第21話 裏切り者
「この国に裏切り者がいる」
ダリルは断言してから、テーブルに地図を広げた。
「フリギアス軍は、こことここに新たな防衛拠点を築いている」
指さした二カ所は、いずれもリヴェルシア王国の国境付近の山中だ。
「ゼノビア軍も同じく、こことここ。それから、このあたりにも部隊を展開している」
対するゼノビア軍も、リヴェルシア王国と接している国境付近に軍を配置している。
「どちらも、結界が消えると確信していなければこうは動かないだろう」
この二大国は、完全にリヴェルシア王国を挟んで戦争を始めるつもりで動いているのだ。
「では、結界が消えれば?」
「この国の東半分が戦場になる」
結界に頼りきりだったこの国には、外国の侵攻を防ぐ手段が存在しないからだ。
ひやりと、エラルドの背筋が冷えた。
同時に天を仰ぐ。
(なぜだ)
なぜ、こうまでして彼女に過酷な運命を与えるのか。
だが、その肝心のアイセルは至って冷静だった。
地図に指を滑らせて、国土の東側をトントンとたたく。彼女が指したのは東の大平原だ。
「……東の大平原は穀倉地帯。もしも戦禍に巻き込まれて田畑が焼かれれば、死活問題ですね」
「その通りだ」
生贄であるアイセルが逃げて結界が消えれば、この国に危機が訪れることは予想していた。
だが、こんなにも早く、こんなにもはっきりとした危機が目の前に現れるとは。
ダリルも予想していなかったのだろう、眉を寄せて難しい表情で地図を睨みつけている。
「どちらも結界の消滅を確信している、だから国内に裏切り者がいるはず、ということですか?」
アイセルの問いにダリルが頷いた。
「そうだ。国内の誰かが情報を売ったに違いないと俺は踏んでいる」
状況を見れば間違いないだろう。
だが、まだ疑問は消えない。
「なぜだ。国内の者なら、結界が消える方が困るだろう?」
エラルドが首をかしげると、ダリルは渋い表情のまま首を横に振った。
「結界が消えた後、移住と身分が約束されるなら、それほど悪い話じゃない」
ダリルが再び地図を指さした。今度は、ゼノビアの首都だ。
「例えばゼノビアは軍事国家だ。戦争での功績は何においても尊重される。それは、他国からの亡命者も同じ。もしも結界を消滅させ、その功績が認められれば一生遊んで暮らせるだろう」
話しながら、ダリルがぐうと唸った。
「こうなってくると、裏切り者がやったのは情報漏洩だけじゃないかもしれない」
どういうことだと問う前に、アイセルが一つ頷いた。
「十八年前、私が生まれた時から計画していたのかもしれない、ということですね?」
エラルドもハッと気づいた。
「その裏切り者は、ゼノビアかフリギアスに対して、こう約束したのかもしれません。
『生贄の儀式を阻止し、結界を消滅させる』と。
そして実際に生贄は逃げ出し、二か月間逃げおおせている。いよいよ結界は消滅すると確信し、二国は軍を動かし始めた、というわけですね」
「ああ。アイセルが逃げ出したのは計算外だったかもしれない。もしも逃げなければ、殺してでも生贄の儀式を止めただろう」
これはただの推測でしかない。
だが同時に。
あり得ない話ではないということも、エラルドには分かっていた。
「……どうする?」
ダリルの問いは、アイセルに対してだ。
このままアイセルが逃げれば、この国が戦争に巻き込まれてしまう。
しかもそれは、裏切り者が描いた絵図通りの結末だ。
「戻りましょう」
アイセルが、即答した。
「そんな……!」
エラルドの声が上ずる。
「せっかくここまで逃げてきて、国境まであと一歩のところなのに!」
王都に戻るということは、逃亡を諦め生贄となって死ぬと言うことだ。
「それをこんな、簡単に……!」
到底、納得できることではない。
拳を握り言葉を詰まらせたエラルドの震える肩を、アイセルがポンと叩いた。
その優しげで軽やかな手つきにハッとする。
「諦めるわけではないわよ」
今度も、アイセルはキッパリと言い切った。
「時間は残り四か月……。
私が先にやるべきことは、国民を守ること。彼らが他国の戦争に巻き込まれるなんて。そんなことは絶対にあってはならない」
アイセルの表情は力強く、諦めなど微塵も感じさせない。
「二国の戦争を止めるのよ」
アイセルが王都に戻れば、裏切り者を介してその情報が二国に伝わるだろう。そうすれば、いったん彼らの思惑が外れることになる。
戦争を止められるかもしれないのだ。
「その後で、もう一度逃げる」
ニヤリと不敵にほほ笑むアイセルに、ダリルが苦笑いを浮かべた。
「できるのか?」
「あら。もちろん、あなたに協力してもらうのよ」
これにはダリルが驚き、目を見開く。
「おいおい。金貨五十枚分の仕事を軽く超えるぜ、それは」
「あら? それじゃあ、どうしてこの情報を私に伝えに来たの?」
アイセルが切り返したが、ダリルは何も答えず肩を竦めた。今ここで彼の思惑を話すつもりはないということだ。
「あなたが何を考えているのかは知らないけど、請け負った仕事は最後まで完遂してもらうわよ」
これにも、ダリルは肩を竦めたのだった。
* * *
アイセルとエラルド、そしてダリルとエンゾの四人がセリアンの街を出発したのは、その翌日のことだった。
残された時間はあとわずか。
少しも時間を無駄にはできないのだ。
「……また拗ねているの?」
二人きりの馬車の中、険しい表情のエラルドにアイセルが首を傾げた。
「拗ねているのではありません。呆れているのです」
いつかと同じように答えると、アイセルがふふっと笑みをこぼした。
「そうね。あの時から変わらない。私は矛盾だらけだわ」
矛盾、と口にしながらもアイセルの表情に迷いはない。
「あなたの言葉に従うことにしたの」
「え?」
「あなたが言ったんじゃない。私自身の願いのために、どう生きるのかを決めろって」
「ですからそれは、誰かのためではなく、あなたのために決断してほしいという意味で……」
「これは、私のための決断よ」
アイセルがじっとエラルドの顔を覗き込む。
「私は理不尽を受け入れたりしない」
そしてアイセルは、小さな手でエラルドの手を握った。
昨日、二人で一緒に朝を迎えてから、アイセルはエラルドに触れることを躊躇わなくなった。
ふとした瞬間に彼に触れては、安心させるようにポンポンと彼の肩や腕を優しく撫でるのだ。
「私が逃げたせいで多くの人が死んだら、私は罪悪感を抱かなきゃならなくなるわ。私は悪くないのに」
本来彼女が抱くべきではない罪悪感を背負わされるなど。
それは正に、理不尽だ。
「だから戻るの。きちんとケリをつけて、全ての憂いを消し去ってから逃げる。そのために王都の戻るのよ」
それならば確かに。
これは、彼女の願いのための決断だ。
エラルドはようやく、頷いた。
「分かりました。では、何としてもあなたを守り抜き、再び逃げ出すお手伝いをさせていただきます」
「頼りにしてるわよ」
そんな話をした直後のことだった。
馬が嘶き、馬車がガタンと音を立てて止まる。
続いて、
「襲撃だ!」
「囲まれた!」
ダリルとエンゾ、二人が叫んだ。




