ありがとう」
「ま、少し休んでいきなさいな。こんなトコに誰か来るなんてめずらしいから歓迎するわ」
少女はきびすを返すと、返事を待たずに歩きはじめた。
柔らかそうな髪は、腰のあたりで緩やかにまとめられており、結わえている白いリボンがリズミカルに揺れている。
「ごめんなさい、突然に。ご迷惑になりませんか」
「ううん、全然。たまには話し相手が欲しいのよ。そうじゃないと、話し方忘れちゃいそうで」
「おひとりで住んでいらっしゃるんですか、もしかして」
まさか、と思った。
もしそうだとすれば奇妙なことだ。集落に近いとはいえ、ここは年頃の娘がひとりで住むような場所とは思えない。彼女が魔法使いというのならあり得ることなのかもしれないが、魔法使いの噂はアニエスが生まれる前からのものだと聞いている。年齢からいってそうではあるまい。
「いちおう、師匠とふたりってことになるかな。でも、あの人ここに寄りつかないから」
「お師匠様? 魔法の?」
「うん。よく知ってるね」
「ここが魔法使いさんの館だってことは、昔から有名だもの。あなたもずっとここに?」
「わりと最近弟子入りしたのよ、私。半年くらいかな」
「そうでしたか。でも、ここの魔法使いさん、長いこと姿を見た人がいないから、今は空き家なのかなって思ってました」
「でしょうねえ。私も見たことないもの。師匠の姿」
「は?」
間抜けな声が、自分のものだと気づくにのに、数秒かかった。
「じゃあ、お師匠様の声も聞いたことないのね、ソフィア」
「うん。おまけに名前も知らないから男か女かもわからないの。魔法に関わる人間のあいだでは、この湖にちなんでスヴァールの魔法使いって呼ばれてるけどね」
ふたりは館の居間でお茶を飲みながら、すっかり打ち解けて話をしていた。
このソフィア・フロイデンタールという魔法使い見習いをしている少女の親しみやすい人柄もあるが、実はふたりが同い年だったことが大きかった。
年上に見えたのは、ソフィアの物怖じしない性格によるものだろう。
テーブルの上には、ソフィアが用意をしてくれたハーブティーとバターの香りが強い焼き菓子がのっている。
「文字で話しかけてくるって言うと、お手紙ってことよね」
「うーん、手紙って言うか、いつのまにか目につくところに必要なことが書いてるのよ。テーブルの上だったり、壁だったり。紙に書いてあることは少ないなぁ」
「だったら、あちこち文字だらけになっちゃうんじゃない? ソフィアがいちいち消してるの?」
「知らないうちに消えてるから、そんな必要ないわ。師匠って案外マメなのよね」
「姿も見せずに、かぁ。やっぱり魔法だよね、それって」
アニエスは思わず身を乗りだした。
魔法使いはいたのだ。
魔法は存在したのだ。
しかし、ソフィアはポリポリと頭をかきながらため息をつく。
「そんなことにわざわざ魔法を使うとは思えないけどなぁ」
「でも、魔法使いさんなんでしょ?」
そこでソフィアは、突然驚いたような顔をした。
「ああ。そうか。普通の人は魔法のことなんてわかんないもんね」
「わからないって?」
「大変なことなのよ、魔法を使うのって。文字どおり命を削るくらいに、ね」
「……命を? でも、魔法使いさんって、長生きするイメージがあるけど」
「逆よ、逆。命を削って魔法を使わなきゃいけないから寿命をのばす方法を追い求めるの」
「ふう……ん。てっきり魔法を使って長生きしてるのかと思ってた」
「うん、魔法も使うんだと思うけどね」
「思う?」
「私はまだその方法知らないからさ。ま、好き勝手に魔法を使えるのは、完全な不老不死を手に入れた大魔法使いくらいなわけよ。うちの師匠もちょっとは名の知れた魔法使いだけど、私と話す程度のことでわざわざ寿命縮めたりするわけないわ」
「そっか。じゃあ、誰かに頼み事をされたくらいじゃ魔法を使ってくれたりしないよね、あなたのお師匠様」
ソフィアがきょとんとした顔を向けてくる。
「もしかしてあなた、うちの師匠になんか依頼しにきたの?」
「お願いしたいことがあるのは間違いないんだけど……こっちに散歩に来た途中に、魔法使いさんの噂を思い出して……いるかいないかだけでも確かめてみようと思ったの」
一気に、現実に引き戻された気がした。
ソフィアとおしゃべりをしている少しのあいだだけ、忘れていることができたのに。
気分が沈んでいく。
それが顔に出たのだろう。ソフィアが心配そうな顔を向けてくる。
「うーん、どんな願いなの? それ次第では私からも頼んであげるけど」
「ありがとう。でも、もう時間ないから。お師匠さん、お留守なんでしょ? それに、寿命を削ってまで魔法を使ってくれても、それに見あったお礼なんて、思いつかない。どうしたらいいのかわかんないよ」
それを聞いたソフィアは、急に真剣な顔になった。
「たしかに師匠は留守だし、いったん出かけたらいつ帰ってくるかもわからないけど。とりあえず話してみて。力になれるかもしれないし」
「無理だよ。カールは明日来ちゃうし、舞踏会は二日後だもの」
「舞踏会?」
話しすぎたと思った。
これではソフィアの同情を引いて、無理に師匠に取り次いでもらうために話をしているようではないか。
「ごめん。たいしたことじゃないの。ちょっとのあいだ我慢すればいいだけだから。今日はこれで失礼するね。また遊びに来るから」
未練を断ち切るように立ち上がるが、ソフィアが先回りして手を握ってきた。
「待って。私は本当にあなたの力になりたいと思ってるの」
「どうしてそこまでしてくれるの? 今日知りあったばかりなんだよ?」
「あなた貴族さんでしょう? なのに、命を削る魔法への『お礼』って言ったじゃない。代金じゃなくてね。それは、私たち貴族じゃない人間の命をお金じゃ買えないものだと思ってくれてる証拠だもの。だいいち、アニエスは私と対等に接してくれてる。もちろん公の場ではそういうわけにはいかないだろうけど、それでも私は嬉しいの。だから、あなたの力になりたい。それじゃ、理由にならない?」
ソフィアの澄み切った青い瞳が、まっすぐに向けられていた。
知らず知らず、アニエスは再び椅子に腰掛けていた。
その肩に、ソフィアが背後から両手を置く。
まるで、母がそうしてくれたように。
「だから、話してみて?」
いちどは心の内側に堰き止めたはず思いが、ソフィアの優しさという大きな力を得て、その堰に小さな穴を穿った。
黙って、うなずく。
話そうと思った。誰にも話さなかった自分の気持ちを。
たとえ魔法を使ってもらえなくたってかまわない。
ただ、ソフィアには知って欲しい、そう思った。
「踊りたくないの」
「……え?」
「なんとか、カールと踊らずにすませたいの!」
叫ぶように、訴えた。
勢いに押されたものか、ソフィアは目を見開いたまま固まっている。
遠くで、落瀑の音が聞こえた。
どこかで小鳥が鳴いているのが聞こえた。
見つめあったまま、数呼吸。
言いたいことを言えたせいか、心が少しずつ静まっていく。
きっとそのせいだろう。
いっこうに言葉を返してこないソフィアの様子を見て、ふとあることに気づいた。
カールが王子であること。
カールとは幼なじみで、去年までは毎年踊っていたこと。
カールと踊ってしまうと、きちんとお祝いを言えなくなりそうで怖いこと。
なにひとつ説明していない。
よく考えれば(よく考えなくても)、ソフィアが返答に困っても当然だろう。
慌てて伝えようとするものの、ソフィアはそれを待たずに呆れたような声で、少ない情報から導き出したであろう精一杯の結論を口にした。
「……ことわりゃいいじゃん」
正論だった。
三
