第36話 今ここで生きている
神殿と王宮は、城壁一枚を挟んで隣り合っている。
その城壁には『王の門』と呼ばれる、王族だけが通ることを許される門がある。
王族の結婚式や葬儀の際に使われる、儀礼祭典用の門だ。
アイセルとエラルドは、セディリオ王子の案内でその門の前に来ていた。
王の門は、こちら側もあちら側も物々しい雰囲気に包まれている。
王子が騎士を集め出したのを見て、神殿側も門に兵を集めているからだ。
その門を背に、王子がニヤリと笑った。
「これから我々は神殿に押し入り、地下にある儀式の間を目指す。そこでアイセル嬢が『神を解放する魔法』を使い、結界を消滅させる」
集まっていた騎士たちが、ごくりと喉を鳴らした。
「極秘作戦ゆえ、集められた戦力はこれだけだ」
門のこちら側に集まっている騎士は五十人程度だろうか。決して多いとは言えない。神殿には総勢千を越える兵がいるのだから。
「我々は、大犯罪者として歴史に名を残すことになるかもしれない」
結界を破棄する。
この選択が本当に正しいのか。
その答えが分かるのは、ずっと先の未来のことだ。
王子の言う通り、犯罪者と呼ばれる未来もあるかもしれない。
「それでも俺は行く。お前たちも、覚悟を決めてくれ」
騎士たちは間髪入れずに、おう、と力強く答えた。
もちろん、エラルドも。
「騎士エラルドは、アイセル嬢を守り抜け。他の者で、二人の道を切り開く」
とにかく、儀式の間にアイセルを無事に送り届ける。
それがこの作戦の目的だ。
「あちらもアイセル様には手出しできないのです。なんとかなるでしょう」
実は、アイセルが生贄になると偽って儀式の間に入る、という作戦も検討はされた。
だが、それには王子が反対したのだ。
『最低限の礼儀にもとる』
と言って。
様々な人の願いと思惑が、今日この時までに動いていた。
その結末に偽りを持ち込むべきではない、と。
また、もしも生贄として儀式の間に入るなら、誰も彼女に付き添えなくなってしまう。
そうなれば、神を解放した後の彼女の身が危険に晒されるという危険もあった。
というわけで、こうして正面突破をはかる、という単純明快な作戦が決行されることになったのだ。
儀式の間への道順は、あの神官の日記に記されていた。
アイセルとエラルドは道順を頭の中にたたきこんである。
あとは、迷わず走り抜けるだけだ。
「行くぞ!」
王子の号令で、騎士たちがいっせいに門に向かって駆けだした。
* * *
儀式の間までの道のりは、難なく切り抜けることができた。
エラルドの反対を押し切ってアイセルが先頭を走ったからだ。
「さあ、止められるものなら、止めてみなさい!」
優雅にほほ笑み堂々と進むアイセルに、神殿の兵たちはたじろいだ。
生贄を傷つけることができない。
兵士たちは早々に彼らの道を阻むことを諦めたのだ。
だが、儀式の間の扉の前に辿りたどり着くと、アイセルとエラルド、そして王子と騎士たちは一斉に囲まれてしまった。
「さあ、生贄を渡せ!」
神官が叫ぶ。
だが、これに怯まず、王子が叫び返した。
「否! これまで真実を隠してきた神官らよ! 我々は神のためにも、今日ここで結界を破棄するためにきたのだ!」
神官たちは驚かなかった。
おそらく、神官の日記が盗まれたこと、王子に真実の神話が伝わったことを知っていたのだろう。
アイセルは、この状況を打破するために生贄日記を取り出した。
それを見た神官の一人が舌打ちする。
「忌々しい!」
その神官は震える指でアイセルの持つ生贄日記を指さした。
「しょせん、金の瞳の娘は生贄となるために生み出されたのだ! 神に捧げられるために産み落とされたと言うのに、その運命に抗うなど!」
カッと、エラルドの喉を怒りが駆け上がった。
「違う!」
「何が違う!?
その娘は! 死ぬために生まれてきたのだ!」
アイセルの身体がビクリと震えた。
だが、間髪入れずに、その肩をエラルドが抱きしめる。
「彼女は、今ここで生きている」
エラルドの手に、アイセルの手が触れる。
(温かい)
そうだ。
彼女は生きているから。
どれだけ理不尽な扱いを受けようとも。
それでも、彼女は生きている。
「人が人の生を決めつけるな。
それこそ傲慢だ。
その傲慢の塊が、あの結界だ。
彼女は……
いや、私たちは。
自分の生き方を自分で決める」
誰もが、そうやって生きていける世界を。
それがアイセルの願いで、エラルドの願いだ。
その瞬間だった。
生贄日記から黄金の光があふれて。
その眩しさに、思わず目を閉じた。
次に目を開けた時には、二人は知らない場所に立っていた。
「ここは?」
アイセルの小さな声が、高い天井にぼんやりと響く。
円形の広い部屋だ。
どこもかしこも、真っ白な大理石に覆われている。
だが、部屋の真ん中だけは土や岩がむき出しだった。
岩の間に、ぽっかりと穴が空いている。
恐る恐る覗き込んでみると、その穴は泉だった。
キラキラと輝く、黄金の泉。
「儀式の間、だわ」
神官の日記にも書かれていた。
黄金の泉に、神を封じた、と。
『よく来た、生贄の娘よ』
聞こえてきたのは、不思議な声だった。
低くもなく、高くもない、心地よい声が、鼓膜を揺らす。
『さあ、その泉に身を投じよ』
びゅうっと風が吹いた。
風がアイセルを泉の方へ押し込もうとする。
「アイセル様!」
エラルドは慌ててアイセルの身体を抱きしめた。
だが、それでも風の勢いは止まらず、二人の身体がじりじりと泉のほうへ近づいていく。
エラルドは、剣を床に突き立てた。
その剣を左手で握り、反対の腕で確とアイセルを抱きとめる。
『なぜだ』
神の声だ。
神が、生贄を欲している。
『さあ、こちらへ来い。
愛しい娘よ。
私のもとへ。
さあ、はやく!』
一段と風が強くなる。
風はグルグルと渦を巻いて竜巻になり、二人の身体を右へ左へ翻弄した。
それでもエラルドは剣もアイセルの身体も、決して離しはしなかった。
彼が騎士になった日に、記念に贈られた剣も、ギリギリと音を立てながら耐えようと必死になっているように見えて。
(父上、母上、どうかお守りください……!)
風に翻弄される中、必死で祈った。
そんな彼の腕の中で、アイセルが動いている。生贄日記を広げて、そのページを、見つけた。
「“風よ、とまれ”」
アイセルが唱えると、途端に風がおさまった。
「『風を止める魔法』は、神の風にも効果があるのね」
アイセルは感心して、ニコリとほほ笑んだ。
そして、泉の方を確と見つめる。
「神よ。私は生贄になるためにここに来たのではありません。あなたを解放するために来ました」
しん、と静寂が落ちた。
数秒後。
泉の水がざあざあと音を立てて渦巻き、跳ねあがり、やがて、人のような形になった。
神だ。
『そうか、魔法か……』
水で象られた神は、すっとアイセルの方を指さした。
『また、自らの欲で、未来を汚すのか。
人の子よ』




