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お前は亀を助けていない

作者: 芹沢ハト


このデジタル技術が全盛かつ当然至極で当たり前の昨今、『セピア色の記憶』というのは死語なのではないだろうか。スマートフォン等のデジタル画像ならば半永久的にその色彩は不変、色が褪せる事は無いので、残念ながらお若い方々には通じない言葉だったとしても仕方がない。


しかしてわたしには古い写真よろしく、褐色にかすむ遠い過去の忘れられない記憶の破片がある。小学校低学年の頃に住んでいた集合団地、その狭い居間での一幕である。


ブラウン管テレビで父親が連続ドラマを観ており、横でわたしもぼんやりと眺めていた時の事だった。劇中、不意打ちのごとくに颯爽と画面に参上、わたしの注目を独占したのが()だった。


優男(やさおとこ)風でありながら背筋がピンと伸び、凛々(りり)しく端正な顔付きの中、溢れんばかりの目力がやたらと際立っている。


そんな優男を複数の女性たちが十重二十重に取り囲んでいるのである。特筆すべきはその女性達に蔓延するねっとりとした雰囲気で、みな一様に彼の一挙手一投足に釘付けであり、恍惚の表情とともに黄色い声援を休みなく送り続けていた。それらを残さず満面の笑みで受け止める優男氏。


「このお兄さん、何なの?」


わたしは父に問い掛けた。


ニヤリと笑う父。「やっこさん、()()()()なんだよ」


「オンナタラシ?」


「うむ」と、父は深くうなづいた。


「男の中の男って意味だ。男子の目指すべき至高の生き様のひとつだ」


「そうなの!?」


「おとぎ話でも大活躍している。女たらしは別名『たらしべ長者』ともいう。わらしべ長者の最上級格だ」


「そうなの!?」


『うらしま太郎もそうだ。正確には『たらしま太郎』。奴は乙姫をたらし込んだ」


「そうなの!? そうなの!?」


「さらに言えば、みたらし団子の語源でもある」


「すっげぇぇぇえ!」


驚愕の事実のつるべ打ちに、やたら興奮する幼いわたし。すると父はゆっくりと右手を伸ばし、優しく頭を撫でてくれた。


「お前もこういう男になれ」







その数日後である。


授業の合間、『将来なりたい職業は?』的なアンケートが配られたので、わたしは素直に『女たらし』と書いて提出した。放課後に職員室へ呼ばれ、結構長々とお説教をされたのを憶えている。


「あれは職業ではない」という教師の指導に対し、臆せずわたしは「憧れである」と答えた。教師の怒りに(まき)をくべただけだった。ガミガミ言われながら『何がいけないのだろう』的な疑問は結局最後までぬぐえなかった。


翌日の昼休み、クラスメイトたちが特撮ヒーローを気取り、歓声を挙げながら廊下を走り回っているのをわたしは冷静に教室内から眺めていた。


……みんなわかってないなぁ……


わたしはひとり女たらしに血を高ぶらせ、優越感に浸っていた。自身の中で女たらしはキンキンキラキラに輝いていたのである。


その時、背後から声がした。


「……あいつら、ほんっと幼稚だよな」


振り返れば同じクラスの()()()がいた。


(すえ)はハカセかダイジンであると、事あるごとに堂々と豪語する強心臓のガリ勉くんである。あだ名がハカセくんになったのは自然な流れであった。


ハカセはもちろん特撮ヒーローの真似事などしない。むしろ忌避していたほどである。彼は黒縁メガネのツルをクイッと動かし、圧の込められた視線でわたしを射るように見た。


「お前のヒーローはテレビの中じゃないって顔だな」


……鋭い。さすが、ハカセ。わたしは妙に感動し、大きくうなづいた。「そうだよ」


「教えろよ」


わたしは胸を張る。「女たらしだよ」


「ほう」と、ハカセは目を見開いた。「ボクの知識には無い単語だ」


「男の中の男なんだよ。すんごいヒーローさ。でも、子供のころはまだちがうんだって。今はせんぷく期。『たらしの前のしずけさ』なんだよ」


「ほうほう」と、ハカセは眼鏡の奥でさらに瞳を輝かせた。


「まったくわからんが、背景と根底に揺るがぬ信念が燃えているようだな。そうかそうか、明日までにはきちんと理解しておく」と、こんなところにも勤勉さを隠さないハカセ。やっぱり勉強が出来る奴はちがうなぁ……と、わたしは改めて感心したものだった。


