表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

山の風香

作者: ここのすけ

 富倉町の隣接集落宿銅は元は宿銅村の中心集落地だった。日本海側に抜ける宿場街道沿いの山間のこの集落には昔銅鉱山で賑わった名残の簡易郵便局や農協支所、一杯飲み屋や食品雑貨の商店の他、駐在所や個人医院もある。その宿銅の周囲の山裾や山の谷間、谷間の奥の山奥には元宿銅村の一部であった小集落が十数個数えられた。その内消えゆく定めの山奥の集落が三っ程あった。その集落の一つ山部と呼ばれる集落から宿銅地区唯一の医院、宮山医院に一人の男性が担ぎこまれた。

 軽四輪トラックの荷台に男は横たわり左足太ももに何枚ものタオルが巻かれ赤い血に染まっている。トラックには運転していた男と荷台の男に付き添っている男の二人がいた。

 直ぐに駆けつけて来た宮山医院のお手伝い兼看護師の佐紀が手を貸して負傷した男は治療室に運びこまれた。

「これはどうした・・」足の傷を見た宮山清治医師が付き添いの男に尋ねた。その男は五六十代で山仕事用の作業着と皮の半長靴を履いていた。男の説明では、男達は山部集落の者で今日は三人で植林をする為の雑木林の伐採をしていたと言う。その雑木林は険しい傾斜地で負傷した男は足を滑らして先の尖った切り株の上に落ち、その切り株が左足の太ももに突き刺さったと説明した。

「そうか。分かった。では男衆は患者の手足を押さえておいてくれ」

 宮山医師は白衣と眼鏡を掛けて患者の男の血まみれのタオルとズボンを脱がした。

「少し痛いが我慢しろ・・」宮山医師がメスを取った。

「先生・・麻酔は・・」患者の男が哀願するように宮山医師を見た。

「心配するな。動脈は傷ついていない。不幸中の幸いだったな。傷の消毒をするために少し傷口を広げるだけだ。麻酔はいらない・・早く治したいだろう。押さえろ」

「うっうっう」男が呻いた。宮山医師のメスが木の刺さった傷口を切り裂いた。傷口に消毒液を流し込み釣り針様の鍼と糸で縫い合わせ看護師の佐紀が包帯を巻いた。手際のよい治療だった。宮山医師は外科が専門で内科はそれ程ではない。風邪薬か腹痛の痛み止めを出す程度である。

 この時宮山医師は四十五歳。都会の病院勤務から帰郷し自宅の医院を継いで間のない頃の出来事だった。宮山医師の妻は都会育ちで夫の実家であるこの山里に来ることには抵抗があった。

 小学生の息子の教育にも不安を感じていた。息子を医者にする為には都会での勉学が是非とも必要と考えていたのだ。この妻に対し宮山医師は息子が中学生になったら母子で都会に住む事を許す条件で妻子を連れて帰郷していた。

 治療が終わり怪我人と二人の男を送り出した宮山医師は診察室の後かたずけを看護師の佐紀に命じて軒続きの母屋に帰った。佐紀は宮山医師と同じ位の年頃で二十代の頃から先代宮山医師に雇われお手伝いさんとして宮山医院に住み込んでいる。地味な女であるがあれこれと良く気の付く女だった。

「やれやれ・・」と宮山医師は応接間のソファーに腰かけると、右手の二の腕にチクリと何かに刺された感じを受けた。急いで白衣を脱ぎ長袖のワイシャツも脱いでその袖の中を確かめた。何も見つからなかった。黒っぽい小さな虫が床に落ちて這っている事には気が付かなかった。宮山医師は直ぐに何事もなかった様に目を閉じて転寝をたて始めた。

 宮山医師が自身の異常に気が付いたのは怪我人の治療を終えた半日後の夕暮れ時の事だった。

二の腕に鈍い痛みがある。触ると腫れていた。腕を覗き見ると赤黒く腫れ上がり中心に何かに刺された赤い小さな点があった。身体が熱っぽく怠かった。体温計で熱を測ってみた。体温計は四十度の高熱を示していた。宮山医師は直ぐに解熱剤を飲み腫れた腕に虫刺されの軟膏を塗って横になった。

