巫女姫、話し合う
帝都は百万の人口を抱える巨大都市だが、その発祥はごく小さな都市国家だ。小高い丘の上に造られた町を取り囲むように外へ外へと広がっていったため、帝国の主要機能はどれも徒歩の距離に密集している。
巫女姫のいる神殿から、皇帝が住居としている「宮殿」まで、昼下がりの道をのんびりと歩く。凱旋式の熱気が漂うが、官庁街に相当するこの辺りには出店も少なく、下町よりは落ち着いている。
──こうして街を歩くのも、久し振りな気がします。
先を進む護衛役の神官二人と後ろに従う側仕えに挟まれて、記憶よりも低い視点で歩く帝都。賢帝崩御後は急速に治安が悪化し、神殿から気軽に外出することもままならなくなっていた。行き交う市民を警戒するでもなく、護衛達が小声で軽口を交わしているのが微笑ましい。
ほどなく「宮殿」が見えてきた。行政機能を司る公会堂と皇帝の私的な住居を合わせた、それほど大きくもない建物だ。君主が権力を誇示する華麗な王城ではなく、軍事機能を持つ要塞でもない。皇帝の居所であるため便宜上「宮殿」と呼ばれているが、他国の使者はその質素さにまず驚愕するという。
門前に立つ兵士に来訪を告げると、すぐに中庭に通された。噴水と緑の木々が配置された広場を囲む回廊に、長椅子とテーブルが置かれている。そこに寝そべり寛いでいた男が、巫女姫の姿を認めて立ち上がった。
「やあ、久しいな。元気そうで何よりだ、マイヤ」
「ご壮健で何よりです、大兄様」
巫女姫をその名で呼ぶのは、武帝ガレアス。三年にわたる遠征を経て帝都に帰還した凱旋将軍は、短衣ひとつの身軽な姿で大きく両手を広げ、満面の笑みを浮かべていた。
「急に呼び出して済まなかったね。思うように妹と会うことすらままならないこの身が恨めしいよ」
「ご配慮痛み入ります、小兄様」
腰掛けたまま穏やかに微笑んでいるのが、賢帝アレウス。凱旋式と同じ茶色の長衣ではあるが、帯を緩めてくつろいだ様子で杯を傾けている。
双子の兄弟が帝位に就いたのは、彼等が二十になる前のこと。先帝の崩御と同時に帝国の頂点に立った二人は、ありがちな権力闘争に巻き込まれることなく、それぞれの立ち位置を守って帝国に平穏な時代をもたらした。
兄のガレアスは軍団を率いて帝国の外敵を討ち果たす。弟のアレウスは帝都で元老院を抑え、政治的な問題を一手に引き受ける。神話に登場する双頭の獣のように帝国を守護するその姿は、市民からも広く支持されることとなった。
「さあ、遅くなってしまったが食事にしようか。そこに座ってくれ」
「恐れ入ります」
巫女姫が席に着くと、食卓の準備に動いていた使用人達が一斉に下がっていった。この場にいるのは三兄妹と、信頼の置ける腹心のみ。護衛は話が聞こえない距離に立ち、周囲を警戒している。遮る壁もないこの中庭の一角が、密談に適した密室に瞬く間に変わった。
ペトラが薄く焼いたパンでよく煮込まれた肉と香草を包み、巫女姫に手渡す。一口齧ると、強めの味付けの肉から肉汁が溢れた。口の中で香草のやや青みのある鮮烈な風味と混じり合い、食欲を刺激する。改めて空腹だったことを実感しつつ、一口、また一口。汗ばむような初夏の日差しも、噴水と木立のおかげで心地良く抑えられている。兄達も、寛いだ姿勢で思い思いに料理を口に運んでいる。家族で食卓を囲むという、当たり前のようで実現できなかったこと。巫女姫の中で、何かが静かに満たされていった。
「しかし、マイヤは大きくなったな。その服を着ていなければ誰だか分からなかったぞ」
大ぶりの骨付き肉を片手に、ガレアスが言う。後ろに控えるのは、黒髪のがっしりとした大男だ。いかにも軍団叩き上げといった容貌で、腰には実用本位の無骨な短剣を下げている。十代から戦場に立ち続けた武帝ガレアス個人を信奉する兵は多く、それが帝国軍の無類の強さにも繋がっている。今回の遠征も、今の帝国で彼以外に実現できた者はいないだろう。
「そうだね。今日の舞は見違えたな。本当に我が妹なのかと目を疑ったよ」
酸味の強い小ぶりの果実を齧りながら、アレウスが微笑む。穏やかな表情の奥で、深緑の瞳が品定めをするように光っている。賢帝アレウスとは公の場で顔を合わせているが、時が巻き戻ってからは初めてだ。
「ありがとうございます。光栄ですわ」
まっすぐに見返しながら、巫女姫はふんわり微笑んだ。十年分の記憶を上乗せされた巫女姫の秘密に、ともすれば気付いていそうな視線を受け止めきって見せる。無言で見つめ合うことほんの数瞬。先に目を逸らしたのはアレウスだった。卓上の杯に手を伸ばし、注がれた酒の香りを楽しむようにゆっくりと回す。
「その可愛い妹からおねだりをされたのは嬉しかったが、驚いたね。何がそんなに気に入ったのかな?」