小学校時代はこのように穏やかに過ぎていった。この頃はまだ『女たらし』というパワーワードの秘めたる破壊力にまるで気付いてはいなかったのである。とても幸せな日常であった。


しかしである。


古今東西いついかなる状況下であっても、夢と現実が四つに組めば、まぁ大体おおよそ現実が勝つ。夢は紙のように破れて四散、風に吹かれて跡形も無くなってしまう。


女たらしへの熱い憧憬は盤石のはずであったが、後年、残酷な現実をわたしは突き付けられる。


中学生にもなると、さすがに『女たらし』がある程度の負のイメージを帯びているのに気がつく。それでも女子の(かたき)的な立ち位置ではなく、むしろ彼女らに寄り添う女たらしになろうと、わたしは志を新たにした。


さて、この辺りの歳ともなればそろそろ色気付き、クラスの中でも数組の男女がひっついたり離れたりしていた。特別に早熟な自覚も無く、のんびりと状況を俯瞰(ふかん)していたわたしだったが、ばぼちぼち行動を起こしてもいいのかな……と、薄っすらと意識し始めた時だった。


天の采配なのか、女子の転校生がクラスに加入したのである。


「渚 亀子です」


彼女は教壇の中央に立ち、クラスの耳目を一身に集めながら、実にはつらつと自己紹介を始めた。


「お姉ちゃんは鶴子です。二人合わせてツルカメツルカメで災難を()ぎ払う、というおばあちゃんの願いがこの名前の由来です。亀ちゃんと呼んでください」


まばらな拍手に迎えられ、やや頬を赤らめる転校生。うん。可愛い。


しかし、この先の残酷な展開がわたしには読めてしまった。ご多分に漏れず我がクラスにも、若くして性根の腐った(やから)が男女共にいる。


チラリと女子のボス格を盗み見れば、ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべていた。悪巧みは丸見えである。間違いないだろう。


……亀子って名前をいじられるんだろうなぁ……


この手の胸が悪くような嫌な予感ほど当たってしまう。


だからその現場を押さえ、理不尽に責められている亀子をわたしが華麗に救うのである。これである。これで亀子のハートをわしづかみである。我ながら卑劣にして姑息だとは思うが、この程度の奸計を許容出来ないようでは一人前の女たらしにはなれない。ここは心を鬼とする。人助けには変わらないのであるから、いいだろう。うむ。そうしよう。


……と目論んでいたのだけれど、待てど暮らせどその機会が訪れない。亀子は日々、とても愉快に学園生活を謳歌しているのである。


結論から言うと、亀子は天性の【人たらし】であった。その才能に溢れていたのである。女子のボス格はおろか手下たちをも取り込み、クラスの女子の中心に自分の居場所を設けていた。登下校時はもちろん、授業の合間から昼食から放課後まで、彼女は常に取り巻き連中に囲まれていたのである。


「亀ちゃん、一緒にお昼食べようよ!」


「亀子、週末の予定は?」


「亀っち、その髪留め可愛い! どこで買ったの?」


……などなど、亀子の周囲はいつもかしましかった。すっかり拍子抜けのわたしは、逆に自分の品性下劣ぶりにうんざりするしかなかったくらいである。しかしものは考えようで、ならば亀子をたらし込めれば、クラスの女子の大半を手中に収めたと同意なのではないか?……これは試してみる価値が有る。


思い立ったが吉日、わたしはその日の放課後、取り巻きどものわずかな間隙を突いて、一人になった亀子へ告白した。


「好きだぁぁぁあ!」


「ざけんなハゲぇ!」


秒殺。一蹴された後、戻って来た取り巻きどもからの罵詈雑言により袋叩きにされた。翌日以降、女子からは当然のように無視の対象として扱われ、これが卒業まで続いたのである。散々である。


わたしの女たらしへの道は、高校まで持ち越しとあいなった。







そして晴れての高校生活が開始。心機一転、ここからわたしの女たらし人生が開幕するのである……実に清々しい気持ちで入学式を終えると、さっそく同じクラスに気立ての良さそうな女子を発見した。うむ。幸先よし。タイミングを計って彼女に接近する。


「あのぉ……」


「あ、ごめんなさい」


……いや、まだ何も言ってませんよ? 声を掛けただけですよ? 発言すら許されないのですか、ワタクシは?