「先生どうされましたか・・顔が赤いですよ・・熱でもあるのですか」

 お手伝い兼看護師の佐紀が覗き込む様に自分の顔を見詰めるのを薄目を開けて確かめると側のテーブルの上にある体温計を指さした。

「先生大変な熱です。風邪ですか・・」体温計を見た佐紀が驚きの声を上げた。

「佐紀さん。済まないが奥さん友恵・・を呼んできてくれ・・」

 力ない声で宮山医師は頼んだ。

 佐紀に呼ばれて来た妻友恵と佐紀に支えられ宮山医師は寝室で横になった。


 宮山清治医師の息子順平はこの年小学六年生になっていた。この山里の父の実家に連れて来られて三年目を迎えていた。宿銅集落には三人の同級生がいた。食品雑貨店の息子で川端安治、通称さんヤッさんと二人目は食堂兼一杯飲み屋の息子で野田政男通称マサやん三人目は農家の息子で山田輝夫通称てるちゃんで遊び仲間でもあった。宮山医師は息子順平にゲーム機等は与えず健康的な自由な外遊びを許していた。それも小学生迄の話で中学生になると都会で本格的に勉強させる約束を妻の友恵としていた。それでも妻の友恵は順平が学校から帰ると予習復習をさせて、それが終わるまでは家の外には出さなかった。

「順平はまだ出てこないのか。鬼母に監禁されているのだろう。医者の息子に生まれなくて良かったよ」「勉強、勉強と喧しいらしいよ」「順平は可哀そうだな。中学生になればこの宿銅を出て行くらしいよ。何でも都会の進学校に行くらしい」「ああ嫌だな。勉強なんて銭の勘定さえできればいいんだよ」宮山医院の近くで遊び友達の三人が話していた。

 下校してもう二時間が過ぎている。土塀門から順平が飛び出してきた。

「悪い悪い待たせたな。今日は何をして遊ぼうか・・」順平が明るく言った。

 四人は何をするでもなく集落外れの川岸の土手に腰を下ろした。川と言っても山の谷を伝って流れて来た小川程度の川である。四人が話す事は決まって学校の事そして最後には順平の事で話が終わった。その順平が口を開いた。

「あの天神山を越えた向こうに村があるとお手伝いさんから聞いたけど皆知っているかい」

「ああ聞いた事があるよ。親父が昔食料品の行商に行っていたけれど今は人が余り住んでいないらしいよ」食品雑貨店の息子大柄のヤッさんが言うと農家の息子坊主頭のてるちゃんが後を継けた。

「何でも県道から四キロ程山奥に入った村が三つほどあってその一つに小学校の分校があるって言ってたよ。通っている子供は二三人だそうだよ」

「ああ僕も聞いているよ。奥谷村と言ったかな。もうほとんど人は住んでいない廃村まじかの集落があるって・・何でも天神山を越えて後二つ程山を越えれば近道らしいよ」一杯飲み屋の息子マサやんが物知り顔で言った。

「誰も行った事がないのか・・それじゃあ一度その村を訪ねて見ようよ」

 順平が目を輝かして皆の顔を見回した。

「それじゃあ土曜日の朝から弁当持参で探検に出かけるか」農家の息子てるちゃんがドングリ目を細めて言うと皆が「探検だ」と合図地を打った。

 土曜日の朝四人は食品雑貨店の息子ヤッさんを先頭に宿銅集落の北外れにある天神山の山道を登って行った。順平を除く三人は弁当を包んだ風呂敷包みを首に巻き各自水筒を肩に掛けてている。順平はただ一人リュックサックを背負っていた。

 天神山の稜線を伝いながら北方向に細い山道をたどり四人は進んで行く。尾根は下り天神山を離れ、新たな山へと獣道に等しい山道は続いていた。その山を登り詰めると山道は雑木林に隠れて消えていた。「道らしきものはないぞ」「藪の斜面を下るしかないぞ」四人は声を掛け合いながら前も見えない藪の中を下へ下へと藪を掻き分け下って行った。

「藪を抜けたぞ」先頭を行くヤッさんが下方から声を上げた。皆は急いで藪を滑り降りた。

降りた先は谷底らしく湧き出た水が流れる事無く足元にあった。降りて来た藪の反対側の山の斜面を見上げた四人は声を発する元気もなく口をあんぐりと開けていた。そこに見た山の急斜面には台風で倒れたのか太い倒木が谷に向かってゴロゴロと転がっていた。

「おい。この斜面も登るのか・・」「谷に沿って下に降りてみるか」「山はまだ二つ超えたばかりだよ。もうひと山を超えて見ようよ」最後に提案した順平の意見が採用され一行は倒木が折り重なる急斜面を這うように登って行った。その山の尾根にたどり着いた時一行は歓喜の声を上げた。見渡す限り山々山はるか彼方まで続く山々の絶景だった。

