武将 島津義弘 第54話 再出兵と巨済島海戦(1597)
慶長二年(1597)三月。
文禄の役後に続いていた講和交渉は、
明・朝鮮との折り合いがつかず、
ついに決裂した。
秀吉は激怒し、
諸大名に対して再び海を渡るよう厳命を下した。
義弘は加治木の港から船団を出した。
薩摩の春はまだ冷たく、海風には冬の名残があった。
船団は坊津へ寄り、五島列島の東側を抜けて壱岐へ向かった。
壱岐の勝本で一度停泊し、潮の流れを確かめる。
その後、対馬の厳原で風待ちを行い、釜山浦へ渡った。
釜山浦の港は、再出兵のために各地の大名の船が集まり、
兵糧の積み込みで混乱していた。
倉庫には空の俵が積まれ、
文禄の役で疲弊した補給線が、まだ立ち直っていないのが見て取れた。
義弘は船を降りると、日本軍の再編状況を確認した。
兵の入れ替えは進んでいたが、
補給は遅れ、港の周囲には兵糧を待つ兵が列をつくっていた。
その日のうちに、巨済島方面への移動命令が届いた。
朝鮮水軍が再び動き始め、
補給船団がしばしば襲われているという。
義弘は船団を巨済島へ向けて進めた。
島影が見える頃には潮流が速くなり、
風向きも南から東へと変わっていた。
船団は巨済島北側の入り江──
日本軍がよく使う長鬐浦へ入った。
義弘は船を降り、周囲の地形を静かに見た。
南側は潮が巻き、
北側は浅瀬が多い。
敵が突入してくるなら、
潮に逆らう南側からだとすぐにわかった。
日本側の船団の配置を確認すると、
補給船団が遅れていることが判明した。
兵糧不足の兆しが、すでに戦線を揺らし始めていた。
義弘は船手衆を集め、布陣の指示を出した。
関船を中央に、小早を左右に広げる。
大筒の角度を調整し、
接舷戦に備えて槍・火矢の準備を命じた。
風上を取るために船団を少し北へ寄せる。
「十郎太。敵の動きを見よ」
義弘は短く命じた。
夕刻、朝鮮水軍が南側から接近している報告が入った。
李舜臣が復帰したばかりで、
敵の隊列はまだ整っていない。
潮流に逆らって進む船が多く、
隊列は長く伸びていた。
義弘はその乱れを見逃さなかった。
「ここで迎える」
迎撃位置を修正し、
船団の間隔を狭めて連携を強めた。
風向きが変わる瞬間を待つ。
海は静かだったが、
潮の流れだけが速く、
敵の船底を押し返していた。
やがて、敵船団が突入してきた。
義弘は砲撃の合図を出した。
関船の大筒が火を噴き、
小早が敵船の側面へ回り込む。
接舷した船では白兵戦が始まり、
槍と火矢が飛び交った。
潮流に押された敵船は隊列を崩し、
旗艦が退却を始めた。
海戦は短かった。
だが、巨済島周辺の制海権は確保された。
戦が終わると、
義弘はすぐに補給線の状況を確認した。
補給船団の遅れは深刻だった。
長鬐浦の港は混乱し、
陸路の補給も滞っていた。
南原方面の戦線が不安定との報告も届いた。
義弘は家久と十郎太を呼び、
状況を整理した。
「戦は、ここから崩れる」
義弘は静かに言った。
潮流、風、補給、敵の動き。
海の外界は、すでに乱れ始めていた。
巨済島の海で義弘が掴んだのは、
ただの勝利ではない。
これから続く
南原の崩壊、泗川の極致、露梁の死地──
その最初の兆しだった。