すかさず隣の女子へと話し掛けると、同様の反応。さらに横の女子に目線を移そうとしたら、その前に彼女は遁走、視界から消えた。


背中に気持ちの悪い汗が(にじ)んだ。


……これは……


事態がここに至り、ようやく一つの仮説にたどり着く。


何というか、わたしは死ぬほど女性受けが悪いのではないのか?


検証のため、クラスの女子へ次々と話し掛けてみる。


仮定はしていたが、結果は惨憺(さんたん)たるものであった。それはそれは避けられる。呆れてしまうほどに、女子から距離を置かれるのである。


そう、わたしはまるでモテない。まぁモテない。笑ってしまうほどにまったくモテなかったのである。


どうやら生理的に受け付けないらしい。悪夢でしかない。女たらしうんぬんなどとんでもない。それどころではないのである。生物学的にはオトコとオンナしか存在しないのに、その永遠の相方に明確な理由無く拒絶されてしまうのである。


……詰んでいる……


否、まだだ。たまたま偶然そういう性質の女子がこのクラスに集まっていただけもしれない。そうだ、きっとそうに違いない。わたしは慌てて隣のクラスへと駆け込んだ。ひとりの女子と目が合う。運命。その単語の重みをいま改めて噛みしめた。


「えーと……」


「あ、却下で」


恋に落ちて二秒で失恋した。まるで嬉しくないが、記録更新である。打ちのめされるまでがオールインワンの運命。酷い話ではある。表向きの体裁として神さまはサイコロを振らないらしいが、裏ではこっそり振っていて、出た目によってヒトを翻弄しているくさい。きっとそうに違いない。


そもそも恋愛というのは才能である……というのに気づいたのも、この辺りの事だったように思う。


色恋沙汰の上手い人はとことん上手く、駄目な奴はとことん駄目なのである。


恋愛はとにかく非情である。血も涙も無い。いや、正確には有るのだろうが、その才能(スキル)に乏しいとなかなか恩恵にあずかれない。辛酸をなめさせられてばかりである。とても心苦しい。


しかし、このままいつまでも死んだ魚の目で片膝をついている訳にはいかない。わたしはギュウギュウに拳を握りしめ、毅然と怒涛と立ち上がり、そして轟々と吹き荒れる逆風の中、カッと両の眼を見開いたのである。このままでは終わらぬと。断じて許さぬと。


ところが、わたしの孤軍奮闘の日々はその憤怒の決意とは裏腹に、おだやかにそして粛々と溶けるように流れて行った。ひたすらに負け戦。連戦連敗。果てしなき黒星先行。それでもわたしはくじけなかった。メンタルだけは鋼に匹敵していた。ただ結果がついてこない。


そして光陰矢の如し。女子のみなさんとの楽しい思い出が皆無のまま、わたしの高校時代はしずしずと幕を降ろした。






社会人になっても不毛の旅は続いた。


同じ会社組織に永くいられず、わたしは転職を繰り返していたばかりいた。すべて女性関係が原因ではなかったのだが、いくつかは女性関係が原因である。


さすがにここまで歳を重ねると、女たらしうんぬんの悲願はとっくに妄想として(つい)えており、女性からの無条件嫌悪扱いに頭を悩ませていた。


なぜここまで女性に否定されるのか? いや、前世で何かしでかしました? 何の呪いなのだ、これは?