「腹が空いたよ。此処で昼飯にしないか」一杯飲み屋の息子マサやんが皆に同意を求めた。その時ヤッさんは何も言わず一人で水筒の水をゴクゴクと飲んでいた。それを見たマサやんとてるちゃんの二人は水筒を肩から下ろし同じ様にゴクゴクと水筒の水を飲んだ。順平はリュックサックを下ろし中から保温の水筒を取り出し口に運んだ。

「さあ飯だ飯だ・・」ヤッさんが首の風呂敷包みを下ろし広げた。ラップに包まれた大きなむすびが三個出て来た。他の二人も首の風呂敷包みを下ろし開いた。皆それぞれ大きなむすびが三個づつ申し合わせた様に出て来た。順平はリュックサックの中から蓋つきのプラスチック容器を取り出し蓋を開いた。中にはサンドイッチが詰め込まれていた。順平がお手伝いの佐紀さんに頼んで作って貰ったサンドイッチだった。卵サンドとハムサンド。どれも美味そうに見えた。

「おい順平。美味そうなサンドイッチだな。俺っちにも一つ分けてくれないか」むすびをほう張り始めたヤッさんが言うと他の二人も同じ事を言った。

「いいよ。皆むすびを一つづつ僕にくれるかい」順平が言うと三人が皆むすびを一つ差し出した。「僕はむすびが食べたかったんだよ。ありがとう」順平はプラスチック容器ごと皆の前に差し出した。三人は片手にむすびを片手にサンドイッチを掴みほう張った。順平はそんな友達を眺めながら大きなむすびを頬張った。青空の下、山の空気もむすびも美味かった。

 弁当を食べ終わった四人は再び歩き始めた。倒木の山の尾根を下って行くと対面の山との間隔が広がり谷間が見えて来た。

「もうそろそろ家が見えても良さそう・・」小さな沢があったが辺りは荒れたむき出しの山肌が斜面下の谷底を囲っていた。小さな沢は北ではなく東に向かって流れている様だった。

 谷に降りて来た四人は進む方向に迷ってしまった。

「家らしき物は何処にも見当たらないよ。沢に沿って下って見るしかないようだ」

 今度は順平が先頭に立ち、四人は谷底を足元に気を付けながら下って行った。

「わあ・・」先頭の順平が叫んだ。順平の足元には崖があった。沢の水が飛沫となって崖下に落ちている。順平の後から着いて来た三人も崖下を覗き込み息を飲み込んで顔を見合わせた。

「順平危なかったな・・落ちていたら・・」「死んでるかもよ・・」

 ヤッさんが言い終わらない内に誰かが口を挟んだ。女の子の声だった。「えっ・・」声が聞こえた山の斜面の藪を皆が見つめた。姿を現したのは緑色の体操着を着た、山育ちには見えない色白の可愛いい顔のおさげ頭の女の子だった。

「あんた達何処から来たの。知らない山を歩く時には気を付けなくちゃあ。道を間違えると死んじゃうよ」女の子は四人の顔を見回して行った。

「僕達は宿銅から山を越えて来た。何でも山の奥に奥谷と言う村があると聞いて来たけれど見つからないんだ。知っているなら教えてくれないか」

 順平が頼むと女の子は首を傾げて反対に順平に尋ねた。

「何故奥谷に行きたいの。親戚でもあるの」

「いや親戚なんてないよ。ただ宿銅地区の山奥に僕達の知らない村があると聞いて探しに来たんだよ」ヤッさんが答えた。

「そうなの。でもその村はもう殆ど人は住んでいないよ。空き家と言うのか廃屋と言うのか・・

行って見れば分るよ」

「じゃあ僕達をその村に連れて行ってくれるかい」てるちゃんが頼んだ。

「いいわよ。私に着いてきて案内してあげるわ」

 女の子は現れた藪の中に引き返し始めた。四人は女の子の後に従い藪の中に踏み込んだ。女の子が進む先には道とは言えない細い藪の切れ目が続いていた。女の子は後ろを振り返ろうともせず、どんどん山の中を進んで行く。女の子の後を追う四人の内、順平だけは不審を募らせていた。―何故こんな山奥に女の子が一人でいるのだ。どう考えても不自然じゃあないかー

 先頭を行く女の子の背中を睨んだ。山を下り低い尾根を越えて下ると小さな谷間に辿り着いた。谷の斜面にへばり付く様に立ち木や蔦に絡まれた瓦屋やトタン屋根が見え隠れしている。