燭台の炎が揺れるたびに、闇の中に照らしだされているソフィアの姿や自分の影がたよりなく揺れて、まるで部屋全体が揺らいでいるようだった。
燭台の明かり以外にはなにもない部屋。
それが今自分が立っている場所だった。
魔法使いの館の地下にあたる。
特殊な魔法を練るための部屋だという。
「覚悟はできた?」
静かだが確固たる響きを持った声で、問いが投げかけられた。
契約を交わす約束はしたものの、実際に魔法を使われるとなると、やはり緊張を感じざるを得ない。
それを敏感に感じとったがゆえの問いかけだろう。
ソフィアは先ほどまでの溌剌なイメージとは違って、少女には似つかわしくないほど妖艶な笑顔を浮かべている。
身にまとっているものも、漆黒なローブに同じ色のとんがり帽子だ。
魔法使いの正装なのかもしれない。
気圧されつつも、アニエスはソフィアから目をそらすことなく、無言でうなずいた。
しかし、ソフィアは試すかのように首を傾げてみせる。
「そう。でも、それは本当に覚悟と呼べるものなのかしらね」
今さらなにを言うのかと訝しむ。
すでに契約はすんでいるのというのに。
俄に、体が震えた。
覚悟はできている……はずだった。
ソフィアが自分の命を削ってアニエスのために魔法を使う。
アニエスはそれに見あった代償を、ソフィアに提供する。
単純で、対等な契約。
もういちどあごを引けばいいだけなのに、なにかで固定されてしまったかのようにびくともしない。
「いいのよ。大切なことだから、ゆっくり考えなさい」
ソフィアが、落ち着いた声で告げてくる。
契約が履行されれば自分の寿命が縮むことを気にしている様子など、微塵も感じられない。
一方。
たじろぎ、たゆたう自分の心。
アニエスは目を瞑り、大きく息をついた。
ソフィアと契約を交わした場面が、脳裏に浮かんだ。
***
「ふーん。つまり、よその女に乗り換えた幼なじみなんかと踊れっかよってわけね」
頬杖をついて焼き菓子をかじりつつ、ソフィアが面白くもなさそうに口を開いた。
お茶はすでに冷め切って冷たくなっている。
アニエスが打ち明けたカールと踊りたくない理由を聞いてソフィアが発したひと言目がそれだった。
とても話をまじめに聞いてくれたとは思えない。
自分は、カールが娶る女性が素敵な人であることを祈っている。
カールが幸せになることを祈っている。
ただ、踊ってしまうと、素直にお祝いを言えなくなってしまうような気がするのだ。
踊らなければ、きっと心からお祝いを言える。
言えるに決まっている。
嫉妬でカールと踊るのをいやがっているのではないのだから。
たしかにソフィアから見れば、いや、自分以外の誰から見てもばかばかしい悩みといえるのだろう。
それでも、心を痛める問題なのだ。自分にとっては。
わかってくれるのではないかと期待したソフィアが、呆れるような目をこちらに向けているのが辛かった。
先ほどは母を思い起こさせるほどの優しさを見せてくれただけに、よけいそう思えるのかもしれない。
おそらくソフィアは気まぐれな子なのだろう。
そう自分に言い聞かせる。
帰ろうと思った。
このままここにいては、ソフィアを嫌いになってしまう。
「つまらない話をしてごめんね。でも、ソフィアに愚痴をこぼしたら少し気が楽になったよ。聞いてくれてありがとう」
無理矢理に、笑顔をつくる。
少なくとも、最後まで話につきあってはくれたのだ。
それが礼儀だろう。
けれど、アニエスの思いは踏みにじられる。
「んで、踊るの?」
冷めたお茶を音を立てて啜りつつ、ソフィアが問うてきた。
その態度が、腹立たしかった。
話を聞いてくれるというから話したのだ。
真剣に聞いているふりだけでもしてくれたらいいのに。
その思いが、声音にのった。
我ながら、険のある響きだと思った。
「仕方ないじゃない。求められたら踊るわ。断る理由が見つけられないんだから」
「ふうん」
「相手は王子で、うちは名ばかりの貴族なのよ。踊れと命じられたら断れるはずなんかないでしょう」
――あなたなんかにはわからないでしょうけど――
そうつけ加えようとして、必死にこらえる。
言葉にしてしまえば、自分の負けだ。
ここで貴族と平民の閾を理由に対話を拒否するのは、まかり間違ってもソフィアを言い負かすことにはならない。
それは耳をふさいで逃げ出すのとと同じことなのだから。
アニエスはきつく唇をかんだ。
ソフィアは頬杖をはずし、今度はゆっくりと両手の指を組んでちょこんとあごをのせた。
心做しか、目が笑ったようにも見える。
「命令するようなヤツなの?」
「違う……けど。去年までは踊ってたし、カールは……まわりのみんなだって今年も踊るものだと思ってるはずだもの」
「それに、断ればカール殿下のメンツをつぶすことになる?」
「ええ。そうね。それもある」
ソフィアは目を瞑って押し黙る。なに事か考えているようだ。
アニエスも、お茶に口をつけた。
少しのどが渇いているせいか、冷めたお茶がありがたい。
熱々の時にくらべて香りは弱くなっている反面、甘みが強く感じられた。渋みもあるが、舌には残らない。
その時々で味わいがかわるところは、まるで淹れた人間、つまりソフィアそのものだ。
「おいしいお茶ね」
ハーブの薬効だろうか。
自然と、言葉が出た。
けれどソフィアはそれに答えず、真剣な表情で告げた。
「さっき話したとおり、魔法は命を削る。覚えてる?」
「ええ。覚えてるわ」
「それは将来生きるべき時間を失うということよ」
「そういうことになるわね」
「だから私は、あなたから相応の時間をいただくことにするわ」
「え?」
「私が魔法を使ってあげるって言ってるのよ。あなたの時間と引きかえに」
「ソフィア、魔法を使えたの?」
「あなたが『カールと踊れなくなる魔法』くらいならね」
弟子入りして半年という話だったから、まだそこまでの魔法は使えないと思っていたが、早合点だったらしい。
驚くアニエスを尻目に、ソフィアは続ける。
「あなたがイエスと言えば、それで契約は成立。どうする?」
『相応の時間』とやらがどのくらいなのかわからないが、はっきりと言ってよこさないのは、覚悟のほどを試しているのだと思った。
「私の時間、どうやって渡せばいい?」
ソフィアはにやりと笑った。
「即答とは恐れ入ったわね。少しは悩むかと思ったのに」
「魔法なんてそうそう見られるものではないんでしょ? ソフィアのお手並みを是非拝見したいわ」
今度は肩をすくめて顔を横にふった。
降参という意味らしい。
「成功報酬でいいよ。あなたが私の魔法に満足したらここに来て」
「私が満足しなかったら、報酬は不要ということ?」
「ええ。もちろん」
「大いに満足したら? たくさんの時間を受け取ってくれるのよね」
「いじめないでよ。受け取れる報酬なんて、ほんの『お気持ち』程度で充分よ」
「どうして? あなたは魔法を使って自分の命を削るんでしょう?」
「見習いの私が大それた魔法なんて使えるはずないじゃない。だから成功報酬って言ったの。私の魔法なんかで、あなたが満足できるかどうかわからないもの」
「でも、あなたはあなたの仕事に見あった報酬を得る権利がある」
ソフィアはふう、と大きく息を吐いた。
「わかったわ。あなたが満足しようがしまいが、報酬は受け取るわ。ただし、後払いでね。そこだけは譲れない。コトがすんだら、報告も兼ねてここにいらっしゃいな」
むろん報酬に関係なく結果を話しに来ようとは思っていた。だから前払いでもよかったのだが、どうせ踏み倒すつもりはないのだからこだわることもあるまい。
「うん。約束する」
「オーケー。じゃ、準備するからちょっとここで待ってて」
言うなりソフィアは立ち上がった。
