第34話 誰かの善意
父を見送った日の午後にも、アイセルとエラルドは王子の執務室に呼び出されていた。
儀式まで残り約二週間、そろそろ結論を出さなければならないからだ。
「北のフリギアスと東のゼノビアは、今も戦争の準備を進めている。結界が消えれば、この国はその戦争に巻き込まれてしまうという事実は変わっていない。
こちらの裏切り者による情報操作が行われる、という心配だけはなくなったが」
国を売った裏切り者を一掃することはできた。だが、これで問題が解決したわけではない。
「だが、この件は既に対策が進んでいる」
王子はアイセルによく見えるように地図を広げた。
国の外、大陸の全てが描かれた世界地図だ。
この国でこの地図を目にすることは非常に珍しい。
「自由民の助けを借りて、西側諸国に働きかけた」
国の西側を指さす。
そこには小国がいくつも連なっており、これらの小国は同盟を結んで共同体を組んでいる。
「フリギアスとゼノビアの戦端が開かれれば、西側諸国から二国に対して経済制裁を加える。その交渉がすでに始まっている」
王子は自由民の仲間を使って、外交交渉による解決を目指しているということだ。
「我が国がゼノビアかフリギアスに飲み込まれれば、次に危機に瀕するのは西側諸国だ。相当な危機感を持っているので、我々に協力してくれると約束してくれたよ」
次いで、王子は東側の二国を指さした。
「フリギアスとゼノビアにも交渉を持ちかけている。戦争が回避できれば、わが国の街道の使用権を渡す準備があると伝えてある」
もしもリヴェルシアの街道を使うことができれば、この二国は西側諸国とも南の海洋国家とも、貿易の利便性が格段に上がることになる。
「戦争を起こせば不利になり、戦争を回避できればより大きな利益を得られる。そういう条件を提示できれば、東部の問題は解決できるはずだ」
この行動力に、エラルドは思わず舌を巻いた。
結界に守られているリヴェルシアには、これまで外交という努力が必要なかった。
だが、結界が消えれば、これまでのようにはいかない。
この大陸に、新たな秩序が生まれる。それに順応しながら、国を守るために他国と関わっていかなければならないのだ。
セディリオ王子には、その実行力がある。
それを、この時点で証明してみせたのだ。
アイセルも感心してホッと胸をなでおろしている。
これで、彼女の懸念が少しだけ軽くなったはずだ。
といっても、結界が消滅することの不利益はこの件だけではない。
アイセルもそれが分かっているのだろう。完全にふっきれたというわけではないことは、表情を見ればよくわかった。
彼女はまだ、迷っているのだ。
そこへ、侍従が新たな人物の来訪を告げた。
ダリルとエンゾだ。
二人は疲れ切った様子でやってきた。
「報酬ははずんでもらいますよ」
「神殿の件だな」
「ええ。これを手に入れてきました」
ダリルが取り出したのは、今にも朽ちてしまいそうなほどの、とてつもなく古い書物だった。
「葬儀以降、神殿にはミーナ嬢殺害の容疑がかけられて、王家の騎士が大勢出入りしています。そこに紛れて侵入できました」
ダリルは慎重な手つきで書物を広げてみせた。パリパリと乾いた音を立てながらページを広げると、そこには古代の言語が綴られている。
「これは?」
「大神官の私室の金庫の中から拝借してきました」
不法侵入に窃盗。明らかな犯罪だが、この場合は目をつむるしかない。
「おそらく、古い時代の神官の日記のようなものだと思うのですが。読めますか?」
問われた王子は、軽く肩を竦めてから紙面に指を滑らせ始めた。彼は王族、義務として古い言語の読み書きも学んでいるのだろう。
「『結界の、維持、管理』とある」
維持、管理。
やけに無機質な言葉の羅列に、思わずアイセルとエラルドは顔を見合わせた。
アイセルも身を乗り出して書物を覗き込む。彼女も生贄日記を解読するために古代の言葉を学んでいるのだ。
しばらく読解に集中していたアイセルと王子が、ほとんど同じタイミングで顔を上げ、息をのんだ。
「これは」
王子が険しい表情で腕を組んで黙り込んだ。同じようにアイセルも黙りこくる。
「何が書かれているのですか?」
その尋常でない様子に、エラルドもごくりと喉を鳴らす。
「……ここには『生贄を産む魔法』が記されています」
答えたのはアイセルだった。
「生贄を、産む……?」
「いったいどういうことですか?」
エラルドとダリルが尋ねると、王子は深いため息を吐いた。
「そもそも我々は、思い違いをしていたのだ。
