第9話 どうして、私だけが
アイセルが生まれたその日、彼女の母は自ら命を絶った。
そこにどんな葛藤があったのかは知らない。
だが、アイセルが生贄の証である黄金の瞳を持って生まれてきたことが、母に死を選ばせた根本の原因であることは間違いない。
『お前に妻を殺された』
物心ついた頃、父に投げつけられた言葉を今でもはっきり覚えている。
アイセルが五歳を迎えた頃、父は後妻を迎えた。
そしてすぐに妹が生まれた。
ミーナと名付けられた義妹は、いつも両親に抱かれていた。
アイセルは、一度も抱きしめてもらったことがないのに。
彼女は広い屋敷の一等立派な部屋で、何不自由なく暮らしていた。食べるものも着るものも一級品で、望めばなんでも与えられた。
ただ、愛と自由だけがなかった。
誰にも愛されることなく、アイセルはただ生きていた。
いつか死ぬために生きる。
そうやって、アイセルは幼少期を過ごした。
そんな彼女に転機が訪れたのは、七歳の誕生日だった。
この国の子どもは七歳を迎えると神殿で祝福の儀式を受ける。
アイセルも例外ではなく、父に連れられて神殿を訪れた。
彼女は、初めて屋敷の外に出たのだ。
だが、外の世界は夢に見たような世界ではなかった。
「あれが、生贄の……」
「本当に瞳が金色だ」
「公爵家の直系とは」
「嫡男がいらっしゃらないと聞いたが」
「だが、後妻が」
「いや、後妻も生んだのは女児だったと……」
「王家からの補償があるのでしょう?」
「同情も集まるし、むしろ得をしたのでは?」
人々が何を言っているのか、子どもながらアイセルにも理解できた。
怖いと思った。
人間は、こんなにも醜いのかと。
(お父様は、どう思っていらっしゃるのかしら)
チラリと、父の顔を仰ぎ見た。
その顔は、いつも通りだった。
何を言われても顔色一つ変えず、しゃんと胸を張って堂々と、威厳たっぷりにゆったりと歩を進める。
その姿を見た人々が、次々に口を噤んでいった。
(これが、公爵家の当主……)
思わず、感嘆の息が漏れた。
父のことは、正直好きではない。
だが、その堂々とした姿は幼い彼女の目に眩しく映った。
(私もこんな風に)
どんな悪意にさらされても、堂々と歩ける人間になれるだろうか。
そしてその日、アイセルは神官から生贄日記を渡された。
『生贄よ、絶望するな! 立ち上がれ!』
その力強い言葉に、衝撃を受けた。
(絶望、そうか。……私は、絶望していたのか)
望みはないと、そう信じ込んでいた。
だが、そうではないと、かつての生贄たちが語り掛けて来る。
日記には、彼女たちの逃避行の様子も書かれていた。
逃げ出した生贄が見聞きした、外の世界の様子が、克明に記録されていたのだ。
知りたいと思った。
外の世界に何があるのか。
行ってみたいと思った。
彼女たちが出会ったあの人たちがいる場所に。
自由がほしいと思った。
自分の足で、どこへでも行ける自由が。
「死にたくない」
そう、思った。
それからというもの、彼女は生贄日記の解読のために猛勉強した。日記に書かれている魔法について完璧に理解するためには、古い言語を使いこなせなければならない。
毎日のように王立図書館に通い詰めた。
もちろん護衛という名の見張りがついていたし、図書館と屋敷の往復以外の寄り道も認められなかった。
護衛の騎士は、王立騎士団から派遣されてきた。
だが彼らは、一様にアイセルと深いかかわりを持とうとしなかった。
いつか死ぬ運命にある令嬢だ、情が移っては辛くなるのだから、そうするのは当たり前のことだった。
騎士だけではなかった。
親戚も使用人も、誰も彼もがアイセルを腫れ物のように扱い、彼女と距離を置いた。
そうして過ごすうちに。
少しずつ、少しずつ、アイセルの中で何かが膨らんでいった。
その気持ちをなんと呼べばいいのか、アイセル自身にもよく分からなかった。
怒りにも似た仄暗い気持ちが、胸の奥底で渦巻いている。
(死にたくない)
その一心で勉強に励む自分。
そんな彼女を尻目に、ミーナは両親に愛されてのびのびと育っていく。
「大きくなったら、きっと美人になるぞ」なんて、未来を期待されて。
自分以外の皆には未来があって、愛されて、幸せで。
「どうして、私だけが!」
叫び出したい衝動に駆られたのは、一度や二度ではなかった。
枕に顔を押し付けて、声にならない声を上げながら朝まで泣き通したこともあった。
思わずミーナに掴みかかろうとして、でも、できなくて、拳を強く握りしめて血が滲んだこともあった。
「どうして私を産んだの!」
今はどこにもいない母に向かって、吐き捨てるように喚いたこともあった。
どうして、どうして、どうして!
その気持ちをぶつけるように、アイセルはますます生贄日記の解読に没頭していった。
そんなある日、日記に綴られていた一つの言葉が目にとまった。
『私だけじゃなかった』
それは、何百年も前の生贄の言葉だった。
彼女が王都を逃げ出してから八日目の記録だ。
『この世界には、理不尽があふれている』
『弱者は強者に踏みつけられ、生き方を決めつけられる』
『それでも、彼らは生きている』
『……私は、何のために生まれてきたのだろうか』
その問いが、彼女の最後の言葉だった。
──それでも彼らは生きている。
その言葉が、アイセルの胸に深く突き刺さったのだった。
* * *
「私はね、やっぱり生贄として死ぬべきだと思ったわ」
ぽつり、ぽつりとアイセルが話すのを、エラルドは黙って聞いていた。
「だって私が死にたくないとわがままを言えば結界は消えて、多くの人が危険にさらされる。
……今度は、私が彼らに理不尽を押し付けることになるんだから」
その葛藤を抱えていたのは、十歳になるかならないかの幼い少女だ。
「答えの出ない問いを繰り返したわ。
何度も、何度も、何度も……」
彼女はいったいどんな思いで、自分に問いかけ続けたのだろうか。
それを思うと、エラルドの胸がぎゅうっと締め付けられた。
「今でも、答えは分からない」
アイセルの声が、わずかに震えたような気がした。
彼女は気高くて、何もかも確信をもって前に進んでいるように見えた。
だが、そうではなかった。
彼女は今もなお、葛藤し続けているのだ。
「だから、私は逃げるわ」
彼女が理不尽に抵抗するためにできることは、それだけ。
逃げて逃げて逃げて、自分に問い続けることだけ。
「死にたくないから。生きていたいから。……私が生まれてきたことの意味を知りたいから」
ぽろり。
エラルドの瞳から、涙がこぼれた。