アニエスも立ち上がり、頭を下げる。
「ありがとう。お願いします」
それを見たソフィアが複雑な表情を浮かべる。
「ねえ……」
「なに?」
「んー、やっぱなんでもない」
「なによ。気になるじゃない」
「言っても怒んないでよ?」
「怒るようなことなの?」
「たぶんね。うじうじと悩むばかりのひ弱なお嬢さんかと思ったら、きちんと意地を張るところは張るんだなと思ったの」
間違ってはいないだけに、一瞬言葉に詰まった。自分は、本当に意地を張るべきところで張れずにいる。
とはいえ。
「ずいぶんきついこと言うのね。ちょっと傷ついた」
「ごめん。いろいろとね、心配したのよ。私の拙い魔法だけでは力不足なんじゃないかと思ってたから」
「いったいどんな魔法を使うつもりなの? まさか、カールを病気にしたりするんじゃないでしょうね? それとも大嵐を呼んでカールが来られないようにするとか? 危ないのはいやよ」
「だから、私そんな大それた魔法は使えないんだって。でも、ま、まかせといてよ。ちゃんとあなたは殿下と踊れなくなるから」
「ならいいんだけど」
「うん。じゃ、準備ができたら呼びに来るから。座って待ってて」
アニエスはうなずき、言われたとおり椅子に腰をおろした。あとはまかせるしかない。
それを見てソフィアはこちらに背を向け、廊下へと続く扉に足を向けた。
が、すぐに立ち止まり、ひと言つけ足す。
「あ、そうそう、そのお茶、あなたをイメージしてハーブをブレンドしてみたの。気に入ってくれたなら嬉しいわ」
ウインクして館に向かうソフィアを、呆気にとられながら見送る。
はたして、ソフィアは自分に対してどんなイメージを持ったのか。
アニエスは、確かめるように残っていたお茶を口に含んだ。
***
瞑っていた目を大きく見開き、ソフィアに向ける。
燭台の炎が、それにあわせるかのようにジジッと音をたてた。
目を閉じているあいだ、ずっとそうしていたのだろうか。ソフィアの目はじっとこちらに向けられていた。
アニエスは覚悟を決めたことを示すため、大きくあごを引く。
瞬きすらせず、ソフィアもうなずき返してきた。
「では、覚悟を形として表しなさい。魔法陣の中心へ」
目の前の床に、円や三角形、見たこともない文字らしきものを組み合わせた図形が、うっすらとした線で描かれている。これが魔法陣なのだろう。
アニエスは線を踏まぬよう気をつけながら魔法陣の中心に進んだ。
「結構。では、契約に従い、アニエス・アルゲリッチが望みをかなえんがための儀式を、このソフィア・フロイデンタールがとり行います」
ソフィアは言いながらローブの陰に隠れていた手を掲げた。
手には透きとおったガラスの瓶が握られており、中では赤い液体が揺れている。
蓋はされていないようだ。
「我が血を法に! 命を力に!」
意味ある言葉が、力ある声が響き渡る。
中の液体はソフィアの血なのだろうか。
体の奥底から、得体の知れない恐怖がわき上がる。
これが魔法か。
ソフィアは叫ぶと同時に瓶ごと液体を魔法陣に叩きつけた。
アニエスは反射的に手を跳ね上げる。
無意識にガラスの破片が飛び散ることから顔を守ったのだ。
しかし、結果的にそれは無駄な行為だった。
瓶は床にぶつかると同時に音もなく蒸発し、中の液体だけが魔方陣の上に飛び散ったのだ。
液体がかかった部分が突然発光し、その輝きは魔法陣全体へと広がっていく。
一瞬、部屋全体が強い光に覆われる。
まぶしさに思わず目を瞑りかけるが、発光はすぐに静まった。
あとには光り輝く魔法陣が残るだけだ。
真っ白な炎が魔方陣を描きだしていた。
先ほど部屋を埋め尽くした光は、炎が一気に燃え上がったものだろう。
アニエスは自分の姿を見て、触って確かめる。
「大丈夫よ。炎に見えるけど、魔方陣が意味ある力へと変換されているのがそう見えるだけ。燃え移ったりしないわ。嘘だと思うなら触ってみなさいな。全然熱くないから」
言われたとおり、しゃがんで徐々に小さくなりつつある炎に手をかざしてみる。
「本当だ。熱くない」
「でしょ?」
「それはそうよね。本物の炎だったら、私燃え尽きてたかも。あの勢いだもの」
言っているうちに炎もどきはすっかり鎮まり、魔方陣も消え失せていた。
「どうやら成功したようね」
「魔法が?」
「そう。魔法式はすべてあなたに刻み込まれたわ」
「え? 私に?」
「そうよ」
確かに、カールを病気にするでもなく、天候を操るわけでもないのなら、そうする以外ないのだろうが、はたして。
「そういえば、どんな魔法か聞いてなかったけど」
恐る恐る問うと、ソフィアは意味深に笑ってよこした。
「だから、あなたが殿下と踊れなくなるような魔法よ。あなたはきっと踊れなくなるわ」
「きっと? どういう意味?」
ソフィアはなお堪えきれないかのように、くくくっと笑い声を漏らす。
「踊れないこともないけど、あなたは絶対に踊らないでしょうね。だって踊ると大変なことになっちゃうもの」
「ちょっと、どういうこと? 大変なことってなに?」
「もちろん教えてあげるわ。だって、この魔法は、あなたがどんな魔法か知ってないと意味を成さないんだから」
「なにを言ってるの? カールと踊らずにすむようにしてくれたんでしょう?」
「私は、あなたが殿下と踊れなくなる魔法としか言ってないけど?」
「だから、なにを言っているのよ?」
ソフィアは少女には似つかわしくない、老猾さを感じさせる笑みをその顔に貼りつけたままアニエスに歩み寄り、その腰に腕をまわした。まるで、今からふたりで踊ろうかとでもいうかのように。
「カール殿下がこうしたら……」
「こう……したら?」
鼻と鼻がくっつきそうなくらい顔を近づけてきたソフィアが、嬉しそうに囁く。
「あなたのことを嫌いになるわ」
「なん……ですって……」
「いえ、こうしなくても、あなたの体と殿下の体が少しでも触れたら、カール殿下はあなたのことを毛虫でも見るかのように嫌うことになるの。どう? 踊れる? 無理よね。踊れないでしょう?」
「そんな。どうして……どうしてそんな魔法を」
体が、わなわなと震えた。
しかしソフィアはそんなことなど意に介さず、アニエスと体の位置を入れかえるようにぐるりとまわった。
踊っているつもりらしい。
「それとも、踊る? ていうか、踊ったら? どうせお別れする彼なんだもの。そのほうがすっきりするんじゃない?」
「どうしてって聞いてるのよ! 答えて!」
「ばかばかしいのよ。貴族さまの恋愛ごっこにつきあわされるなんて」
吐き捨てるように言い放つと、ソフィアはアニエスの体を放した。
「恋愛ごっこ、ですって」
「切羽詰まった様子でいたからどんな悩みかと聞いてみれば、元彼への恨み節とはね。まじめに聞いて損したわ。こっちは魔法の修行で毎日大変だってのに」
「だからって、そんなこと……踊る時じゃなくても、一緒に歩いたり、教会に行く船の中で隣に座ったりすることだってあるのに……エスコートを全部断ったりできないよ……まわりのみんなだって変に思うもの。それに、気をつけてたって偶然触れることぐらいあるに決まってるわ」
「あー、言われてみればそうかもねえ……でもまー、たった三日間だけのことだし。ここはひとつ頑張ってみなさいな」
ソフィアは胸の前で手をぽんっとあわせると、ひとつウインクをしてみせた。
その様子に、我を忘れた。
右手を、大きく振りかぶる。
しかしソフィアは避けようともしない。
ただ黙って目を瞑った。
自分の行為を悔いているのだろうか。
いや、違う。
自分は殴られることなど覚悟の上で魔法を使った。あなたは本当に私に魔法を使わせる覚悟ができていたの?
