論文
ラウラは、居間に満ちる熱を帯びた空気に強く心惹かれた。自分の回復魔法が姉の命を救ったとはいえ、この事件の真の結末を見届けることは、ワーグナー家の娘としての務めのように感じられた。闇に立ち向かう家族の姿は、まるで古い神話の登場人物のように、輝かしく見えたのだ。だが、彼女の体は、もう一つの使命に縛られている。
「ごめんなさい。私、もう先端医学研究所に戻らないと」
後ろ髪を引かれる思いだった。家族がそれぞれの光を灯して闇に立ち向かおうとしている時、自分だけが、別の世界へと戻っていく。カミラの温かい言葉は、ラウラにとって、家族の居間から離れるための、せめてもの赦しのように響いていた。
研究所に戻ると、廊下の窓から差し込む夕日が、磨き上げられた床を長く、血潮のような赤で染めていた。昼間の光とは違う、影を濃くするその色の中に、ラウラを待っていたのは、ハワード医師だった。彼は、分厚い書類の束を抱え、彼女とカミラに向かって差し出した。
「今回の医療と魔法のハイブリッド治療の成果を、一本の論文にまとめたんだ」
紙束は、重く、まだ温かかった。 「第一著者は、私の名前にしたが、君たち二人の名前も、堂々と著者として連ねた。中身を読んで、異議や疑問、不足、誤りなどがあったら、遠慮せずに指摘をして欲しい。君たちも納得する内容になったら、学会に送って査読をしてもらおうと考えている。恐らく笑われるか大問題になるか、どちらにしても反響は呼ぶと思うんだ」
論文なんて読んだこともないし、ましてや書いたこともないラウラにとって、「著者」という言葉は、まるで別の世界の響きだった。だが、ハワード医師の真摯な眼差しを前に、彼女は、静かにその重い束を受け取った。
読み始めてすぐ、ラウラは素朴な疑問を口にした。 「あの、要約のあとにある、このやたらに長い謝辞って、一体何ですか?」
ハワード医師は、まるで悪戯が見つかった子どものように笑った。 「これはね、論文というものの作法なんだよ。君たち二人を、この研究のために惜しみなく送り出してくれた陸軍関係や教会関係の偉い人たちに、『よくぞこの奇跡の場を与えてくれました』という御礼と、この先端医学研究所の所長に、研究の場を提供してくれた感謝を書き連ねているんだ」
ラウラは、目に見える研究内容だけでなく、その外側には、偉い人々の思惑や、組織の利害が絡み合う、論文には論文の作法があるのだということを悟った。それは、魔法使いや聖職者が、天と地の法則に従うのと同じように、学者たちが従うべき、世の均衡を保つための儀式のように思えた。
だが、続く研究の内容は、嘘偽りのない真実の記録だった。自分たちが研究所で実際に治療にあたっていた過程が、客観的なデータと記述によってまとめられている。特に目を引いたのは、回復魔法を使わなかった場合の退院までの日数と、回復魔法を使った場合の日数が、統計処理されて比較されている部分だった。
「ハワードさんは、治療をしながら、こんなデータも取っていたんですか?」 カミラが尋ねた。その声には、人の命を救う行為の裏で、冷徹に数字を記録していた医師への、やや非難がましい響きが混じっていた。
ハワード医師は、その非難を受け流すように、穏やかに言った。 「医療記録は、のちの治療のための貴重な道標になる。光のない夜道を進む私たちにとって、手探りで残す足跡のようなものだ。これは、今回に限ったことではないんだよ」
そして彼は、遠い未来を見つめるような目をした。 「この論文は、恐らく『医学の世界に魔法を取入れるなんて、なんて馬鹿なことを言いだしたんだ、ハワードは』と、散々言われると思う」




