第15話 愛しい人へ
「誰も買い取ってくれなかったの?」
そんなはずはない。
あのダイヤモンドは、目利きがきちんと鑑定すれば金貨五十枚は下らないはずだ。
アイセルの質問にエラルドは少し逡巡してから、ポケットからあの指輪を取り出した。
持っていったときよりもきれいになって、指輪がアイセルの手元に戻って来る。
「これで、ダイヤの底の方を見てください」
エラルドは指輪だけでなく小さなルーペをアイセルに差し出した。
言われた通りルーペを使ってダイヤを見ると、石の底に文字が刻まれているのがはっきりと読み取れた。
「これは?」
「ご存じなかったのですか?」
「ええ」
“愛しい人へ”
はっきりとそう刻まれているが、アイセルにはまったく心当たりがない。
「ダイヤに文字を刻むためには魔法を使う必要があるそうですが、その魔法による技術は数百年前には途絶えてしまっているそうです」
ということは、これを刻んだのはアイセルの父ではないことは確定だ。
では、いったい誰が誰のために刻んだ言葉なのだろうか。
だが、今そんなことは関係ない。
「そう」
アイセルは軽く言ってから、もう一度エラルドの手に指輪を握らせた。
「少なくとも数百年以上前に作られた指輪ということでしょう? 私には関係ないわ」
「ですが」
「今はお金が必要なの。……明日、もう一度その古物商のところへ行ってちょうだい」
これは命令と付け加えたが、エラルドは頷かなかった。
「売るべきではありません」
「どうしてそんなにこだわるの? ただの指輪よ」
そう、アイセルにとっては、ただの飾りだ。
ただお金に換えることのできる貴重品、それだけの価値しかないのだ。
「いいえ、誰かの思いが詰まった贈り物です」
エラルドは、再びアイセルの手に指輪を戻した。
「もしも公爵閣下が刻印のことを知っていて、あなたにこの指輪を贈ったのだとしたら、どうしますか?」
この問いに、アイセルの肩がビクリと震えた。
公爵、つまりアイセルの父がアイセルに優しい言葉をかけたことなど一度もない。父としての愛情を向けられた記憶は一切ないのだ。
その人が「愛しい人へ」などと感傷的な言葉が刻まれていると知っていて、その指輪をアイセルに寄越すだろうか。
アイセルは父の顔を思い浮かべてみた。
いつも毅然としていて、誇り高い、公爵家の当主。
(あ)
だが、一度だけ。
そう、たった一度だけ。
彼が感情的になったことがあった。
彼女に「お前に妻を殺された」と言い放った、あの時だ。
(……怒っていたわ)
眉間にしわを寄せ、唇を噛みしめていた。
(本当に?)
あの時の彼の感情は、本当に怒りだったのだろうか。
「……分からないわ」
ポツリとこぼしたアイセルに、エラルドが頷く。
「はい。ですから、この指輪は売るべきではありません」
エラルドはアイセルの手をとって、両手で指輪ごと優しく包み込んだ。
彼の大きな手に包まれて、冷えていたアイセルの指先が少しずつ温まっていく。
「今となっては公爵閣下の気持ちを確かめることはできません。だからこそ、大切に持っていくべきだと、私は思います」
ゆっくりと言い聞かせるような言葉が、アイセルの胸に沁みわたっていくようだった。
父の本心は分からない。
だがこの指輪は。
アイセルと両親の心をつなぐ、ただ一つの手がかりだ。
「……そうね」
彼女が頷くと、エラルドはホッと息を吐いた。
だが、これで問題は振り出しに戻ってしまった。
指輪を売らないのならば、他の方法でお金を稼がなければならない。
金貨五十枚は、そう簡単に稼げる額ではないのだ。
「さて、どうしましょうか」
アイセルがうーんと考え込む。
その正面で、エラルドが何かを言いたそうに表情を歪めた。
「考えがないわけではありません」