自覚が足りていないだけで、実は特殊な体臭なのではないのか、なども素人なりに考えを巡らせたりもしたが、やはり決め手に欠けた。


あれやこれやと思いあぐねていたところ、不意に()()()が連絡をくれた。久し振りに逢わないかと。凡人のわたしとは異なり、県内屈指の難関校へ進んだハカセ。そこで道は別れたが、なぜかその後もときおり連絡を取り合い、立派な腐れ縁となっていた。残念ながら博士にも大臣にもなれなかったようだが、大手ゼネコンの研究部門の職に就き、順調に出世街道を邁進しているらしい。誰かさんとは真逆の人生で、実に結構な事である。わたしは二つ返事で了承、後日の夕方、場末の焼き鳥屋で落ち合った。


「年貢の納め時だ。結婚する事になった」


と、わたしにすれば即死級の発言を挨拶もそこそこの初手で打ってくるハカセ。子供時代に比べればすっかり太ってしまい、顔付きに精悍さは無くなったが、変わらずの鋭い目線はそのままに、でも少し照れくさそうに友人ははにかんだ。


「おめでとう。スピーチも歌も一芸も無理だが、受付け係くらいなら快諾してやる」


「お前ならそう言ってくれると想定していた。助かる」


しばらく奴の婚約()話を聞き、酔いが回ったところで、わたしはあらかたの事情を説明した。「うむ」と、わかったような神妙な顔つきで瓶ビールを傾け、ハカセは手酌でグラスを波々に満たした。


「まぁ、何だ、好きな女に好きだと言えるだけでもまだ幸せだよ」と、予想外のセリフを吐いてから、友人はグラスを一息で空けた。


……いや、意味わからんし……と、戸惑うわたし。ハカセはどこか表情の抜け落ちた顔付きで、コリコリと首筋を鳴らした。


「……まだ女たらしになりたいのか?」


「……な訳ないだろ」


「……だよな」と、ハカセ。「なんか、竜宮城に行ったのにタイやヒラメがまったく相手にしてくれません、みたいな話になっているな」


「この中身のまるで無い生き方が竜宮城であってたまるものか。ごほうび感が欠片(かけら)も無いわ」


わたしは唇を尖らせ腐ってみせたが、ハカセは真顔の首を左右に振った。


「いやいや、あのおとぎ話での竜宮城参りは亀を助けた事に対するお礼なんだから、あれをごほうびと取るか成り行きからの惰性と取るかは()()次第じゃないか」


能書きを垂れながらハカセは大皿に山と盛られた焼き鳥をバクバク食い散らかすのである。いや、とり皮の一串くらいは残していてくれよ……と言いかけたところで最後の一本も食われた。指に付着したタレを満足気に舐め取りながら、ハカセは目線をわたしに戻した。


「そもそもお前が太郎ならば、これまでの半生にもう少しウラシマっぽさが有ってもいいんじゃないのか? そうはなってないよな。なぜか? ()()()()()()()()()()()


「……何が言いたい?」


「だからお前の言う通り、お前が今いる場所は竜宮城ではない。タイやヒラメに愛想が無いのは当然なんだよ」


「じゃあ俺は今どこにいるんだ?」


「現実にいるんだよ。これはおとぎ話じゃない」


「当たり前だ」


「そう、それだ。だから中身が無い生き方なんて言うなよ。一生懸命生きて来たからこその今なんだろ? たかだか女にモテないくらいで凹むな。胸を張れ。ガキの頃の方がよほど気概が有ったぞ、お前。稀代の女たらしになるんじゃなかったのか」


「その言い方……」


ゆるく抗議したが、(おもんぱか)ってくれているのは伝わったので、結局わたしはうなだれるしかなかった。半分ほどビールの残ったグラスを力なく持ち上げる。欲していた訳ではないが、中身を口に含んだ。


ぬるくなったビールはやたらと苦かった。





時は過ぎて行く。


『下の娘が春から中学生になる。俺達の母校だ』と、ハカセがメールをくれた。それは実に微笑ましい……的な返信の文章をガラケーで作っている処へ、せわしなく続く二通目を受信した。


『その中学で特別な同窓会が計画中らしいのだが、女子……というか、女性陣の中の未婚やらバツイチやらも来るらしい。お前、参加する気はないのか?』


有り難いハカセのお誘いではあるが、わたしはすでに幹事役へ辞退を記した往復はがきを返信していた。


()()はいまだに解けていない……はずである。ここ数年は女性に声すら掛けていない。本能に根付くときめきは消えてはいないが、それを上回る抑制が効くようになった。あるいは諦観が全身に浸透したのかもしれない。