ソフィアは無言でそう訴えているのだ。
せせら笑っているのだ。
無抵抗のソフィアの頬を打てば、向こうの顔だけが立つことになる。
自分はただの負け犬だ。
アニエスは振り上げた右手のやり場に困った。
たまゆら、時が止まったかのように、すべてのものが静止した。音が、消えた。
それが無限に続くのではないかと思いはじめた時、突然甲高い、金属がなにかにぶつかるような音が鳴り響いた。
ふたりして、大きく息をつきながら、あたりを見まわす。
どうやらお互い息を止めていたようだ。
音の原因はすぐにわかった。
燭台のひとつが壁から落下していたのだ。
燭台はソフィアの背後に落ちていて、それに刺されていた蝋燭は勢い余ってアニエスの足下にまで転がってきていた。
幸いなことに、火はすでに消えている。
アニエスの右手にべつの仕事ができた。
救われたと思った。
ゆっくりとしゃがんで蝋燭を拾い上げる。
「ちゃんと固定してなかったかしら」
ソフィアがそう言いながら燭台を拾った。
アニエスは蝋燭を渡しながら、ソフィアの目をまっすぐ見据える。
「魔法、解いて。お願い」
しかし、ソフィアは目をそらし、伏せた。
「……ごめん。私、連続して魔法を使えないの。見習いだから」
「そう。なら、これで失礼するわ」
アニエスは目をあわせようとしないソフィアに背を向けた。
「あの、アニエス……報酬、気にしなくていいから」
追いかけてくる言葉に、ふり返らずに答える。
「結構よ。約束は守るわ。これ以上ばかにしないで」
「……ごめん」
部屋を出る前に、いちどだけふり返る。
そこには、なぜだかひどくしょんぼりした背中をこちらに向けているソフィアの姿があった。
四
風が、頬をなでた。
湖の上をとおってくる、ひんやりとした風だ。
痛さを感じるほどの真昼の日差しの下でこの風はありがたい。
アニエスは屋敷の二階にある自室の窓でその風を存分に浴び、肌を冷やす。
山の中腹にあるこのあたりは盛夏でも比較的涼しいと言われているが、初夏のこの季節にこれだけ爽涼とした風が吹くのはめずらしい。
今年は冬が長かったため、山頂付近にはまだ雪が多く残っている。そのため山から吹き下ろす風が冷気を運んでくるというわけだ。
そして風が運んでくるのは冷気ばかりではない。
今年は咲くのが遅かったマロニエの優しい香り。
タンポポの綿毛。
そして。
蹄と馬車の車輪の音。
カール=エリク・ノルドストレーム王子とその一行が到着したことを告げる音だ。
アニエスはマロニエの香りを大きく胸に吸い、ゆっくりと吐きだす。
ねらったわけではなかったが、アニエスの吐息は部屋の中に入らんとしていた綿毛を翻弄し、窓の外へと押し戻した。
せっかく部屋を訪ねてくれた賓客を歓迎しないわけではなかったが、意図せず追い払う結果となってしまった。
もっとも、綿毛にとってはアニエスの部屋は本来とどまるべき世界ではない。
どこか遠く、アニエスの目が届かない世界へと旅をし、根づき、咲き誇ることが綿毛に課せられた役儀なのだから。
門前払いを食らったことに抗議するわけではあるまいが、綿毛はしばらく窓の前を彷徨い、しかしやがて上昇気流にでも乗ったか天高く舞い上がり、消えていった。
それを気のすむまで見送り、アニエスは視線を下へと移す。
視界に入ってきたのは、カールが乗っているだろう馬車と、前後を守る数人の騎士たちだ。
もうまもなくアニエスの屋敷の前にかかるところだった。
目ざとくアニエスの姿を見つけたのだろう。馬車の窓からカールが身を乗りだし、満面の笑みを浮かべながら手をふってくるのが見えた。
嬉しい気持ち、せつない気持ちが、互いに心の中を塗りつぶそうと勢力を競いあう。
自分は今どんな顔をしているのだろう。きちんと笑顔を浮かべているのだろうか。
不安になる。
アニエスはカールに応えて手を振り返すと、いちど自分の笑顔を姿見で確認し、階下へと向かった。
「やあアニエス、一年ぶりだと見違えたよ。少し背がのびた?」
屋敷の前で馬車を止めてと両親と挨拶を交わしていたカールが、急ぎ足で参じたアニエスにウインクをしてよこした。
背後にはいつも難しい顔をしている比較的若い従者、ヘルマンを従えている。
毎年のことではあるが、別荘へと向かう途中、カールはわざわざ馬車を降りて言葉をかけてくれる。
ごく当たり前のことだと思っていたのだが、ソフィアの魔法のせいでカールと自分のことを冷めた目で見ているせいだろうか、今ならわかる。
これは不相応な待遇なのだ。
それにしても、見違えるほど背がのびたのはむしろカールのほうだから、さり気なく自慢しているというところだろう。
アニエスはスカートをつまんできちんと挨拶をする。
去年までは駆け寄っていたところだが、今年は淑やかに振る舞うつもりだ。
けじめをつける。
つまり身分相応にある程度の距離を置けば、カールと体が触れずにすむ。なにより、それをカールや周囲に示しておけば、ダンスを断る口実ともなろう。
ただし、不自然にならない程度に、だ。
「いいえちっとも。のびたのは髪の毛だけです。カール殿下の背が去年よりだいぶ高くなったので、違って見えるのでしょう」
「ははは。相変わらず言うなあ。でも、どうしたの? なんかちょっと堅苦しいね」
「もう、お互い十五になるんです。少しは礼節をわきまえないと、みんなに笑われてしまいますよ」
カールは少し寂しそうな顔をした。
それが、つらい。
いたたまれず、目をそらすと、父が不思議そうな顔を向けているのが見えた。
その隣で、母は心配そうにこちらを見つめている。
「そうだね。ほんとにそうだ。もう知ってると思うけど、僕はもうすぐ結婚しなくちゃいけないからなあ。一人前の男として扱われるようになるし、礼儀作法はきちんと覚えてとかないと、諸侯の笑いものになっちゃうよね」
「まったくです。殿下には、ご婚礼までにご身分にふさわしい立ち居振る舞いを身につけていただかなくてはなりません」
ヘルマンが口をはさんだ。
必要なこと以外口にしないこの従者にしてはめずらしいことだ。いや、必要だから口にしたということか。
「父上に言われたらしくてね。最近厳しいんだ。城の中では息が詰まりそうだったよ。せっかく城を出てきたんだから、少しは羽目をはずしてもいいよね、ヘルマン」
「いいえ。時間が許すかぎり儀礼を学んでいただきますよ、殿下。アニエス嬢をご覧なさい。去年よりもずっと淑女らしくなっておられる。殿下にも見習っていただきたいものですな。アニエス嬢、殿下に模範的な振る舞いを示してくださるとありがたい」
褒めているようだが、視線は射抜くような鋭さを持っている。
去年までとは違う。身分をわきまえて行動しろ。そう言っているように思えた。
気圧されて、返事ができない。
すると。
「いえいえ、うちのアニエスこそお転婆で。いつも殿下にはいろいろ教えていただいていますわ。特にダンスは殿下のおかげでまともに踊れるようになったようなものですもの。父親と踊る時なんてステップがめちゃくちゃで。今年もぜひお願いしたいですわ。ねえアニエス?」
母がするりとヘルマンとのあいだに割って入る。
なんということを言うのだろう。
今年は踊らない、そう決めたというのに。
「しかし殿下はもはや婚約者のいる身ですからな……年頃の、しかも独身の女性と踊るのはいささか問題がありましょう」
救いの言葉と言えた。
ただ、ヘルマンのどこか冷ややかな表情をみていると、素直に喜べない気持ちもあるが。
「べつにかまわないだろ? 幼なじみと踊るだけなんだし。それに、まだ結婚したわけじゃない」
いつもよりいくらか粗野に感じられる口調で、カールが反論する。
つかのま、主従のあいだで強い視線が交錯した。
「殿下の行状が国の行く末を決めることもあるのですよ」
「国のために、会ったこともない女性と結婚しなくちゃならないんだ。そのくらいのわがままは許されるさ。僕は踊るよ。ね、アニエス?」
「え? あの……」
突然話をふられてしどろもどろになる。
アニエスが悩んでいたように、カールもいろいろな事情の中で苦悩していたのだ。むしろ、自分の悩みなど、取るに足らないものだと言っていい。ソフィアに指摘されたとおり、単なる嫉妬にすぎなかった。
