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野戦病院

「フリードリヒ兄さん。今、戦闘が続いているところはないかしら」


 ラウラが唐突に発したその声は、書斎の静寂を切り裂いた。彼女は、軍の論理に染まりきらぬ、鋭い青い瞳を兄に向けている。


「今は大きな戦争は起こっていない、平和な時期ではある。だが、北側の国境地帯では、小さな衝突、いわば、大なり小なり途切れぬ戦闘が常にある」


 兄のフリードリヒは、事実のみを淡々とラウラに告げた。


「そこの野戦病院で、戦場での兵士の治療の現実を、この目で見てみたいの。行くことは可能かしら」


 ラウラは尋ねた。それは単なる好奇心ではなく、自らが創ろうとしている学校の根幹を、血と泥の中から掘り出すための、切実な願いのように響いた。


「実戦での回復魔法の有効性を確認したい、という名目で申請すれば、許可は出るだろう。お前の才能は、今や軍にとって、有効活用すべき資源だ」


「わかったわ。病院長に頼んでみる」


 ラウラはそれだけ言うと、病院に戻っていった。彼女の歩みには、もう迷いがない。見送る家族は不安そうな眼差しで彼女の後姿を見つめていた 。


 陸軍病院に戻ったラウラは、病院長に北部国境の野戦病院への出張を申請し許可を得た。準備室で待機していたシュミット医師に、簡潔な言葉だけを投げた。


「実地で回復魔法がどれくらい有効か、自分で体験してきます。準備室はお任せします」


 返事を待つこともなく、彼女は旅支度を整え、北の戦場へと向かう馬車に乗り込んだ。病棟の廊下に一人残されたシュミット医師は、彼女の去った扉を見つめ、静かに息を吐く。


「……僕に相談してから決めて欲しかったな。まったく、ラウラは一人で決めて一人で動いてしまう」


 その独り言には、心配と、そして諦念の響きが混じっていた。


 北部の戦場に設営された野戦病院は、ラウラの想像を絶する泥と血の現実であった。


 その地は、湿地と土が入り混じる泥濘地。戦場から搬送されてくる負傷者は、多くの場合、傷口だけでなく全身が、冷たい泥で覆い尽くされている。負傷者を収容する簡易テント内は、血と泥と薬の匂いが重なり、世界が歪んだように感じられた。


 医療資源は十分とは言えず、トリアージ(治療の優先順位付け)は、鉄の規律として厳しく行われる。助かる見込みのない、あるいは助かっても戦線復帰の見込みのない重傷者には、黒いラベルが貼られ、切り捨てられていく。命の選別が、あまりにも冷静に、そして日常的に行われていた。


 ラウラは、今回はあくまで視察。治療に従事する必要はなかった。しかし、彼女の目の前で、小さな呻きと共に、次々と命が失われていく光景を、彼女の魂が見過ごすはずもなかった。彼女はすぐに軍服に着替え、医療班に合流した。


「視察など、あとでいい」


 彼女は、黒いラベルを貼られた負傷兵の元へと向かう。助からないと見做された者、放置される運命の者から順に、彼女は手のひらに魔力を集中させた。


「命に別条のないレベルまで」「回復させ過ぎると他人の生命力を奪う禁忌の制約に触れる」


 それが、彼女の決めた最低限の目標だった。深い傷も、体内に残った土くれも、魔力の光が一閃するたびに、徐々に、しかし確実に、癒されていく。生命力が呼び戻され、その瞳に僅かな光が戻ったのを確認すると、彼女は次の兵へと移った。自分の魔力量で、この場で最大限の命を救う。


 治療を施しながら、ふと、遠い記憶が蘇る。土砂崩れの夜、カミラと二人、無我夢中で治療に奔走した、あの狂騒的な夜。あの時の、ただ命を救うという純粋な衝動が、今のこの冷たい泥濘の中でも、ラウラの魔力を突き動かしていた。


 その時、「敵兵がいます!」との大声が、病院内に響き渡り、空気が一瞬で凍り付いた。


 泥まみれの負傷兵を回収する際、暗闇の中で、誤って敵兵を連れて来てしまったようだった。


「軍医殿、どうしますか!」 「どうもこうも。邪魔にならないところへ捨てておけ。貴重な薬や回復魔法を、敵に使う余裕はない」


 軍医の指示は、冷静で、冷酷だった。戦場における、最も現実的な判断。しかし、その言葉は、ラウラの心に、強く冷たい風を吹き付けた。


「お待ちください」


 ラウラは立ち上がった。泥まみれの服に、澄んだ青い瞳がきらめく。


「私が治療します。そして、捕虜として憲兵に引き渡してもらえませんか」


 軍医は一瞬、ラウラを見て鼻を鳴らした。「勝手にしろ。ただし、一人分の魔力も資源も無駄にするな」


 ラウラは、地面に横たわる敵兵に近づいた。傷口は深く、泥がこびりついている。彼は敵だった。昨日の戦場で、味方を殺傷したかもしれない存在。


 だが、今、彼女の目の前にいるのは、ただの負傷した人間だった。


 ラウラは迷うことなく、彼の傷に手をかざす。回復魔法が、泥と血を洗い流すかのように光り、命に別条がない状態まで傷を癒した。


 一連の治療を終え、憲兵に敵兵を引き渡したラウラは、テントの隅に立ち尽くした。


 この、泥と血と、厳しすぎるトリアージを目の当たりにし、そして敵の命を救うという行為に踏み出した経験は、ラウラの胸の奥に、深く、鋭い楔を打ち込んだ。


 彼女が創ろうとしている「回復魔法士学校」で教えるべきものは、単なる高度な魔法技術ではない。それは、この戦場で、自らの命をかけて回復魔法士たちが向き合うことになる、倫理であった。


 命を救うことの重さ。命を選ぶことの残酷さ。そして、魔法の光が、軍という組織の壁を越えて、どこまで届くべきか。


 ラウラの決意は、この北の野戦病院の冷たい空気の中で、揺るぎないものとなった。開学に向けて、彼女が進むべき道は、明確に、定まったのである。


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