もう一生分の拒絶を味わった。今さら確認などしたくはない。この年齢になってなお、元クラスの女子たちに冷遇されるなど悪夢でしかない。充分である。


わたしは今までずっとひとりのままで、これからもずっとひとりのままだが、これは人生の陰りではない。こういう按配の彩りがあってもいい。最近はそう考えるようになっていた。


同窓会の日は映画を観に行くつもりだった。幸い、郊外に大型商業施設が先日開業し、シネマ・コンプレックスを併設してるとの事。好都合である。


中央の席でキャラメルポップコーンをバリバリ食べながら、ふんぞり返って鑑賞してやろう……そんな事をわたしは呑気に思い描いていた。






『ムシ型に対してヒト型フェロモンは解析が(はかど)っていなく、諸説が錯綜している状況。そんな中、()()()()()()()()という物質の存在を主張する学者先生がいるらしい。その特徴は説明するまでもなく、お前の特異体質そのものだ。そして喜べ。生殖能力の低下と共に反作用フェロモンも減退、やがて生成されなくなるのだそうだ。つまり、じじいになる頃にはお前のその症状も改善されている、という安泰の未来だ。以上、ご報告まで。追伸・来年の春に上の娘が嫁に行く事になった』


数年ぶりのハカセからのメールに、わたしは短く『ありがとう。おめでとう』と返すに留めた。年寄りになってから恋愛を始めてどうする……の嘆きは封印した。フェロモンの話など、どうでもいい。ハカセもそうだろう。主題が追伸に有るのは明白であり、胸中複雑なのを察っした。呑みに誘う事も考えたが、結果として控えた。


彼には家族がいる。妻と娘たちがこれからも変わらず彼を支える。夫にも父にもなれなかったわたし。『気持ちはわかる』など、口が裂けても言える訳がない。彼にかける言葉を、わたしは何ひとつとして持ち合わせていなかった。


ハカセは親身になってわたしの相談に乗り、黙って愚痴を聞いてくれた。


だからこそ、わたしごときの出る幕ではない。そっとスマートフォンを卓上に置き、借家の狭い庭先へと降りた。


落ちた枯れ葉が数枚、北風にカサカサと揺れていた。





さらに数年が過ぎ、わたしは還暦を迎えた。


若い時は高齢者になる自分がまるで想像できずにいたが、歩んで行けばいずれそうなるだろうなと、思っていた通りに事実そうなった。自然の摂理である。特別に感じる事など何もない。老化というありふれた現象が、ただ進捗しているだけである。


無論、副作用的な好転もいくつかあり、各種サービスの高齢者割引を天下御免で利用可能になった。映画の鑑賞料金はほぼ半額となり、必然として劇場に脚を運ぶ機会は増えた次第である。


その週末もそうだった。


スマートフォンでの購入手続きを完了し、劇場サイトの主画面に戻ると、何やら点滅しているメッセージが有ることに気付く。


【ご当選おめでとうございます】


確認してみれば、冷やかし半分で応募した先行試写会のペアチケットが当たっていた。


二週間先の平日の夕方、一回のみの上映。ただし転売等の不正行為防止のため、必ず当日劇場窓口にて下記QRコードと身分証明書御提示の上で、座席指定をお願いします……との事。


サイト上でやり取り出来ないのは不便ではあるが、無料(タダ)で観られるなら仕方がない。


わたしはスケジュールアプリの二週間後に、丸のチェックを入れた。






迎えた当日。


指定された上映の二時間前、わたしは劇場の総合窓口(インフォメーション)を訪れていた。ひとりで映画を観るようになって(相手がいないので当然なのだが)もう数十年となるが、この窓口の前に立った回数は片手の指だけでこと足りた。


……確か、紛失した会員証の再発行だったような……と、前回この窓口を利用した理由を思い返しながら、『御用の方へ』明示の呼び鈴を押す。十秒ほど待たされて、奥の扉から制服に身を包んだ女性が姿を現した。