その数は十戸程か、鳥の鳴き声もしない静寂の中に人の気配は感じられなかった。

「さあ着いたわよ。ここが奥谷と呼ばれていた村よ」

 女の子に言われて四人は又顔を見合わせた。―これが奥谷村か・・―誰もが期待を裏切られた様子だった。

「案内してくれてありがとう。僕の名前は宮山順平、宿銅小学校の六年生だよ。他の三人は同級生のヤッさんとマサやん、それにてるちゃんだ」

順平が友達三人を紹介すると女の子も名乗った。

「私の名前は山住風香よ。分校の五年生よ。宿銅小学校の山部分校を知らないでしょう。今分校は年長の私と後二人、四年生と三年生の姉弟の三人だけよ」

「風香ちゃんか。たった三人の分校だと運動会なんて出来ないだろう」

 身長が一番高い細身のマサやんが思いを尋ねた。

「運動会なんて聞いた事はあるけど一度も経験したことがないわ」

 悲しがると思った風香の顔は笑っていた。

「じゃあ秋の運動会を見に来てよ。面白いと思うよ」てるちゃんが言った。

「帰り道を教えてよ」順平が言うと風香先に立って歩き出し、すぐに車一台がやっと通れる程の舗装された道に案内し「この道を下って行けば広い県道に出るわ。又会いたいね」と順平に言った。


 寝室で寝込んでしまった宮山清治医師の熱が解熱剤を飲んだせいか一時下がったが半日も経たないうちに又高熱を発してしまった。それ以降解熱剤は効かなかった。虫に刺された二の腕は紫色に晴れ上がり腕を持ち上げる事も出来なくなった。外科専門の宮山医師に治療方法は思い浮かばなかった。ただこの高熱の原因は虫刺されに有ると理解できた。看護師でお手伝いさんでもある佐紀に医学書を持ってこさせ調べて見たが、これと言った文献や治療法は見つからなかった。高熱を発して三日が過ぎようとしていた。夜間になり咳が止まらなくなった。直ぐに咳止めを飲んだ。その夜宮山医師は高熱のせいなのか不思議な夢を見た。

 霞の掛かった風景は、どうやら山奥の様だった。そこに女が現れた。顔は見えない。風土病と女が言ったように思えた。―そうか風土病なのかー答える自分が居る。山の民・・免疫・・女は何かを伝えようとしていた。―そうか山里に住む住人には免疫があると言う事かー顔は見えないが女が笑った様に思えた。その病で五年で死ぬ・・お前の息子・・私の娘・・娶れば薬をやる。

 薬・・十五年以上生きられる・・。―この病を治す薬をくれると言うのか。その代わりに息子に娘を嫁がせろと言うのか。さすれば十五年の寿命をくれるとー又女が笑った様に思えた。

―分かった。貴女の娘を嫁に迎える。しかしその娘は何処に住んでいる。私は顔を知らない。

 娘とお前の息子は既に出会っている・・ーうなされる自分に気が付き目が覚めた。枕元に妻の友恵と看護師の佐紀が顔を覗きこんでいた。

「先生大丈夫ですか。ひどくうなされていましたよ。何か悪い夢でも見ましたか」

 佐紀が心配そうに尋ねた。

「貴方うわ言で娘がどうのとか言っていたけれど、どんな夢を見ていたの・・」

妻の友恵も尋ねた。

「どんな夢かって・・夢を見ていたかどうかも分からないだろう。だいたい夢を覚えていること自体が可笑しいだろう」

「それはそうですけれど・・貴方があまりにうなされていたので気になって・・」

「そうか・・私は大丈夫ですよ。解熱剤と咳止めを併用したので少し薬が効き過ぎた様だ」

「それにしても先生はどんな虫に刺されたのでしょうか。こんな症状の患者さんは今まで見たことも聞いた事もありませんが・・」

「そうだな。だが同じ様に虫に刺されても私の様に重症化するとは限らないのかも知れない。例えば子供の頃から虫に刺されていれば免疫ができる。免疫が出来ていれば軽い症状で済むかも知れない・・」

 宮山医師は夢の中で聞いた免疫と言う言葉を思い出していた。


 翌日の昼下がり休診中の看板が出ている宮山医院の呼び鈴を鳴らす者がいた。玄関に出て応対したのはお手伝いさんの佐紀だった。玄関扉を開けると佐紀は首をひねった。そこに立っていたのは小学生位の女の子だったからだ。

「お嬢ちゃん。今日は医院はお休みなのよ。何処が悪いの」佐紀がたずねると女の子はニッコリ笑って首を横に振った。

「私は何処も悪くは有りませ。母に頼まれ先生に薬を届けに来ただけです」「薬って何の薬なの・・」佐紀はいぶかし気に女の子の顔を見た。すると女の子はポケットから小さな瀬戸物の容器を取り出して佐紀に手渡して言った。