その微妙な言い回しに、アイセルは首をかしげたのだった。
* * *
翌日の午後、エラルドは街へ出た。
ちなみにアイセルは宿泊している宿屋に残って、そこで働くことになっている。
「ちょうど下働きを探していたんだよね!」
仕事について女将に相談したところ、宿屋で仕事をもらえることになったのだ。
アイセルに下働きなどさせられないと思ったエラルドとは裏腹に、アイセルは嬉しそうだった。
「ぜひ、お願いします!」
彼女にとっては、下働きも初めての経験で、新しい発見なのだろう。
「世間知らずな方なので、あまり無茶なことはさせないでください」
女将に重々頼んできたが、本当に大丈夫だろうかと、エラルドの気は重い。
だが、彼女のことばかりを気にしてはいられない。
宿屋の下働きで稼げるのは、せいぜい宿代ぐらいだ。
ダリルに支払う報酬を稼げるかどうかは、エラルドにかかっている。
エラルドは人気のない方を選んで通りを進んだ。
そうすると、いわゆる裏通りに出る。
(どこも街の構造は同じだな)
王都でもそうだったように、大規模な街には陰の濃い場所があるものだ。
そして、そこに非合法な仕事が集まるのもまた、世の常だ。
裏稼業なら、報酬は普通の仕事よりも割が良い。危険な橋を渡ることになるが、あまり時間をかけられない以上、背に腹は代えられない。
裏通りの中、エラルドは小さな商店を選んで中に入った。
雑貨屋のようだが、店の規模のわりに並んでいる商品が少なく、店内は閑散としていた。
「何を探してるんだい?」
カウンターの奥から、剣呑な表情の店主がエラルドを睨みつけた。とても客に対する態度とは思えない。
「……仕事を探している」
エラルドが言うと、店主がピクリと肩眉を上げた。
「あんた、ゆうべ通りで暴れた男だな?」
「暴れた覚えはない」
「マリーニ一家の若いのを、ひと睨みしただけで黙らせたと聞いたぞ」
マリーニ一家とは、この街を根城にしているマフィアか何かだろう。昨晩アイセルに絡んだのは、どうやらその一家の下っ端だったようだ。
「そうだ。だから、暴れてはいない」
「ほほーん」
店主はカウンター越しにエラルドの様子をまじまじと見つめた。
「仕事か……。うちは専門外だ。三つ向こうの八百屋に聞いてみな」
一件目でこれは大収穫だ。
今日は一日歩きまわる覚悟でいたのだが、これは早々に仕事にありつくことができるかもしれない。
「ちなみに、あんたの専門は?」
エラルドが尋ねると店主はニヤリと笑った。
「教えてもいいが、聞かない方が身のためだぞ?」
これには、エラルドは肩を竦めたのだった。
八百屋の店主は『殺し以外で頼む』と言ったエラルドに呆れながらも、仕事を紹介してくれた。
仕事の内容は用心棒だった。
この街から東へ出ると、東部との交易路である街道に向かうための山道がある。
その山道に盗賊がでるという。
どうもその盗賊は役人と裏で取引をしているらしく、領主は見て見ぬふりをしているらしい。そのため、商人たちが自営しなければならず、腕利きの用心棒を探していたのだという。
エラルドは昨夜の騒動で既に腕が立つことを証明していたので、この用心棒に抜擢されたというわけだ。
「報酬は一往復で金貨三枚だ」
悪くない額だ。
だが、エラルドは金貨を五十枚稼がなければならない。
「もしも盗賊を討伐できたら?」
エラルドの質問に八百屋の店主が目を剥く。
「そんなことができるなら、金貨五十枚払ってもいい」
その言葉には、できるはずがないという感情がありありと現れていた。
だが、それを聞いてエラルドはむしろホッとした。
目標金額を稼ぐのに、それほど時間がかからなさそうだと分かったからだ。
エラルドが盗賊の討伐に成功したのは、それからたった三日後のことだった。




