病室
最近目を覚ました時、奥に鉛の塊があって、全身が重い感覚に襲われる事が多くなった。その感覚で目覚めるとき、同じような夢を見た。見知らぬ男が寝ている克也の横にそっと立ち、鉛の塊を克也の腹の上に置く。男は無表情だが、丁寧な手つきで克也の腹にその塊を押し付けると、塊は克也の腹の中に吸い込まれていく。自分がゼリーになってスプーンを押し込められた時のような感覚になった。克也はぼうっとその光景を部屋の入口付近から眺めていて、その感覚を味わいながら、このつまらない仕事に飽きていて、男がその仕事を早く終わらせるのを待っていた。
目覚めてすぐ、その夢の記憶は薄れて、ただ鉛が体中に行き渡り、手足の隅々の細胞に細かくしがみつき、重さだけが感覚として残っている。部屋を出て階下のキッチンまで行き、冷蔵庫からコーラを出してコップにうつして飲んだ。キッチンには4人掛けのテービルと壁の一面に置かれた大きな食器棚があり、食器棚の2段目はガラス戸になっていて、そこの時計は午後2時10分を指していた。食器棚から母が買い溜めしておいたカップラーメンを取り出しやかんに水を入れ沸騰させてから、冷蔵庫に入っていた卵をカップラーメンの中に入れ食べた。食べ終わると部屋に戻り、パソコンを立ち上げながらタバコに火をつけ、テレビを付けた。テレビでは女性タレントがレストランに入り、店長らしき男に店の看板メニューの説明を受けていた。その男は30才位で、黒い髪を肩まで伸ばし、顎髭を生やしていた。男が写っている画面に「店長 矢田明人さん」と文字が現れ、そのレストランのメニューがいかに有機野菜を使い、いかにカロリーが低いかを笑いながら説明していた。男が笑うと口の両端が下に垂れ、唇を突き出した格好になる。女性タレントは男の話が終わると大きく頷き、目の前にある料理を口に入れていた。克也はタバコを消し、パソコンの方へ向いた。手足のだるさは幾分楽になったが、まだ体の奥に鉛の塊が置かれている感覚は残っていた。
昨日、母が死んだ。いつもどおり昼に起き階下に降りた時に電話が鳴った。電話に出ると叔父の声がして母が事故に合ったと告げられた。すぐにN病院に来るように告げられた。克也はタンスからいつも着る上下のジャージを出し、一度階下の洗面所に降りて髪を丁寧にまとめた。髪は肩まで伸び、煩わしかったので切らなければならないと克也は思った。ほとんど家からでない生活を始めて2年経つがその間一度も髪を切ることはなかった。母が髪を切ってあげると何度か申し出たが、その度に断った。1年たった頃には、母は髪に関して声に出す事はなくなった。一度部屋に戻り、タンスから白いシャツとジーンズを取り出し、着替え、玄関にある全身鏡で自らを写した。鏡に映る人物は、目を見開いて克也を見ていた。玄関の鍵を閉め、車に乗りエンジンをかけ、病院に向かった。
病院に行って案内所で母の名前を告げると、待合室で待つように告げられた。待合室に行くと叔父がいて、側にあったベンチに腰掛けた。
「どうして電話に出なかったんだ。」叔父はそう言いながら体を前に倒し、手を合わせた。
「姉さんは仕事の休憩時間に会社近くのスーパーへ向かっていたらしい。交差点を渡った時に若い男の乗ったトラックに引かれたそうだ。」
「今起きたところだったんだ。」と克也は叔父に告げ、待合室を見回した。
ベンチには、克也と叔父しかいなかった。待合室の壁は薄いクリーム色をしていて、克也は息苦しさを感じた。部屋の中心に赤いベンチが三列並べられていた。ベンチの左手には観葉植物が置かれ、青々とした厚い葉がエアコンの風に揺れていた。ときどき看護婦が前を通り、克也と叔父を見て手術室に入っていった。
「姉さんが信号を無視する訳がないんだ。トラックが信号を無視したに決まってる。」叔父はそう言いながら体をベンチに預け、手で顔をこすった。「今、幸子もこちらに向かってる」と叔父は言った。克也は看護婦に自販機の場所を訪ね、缶コーヒを買い飲んだ。看護婦が克也と叔父の前に来て、書類の記入をするよう頼んだ。書類を書いていると幸子おばさんがやってきた。「お姉ちゃんは大丈夫なの」幸子おばさんはそう言いながら克也の手を握って、その後三人でベンチに並んで座った。
30分程して、手術室から青い半袖のシャツを来た男が出てきた。シャツは薄い麻で出来ていて、男は素肌にシャツを着ていた。ズボンも同じ色で統一されていて、同じ生地のようだった。男は三人の前に来て口にしていたマスクを取り、担当医である事を告げ、母が死んだ事を告げた。叔父の目は赤くなっており、幸子おばさんは泣いていた。担当医は家族が書類を書く必要がある事を伝え、叔父は克也の肩を抱えた。叔父は克也より背が高かったので、克也は惨めな気持ちになった。叔父と幸子おばさんは母が安置されている病室へ行った。克也は、売店に行ってパンを買って喫煙室でタバコを吸いながら食べた。パンは質が悪く、ほとんど味がしなかったが、パンと一緒に買っておいたコーヒーで流し込んだ。タバコを更に一本吸い、中ごろまで灰になったところでそのタバコを灰皿に押し付け、消して母の亡骸がある病室へ向かった。
病室へ行くと、母の亡骸を囲むようにして叔父と叔母が座っていた。克也は叔母の隣の空いている椅子に座り、亡骸を見た。顔には白い布が被さっており顔は見えない。体には顔にかかっている布より更に厚めの布がかかっていて、布と布の間に首元が僅かに見えた。叔父に顔を見るかと言われたが、克也は断った。叔父はそれ以上何も言わず、椅子に座って前方を眺めていた。叔母のすすり声だけが病室に響いている。病室の窓から見える空は灰色にくぐもった雲が拡がっており、そのせいで陽の光が入らず病室は暗かった。全体的に薄灰色の病室と空の色が同じで、克也はどこまでが病室で、どこから外なのかよくわからなくなっていた。隣に叔母がいて向かいに叔父がいたが、見ると彼らの顔はつるりとしていて、眼や鼻がない。ただ先程から叔母であった人物の卵のような顔の方向からすすり声が聞こえるだけだった。顔のない人物の間に白い布を被せられた膨らみがあったが、人間の形をしておらず、いびつな塊となっている。克也はこの場所に自分がいる事に違和感を感じた。徐々に陽が傾き、雲を通して西日が入り、薄く部屋全体が赤みを帯びてきていた。母だったものの上にある白い布も赤く染まり、叔父と叔母のつるりとした顔に反射して彼らの顔もうす赤くなっていた。克也はトイレに行き、喫煙室に行ってタバコを吸った。部屋に戻ると、もと居た椅子に座り、ベッドの上にある布の色が変わっていくのを見ながら、早く家に帰りたいと思った。