「母が先生が毒虫に刺されているので、この容器に入っている七つの丸薬を一日一粒飲めば完治するって言っていました。それからそう言えば先生は判ると・・」

「一日一粒飲めばいいのね・・ところで貴女は何処から来たの。お名前は・・」佐紀は尋ねた。

―先生が毒虫に刺された事は家族以外誰も知らない筈ではないか。何故この子の母親が知っているのかー不振が募った。

「私は山に住んでいます。名前は風の香りです。じゃあさようなら」

 佐紀の言葉を待たず、女の子は宮山医院の土塀門の外へ走り去った。

 佐紀は寝室で横たわる宮山医師の元に急いだ。ゴホゴホと苦し気に咳をする医師に受け取ったばかりの瀬戸物容器に入った丸薬を手渡し、届けに来た女の子の話をした。

「女の子がこの容器の中の丸薬を一日一粒飲めと言ったのか・・」

 宮山医師は容器の蓋を開け中を確かめた。小さな黒い丸薬が七粒入っていた。一粒指で摘みだし嗅いでみた。強い漢方薬の匂いがした。宮山医師は直ぐに丸薬を口に含み、枕元のコップの水で飲みこんだ。

「先生そんな訳の分からない丸薬を飲んで本当に大丈夫ですか・・」佐紀は心配した。―そんな丸薬が利くのかと、かえって毒になりはしないかとーそれに先生は女の子の母親について何も語らなかったのが不思議でたまらなかった。宮山医師の妻友恵が寝室にやって来た。

「貴方話は聞いたわ。でも薬を届けに来た女の子は何処の誰の子供なの。教えてちょうだい」

 疑いの目で夫を見つめる妻に宮山医師は「今は話せないがこの病が完治すれば話そう」と直ぐには答えなかった。

 丸薬を飲み始めて三日目息苦しさと咳が止まった。「先生咳が出ませんね」佐紀が声を掛けて来た。「ああ丸薬が利いてきた様だ」答えて宮山医師は目を閉じた。あの高熱の中で見た夢は現実となって表れている。ーあれは正夢だったのか・・では嫁がせると言った娘が薬を届けに来た女の子なのかーその子に会っておけば良かったと宮山医師は思った。

一週間後最後の一粒の丸薬を宮山医師は飲み終えた。熱は引き二の腕の腫れも引いて針の先で突いた様な赤い点が一つ残っただけだった。全てが完治していた。

「先生治りましたね。本当にあの薬は効いたのですね」佐紀が驚いている。

ー風土病を治すのは民間療法か・・現代医学もまだまだと言ったところかー腫れの引いた二の腕をさすりながら宮山医師は自嘲していた。

 宮山医師の息子順平は一週間ぶりに父の顔を見た。この一週間感染の恐れがあると母親は父親の寝室に近寄る事を禁じていた。「やあ順平真面目に学校に通っていたか」声を掛けて来た父親の顔にやつれが見えた。「お父さん病気は治ったんだね。医者の不養生でなくてよかったよ」順平が言うと父親の宮山医師は「こいつ、何時の間に大人ぶった口を聞くようになった」と笑って見せた。

 夏休みになり盆踊りの季節が訪れた。旧宿銅村役場前の広場に櫓が組まれ、櫓の上に大太鼓が置かれた。夜になるとライトアップされた櫓の上の太鼓が打ち鳴らされて櫓の上のスピーカーから盆踊り音頭の歌声が流れ出した。老いも若きも大人も子供も村人総出の盆踊りが始まった。都会から帰郷した男女や家族ずれの見慣れぬ人も多かった。皆それぞれの浴衣姿で団扇を持って踊っている者もいる。

 順平はヤッさん、マサやん、てるちゃんの同級生四人と商店や青年団が出している夜店で買ったカンジュースを飲みながら踊りに加わらず、踊りの輪の外側で座っていた。

 午後九時を回った。踊りは午後十時で終わる予定だった。賑やかに踊る、踊りの輪を眺めていたヤッさんが驚いた顔で踊りの輪を指さした。皆その指先の方向を見た。

「あれは山住・・風香ちゃんじゃないか・・」皆が見つめた先に、白地に葉っぱと百合の花をあしらった浴衣に赤い帯を締めたおさげ頭の女の子が踊っていた。

「風香ちゃんだ。なぜこんな所まで出て来たんだ・・」四人の前に回って来た風香は四人を見てニッコリとほほ笑んだ。「風香ちゃん・・」皆が声を上げようとしたが、何故か声が出なかった。

