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灰神の魔女王  作者: ゆめあき千路


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1.〈花の谷〉の旅商人

 ニックは旅商人だった。


 旅商人の商いは年に数ヶ月から半年ごと、生まれ(さと)の〈花の谷〉の特産品である香草や種、それらから作った香料や香水をたずさえ、大きな隊商に参加して遠国へと旅をした。

 そうしてたっぷりお金を稼ぐと、また郷へもどって暮らす日々であった。


〈花の谷〉はおだやかな気候のうるわしい土地だ。一年を通して数えきれぬ種類の花々が咲き乱れ、真冬でさえも、雪のなかでさまざまな花が咲いていた。


 それゆえに〈花の谷〉と呼ばれた。


 伝説では神話の時代に花の女神が降り立った聖地であり、谷一帯が、花の女神に祝福されていると信じられていた。


 ニック・ファニスは郷長(さとおさ)の家の長子としていずれは嫁を取り、郷長の後を継ぐだろうと当人も皆も思っていた。

 前途有望な商人。それがニック・ファニスという若者だった。


 この旅から帰れば婚姻(こんいん)だ。


 相手は、郷の世話役の紹介で見合いした近郷の娘だ。美しく賢いと評判の乙女。旅に出る前に一度会った。お互い悪い気はせず、縁談を進めてもらった。


 いま彼女は新婚の家となる住居で暮らし、ニックの帰りを待っている。ほかの家族も、彼の帰りを首を長くして待っていよう。


 新しい生活への期待と希望を胸に、ニックが幸運に恵まれた商いの旅からもどると――目に入ったのは、一面の黒い景色。

 まるで黒い消し炭が撒かれたよう。


 故郷は焼け野原になっていた。




 郷の建物という建物は、なにもかも焼け落ちていた。


 ニック・ファニスは獣のように唸った。

 なにもかもが漆黒に塗りつぶされたその光景を、なんら前置き無く目の当たりにして、ほかに声の出し方を思い出せなかった。


 破壊がおこなわれた際、目には見えない邪悪な力が働いたのは明白だった。ニックは魔法使いではなかったが、それはわかるほど濃厚に漂っていた。


 ニックはしばらく焼け野原にたたずんでいた。自分の実家がどこにあったのかもわからなかった。何も考えられず、指一本うごかせなかった。


 地面にかろうじて残る白っぽい道の跡をたどり、土地の起伏から見当をつけた場所へ立ってみたが――懐かしい祖父母や父母、兄弟姉妹も、骨すら燃え尽きてしまったのか、そこに人間がいたという痕跡は見つけられなかった。


 ニックの婚約者が暮らしていた新婚の家になるはずだったその場所には、白い灰があった。よほどの高温で焼かれたにちがいない。


 ニックは石で組まれた井戸へ近づいた。


 それは旅に出る前、新しい家に一足早く住んでもらう婚約者のために、ニックが自分で掘った井戸だった。

 井戸を覗き込めば暗い水に顔が映った。小さな男の顔はまだ二十代半ばというのに老人のようだ。

 旅行用のカップにヒモをつけて井戸へ投げ込み、()んだ水を飲もうとして――……怖気(おぞけ)がはしった。


――(けが)れている……!?


 長年の旅で磨かれた直感だった。

 見た目は澄んでいる。匂いもおかしくはない。だが、飲んではならない。〈花の谷〉を破壊した(おぞ)ましい何ものかに(けが)さたのだ。


――これを飲めば呪いがかかるだろう。

 たとえば飲んだ直後にいきなり病魔におかされ、人間の医者では治せないような状態になるとか……。


 それに水だ。

 水が無い地に人は住めない。

 こうまで徹底するとは、破壊者は〈花の谷〉にどんな恨みがあったというのだ?


 ニックはカップの水を捨て、焼け野原に背を向けた。


 とどまっても意味は無い。

 女神の祝福の地であった〈花の谷〉は取り返しがつかぬほど(おとし)められた。

 やすらかな(とむら)いの墓にもできぬよう、黄泉よりも暗く冷たい、死そのものの領土に。


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