「申し訳ありません。どうしても気になったものですから」
巫女姫も杯を手に取った。注がれているのは果実の搾り汁だ。酸味が強いが果汁の多い柑橘と、甘いが果肉が固く汁気の乏しい実を上手に合わせ、ややとろみのある飲み物に仕立ててある。口に含むと、爽やかな香りが広がった。
「あの王女を、わたくしに預けてはいただけませんか?」
「──ふむ」
アレウスが後ろに控える長身痩躯に銀髪の従者をちらりと見上げる。この初老の男は、賢帝の秘書官として内務を取り仕切っている。全ての情報を集約し、選別する立場だ。
「ファトマ姫は現在競技場の控室に収容しています。この後他の戦利品と共に移動の予定です」
「そうか」
「用意した昼食にも手をつけており、落ち着いた様子とのことです。それと…共通語をずいぶん流暢に話す、とのことでした」
表情を変えずに淡々と話す秘書官の報告を、アレウスも感情を窺わせない顔で聞いている。ちらりと視線が送られると、きれいに肉を齧り取られた骨を弄びながらガレアスが口を開いた。
「なかなか語学に堪能なようだな。道中も言葉に不自由する様子はなかったそうだぞ。少なくとも四つの言葉を話すと聞いている」
「ほう。あの歳でそれは優秀だな」
巫女姫の中で、一つの場面が蘇る。凱旋式での舞の最中に、王女が発した言葉。
──『推せる』と、確かに聞こえました。
おかしな行動ばかりで今まで引っかかりもしなかったが、彼女の口を押さえた小声の発言は、はっきりと共通語で聞き取れた。思わず、という様子で口から零れた言葉が、帝国の共通語。彼女の出自は知らないが、母語は王国の言葉ではないのか。
「なかなか面白い方のようですね。ぜひお友達になりたいです」
「ふむ。友達に、ね」
アレウスが川魚の串焼きに手を伸ばしながら、眉を寄せた。小ぶりな身を骨ごと噛み砕く。
「我が妹の頼みとあれば叶えてあげたいが、滅多な者を友人として近付けるわけにはいかないな。ガレアス、どう思う」
「身元の裏は取ってある。本人に危険はない。侍女は癖がありそうなので、途中で船を降りてもらった」
「ほう?」
「危険物は申告するように言ってあったが、短剣を隠し持っていた。リディアからアデナへの船旅の間に事情を聞いたが、どうやら個人的な怨恨によるものだったようなのでそのまま下船させた」
「なるほど。供回りも連れずにどうしたのかと思ったが、そういう話か」
通常高貴な身分であれば、身の回りの世話をする者が数名随伴する。今回その役目を負っていた女が、害意をもって凶器を隠し持っていた、ということらしい。王女に接するなら王国でもそれなりの身分のはずなので、個人的な怨恨だとすると身内を戦乱で失ったのだろうか。
「それで道中こっちで世話係をつけたが、それぞれに言葉を使い分けていたそうだ。なかなか物怖じしない性格のようで、里心がつくでもなくあれこれ質問責めにされたと報告を受けている」
「どんなことを聞いていたのかな?」
「さて?セルギウス、知っているか」
「通りかかった町の名前、その土地の部族、作物、祭。歴史や神話についても聞いてきたとのことです。あまりにもまとまりがなく、思い付くまま口に出している様子であったと」
武帝の従者が答える。何かの情報収集を目的とする様子ではなかった、ということか。
幼いながら諸国の言葉に通じ、随伴者が消えたことに動揺もせず、敵地でも恐怖心より好奇心が勝る王女。不可思議な人物像に、アレウスの眉間の皺が濃くなる。
「マイヤは、あの王女が気になったのだね?」
「はい。神殿の客分として、丁重にもてなしたいと思っています」
兄妹の視線が交差する。よく似た緑の瞳がお互いを映した。
「いいだろう。我が妹にも歳の近い友人は必要だろうからな。すぐにでも神殿に送るので準備をしておくように」
「かしこまりました。ペトラ、お願いしますね」
「承りました」
ペトラが深々と礼をし、賢帝の従者と視線を合わせる。お互いに少し離れた所に動くと、二言三言言葉を交わした。すぐに護衛の一人が呼ばれて、指示を受けて去っていく。これで昼食会がお開きになる頃には、王女を迎える準備ができているだろう。
「さて、無粋な話はここまでにしようか。ガレアス、道中の話を聞かせてくれ。王女ではないが、私も見知らぬ国々の様子は気になる」
「おう。では、馬車ほどもある魚の群れに襲われた話でもしようか。あれは──」
大仰な身振りで語り始めるガレアスに、アレウスもやや身を乗り出しながら聞き入っている。帝都から離れることもままならない賢帝と巫女姫に対して、命を晒す代償に帝国全土を飛び回る武帝。明るい笑い声が混じる中、昼食会は陽が傾くまで続いた。