 踊りの輪は回って風香が四人の前から消えて行く。四人は踊りの輪が再び回って来るのを待った。しかし待てど暮らせど風香は現れなかった。午後十時になり其日の盆踊りは終わりを告げた。

「あれは風香ちゃんに間違いなかったよな。此方を見て笑ったよな」

 ヤッさんが念を押すように皆に言った。「でも山奥から本当に出て来たのかな。何処か宿銅に親戚でもあってそこに来ていたとは考えられないか。そうでなければ夜こんな時間に山奥に帰れないと思うよ」マサやんは否定はしないものの半信半疑の様だった。

「僕は風香ちゃんを見ていないよ。皆と一緒にいたのに何故僕だけ風香ちゃんが見えなかったのだろう」てるちゃんが羨ましげに三人の顔を見た。

「てるちゃん。本当に風香ちゃんを見ていないのか。僕達の前を踊って通り過ぎたじゃないか」

 順平が真顔でてるちゃんに尋ねた。「本当に見ていないんだよ。悔しいけれど本当だよ」てるちゃんは俯いて答えた。するとマサやんまでもが「僕も見なかった様な気がする・・」と言い出した。「えっ二人共そうなのか・・実は僕もあの女の子が風香ちゃんだったとは断言できない。

そんな気がしただけかも知れない。思い込みが他人を見間違えたのかも・・」ヤッさんまでもが目撃の事実を否定しだした。

「おいおい皆どうしたんだよ。それでは風香ちゃんを見たのは僕だけになってしまうよ」

 順平が慌てだした。ー確かに僕が見たのは風香ちゃんだった。でもここで皆に話を合わせなければ可笑しな事になってしまうーそう考えた順平は「僕も見てないよ」と皆の話に合わせて言った。それから「皆山の風香ちゃんに会いたいと思っているから見間違いをしたのかもな」

 最初の言いだしっぺ。ヤッさんが皆を取り成した。三人は笑って同意を示したが順平だけは複雑な思いだった。ー僕の目に誤りはない。確かに風香ちゃんは居たんだー

 四人は夏の世の不思議と笑って別れた。帰り道順平は追い越して行った夜風に山百合の香りを嗅いだ。

 夏休みが終わり秋の運動会の日がきた。宿銅小学校の運動場に整列して開会を待つ順平は父兄の観客席に座って見ている風香を見つけた。同じ列に整列している同級生三人にはこの事を伝えなかった。夏の夜の不思議は秋の日の不思議になり兼ねないと思ったからだ。

 運動会は進み観客席の風香の姿は昼飯時間になると消えていた。

ー風香ちゃん本当に僕達の運動会を見に来てくれたんだー順平は嬉しい気持ちを他の三人には伝えなかった。この運動会の日を最後に順平は風香の姿を見る事はなかった。


 年を越え春になって順平は母に連れられて都会での中学生生活を送る事になった。宿銅の友達と別れ都会でのマンション暮らしは自由のない勉強漬けの地獄の様な生活だった。学校から帰ると直ぐに何か所もの塾通いを強いられた。それでも順平は耐えていた。父の後を継いで宿銅の医者になると言う使命感の様なものが芽生えている。

 その思いの中に宿銅に帰るもう一つの願望があった。ー風香に会いたいーそれは初恋にも似た少年の儚い思いだった。

 日の暮れた暗い歩道を塾を終えての帰宅途中、見上げたマンションビルが宿銅の高い山を思い起させた。そんな時すれ違った女子中学生が懐かしい香りを残して遠ざかった。

ー山百合の匂いー順平は振り向いて見たが少女の姿は既になかった。

 中学から高校大学の医学部卒業と十年は瞬く間に過ぎ去った。順平は都会の病院でインターン生として医者の一歩を踏み出た。

 その頃宿銅の宮山医院では、お手伝い兼看護師の佐紀が実家に帰る事になった。高齢の父母の介護の為だった。佐紀が去った数日後、宮山医院に車が横づけされ顔見知りの男が母親を背負って降りて来た、その後ろに見かけぬ若い女が着いて来た。髪の長い若い女だ。若草色のワンピースを着ている。

「お母さんが何処か悪いのか・・」応対した宮山医師が尋ねると男は若い女を顎で示し

「このお嬢さんが道で倒れていた母を見つけて連絡してくれた。この人は母は転んで足の骨が折れていると言っているが先生見てやってください」と言うので早速診察室に運び高齢の母親の体を調べレントゲン撮影をしてみると、明らかに大腿骨が骨折していた。