しかもその上でカールは自分と踊ることを決断し、その意志を貫こうとしてくれている。
「あの……私……」
返事が、できない。
なぜなら、踊ってしまうと――。
「ああ、ごめんごめん。なんか変な雰囲気になっちゃったね。でも、なにも心配いらないから。いつもどおり明日の朝は船で教会に行くよ。そして、午後には舞踏会だ。楽しみにしてるから。それじゃ今日はこれで」
カールはいつもの笑顔に戻り、アニエスを気遣うように優しく告げ、両親に挨拶をすると、ヘルマンには目もくれず馬車に乗り込んだ。
同じようにヘルマンも無言で続く。
両親がそれを見送るために馬車まで進んだ。
自分だけが取り残されている。
このままではいけない。
カールは自分を大切にしてくれているのに、自分はカールの気持ちになにも答えていない。
しかし、思いとは裏はらに足がすくんでしまって動かない。
カールが行ってしまう、そう思った時、後ろには誰もいないはずなのに、不意に背中を押された気がした。
そのおかげか、足が一歩前に出る。
アニエスの胸に強い感情がわき上がった。
自然と、気持ちがそのまま言葉になった。
「カール! また明日!」
動き始めた馬車の窓から、表情を一切かえないヘルマンの向こうで、にこやかに手をふっているカールが見えた。
心が、少しだけ軽くなったような気がした。
とはいえ、悩み事はなくなったわけではない。むしろ増えたような気がする。
遠ざかっていく馬車を見送りながら、アニエスは心の中で小さく呟いた。
――どうして魔法使いなんか頼ってしまったんだろう――
一陣の風が緩やかに吹き抜けた。
しかし、風はアニエスの自問の答えを運んできてはくれなかった。
「おはよう、カール」
アニエスは馬車を降りるやいなや、カールに朝の挨拶をする。
きちんとスカートをつまんで膝を折るが、言葉遣いは意識して去年までと同じように少し砕けた調子にした。
カールの気持ちに応えたかったのだ。
ノルドストレーム王家の別荘につくと、カールは玄関で待ちかまえていた。
本来ならカールは来客がそろうまでは自室に控えているはずなのだ。実際去年まではそうしていた。
それを曲げて玄関に姿を現すのは、ヘルマンに対する意思表示に違いない。
きっとアニエスの馬車が見えたので玄関まで走ってきたのだろう。ほんの少しだけ息が乱れている。
別荘といっても、それほど堅固ではない砦みたいなものだ。かなり広さがある。自室から走ってきたのなら息も切れるといういうものだろう。
「やあ、待ってたよ。昨日ヘルマンが失礼をしたから、来てくれないんじゃないかって心配したんだ」
普段なら軽口が出そうなものだが、今日のカールはどこか弱気だ。表情も晴れやかとは言えない。
おそらく昨日、あのあともヘルマンといろいろあったのだろう。
「私は幼なじみのお誘いを断るほど人でなしじゃないよ」
カールの顔が一気に輝く。
「去年は僕の勝ちだったからさ。負けず嫌いのアニエスはきっと来るって、信じてはいたけどね」
調子は戻ってきたようだが、もうひとつといったところか。先ほどの発言と矛盾している。
だから、言うのは気がひけるのだが。
「もう今年は走らないよ。十五にもなって子供みたいに駆けっこなんて、みんなに笑われちゃうもの」
一晩迷ったが、やはりカールの体に触れずにいるためには、自然にダンスを断るには、ある程度の距離は保たねばならない。
カールにきちんとお祝いを言うために。
カールに嫌われないために。
とはいえ、カールの表情は見る間に曇っていく。
しかも、それにあわせたようにヘルマンの声がかかった。廊下の向こうからはかったような歩幅で近づいてくる。
「そのとおりですな。アニエス嬢、お礼を申し上げます。お願いしたとおり、殿下に模範を見せてくだるとはありがたい。と、いうわけで殿下、お部屋にお戻りください」
「ヘルマン、まだみんなそろってないんだろう? なら、それまでは好きにさせてもらいたいな」
「いいえ。みんなそろっていないからこそ、ここにいてはいけないのですよ。特定のお客様だけを特別扱いしては、ほかのお客様に失礼ですからね。それに、お客様といえどみな、殿下の臣下にあたるのです。出迎えなどしては権威を貶めることになります。秩序とはそうして保たれるのです」
「僕にとってアニエスは特別な客だと言ったら?」
「なんですと?」
「行こう、アニエス」
突如、カールはアニエスに向きなおった。
そして、アニエスの腕を握ろうと手をのばしてくる。
油断していた。
避けられない。
カールに触れたら嫌われてしまう!
頭ではわかっているのに体が動かない。
思わず目を瞑った瞬間、誰かに襟首をつかまれ、後ろに引っぱられた。
一歩後ろに下がる。
結果、カールの手は空を切った。
ありがたいことではあるが、いったい誰が、とアニエスは振り返るが、そこに人影はない。
「アニエス……」
呆然とした声に視線を戻すと、カールはまるで泣き出しそうな顔をしていた。
「あの……カール?」
カールは答えない。
「ご覧なさい殿下、アニエス嬢から見ても今の殿下は間違っているそうですよ」
「カール! 違うの!」
しかし、言葉はむなしく響き渡るだけだった。
カールは唇を噛みしめると、隠すかごとく顔を背け、駆け出す。
「カール!」
追おうとするが、ヘルマンがそれを許さなかった。目の前に立ちふさがったのだ。
「ご自分の立場をきちんとわきまえているのかいないのか、どちらなんです?」
「ヘルマンさん」
「今年は教会への船は満席です。あなたの席は用意されておりません」
「え?」
「出直してくださいと申し上げているのです。むろん、午後のパーティーには参加していただいてかまいがせんがね。ただ、まさか殿下と踊ろうなどと考えてはいないでしょうな?」
顔から血の気が引いていくのがわかった。
ここまでの仕打ちを考えていなかったということもある。
けれどそれ以上に、カールの無念を思うと胸が痛んだ。
カールは今までずっとひとり戦ってきたに違いない。あるいは、今年ここに来ることさえ必死で勝ち取ったのかもしれないのだ。
自分はカールの気持ちを裏切ってはいけない。自分の気持ちを裏切ってはいけない。
まっすぐ、ヘルマンの目を見た。
「いけませんか?」
ヘルマンはわずかにたじろいだが、すぐに表情を消す。
「おわかりのことかと思っていたのですがね。殿下には婚約者がいるのですから、あなたはパートナーになり得ないのです。資格がないのです。今さら殿下に腰を抱かれたいとか、図々しいにもほどがある。とはいえ、無駄なことですよ。パーティーは開催されますが、舞踏会は行われないのですから。そう差配しました。もしどうしても踊りたいというのなら、おひとりでどうぞ」
奥歯がギリギリと音を立てた。
カールをひとりで戦わせはしない。
自分も戦わなくてはいけない。
たとえ踊ることでカールに触れ、嫌われることになろうとも。
「出直します。パーティーまでに戻ります」
ありったけの敵意をこめて、そう答えた。
五
「しっかりね。アニエス」
母はそう言って頬にキスをした。
アニエスは口を真一文字に結んだままうなずく。
ここはもはや戦場。言葉は不要だ。自分を戦場に送り出してくれた人への感謝は、ただ行動で示すのみ。
パーティーはすでにはじまっていた。
ホールには大小五つほどのテーブルが並び、卓上には湖で捕れた魚や地の青果を使った料理が並んでいる。そのまわりではこの湖周辺に領地を持つ貴族やその家族たちがそれをつまんだり話に興じたりしていた。
ホールの右手では四人の楽士が弦楽器やピアノを奏でている。ダンスは中止になったが、音楽はやはり必要らしい。
着替えに手間取って遅れてしまったのだ。
母やメイドたちがずいぶんと頑張ってくれたおかげで。
カールの別荘から追い返された娘の様子にただならぬものを感じたのだろう。
仕立てたばかりのドレスに着替えようとするアニエスに、それではだめだと言って、メイドに去年正式なパーティー用に仕立てたいちばん上等なドレスを用意させ、大急ぎでサイズを微調整させたのだ。
