くたびれるまで
「寿命を延ばしてやろうか?」
死神の声が聞こえた。親しみと知性を感じさせる甘い声音だった。雪がちらつきそうなほど寒い夜で、ボクは真っ暗な自室の床にあぐらをかいて座っていた。凍え死んだとしても、エアコンを付ける気にはなれなかった。
「寿命を〜?」
死神は一言一句そのままに繰り返した。今度は電子音みたいな耳障りな声だった。首元が熱くなり、頭に血が昇った。こらえきれず鼻から大きく息を吐いた。
「どれくらい延ばせますか?」
ふくらはぎに寄りかかる猫を撫でながら尋ねた。7年分の思い出があり、信じられないほど多くの恩を受けた。この小さな相棒のために、ボクは何だって差し出す覚悟があった。
「あまりに子供じみてると思わないか?」
死神は声を荒げた。わざとらしく低い声を出し、明らかにボクを煽っている。
誘いに乗るな。
そう言い聞かせても、ボクの心は簡単にぐちゃぐちゃになった。両手で顔を覆い、深呼吸をして気を落ち着けようとしたけれど、思うようにうまくいかない。
早くしなければ。早く立ち直らないと、死神はボクを見限って去ってしまうかもしれない。それだけは避けたかった。今夜はまだ、少しもお祈りを済ませていなかった。
相棒がこうなってしまってから、毎晩決まった時刻に死神が現れるようになった。あいさつや自己紹介は一切なかった。代わりに毎晩必ずボクに同じ質問をした。
この奇妙な出来事をボクは初日からすんなりと受け入れた。
なぜそんな気持ちになったのか、今ならわかる気がする。初めて死神に問いかけられたあの日、ボクの心に大きな穴が開いたんだろう。やけっぱちになっちまう程の穴が。驚きとか恐怖とか、当たり前の感情は、きっとそこに落っこちてしまったんだ。
その夜から、死神は何度も何度も同じ問いをボクに繰り返した。そしてボクは全力で願い、祈り続けた。祈る間、いつも踏んづけられる様な気持ちがした。
どれだけ祈ってもボクの願いは叶わなかった。疲れて眠ると、死神がいないだけで何も変わらない朝がボクを待っていた。
願いが叶わない理由はわかっていた。どれだけ真剣に祈ったとしても、相棒の寿命は延びたりしない。ボク自身がそう思っているからだ。
だから何も起こらない。わかってる。だけど止められない。あいまいな気持ちで祈ることも、きっぱりとあきらめることも。だからどこにも進めないんだ。
ボクは足元に丸まっている猫をゆっくりと撫でた。前足を握ると肉の弾力がボクの指を押し返した。歯周病の気はあるけど、歯は生え揃っているし、ヒゲだって立派なままだ。
背の肉をつまんだ時、不意に寒気を感じボクは思わず指を離した。皮膚がゆっくりと元の位置に戻っていった。
何かを弁解するように猫を撫で続けた。撫でれば撫でるほど、なぜか相棒から拒絶されている気がした。
手で猫の頭を軽く浮かせ、近くにあった薄いクッションを床との間に差し込んだ。ボクはフローリングに横になり、相棒と視線が合うまで体を沈めた。
すぐにボクの目から大粒の涙があふれ出した。
自分のために祈っていたのだ、とボクは気づいた。
バカみたいな勢いの涙が、バカみたいなボクの目から、バカみたいに流れ続けた。すがるように手を伸ばし相棒に触れ、謝罪の言葉を繰り返した。
「寿命を延ばしてやろうか」
死神の声が聞こえた。ボクは首を横に振り、目をつむり続けた。
何度も同じ問いがあり、ボクはそれを無視し続けた。そしてボクは深い眠りに落ちていった。