「お嬢さん。何故骨折と判った。見た目では分からない筈だが・・」宮山医師に尋ねられ若い女は恥じらう様にほほ笑むと「未熟ですが私は看護師です」と言った。

「そうか。君は看護師だったのか。何処の病院の看護師だね」

「私は三日前勤めていた病院を辞して先祖が住んでいた村を探して旅をしている途中です」

「先祖が住んでいた村とは・・この宿銅の地に関係ある村なのか・・」

「そうらしいですが・・先生そんな事より患者さんの治療を早くしてあげなくちゃあ」

 若い自称看護師に促され宮山医師は治療に取り掛かった。若い娘は側でてきぱきと治療を手伝った。入院施設のない宮山医院では患者は自宅療養が普通だった。中年男が母親を背負い車で立ち去ると宮山医師は若い女を引き留めた。

「さっきの話の続きだが、その村の名前は何と言う名前なの。先生に教えてくれないか」

 若い娘は暫く答えず「奥谷と言う村らしいです」と小声で語った。

「奥谷か・・山奥の集落がこの十年三か所地図から消えた。その集落の一つが奥谷集落だよ」

「矢張りもう人の住まない廃集落なのですね・・」俯いた若い女の白い横顔は美しかった。

「ところで此れから又その山奥に行って見るつもりかな・・止めた方がいいと思うが・・」

「そうですね。先生この医院で私を雇って貰えませんか・・出来れば住み込みで・・」

 宮山医師は驚いた。今自分が考えていた事をその若い女が言い当てたのだ。

ーこの娘が看護師でいてくれたなら助かるが・・それも住み込みでーと考えていたのだ。

「本気でそう願うなら雇ってもいいよ。でも貴方の身内の了解を得なくては・・」

「先生それは心配いりません。私の身内の伯父夫婦には帰らないと伝えているので、この医院に勤めている事だけは伝えておきます」

「そうか・・それでは早速今日から住み込みで働いてもらうよ。丁度長年勤めてくれたお手伝いさん兼看護師が居なくなって誰か雇おうと思っていたところだよ。医院は暇が多いので妻の手伝いをしてくれると助かるのだが・・」

「はい先生。雇って頂けるなら家事だって何だっていたしますよ」

 ニッコリとほほ笑んだ白い綺麗な顔は宮山医師に何かを思い起させ様としていた。

 宮山医師は娘を妻の友恵の元に連れて行き去った佐紀の代わりに雇った事を説明した。

「あら若くて美人だわ。お名前は・・」友恵は娘を見て一目で気に入った様子で名前を尋ねた。

「秋山風香二十二歳です。看護師ですが家事のお手伝いも致します。宜しくお願いいたします」

 明るく挨拶した娘に友恵は笑顔で「こんな綺麗な娘さんが家に来てくれるなんて幸せだわ」

と屋敷の軒続きの離れ屋案内した。その部屋は以前順平が使っていた部屋だった。その部屋に前のお手伝いさんが使っていた家具や寝具を運び込み娘の宿舎が定まった。

 妻の友恵は宮山医師と二人になるとそっと尻をつねった。「痛い・・」宮山医師は妻を睨んだ。

「貴方あの娘の事、何時から知っていたのよ。まさか貴女の隠し子だったりして・・」

 睨まれても友恵は動じる素振りを見せず疑いの目で夫を見返した。

「何を馬鹿な事を考えているのだ。先程説明した通りだ。私に疚しい事など何もない」

「冗談よ・・」と笑った後、友恵は核心部分に触れてきた。

「私は貴方が虫に刺され高熱を出した時、うわ言で言った娘と言う言葉が気になっていたのよ」

「えっ・・そうか・・娘か・・」宮山医師は一瞬言葉に詰まり首を傾げて黙り込んだ。

 宮山医師の脳裏に夢に現れた顔の見えない女のシルエットと雇った若い娘が重なって見えた。

ーそんな筈はない・・ー「それは違う・・」宮山医師は声を出した。

「何が違うのよ・・」訝し気に妻の友恵が宮山医師の顔を見た。宮山医師は首を横に振ってその目を避けた。「何でもない。少し勘違いをしただけだ。彼女と食事の準備をしてくれ」宮山医師は話を避けた。

 宮山医院に若く綺麗な看護師が雇われた。その噂は直ぐに宿銅地域に広まり、嫁の居ない男達が病気でもないのに医院を訪れて来た。「何処が悪い・・」「頭が痛い・・」「腹が痛い・・」