それだけではない。
今まではしたことのない大人びた化粧をアニエスに施し、香水をふり、髪をきちんと結い上げ、母が結婚式で使ったというティアラや家宝の首飾りなどを着けさせた。
今のアニエスは国王主催のパーティーに出たとしても、主賓として通用するだろう。
非公式で小規模なパーティーには少々場違いと言える。
父はそれを見て驚いていたが、なにかを察したのか、うんうんきれいだと言って、止めたりすることはなかった。
これだけの応援を得たのだ。もうあとになんて引けない。
アニエスはしずしずと、しかし力強い足取りでテーブルのあいだを進んだ。
アニエスが中程まで進むと、それまで聞こえていた談笑の声が小さくなり、やがて、やんだ。
それでもアニエスは進む。
目指すはいちばん奥。
カール=エリク・ノルドストレームのもとだ。
カールは今朝のことを怒っているだろうか。
案の定、カールは椅子の肘掛けにもたれかかるように座りながら、面白くもなさそうな顔でこのあたりでいちばん有力な貴族の殿御と話をしていたが、ホールの空気がかわったことに気づいたのか、こちらに目を向けた。
その目が、丸くなった。
隣の貴族も目をむいている。
当然だ。
弱小貴族の娘が、この会場でいちばん豪奢な格好をしているのだから。
普通は格上の貴族に遠慮するものだ。
すでに楽士も音楽を止めていた。
静寂がホールを満たしていた。
その中で。
アニエスはカールの前にたどり着くなり、生涯でいちばんすました声を発した。
「殿下、ダンスを誘いに参りましたよ。断ったりしないでくださいね」
その声は、静まりかえったホールの隅々にまで響き渡った。
これでいい。
カールのほうから誘ったのなら問題があろうが、無理矢理誘われたのならやむを得なかったとごまかせる。
ここにいる全員を証人として、だ。
それがアニエスの作戦だった。
と、静まりかえったホールの中、ひとつの足音が近づいてくる。
「なにをしているのです、アニエス嬢! ダンスは中止になったと言ったでしょう!」
むろんへルマンだ。
しかしアニエスは無視をしてカールの瞳を見つめ続けた。
――今朝はごめんなさい。もしも許してくれるなら、一緒に戦おう?――
その気持ちを、瞳にこめて。
ありったけの思いを、視線にのせて。
「下がりなさい、アニエス嬢!」
ヘルマンが金切り声をあげるが、それも再び無視されることとなった。
「アニエス、こっちへ」
カールが立ち上がり、アニエスの肩に手を置こうとする。
想定外だった。
が、避ける気はない。
それが今朝の贖罪になるだろう。
ここで嫌われてもかまわないのだ。
どんなに嫌いになったとしてもダンスぐらいは踊れるだろう。
踊りさえすればカールの面目は保たれる。
はじめからそのつもりだ。
アニエスは瞬きするのさえこらえて、その瞳にカールを映し続ける。
しかしカールはなにかを思い出したかのように、慌てて手を引っ込めて歩きだした。
魔法が発動するまでもなく嫌われてしまったということだろうか。
折れかかる気持ちを叱咤しつつ、カールの背を追う。
どこまで行くのかと心配していると、カールはホールの隅に近い、ちょっとしたスペースがあるところで足を止め、振り返った。
「危なかったね。君に触れたら、僕は君を嫌いになっちゃうんだろ?」
――どうしてそれを――
息が止まりそうになった。
カールはいつも自分に向けてくれる優しい瞳でこちらを見ていた。
「知らないうちに、ポケットにこんなカードが入ってたんだ」
カールは胸ポケットから一枚のカードを取り出し、アニエスに示してみせる。
カード書かれていたのは。
『アニエスに触れると、君は彼女を嫌いになっちゃうよ。そういう魔法がかかっている』
アニエスは思わずあたりを見まわした。
ソフィアの姿を探したのだ。真実を知っているのは彼女しかいないのだから。
そして、思いあたった。
昨日背中を押してくれたのも、今朝襟首を引っぱってくれたのも、ソフィアに違いない。
「ヘルマンの仕業?」
カールが幾分険しい顔で聞いてくる。
「違う。違うわ。私なの。私が魔法使いに頼んだの」
「アニエスが? どうしてそんな魔法を?」
説明するのが難しい。
そういう魔法を選んだのはソフィアなのだから。
だから、真実だけを伝えよう。そう思った。
「踊ってしまったら、気持ちを抑えられなくなると思ったから」
「ほかの魔法でもよかったんだろうに。自分の心にけじめをつけさせるために、そういう魔法を選んだのか。アニエスらしい……のかな。でも、踊ってしまったら、僕もきっと気持ちが抑えられなくなったと思う」
誤解はあるが、それくらいはいいだろう。
互いにうなずきあう。
カールは満足したように微笑んで続けた。
「アニエス、じゃあ、どうして踊るの? 僕は君のことを嫌いになりたくない」
これも説明が難しい。
カールへのなによりの餞になる、というのもあるが、ちょっと違う。なぜなら、これは自分の自尊心の問題でもあるからだ。
「だって負けたくないじゃない?」
「え?」
「ヘルマンにあれだけ言われて黙ってられないもの。それに、魔法なんかで私のこと嫌いになるんなら、カールの私への気持ちなんてその程度のものだったってことよ」
「ひどいな。もし嫌いになっちゃったら、僕のせいになるの?」
「そうよ。だから、もし嫌いになっても責任とって最後まで踊ってね?」
アニエスはそう言ってカールに歩み寄り、精一杯の笑顔を向けた。
カールは惚れ惚れするような笑顔でそれに応え、アニエスの背中に手をまわしてくる。
かまわない。
覚悟なんてとうの昔にできている。
身構えるものの、カールの腕がアニエスの体に触れることはなかった。
「触れずに踊れば、万が一にもアニエスを嫌いになることはないからね」
「触れずに踊るの?」
「うん」
「できるかな、そんなこと」
「弱気だね。僕は自信あるよ。もしできなかったら、アニエスの僕への気持ちがその程度だったってことだね」
余裕を見せつけるようなウインクが憎たらしい。
「言うわね。どうなっても知らないから」
「どうにかなったりなんてするわけない。できるさ。アニエスと僕でなら」
カールは自信に満ちあふれた声で言い切った。
悔しいが胸がいっぱいで言葉が浮かんでこない。
いや、もう言葉は必要ないのだろう。
言葉を交わさずとも、心の中のすべては伝わるに決まっている。
もう迷いはない。
なにも言わずに、呼吸をあわせる。
緊張感が、ふたりを包んだ。
そして。
同時にステップ。
リズムをあわせて。
流れるようにターン。
それでも決して互いの体が触れることはなかった。
カールの片手はアニエスの背にまわされ、アニエスの片手はその腕に添えられており、ふたりのもう片方の手はそのひらを向けあっているが、触れそうで触れることのない微妙な距離を保ち続けている。
静まりかえったホールには、もちろん音楽など流れていない。
けれど、ふたりの靴音がリズムを刻んでいるし、それにあわせるかのように、開け放たれた窓から風が入り込んで木々の葉音や鳥のさえずりが生み出すメロディーを運んでくる。
それで充分だった。
時が経つのも忘れて、ふたりは踊り続けた。
もう潮時だろう、そう思った。
互いの手のひらも体も、紙一枚ほどの隙間しかないくらい近づいていた。
これ以上続ければいずれは触れてしまうだろう。
もう魔法など怖くなかったし、たとえ抱きしめられてキスされたとしても、カールにきちんとお祝いを言える自信があった。
これ以上、踊る必要はないと思った。
心から満足したからだ。
カールも同じだったらしい。
どちらからともなく、ステップを止めた。
カールが一歩下がって、膝を折る。
「ね、ちゃんとできただろ? レディ」
アニエスは笑って手を差し出す。
「お互いの気持ちがその程度じゃなかったってことね」
カールも笑ってアニエスの手の甲にキスのまねをする、はずだった。
突然誰かに後ろから押されたかのように、カールがつんのめったのだ。
勢い、カールの唇がアニエスの手の甲に触れる。
あまりに予想外のことで、ふたりして顔を見あわせた。
魔法は?
