巫女姫、気付く
神殿に戻ると、細々とした神事の承認を待つ神官達に指示を出し、巫女姫は自室に引き上げた。ペトラが用意してくれた水を飲みながら、昼食が運ばれてくるのを待つ。
奉納品をあからさまに要求するという、巫女姫の立場にあるまじき行為に対する反応はどうなるだろう。元老院では巫女姫としての資質を疑う声が挙がるだろう。市民の反応は予想できないが、少なくとも好印象を与える行動ではない。神殿では表向きは批判の声は挙がらないだろうが、無数の噂が飛び交うのは容易に予想できる。五歳で巫女姫となってから、碌に発言もしてこなかったお飾りが突然動き出したのだ。誰にとっても想定外の出来事が及ぼす影響は、時間が経たなければ分からない。
よく冷えた水を、ゆっくりと飲み下す。汲み置きではなく、わざわざ新しい水を用意してくれる側仕えの心遣いがありがたい。巫女姫の唐突な振る舞いに混乱しているだろうに、主に対する誠実さを忘れない彼女に、少し心が軽くなる。
「巫女姫様」
しばらくすると、困惑した表情の巫女がやってきた。ペトラが応対に立ち、言葉を交わす。小声で交わされるやりとりの詳細は聞こえないが、ぽつぽつ『陛下』という単語が出てくるので皇帝からの伝令が来たのだろう。ペトラがちらりと巫女姫を見やる。無表情だが、鳶色の瞳が揺れている。
「巫女姫様、皇帝陛下より伝言です。せっかく兄妹が揃ったのだから、昼食を共にしたいと。…その、今から」
「今から、ですか」
既に太陽は中天を過ぎ、市民は昼食を終える時間になっている。共に昼食を、というのは呼び出しの口実だ。両皇帝が揃っている機会は少ない。びっしりと会談の予定が入り、食事も有力者との会食になる中で、空いているのが凱旋式直後のこの時間だけだったのだろう。即断即決できる兄達の優秀さに感心すると同時に、「兄妹で食事」という形にしてくれた配慮に巫女姫の心は温かくなった。
今日の唐突な発言について問い糺したいなら、皇帝として最高位神祇官を召喚すればよい。何の打ち合わせもなしに、戦利品の分配という利権抜きには扱えないところに手を突っ込んだのだ。非難も覚悟の上だったが、兄達は拒否もできる身内の食事会という形式で話し合いの場を設けてくれた。
「承知いたしました。使者には承諾の旨を伝えてください。ペトラ、準備を」
「かしこまりました」
一礼をして巫女達が動き出す。準備と言っても、凱旋式に参加するため儀式服を身に付けているのだからこのまま向かっても何ら問題はない。先触れや護衛への予定伝達が必要な程度だ。
──以前は、兄妹で食事などありませんでした。
巫女姫となり十数年。帝都の神殿にその身を置きながら、同じく帝都に暮らす賢帝との間に交流はほとんど無かった。公的な場で隣り合うことはあっても、私的な関わりはむしろ避けていた。
巫女姫というのは、帝国に常に存在する役職ではない。本来であれば、神官の中から合議で最高位神祇官が選ばれ、神殿組織を統括していく。そこに皇帝一族から終身最高位神祇官を送り込み、支配力を強めようというのが目的の身分だ。皇族内で仲違いしていては帝国中枢が混乱するが、あまりに親密だと反発も大きい微妙な立場に、巫女姫は置かれている。
二人ともそれを良く理解しているからこそ、お互いに肉親としての情を向けることはなかった。お互いの身分に相応しい関係を、ずっと維持してきた。
──何かが、変わった。
以前の記憶にある限り元老院を尊重する姿勢を崩さなかった賢帝が、家族の食事会を申し出てきた。巫女姫の凱旋式での言動が発端だが、政治と祭祀の過剰な接近を厭う勢力に配慮するなら、避けた方が良い。それを、あえて踏み越えた。
──わたくしが、変えた?
あの場で巫女姫がしたことは、決して褒められたものではない。根回しも何も無く、感情に任せて口走った結果が、どうなるのかはまだ分からない。それでも。
──歴史が、変わる?
大凶作に国内政治の混乱、蛮族の侵入。戦乱の中での二人の兄の死。全てを変えることはできないにしても、何かを変えることはできるのか。カップを掴む手に、無意識に力が入る。
必要な伝達を終えたペトラが戻ってくる。巫女姫は、水をもう一口含むと立ち上がった。