皆それぞれに口実を設けてやって来た。そんな男達の中に順平の同級生三人も含まれていたが、

その看護師が子供の頃に山で出会った女の子とは気ずかなかった。日頃病とは縁のない男達に宮山医師は笑顔で診察を続け車での往診も始めた。

 風香を助手席に乗せて往診に回る宮山医師を若い男達は羨望の眼差しで見ていた。風香は往診先の患者の様態を聞き取るとその原因を的確に宮山医師に伝えた。そこには宮山医師にも気が付かない病根の治療方法さえあった。風香の指示通りの治療を施すと患者は回復した。

 地域で頼られる宮山医院は以前と比べ忙しくなった。美しい看護師が宮山医院に来て五年が過ぎた。

 宮山医師が原因不明の病に倒れた。高熱を発しうなされている。「十五年・・十五年・・忘れていない・・」訳の分からない言葉がはっきりと聞き取れた。心配する妻の友恵が、今は娘同様に接する様になっている風香に病の原因を尋ねるも風香は首を横に振るばかりだった。


 順平は勤めている病院の院長室に呼ばれた。何事かと思案しながら院長室に入ると院長は暗い顔で言った。

「宮山先生今しがた先生の母親から電話が入った。お父さんが危篤との事で、荷物を纏めて帰って来るようにとの事だった。当病院では先生には居て欲しいが地域医療も重要な仕事だ。

地域に医者が居なくなると困るのは地域の住人だ。実家に帰り医院の後を継ぎなさい」

「父が危篤ですか・・今まで病気だと聞いた事が無いのですが・・」

「私もお母さんに何の病気か聞いて見たが原因不明の病気らしい。検査をしたいが、あまりにも遠すぎる。先生が帰郷して調べるとよい。一刻も早く帰りなさい」

 院長先生に命じられて順平は挨拶もそこそこに覚悟を決めて帰宅の途に着いた。

 順平は帰って来た。実に十六年振りの事だった。

「母さん帰って来たよ・・」玄関を開けると母親の友恵が玄関に飛び出してきて、お帰りも言わず順平の腕を掴み父親の寝室に連れて行った。

「お父さん順平が帰りましたよ・・」横たわり苦しそうな息をする医師の耳元で大きな声で息子の帰宅を告げた。「お父さん順平だよ。今帰って来た」順平はそう声を掛けると父親の腕の脈を確かめた。今にも止まりそうな弱い脈だった。

「順平帰って来たか・・」か細い声が父親の口から洩れた。「お父さん順平だよ。帰ってきた」

 薄目を開けた宮山医師は息子の顔に焦点を当てていた。

「順平お前に遺言が・・お願いがある・・聞いてくれるか・・」とぎれとぎれに父親は話した。

「お父さん。聞いているよ。僕に願いとは何だよ・・」順平は父親の顔に顔を近づけた。

「順平宮山医院には・・大切な看護師さんが・・いる。その看護師・・さん・・の名前は・・

秋葉・・と言う・・その人を・・」声が途切れて聞き取りにくい。順平は再度確認した。

「お父さん。大切な看護師さんは判ったよ。その看護師さんをどうしたいの」

順平は父親の耳元に口を近づけて尋ねた。掛布団から覗いた父親の手が順平の手を握った。

「順平その人を・・嫁に貰え・・お前の・・知った人・・だ」

「えっ僕の知っている人を嫁に貰えと言うの・・その人の名前をもう一度言ってよ・・」

 順平は父親の口元に耳を寄せた。「風香・・さん・・」「えっ・・もう一度いってよ」

「風香・・」今度ははっきりと聞こえた。父は確かに風香と言った。順平は父親の側でのけぞった。順平の胸の奥で眠っていた名前が時を超えて飛び出してきた。

「お母さん・・呼んでくれ・・」宮山医師が小さく手を振った。母の友恵が立ち上がり寝室をでた。入れ替わりに白衣の女性が入って来た。寝室に山百合の花の匂いが漂った。「えっ・・」

思わず順平は白衣の女性を見上げた。女性が微笑んだ。

「まさか・・本当に風香ちゃんなのか。信じられない・・」「私は山住風香。十六年前に出会った。山の女の子よ。順平さん」「でも‥何故・・君が我が家に・・」「それは宮山先生に聞けば分かるかも・・」風香は意味ありげに、話を息も絶え絶えの父親に振った。

「順平・・」父親がか細い声で呼んだ。「お父さん。何が言いたい・・」順平は再度父親の口元に耳を傾けた。「知って・・いたんだな‥嫁に・・な・・」父親の細い目が笑ってゆっくりと閉じた。順平は急いで脈を見た。「お母さん・・お父さんが・・」側にいた母の友恵が涙を流して頷いた。奥谷の草木が生い茂る廃屋の庭にひっそりと百合の花が咲いた。     


          完  

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