しかし、カールは苦笑いをすると、今度はゆっくりと慈しむようにアニエスの手に口をつけた。
「カール?」
恐る恐る、声をかける。
惜しむように唇をはなしたカールは、納得したように告げる。
「ほんとだね。魔法なんかで僕の気持ちはかわりはしなかったよ」
安堵の胸をなで下ろすアニエスに向かって、カールはさらに声には出さず、口の形だけで言葉を伝えてきた。
『すきだよ』
アニエスも、同じように口を動かすだけのやり方で答える。
『私も』
そして今度はアニエスが一歩下がり、膝を折る。最高の笑顔を浮かべながら。
「殿下、ご結婚おめでとうございます。心よりお祝い申し上げます」
悩んだことが嘘のように、その言葉はアニエスの口からごく自然に紡がれた。
カールから離れると、人の目を避けるように、バルコニーへ逃げた。
もっとも、誰も声をかけてこなかったし、両親はおろか列席している誰もがアニエスとカールのダンスなどなかったかのように振る舞っている。
知らぬふりしてくれるのは、気を遣ってくれているということなのだろう。
面倒に巻き込まれるのはごめんだというのも少しはあるのかもしれないが。
バルコニーで、夕焼けを浴びながら深呼吸をする。
なんともよい心地だった。
と、そのとき。
「よいダンスでした。人はあんなにもさわやかに踊れるものかと、驚かされました」
バルコニーには先客がいたのだ。
ヘルマンだった。
バルコニーの柵にもたれて酒を飲んでいた。
この男が酒を飲んでいるところをはじめて見たような気がする。
素直に、頭を下げた。
「ごめんなさい。いかような処分も、覚悟しています。けれど、両親には罰が及ばぬようご配慮をお願いいたします」
すると、ヘルマンは慌てて首を横にふった。
「いやいや、気になさることはありません」
「でも、言いつけに逆らってしまいました」
「いいのですよ。私が独断でよけいなことをしてしまっただけなのです。謝らなければならないのは私のほうです」
「……あの、どういうことかさっぱり」
「あなたと踊ったら、殿下は結婚なんて嫌だと言い出すのではないかと思ったのです」
あ、と声をあげそうになった。ヘルマンは自分と同じことを悩んでいたのだ。
「けれど、殿下もあなたも、考えていたよりずっと立派でいらした。私のなんと愚かなことか。申し訳ありません。本当に申し訳ありません」
「いいんですよ。おかげで、殿下にきちんとお祝いを言えたんだと思います」
「そう言っていただけると少し気が安まります。ついでに、もう少し甘えさせていただいてよろしいですか?」
「どんなことですか?」
「今言ったことは、殿下には内緒にしていただきたい」
ヘルマンは迷いのない瞳をしていた。
「でも、それだとあなたはもっとカールに嫌われるかもませんよ?」
「よいのです。私はこれからもずっと、殿下をお諫めする立場として嫌われ続けようと思っておりますから」
ひどく悄れた様子でそう話すヘルマンを見ていて、ふとソフィアを思い出した。あの別れ際のしょんぼりとした後ろ姿。
すすんで嫌われ役を買って出てまで、相手のことを思いやる。それは本当に相手のことを思っていなければできないはずだ。
「カールならきっとわかってくれるはずです。カールのこと、よろしくお願いしますね」
ヘルマンは少し元気を取り戻したようで、酔いがまわってきたようだ。
気持ちよさそうな酔顔でうなずく。
いつか、時がきたらこのことをカールに知らせようと思った。
もっとも、知らせるまでもないのかもしれない。自分で気づくに決まっているのだから。
それくらいの器の大きさは持っているはずだ。
――私をこれだけ夢中にさせた男なんだもの――
アニエスは、心の中でそう呟いた。
六
木々のトンネルを抜けると、陽の光が燦々と降り注ぐ、まぶしくて懐かしい世界が広がっていた。
カールを見送った日の午後、アニエスは魔法使いの館を訪ねたのだ。
ほんの三日前に来たばかりだというのに、どうしてこんなにも懐かしく思えるのか、アニエスは不思議で仕方なかった。
早くここに来たい。
早くソフィアに会いたい。
そうした気持ちが錯覚を引き起こしているのだろうか。
アニエスは両手がふさがったまま、あたりを見まわした。
右手は手綱を握っているし、左手には焼きたてのスコーン、そしてクリームと野いちごのジャムが入ったバスケットを持っている。
まだ温かいスコーンと、ソフィアが入れてくれるお茶をいただきながらおしゃべりをするのが楽しみだった。
半ばけんか別れのようになってしまったことを謝りたい。そしてなにより、この三日間ずっと見守っていてくれたことのお礼を言いたいのだ。
はやる気持ちを抑えてなおも探すと、館の脇のあたりにソフィアの姿を見つけた。今日は襟元までを覆うエプロンを身につけている。かがみ込んでなにか仕事をしているようだった。
ゆっくりと近づく。
賢いもので、馬も忍び足でそれにあわせてくれた。
ほとんど背後まで近づくと、ソフィアは水を張った桶の中から植物の葉らしきものを取り出しては板に貼りつけるように広げて干す作業をしているところだった。
よほど真剣に作業しているのだろう。触れるくらいに近寄ってもまるで気づかない。
アニエスは肩を叩いて来訪を知らせようとしたが、ソフィアがひとつ大きなため息をついたのを見てその手を止めた。
よく見ると、ソフィアの背はあの日の別れ際と同じようにひどくしょんぼりしているように思える。
胸が締めつけられるように痛んだ。
――ちゃんと来たよ。あなたのおかげできちんとカールにお祝いを言えたことを報告するために。ううん、違う。あなたにお礼を言いたくて、あなたに会いたくて来たんだよ――
心の中で呼びかける。
しかし声には出さない。
ただのいたずら心だ。
アニエスはソフィアと桶をはさむようにしゃがみこむと、桶の中から葉っぱを取り出し、広げて板に貼りつけた。
「アニ……エス?」
呆けたようにソフィアが呟いた。
「大丈夫。スカートなら少しくらいよごれてもかまわないよ」
してやったりという顔で笑ってみせる。
が。
「その葉っぱ、かぶれる人もいるみたいだけど大丈夫?」
慣れないことはするものではないな、と思った。
「おいしいスコーンね。私が焼く硬いところがあったりボソボソするのとは大違い」
ソフィアはふたつに割ったスコーンの片方を、なにもつけずに口に入れるなり感嘆の声をあげた。
どうやら気に入ってくれたらしい。
今度は残ったスコーンに、控えめのジャムとクリームを乗せて口に運んでいる。
とれたてのクリームとジャムとつけたら、きっともっと気に入ってもらえるだろう。
ウッドデッキに設えられた真っ白なクロスの掛けられたテーブルをはさんで、ふたりは対峙していた。
テーブルの上にはアニエスが持参したスコーンと、ソフィアが淹れたハーブティーがのっている。
「ホントの焼きたてだともっとおいしいんだけど、急いでもやっぱり冷めちゃうな」
「ううん、とってもおいしいよ。料理人が焼いてくれるんだよね? いいなあ」
アニエスはほくそ笑む。
「それ、私が焼いたんだよ」
「え? アニエスが?」
驚いた顔がかわいい。
「うん。母さん、結婚してからもスコーンだけはずっと自分で焼いてたんだ。その味を私に継がせるって、私が十二になった時にレシピを教えてくれたの。今はもう、私がうちのスコーン係よ」
アニエスはスコーンにジャムもクリームもたっぷりのせてかぶりつく。口のまわりがよごれても気にしない。
いいできだと自画自賛した。
「ふーん。そっか。ちゃんと自分で焼くんだ。お母さんに信頼されてるんだね」
「うん。時々失敗するし、やけどしたりすることもあるけど、まかせてくれてるよ」
「いいお母さんだね」
「うん、とっても」
そこで話が途切れた。
自分の母親のことでも思い出しているのだろうかとソフィアを見やるが、どこかに思いを馳せている様子でもない。
