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解呪

 司祭の声に、マリアは弱々しく、ゆっくりと、こちらに顔を向けた。


「わざわざ来てくれてありがとう。トーマスは警察に捕まっちまって、ここにはいないよ」


 彼女の言葉には、深い疲労と、息子を失った痛切な諦めが滲んでいた。 カミラは、その痛ましい姿に、聖女としての本能を刺激されたように、一歩前へ出た。


「今日はマリアさんに会いに来ました。私は聖女カミラ、こちらは陸軍病院の回復魔法使いのラウラです。司教様も、最近マリアさんが教会に来られていないことを心配しておられました。私たちで癒して差し上げられることがあればと思って伺ったんですよ。……手に触ってもいいですか」


 カミラは、ミルクホワイトの聖女服の袖を直し、マリアに向かって、温かく清浄な手を差し伸べた。マリアは、その手を拒むことなく、か細い自らの手を差し出した。


 カミラは、その手をしっかりと握ると、すぐに回復魔法をかけ始めた。それは、身体を包み込む春の陽光のような、穏やかな魔力の流れだった。 しかし、その魔法の途中で、カミラの表情が一変した。 彼女の顔から、穏やかな光が消え、まるで深い海に引きずり込まれるかのような緊張と困惑が浮かび上がる。


「これは、ただの回復魔法では手に負えないわ。ラウラ、魔力を融通してくれる」


 カミラは、静かに、しかし緊迫した声でラウラに助けを求めた。 ラウラは、一瞬の躊躇もなく「もちろん」と答え、そっとカミラの肩に手を置いた。


 その瞬間、ラウラの全身から魔力がぐっと引き出されるような、強烈な感覚に襲われた。まるで、二人の魔力の流れが、マリアの身体という深淵に、一気に飲み込まれていくかのようだ。 これはただの病ではない。カミラは今、病や疲弊といった目に見える傷の奥に潜む、何か巨大な闇と魔法で対峙している。 それは、この貧しい教区の重苦しい空気、そしてトーマスが抱え込んだ動機と、深く繋がっているまじないのようなものではないかと、ラウラは直感した。


 ラウラの全身から魔力の奔流が、カミラの手を通じてマリアの身体へと吸い込まれていく。その時間は、秒の刻みを超越し、ラウラにとっては、己の魂が削り取られていくかのような、途方もない長さに感じられた。 しかし、現実の時間は、わずか数分。その短い間に、目に見えない激しい魔法戦は、静かに終結を迎えた。


 マリアは、魔法戦が過ぎ去った後の静寂の中で、微かに、そして健やかな寝息を立てていた。その表情には、長きにわたり彼女を縛っていた苦痛の影が消え、まるで深い森の泉のように澄んだ、安らぎのかたちが戻っていた。


 その傍らで、カミラはまるで魂を削り取られたかのように、ぐったりと疲弊していた。彼女は、辛うじて体を起こし、乾いた声で、戦いの深淵をラウラに伝えた。


「マリアさんには、とんでもない呪いが掛けられていたわ。これは、聖なる魔法のことわりに反する、闇魔法使いの仕業だと思う。強力な口止めの呪いと、教会から遠ざけるための行動抑制の呪いだわ、しかも呪いの維持にマリアさんの生命力を使うというとんでもない悪質さだったの」


 カミラの言葉は、この事件の背後に、トーマスの個人的な動機を超えた、巨大で悪意ある力が潜んでいることを示していた。


「全部打ち消したから、目覚めればマリアさんは普通になると思う。……問題は、呪いを掛けた術者にも、呪いが解かれたことが伝わるようになっていたことね。マリアさんに再び呪いを掛けに来るか、あるいは、口を封じるために、殺しに来るでしょうね」


 その冷たい警告に、シュミット司祭の顔に、現実的な困惑が広がった。


「それは、いろいろと困りましたね。マリアさんを守るために、警察に通報したいのは山々ですが、この一角には権力の目はなかなか届きません。そして、教会で治療するという言い訳は、聖女様が来られたことで、かえって説明がしづらくなりました」


 この場所が、光の届きにくい闇の中で自前の掟で生きていること。司祭の言葉は、その世界の壁の厚さを物語っていた。


 ラウラは、逡巡することなく、行動あるのみと判断した。彼女の瞳には、軍の規律とは異なる、魔法使いとしての即断力が宿っていた。


「そんなことなら問題ありません。この集落の人に気づかれないようにマリアさんを外に連れ出して、保護を願い出ればいいのですね」


 そして、ラウラは、カミラの疲弊と、自身の真に得意とする領域を考慮に入れた、大胆な策を口にした。


「私は、回復魔法以外もいろいろと使えるの。結界魔法と認識阻害の魔法を使ってマリアさんを連れ出せば、うまくいくように思うけど、カミラ、どうかな」


 カミラは、その言葉に、わずかに自嘲めいた笑みを浮かべた。


「あなたは、回復魔法の練習時間に、生活魔法ばっかり練習していたものね。周りには『回復魔法は使えません』みたいな顔をして」


 その言葉は、ラウラが表向きの聖女の道とは別に、実用的な魔法をひそかに磨いてきた、魔女の才能を認めるものだった。


「試してみる価値はありそうね。認識阻害の霧の厚さ次第かな」


 二人の間に、言葉を交わさぬ合意が成立した。 ラウラは、司祭の護衛の存在さえ、世界の壁を越えるための駒として利用できると確信していた。彼女の心は、友人の母を救い、トーマスの真実の動機を暴くという、新たな戦いの火蓋を切ろうとしていた。

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