「お待たせいたしました。いかがなされましたか」


丁寧にお辞儀をしてから、彼女はわたしと向き合った。


「え……」


刹那でわたしの表情が固まる。


係の女性は、渚 亀子だった。


記憶の中の彼女からすればもちろん相応に老い、上背が伸びて女性らしい体型となってはいるが、顔のつくりに明確な面影がある。


一呼吸ほど、わたしは封じられたように無言をさらすしかなかった。一方、亀子は営業スマイルを維持していたが、さすがに目許やら口角やらに少々の疑念が滲みはじめていた。


「……あ、えーと……試写会のチケットが当たりまして、その……」


我にかえったわたしはスマートフォンを操作、QRコードを画面上に示し、マイナンバーカードと共に提示した。


「あ、はい」と、亀子も仕事に戻る。QRをハンドスキャナーで読ませてから、手元のタブレットで確認作業を済ませた。


「では、御座席の指定をお願いします」


営業スマイルを取り戻し、彼女は空席状況へと画面の切り替わったタブレットを手渡した。


「えーと……」などとつぶやきながら、でも、わたしの頭の中はめちゃめちゃに混乱していたのである。


『ざけんなハゲ』以来、四十数年を経て、亀子との会話が続いている。



……そうか……きみはこんな声だったんだよな……



よせばいいのに、忘れていたものがここぞと蘇る。


いや、無視されましたよね? 拒否され、拒絶され、罵倒され、叩きのめされましたよね? 


……うん。それでも懐かしい。きみが元気そうで良かった……たとえ、きれいさっぱり忘れさられていても。


仕方がないと、割り切る以外に選択肢は無い。脱力を悟られないように気を張りつつ、わたしは空席のひとつを指さした。「では、ここで」


すると、亀子が小さくうなづきながらわたしを見た。


「ペアチケットですので、もう一席お取り出来ますが?」


そんな彼女の胸元に、『 渚 』表記の名札が有るのに気付く。


旧姓……いや、そもそも姓が変わっていないのかも……


その視認と同時、頭の中が再び混沌と加速する。


落ち着け。落ち着かないと。


変なスイッチが入ってはいけない。落ち着け。



……()()()()()()()()()()()()()()()()……



あの何十年前かのわたしならば。


あの日々の中のわたしならば。


軽々(けいけい)と、安易にきみを誘えたのかもしれない。


ただ、今のわたしにはもはや不可能だった。


もう馬鹿な事を言っていい歳ではなかった。


わたしは亀を助けていない。


竜宮城には行かず、乙姫にも会わず、玉手箱を貰ってもいない。


しかし、玉手箱を開けずとも、わたしは()()()()になっていた。


それは太郎のように一瞬で歳を取った訳ではない。一日一日、一秒一秒を重ねて刻んで、積み上げた結果である。理不尽で(むな)しく、(さみ)しくて苦しいわたしの思いが折り重なり、層となってわたしの過去を形成している。


堆積されたこの重みを、わたし自身がないがしろにするような事は絶対にあってはならない。


だから、言えない。


きみを誘うなんて、軽口であっても出来るはずがない。




「……いえ、あの、ひとりなので……大丈夫です」


「わかりました」


亀子は端末を操作し、プリントアウトされたチケットを手渡してくれた。


再度の無言。先ほどよりも、やや長い沈黙。しかし、彼女は仕事中なのである。いつまでも(ひた)る事を許される感傷ではなかった。


「……ありがとうございました」


「はい。映画、楽しんでくださいね。ご利用ありがとうございました」


再びお辞儀をする彼女。その背筋がピンとまっすぐに戻ったのと同時、わたしはもう一度、礼を口にした。


「楽しませていただきます。ありがとう。鶴子さんによろしく」


言い終わると同時に反転、背を見せた。


「え! あ、あのっ!」


彼女の呼び止めるような声。それを振り払うみたいに窓口から足早に離れた。





上映時間まで余裕があったので、ふらふらと商業施設内を歩く。場所柄、家族連れの多さがやたらと目についた。


幼児の手を引く若い母親とすれ違う。


孫がいればあれくらいなのだろうか……『目に中に入れても痛くない』などという戯れ言が、大袈裟すぎてまるでわからない。人生の大半のボタンを掛け間違えた。修正も効かない。