ソフィアはしばし不思議そうにこちらを見ていたが、やがて意を決したように硬い表情で問うた。
「今日はなにをしに来たの?」
「ご挨拶ね。もちろん報告と、そして報酬を渡しに来たのよ」
「そう……踊らなかったのね」
囁くような、小さな声だった。
見ていたはずだろうに、どうしてとぼけるのかわからなかったが、面白そうでもあるし、話をあわせてみようと思った。
「踊ったよ。二度と経験できないような、素敵なダンスだった」
カールの憎たらしい笑顔が思い出されて、目に涙が浮かびそうになる。
「なら、魔法なんてかかってなかったって気づいたんでしょ? どうして怒らないの?」
「けじめは自分でつけろって、応援してくれたんだもの。怒る理由はないわ」
ソフィアは俯き、アニエスから視線をはずした。
「この前言ったこと、嘘じゃないのよ。あなたのと殿下のこと、恋愛ごっこにつきあわされてばかばかしいって思ったわ」
アニエスはゆっくりと立ち上がり、ソフィアの背後にまわる。そしてあの日ソフィアがしてくれたように、両肩に手を置いた。
「でも、応援しようって気持ちもあったんでしょ?」
「それは……あったけど……信じてくれるの?」
思い出される、ソフィアのしょんぼりとした背中。
「もちろん」
「気弱だけど意地っ張りだったアニエスが、強いけど優しい女の子になってる……なんだかこのあいだと別人みたい。とてもいい経験をしたんだね」
苦笑せざるを得ない。いつまでとぼけるつもりなのだろう。
「あなたのおかげでしょう?」
「私は嘘ついただけじゃん」
「それこそ嘘ね。ずっとそばで見守ってくれてたじゃない」
「えーと……なんのこと?」
「背中を押してくれたり、襟首を引っぱって、私が本当に覚悟を決めるまでカールに触らないようにしてくれたの、ちゃんと気づいたんだよ?」
「え? 誰がそんなことしたの?」
どうも話がかみあわない。
「ソフィア以外いるわけないでしょ」
「まさかぁ。私ずっとここにいたよ。気のせいじゃないの?」
ソフィアがそう言ってカップを持ち上げた時だった。
アニエスはソフィアの肩越しにそれを見た。
「あ!」
ソフィアは怪訝な表情をしてアニエスの視線をたどる。
「げぇ!」
ふたりの視線の先には、ソフィアがカップを持ち上げたあとに残ったソーサーがあった。
もちろんただのソーサーではない。
まるでこちらに呼びかけるように、言葉が書かれていた。
『気のせいのハズがないだろう?』
「し、師匠。帰ってたんですかー」
叫びながらソフィアがソーサーを持ち上げると、今度はその向こうのテーブルクロスに文字が並んでいく。
『アルゲリッチ家のお嬢さんがよいお別れができるよう見守っていたのは私だよ。師匠に尻ぬぐいをさせるなんて、ずいぶんといいご身分じゃないか。そもそも魔法なんて使えないお前が、どうして依頼なんて受けられるんだろうねえ、ソフィア?』
「え? そうなの、ソフィア?」
「えと……あの……」
『アルコールに反応する希少な魔力結晶の粉末と私の大切な葡萄酒を、インチキ魔方陣ごときに使っちまった落とし前、きちんとつけてもらわなくっちゃなあ』
ソフィアの血だと思ったのはどうやら葡萄酒だったようだ。要するに、魔力結晶とやらで書かれた魔方陣もどきが、葡萄酒に反応して輝いたというだけなのだろう。
「い、いつから見てたんですか、師匠」
ソフィアはがたりと音を立てて椅子から立ち上がり、後ずさる。
アニエスはぶつかりそうになりがならそれを避けてソフィアから少し離れた。
すると、文字はクロスから地面へと追いかけ、ソフィアを逃がさない。
『魔法は命を削るとかご高説を垂れている時だよ。私の受け売りのくせに、よくもまあぬけぬけと』
ではタイミングよく燭台が落としてソフィアを平手打ちしようとしたのを止めてくれたのも――。
「いえあの師匠の言葉はすべて私の胸に深く刻みつけておりますから」
『ふむ。棒読みなのが気になるが殊勝な心がけだな』
「じゃ、じゃ、許してくれますよね、ね!」
いったん、文字の流れは止まった。
ゴクリ、とのどを鳴らし、なお動きがないことに安堵したかソフィアは万歳をする。
「やっ――」
しかし「やった」という言葉が最後まで発音されることはなかった」
『NO! NO! NO! NO! NO! NO! NO! NO!NO! NO! NO! NO! NO! NO! NO!』
瞬く間に文字はソフィアの足からエプロンを上り、顔へと達する。
「いーやー!」
程なく、ソフィアの顔は読み取れぬほど多くの文字が書き込まれ、真っ黒に染め上がった。
放心しているソフィアに近寄り、ハンカチで顔を拭ってやる。
「あ、落ちるよ、これ。でもハンカチじゃ足りないね。タオルない?」
「ひどいよ師匠……女の子の顔なのにぃ」
嘆くソフィアの胸元に、どこからかタオルが投げ込まれる。
広げてみると。
『ふふん。師匠の葡萄酒と弟子の顔なら、葡萄酒のほうが大事に決まってる。まあ、水で落ちるからさっさと顔洗ってくるんだね』
すげない、けれどもしかしたら優しいのかなと思える言葉が書かれていた。
「ふえーん、師匠の意地悪ぅ」
ソフィアは泣きながら井戸のほうに向かう。
「あ、私も手伝うよ」
と、言おうと思った瞬間、椅子が引かれた。
ソフィアの師匠だろう。
座れということか。
アニエスは逆らわず、椅子に腰かけた。
テーブルに目をやると、クロスからは文字が消えていた。
なにか話があるのだろう。
ソフィアをここから離れさせたのはそのために違いあるまい。
「ちょうどよかった。私もお話ししたかったんです」
わずかに時をはさんで、テーブルクロスに文字が走り出す。
『聡い子だ。気に入ったよ、アルゲリッチ家のお嬢さん』
「アニエスでかまいません。私はなんとお呼びすればいいのですか」
『名前なんか捨てたからね。好きなように呼んでくれ、アニエス』
「では魔法使いさん、報酬を受け取ってください。あなたにもソフィアにも、ずいぶんとお世話になりましたから」
書かれた文字が消え、新たな文字が現れる。
『君の時間をもらうってやつかい? まあ、魔法を使ったっていうんなら受け取ってもいいんだけど、ソフィアは魔法なんて使えないし、私も使ってないんだよ。押したり引っぱったりしただけで』
「はい。厚意に報酬で応えるのは失礼かと思いましたが、ソフィアとは契約という形を取っていますから」
形か、筆圧の具合なのか。よくわからないが、文字の調子がなんとなくしみじみとした印象にかわっていく。
『本当に、いいお嬢さんだ。では、私の頼みを聞いてくれることでチャラにしてくれないか? それは君が時間をくれることにもなるんだが』
「わかりました。それはどんなことです?」
『ソフィアは親元を離れてここに来たんだけどね、私も留守がちだしずいぶん寂しい思いもさせているんだ。わかるかい?』
そういうことかと思った。
「わかりました。お言葉に甘えさせていただきます。でもそれは、私がソフィアの時間をいただくことにもなりますけど」
言い終えると同時に、テーブルの上に一枚の紙とペンが現れた。
『いいね。本当に君はいい。アニエスが遊びに来てくれたらソフィアも喜ぶし、私も安心だ。君の時間をくれればこちらにも利益があるんだよ。たぶんソフィアもそのつもりだったろうしね。そういうことで、貸し借りはなしってことでじゃだめかな?』
と書かれていた。
アニエスはペンを取り、余白にサインをする。そして立ち上がり、頭をさげた。
「ありがとう。スヴァールの魔法使いさん」
と、そのとき。
「ぎゃー」
ソフィアの叫び声が響き渡った。
「これ、かぶれる葉っぱの水だったー」
どこかで、笑い声が聞こえたような気がした。
テーブルを見やると、冷たいひと言。
『ドジだねえ』
「ソフィア、井戸で水汲んであげるからそれで洗いなさいよ」
アニエスは笑いながら駆け出す。
自分の時と、ソフィアの時を重ねるために。
<了>