神は望んで地上に降り立ち、神が自ら望んで地上に楽園を創った。そのために築かれたのがあの結界だと、我々は信じてきたわけだが……」
王子は片手で顔を覆い、もう一度、深いため息を吐く。
「その物語こそが、当時の人の欲によって書き換えられた、捏造だったのだ」
古い日記には、当時の状況が詳細に綴られていた。
『神が天上に帰ると言う。それは困る。神が築いた結界が消えてしまえば、外敵に襲われてしまう』
『黄金の瞳を持つ美しい娘を神にあてがった。神はたいそう喜んで、帰るのを取りやめてくれた』
『このままずっと地上にいていただくことはできないだろうか』
『そうだ、魔法を使おう』
人は魔法を使って神を地上に縛り付けたのだ。
ところがその後、数回にわたって神が魔法に抗い、その力が暴走する事件が起こった。その度に、神が好んだ金の瞳を持つ娘を生贄として捧げると、不思議と暴走が収まった。
金の娘を生贄として捧げれば、不本意に地上に縛り付けられている神の機嫌をとることができると分かったのだ。
そこで、人は女たちに魔法をかけた。
神が暴走する時期に合わせて、金の瞳を持つ娘を産む魔法だ。
その魔法は次の世代、また次の世代へ母の血を介して受け継がれていった。
「そして生まれたのが、私ということですね」
アイセルが言うと、王子が小さく舌打ちした。
「なんという胸糞の悪い話だ」
確かに、気持ちの良い話ではない。
地上に留まることも結界を維持し続けることも、神が望んだことだと信じていたのに。
その前提自体がひっくり返ってしまったのだ。
「神殿も、よく今日まで隠し通してきたものだ」
「この前提を疑う者など今までいなかったでしょうから、隠すのはそれほど難しくなかったでしょうね」
「だが、秘密を抱えたこの書物を燃やさずに残していたのは、どういう理由だろうか」
「何らかの理由で金の瞳の娘が生まれなかったとき、ここに書かれている魔法に頼る必要があったからでは?」
「なるほど。結界の維持管理マニュアル、というわけか」
王子とアイセルが淡々と話し合う。
それを聞きながら、エラルドの胸にももやもやが広がっていった。
(なんという身勝手な話だ)
人の欲のために、神を地上に縛り付け、嘘の神話を仕立て上げ、後世の人々に生贄という代償を支払わせ続ける。
こんな身勝手な話があるだろうか。
「だが、覆ったのは前提だけだ」
王子がはっきりとした声音で告げる。
「この国が神の結界に守られ穏やかな暮らしを享受し、そのために生贄が必要だという事実は変わらない。
……正しい神話を話して聞かせたとしても、国民の意見は分かれるだろうな」
感傷的な気持ちを除いて自分たちの利益のことだけを考えるなら、この前提の話など実は関係がない、ということだ。
「その通りですね。だから神殿も隠し通してきたのでしょう。今まで、この事実を公表しようとする善意を持った神官がいなかったとは考えられません。その人も、結局は人の暮らしのために口を噤んだのでしょう」
アイセルは、パラパラと日記をめくった。
そして、その最後のページで手を止める。
そこには、比較的新しいインクで数行の言葉が綴られていた。日記が作成されたよりもずっと後になって、書き足されたものだろう。
「これも、その誰かの善意によって書き足されたものでしょう」
アイセルの細い指が文字をなぞる。
「『神を解放する魔法』
ただし、この魔法は使うことができるのは、金の瞳を持つ娘だけである」
すべてを終わらせる、そのための魔法がここに綴られていたのだ。
ただし、その選択は生贄の娘に委ねられている。
しん、と沈黙が落ちた。
「……アイセル嬢」
沈黙を破ったのは王子だった。
「そろそろ、結論を出さねばならん」
儀式の日まで残り約二週間。
生贄として死ぬのか、逃げ出すのか、それとも結界の消滅に手を貸すのか。
アイセル自身が決めなければならない。
王子の質問に、アイセルの肩が緊張で硬くなるのが分かった。
エラルドは、思わず彼女の手を握る。
(どんな結論を出しても、私だけはあなたの味方です)
その気持ちが伝わるように。
きちんと伝わったのだろう。
大丈夫だと言わんばかりに、アイセルはその手を握り返した。
「私は死にたくない。
その気持ちは、今も変わりません」
およそ半年前、彼女はその気持ちひとつを胸に旅立った。
理不尽を受け入れない、だが誰かに理不尽を押し付けることもできない。
矛盾と葛藤を抱えたまま、それでも自分の願いのために旅に出たのだ。
その葛藤の答えを、今、出さなければならない。
「私は……」