……胸を張れ……と、遠いどこかから友の声が聴こえた。


ああ、そうだな……そうだとも……


イートインスペースの隅の座席に腰掛け、わたしはにぎやかに移ろう世間を、ただぼんやりと眺めていた。





上映二十分前となったので、シネコンに戻る。


三百席ほどの会場には、多くの観客がすでに来場していた。未着席の座席の上には大判の白封筒が置いてあるのが見て取れたので、指定された自分の席にて、その中身をあらためてみる。


試写作品の概要と感想を募るサイトへの案内。翌日より利用可能なポップコーンの半額券。公開予定作品のチラシ数枚。


そして普通サイズの封筒が一通あった。表には手書きの文字で、『先ほどのお客さまへ』と記されている。違和感しかない。大判の封筒は試写の観客全員が対象なのだろうが、()()は明らかに違う。


()()()わたし個人宛てじゃないのか。この座席番号にわたしが座るのを知っている人間はひとりしかいない。


封を切り、畳まれた便箋を取り出す。


流れるような達筆な文字の列。


しかし内容はそれに反し重く、ひたすらに(よど)んでいた。








先ほどのお客さまへ。


このような私的な手紙をお渡ししてしまう事を、まずは謹んでお詫びいたします。


私は渚 鶴子と申します。お客さまは我が妹、亀子の御友人なのではと推測いたしますが、もし間違いであるのならばこの手紙は破棄されて下さい。いかなる苦情も私個人の責任としてお受けいたします。


お客さまが亀子のどの時代の御学友なのかは存じませんが、妹があのように誰からも好かれる性格であったのはご承知の事だと思います。


愚妹は男性関係にも奔放で、恋多き女でした。ただ、あまりにも旺盛で、複数の男性と揉める事も頻繁であり、私や父親が修羅場に立ち会った回数は憶えてはいられないほどでした。それほど亀子はだらしない大人になっていたのです。


縁が有り、二十代後半で嫁ぐ事が叶いましたが、蓋を開けてみれば良縁ではありませんでした。亭主となったのは嫉妬心の権化のような男で、ふとしたはずみで露見した亀子の男性遍歴に豹変、熾烈な暴力で拘束する日々が続きました。


警察の介入による救出という形で妹は解放されましたが、時すでに遅く、亀子の心はこれでもかと壊されていました。


現在、妹は施設にて隠棲しております。心の回復にどれくらいの時間がかかるのか、手探り状態のまま、はや三十年が経過しようとしています。


閉ざされた記憶の蓋が開き、過去の充実した時間を取り戻せれば、あるいは築かれた心の壁を崩せるかもしれない……医師の言葉にすがり、中学生時代の同窓会なども関係各位のご協力により画策いたしましたが、望む結果を得られる事はありませんでした。


亀子の再びの笑顔を見れないまま、父と母は他界しました。私も高齢の域に手が届くようになり、もはやこのままなのか……と諦観しかない現況において、本日、お客さまに御声がけを頂きました。


無理なお願いなのは百も承知なのですが、もし、亀子の御友人であるのなら、お時間をいただけないでしょうか。亀子に会って話をしてもらうことは出来ないでしょうか。


どうかお願いします。もうほかにたよるものはなにもないありさまで……で…………で………………










とても最後までは読めなかった。溢れ出そうになる涙で、視界はグニャグニャに歪んでいた。



……お姉さん……無理です……意味が……無いです……


……わたしは……妹さんと友達ではありません……まともに……言葉すら交わしていません……


「ざけんなハゲ……」


そっと声が漏れていた。震える手が、便箋を握りつぶしていた。


その上に涙が落ちる。


泣いて、詫びた。それしか出来なかった。



……わたしは……亀を助けていません……普通の、ただの、無力の……ただのつまらない……そこら辺にいる、ただの年寄りなんです……









観客の入りは上々、ほぼすべての客席が埋まっていた。


そして場内が暗転。


画面いっぱい、隅々までに舞い散る桜の花びら。静かで穏やかな、とても美しく鮮やかな導入部からその映画は始まった。


わたしの隣に空席をひとつ、置き去りにしたままで。


















【おわり】


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