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医者の倫理

 木漏れ日が揺れる、静かな校長室での会合だった。


 ハインリッヒ院長――来たる春には、この古めかしい学び舎の校長となる人だ――は、重厚なオーク材の机の向こうに座り、穏やかな眼差しをラウラに向けていた。横には、教頭を兼ねる医学担当のシュミット医師が、幾分か難しい顔で資料に目を落としている。


「回復魔法士には、極めて高い倫理観が必要です」


 ラウラは、ひっそりとした熱を帯びた声で切り出した。


 ハインリッヒ院長は、その白いひげをそっと撫でながら、静かに頷いた。 「もとより、医療に携わる者には常に高い倫理観、生命に関する倫理観が求められる。それは、この学び舎に古くから伝わる教えだ。だが、何か回復魔法士には特別なことがあるのかね?」


「例えば、命の重さには敵味方の違いはない、と言ったことです」 ラウラの言葉に、ハインリッヒ院長はふっと目を細めた。


「ああ、野戦病院で誤って運ばれて来た敵兵を、君が回復させたという話は聞いているよ」院長は、まるで遠い物語を語るかのように、静かに言った。「あの時、周囲の兵士たちは、驚き、戸惑い、そして……深く考えさせられたと聞く」


 院長は、机の上に広げられた羊皮紙を軽く指先で叩いた。 「ラウラ君、今君の目の前に、味方の負傷兵と、敵の負傷兵が臥せっているとしよう。どちらも重篤だ。そして、君の魔力は、たった一人を救う分しか残されていないとしたら。君は、どちらを救う?――こう言った問題を、回復魔法士候補生に、授業として深く尋ねようという事だね」


「そういうことです」


「医師は常に、その問題を考えているものなんだよ」ハインリッヒ院長は、どこか諦念にも似た優しさで微笑んだ。「同じ問題を回復魔法士の卵たちに考えてもらうことは、決して悪くない。その倫理的な葛藤こそが、彼らを真の『治癒の担い手』とする糧となるだろう。ところで、ラウラ君なら、どう考える」


 問われたラウラは、一瞬、窓の外の青空に目をやった。光は、校長室の古いガラス窓を透過し、室内に静かな影を落としていた。


「私なら……」ラウラは、確かな決意を込めて言った。「両方救う道を考えます」


 ハインリッヒ院長は、満足そうに頷いた。 「それも一つの、尊い答えだ。だが、この問題には、絶対的な『正解』がない。もっと言えば、情報が少なすぎるのだよ」


 院長の言葉には、長年生きてきた者の知恵が滲んでいた。 「たとえば、敵兵が敵軍の重要な幹部で、活かしておくと、彼を生け捕りにしたことで、戦争を終わらせる『交渉の価値』が高まるかもしれない。その場合、たとえ味方の兵を見捨てることになっても、敵兵を助ける方が、結果として多くの命を救う『正解』かもしれない」


 院長は、そこで言葉を区切り、ラウラを、そしてシュミット医師を交互に見た。 「逆に、味方の兵が君の幼なじみだったらどうだ。あるいは、共に幾多の戦場を潜り抜けた、かけがえのない友だったら。理屈の上では、先の敵兵の方が価値があろうとも、君は、その友を見殺しにしたとしたら、一生後悔の念に苛まれるだろう。医者たちだって、論理と感情の板挟みで、常にそうした苦しみを抱えているものなんだよ」


 シュミット医師が、無言で深く頷いた。彼の額には、長年の診療で培われた深い皺が刻まれていた。


「こうした議論を、回復魔法士候補生と深める授業は、彼らにとって何よりも重要な魂の修練となるだろう」ハインリッヒ院長は、最後に、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。「強く、お勧めするね。君たちの世代の者が、この倫理の重荷を背負い、それを乗り越えていかねばならないのだから」


 ラウラは、ハインリッヒ院長とシュミット医師の言葉を聞きながら、自らの未熟さを恥じていた。


 自分だけが、この命の重さという難題を、深く、そして独りで背負っているのだと、傲慢にも思っていたのだ。ベテランの医師たちは、自分たちが扱う「医療」という、生命に直接触れる力をはるかに超える深いところで、日夜、悩み、考え続けている。


「私は、自分が一番、生命について考えて悩んでいるんだと思っていました」 ラウラは、俯きがちに、小さな声で言った。 「ですが、これは、皆が、いえ、医療に携わる誰もが悩む問題なのですね。それを知って、少し……安心しました」


 その「安心した」という言葉には、彼女が背負っていた重い荷物を、そっと誰かと分け合ったような、安堵の息遣いが混じっていた。


 ハインリッヒ院長は、そんなラウラの正直な告白を、咎めることなく受け止めた。


「そうさ、ラウラ君」院長の声は、まるで古木の幹のように深く、響いた。「確かに、君のように、命の価値に敵味方の区別をつけまいとする、熱い魂を持った者もいる。しかし、中には、戦場の混乱の中、あるいは治療の緊急性を前に、感情を排して、機械のように冷徹に、次に助けるべき命を判断する医師もいる」


 院長は、その言葉に、わずかながらの苦渋を滲ませた。


「そして、この世界には、常に『命令』が優先することもある。軍医として、回復魔法士として、たとえ目の前に助けたい者がいようとも、組織の決定や、優先順位が覆せないこともある。だからこそ、現場での悩みは、尽きることがないのだよ」


 彼は、静かに窓の外の、光と影の境目を見つめた。 「その尽きることのない、倫理と義務の葛藤――その重さを、学校にいる間に、模擬的にでも体験させることは、未来の『治癒の担い手』たちにとって、何よりも貴重な学びとなるだろう」


 ハインリッヒ院長は、再びラウラに視線を戻し、力強く言った。 「君の提案した授業は、必ずや、彼らの魂の羅針盤を磨き上げるに違いない」


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