【短編小説】暮色の時
「おぉっ!ゆう!めっちゃ久しぶりじゃね?」
「うわっ、けい‥‥突然大きな声出さないでよ」
けいは、同じマンションに住む幼馴染である。
最近のけいは部活で忙しかった。受験生ということもあって、顔を見たのは久しぶりだった。驚きはすぐに立ち去って、嬉しさが込み上げて来る。
触れようと伸びてきた手を軽く払い、顔を伏せた。今のこの顔を見られたくないと思った。
「帰んの?俺も」
「あれ部活は?」
「もう引退。最後の試合も終わって終了〜。今はひたすら受験勉強よ」
「そっか、ウインターカップは出ないって言ってたもんね。全国おつかれ。見に行きたかったな」
「来れば良かったじゃん」
「塾で忙しかった」
けいが部長を務めるバスケ部は、この夏のインターハイでベスト8に輝いた。これは、学校創立以来初めの快挙で、新聞に大きく取り上げられ、学校中でけいのことは話題になっていた。
放課後、女の子と学校裏に行くのを見かけたこともある。
その大きな背中がどんどん遠く、小さくなって行くような気がしていた。でも、こうして笑っている顔を見ると、鎖骨のあたりが軋むように心地がよくて、そんな不安は忘れてしまう。
「なんかずーーっと走ってたからさ、引退って変な感じだな。この制服着んのも、後少しかぁ」
「けい高校入って身長伸びたから、なんか、ちょんちょんだよね」
「お前は買った時のままだな」
「うるさいなぁ」
「今何センチ?」
「うるさい」
「お前髪サラッサラだな。どこのシャンプー使ってんの」
少し見上げる。身長は多分185センチくらい。
身長も大きければ、手も大きい。
そのまるまる覆ってしまう大きな手で、頭をクシャクシャ触ってきたかと思えば、自転車に跨り急スピードで加速する。ドリブルするかのように風を切り、夕陽に向かって走って行ってしまった。
「ちょっと、けい、待って!」
思わず手を伸ばした。
待ってと言ったのは、本当に待って欲しかったからなのか。それとも、前を走る彼に翼が生えて、どこか遠くへ、自分の知らない所へ行ってしまうのではないかと、不安になったからか。
「お、なんかここ一緒に来るの久しぶりじゃね」
そこは、小学生の時にけいと遊んだ河川敷だった。
「昔よく寄り道したよね。橋の下に、捨て猫いたの覚えてる?」
「あー、いたいた!!俺勝手に名前つけてた!」
「けいが可哀想だから連れて帰るって言って、でもうちのマンション動物禁止だったから。あの後、どうなったんだろ」
「いい飼い主が見つかってるといいなー。おぉーあの橋だ!ちょっと覗いてみようぜ」
自転車を少し乱暴に停めて、河川敷を下って行くけい背中を、また、追いかける。
「ほら、ここだろ!うっわー!なつかしーー!あそこで釣りもしたよなー!」
「えー、それは覚えてない」
「したした!お前は一匹も釣れなかった!」
けいは、岩をぴょんぴょん飛び越えて、川を渡って向こう側に行ってしまった。
「ちょっと、けい、危ないよ」
「なんか、昔より綺麗になったな。草ボーボーだったし、砂利も汚かったよな」
「本当だ」
地面を覆っていた長細い雑草は綺麗に整備され、道ができ、あの時とは少し違っていた。
昔は泥水だったが、河川の水は透き通って、水面にはふたりの顔が映った。
「水切りもやったよな」
「えー、覚えてないや」
「お前は下手くそだった」
覚えてないんじゃない。
むしろ、ふたりの思い出は多すぎて、抱えきれない。
手を繋いで高架下を走っていたあの頃。
ふたらは、いつから手を繋がなくなったのか。
1番近いと思っていたけいが、いつから遠くなってしまったのか、よく覚えていない。
そして、いつから。
気づけばいつも、自分より少し前を走るその背中を追いかけていた。
きっとこの気持ちは、小さな時から。
「けいはさ、関西の大学、推薦受けたんでしょ?」
「うーん、まぁ、でも別にそこにこだわってるわけじゃないかも。ゆうは、東京のM大だっけ?親父さんもそこ出身だもんな」
「うん」
「お前あったま良いもんなぁ。進路のこと、悩みなんてなーんもなさそう」
「失礼だよ。悩みくらいある」
「なに?言ってみ〜〜」
けいが顔を近づけてきた。
「‥‥いや‥‥内緒だけど、ってか近いよ。けいだって、絶対受かってるでしょ。こないだ全国行ってたし」
「まぁ〜ね〜。正直、俺なら余裕でしょ〜」
見れば無条件に安心してしまうその笑顔が、憎たらしいし、大好きだ。
「寒くなったなー」
「うん」
冷たい風が吹く、秋の今日。
地面には、紅葉が1枚また1枚と落ちて、何もない道に模様をつけるみたいに紅く染まっていく。
「ここの紅葉も、こんな綺麗だったっけ」
紺色のカーディガンを着たけいは、右手をポケットに突っ込んで、左手に息を込める。
どうしよう。また、鎖骨のあたりが軋むように、痛むように気持ちいい。
綺麗な鼻筋と、風に揺れる無造作な髪に、本当は触れてみたい。
「けい、あのさ‥‥」
「なに?」
来年の今頃は、離れ離れになって、こんな風に横に立つことすら叶わなくなる。
そう考えると、悲しいけれど。
「やっぱなんでもない」
「うわっ!それずっと気になるやつ」
「ずっと気にしてろ」
「なんだよ〜〜言えよ〜〜」
それよりも、今はただ、側にいられるだけでいい。それがいい。
でもいつか、この想いを伝えられる日が来るといいな。
「帰るか〜」
「そうだね」
幕が降り始めた空の下。
水面に映る2人の姿を見て、僕は、そんなことを思っていたんだ。