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巫女姫、目覚める

 手に触れる敷布の感触が心地良い。さり、さり、と暫くもてあそんでから、閉じていた目を開く。

 そろそろ夕方、と呼ばれる時間に差し掛かる頃だろうか。少しだけ赤みを増した日差しが、室内を優しく照らす。

 神話を抽象化した図案のタペストリーが壁を覆っている。広すぎる寝台の天幕は全て上げられていて、寝転がりながら室内を見渡すことができた。

 見慣れた神殿の私室だ。寝台の他には、机と椅子。あとは木箱があるだけの、簡素な部屋。


「お目覚めでしょうか」


 横に控えていた側仕えが声を掛けてくる。暗い茶色の髪に、鳶色の瞳。真面目で誠実な人柄がそのままの顔立ち。


「ペトラ…」

「お加減はいかがでしょう。起き上がっても不快感はございませんか?」


 てきぱきと体を起こし、クッションを背中に差し込んでくる彼女に身を任せる。特に気持ち悪さはない。むしろ元気なくらいだ。


「ありがとう。何ともありません」


 そう答える自分の声が、やけに高いように思える。差し出された木製のカップを受け取る手も、妙に幼い。そういえば、ペトラもなんだか若々しく見える。


──どういうことでしょう?


 水で喉を潤しながら、改めて室内を見回す。特に変わり映えのしない部屋からは、何も読み取れない。


「わたくし、どうしたのでしょう?」

「舞の奉納が終わった後に、気分が優れないとおっしゃっておりました。しばし休息を取っていただくために、こちらに戻っております」


 淡々とペトラが答える。読み取りにくいが、この誠実な側仕えが心から主人を心配しているのは付き合いが長くなるにつれよく分かるようになっていった。


──舞の奉納、ですか。


 最後の記憶は、体を貫く刃の熱さ。そして、気力を振り絞って開けた、巫女姫のしるしの下半分の蓋。

 巫女姫は神聖不可侵。仮にもその身が穢されぬよう、巫女姫のしるしには2種類の薬が仕込んである。

 上の蓋を開くと、丸薬が5つ。1つでも確実に息の根を止める、即効性の薬だ。飲み込めば数十秒のうちに、舌下に仕込めばものの数秒で冥府の門が開く。

 下の蓋を開けば、粉薬が流れ出す。赤みの強いこの粉に触れたら、皮膚はたちまちに爛れ、眼球は数倍に膨れ上がって眼窩から落ち喉は腫れて息を止める。巫女姫の体を破壊し、それを汚そうとする者にも呪いを与える秘薬だ。

 正式な手順としては丸薬を口に含んでから粉薬を使うのだが、あの時は一気に全身の力が抜けるのを感じ、下の蓋を開けるのが精一杯だった。丸薬は粉薬で苦しまぬようにするための慈悲なので、手順を飛ばしても良いだろうと判断したのだ。


──巫女姫として最低限の責任を果たせた、と思ったのですが。


 今のこの状況は何だろう。小首を傾げてペトラを見上げると、彼女はうっすらと唇を動かした。微笑んだのだと理解できるのは、ごく少数だろう。


「戦勝を寿ぐ舞でしたから、少々お体に負担があったのでしょう。今日は日差しも強うございましたから」


 空になったカップに水差しから水を注ぎつつ、ペトラが答える。

 戦勝。

 帝国が戦に勝つなど、いつ以来の話だろう。大兄様…武帝崩御からこちら、帝国軍と呼べるほど組織立った軍勢を用意することもできずにいたというのに。

 静かに水を飲む巫女姫をどう思ったか、ペトラが言葉を続ける。


「明日は凱旋式ですので、巫女姫様にも出席していただかなければなりません。本日はゆっくりとお休みください」


 凱旋式、という言葉が、妙に強く響いて聞こえた。


──わたくしが参加したことのある凱旋式は、ただ一度だけ。


 帝国最後の、かりそめの安定。共同皇帝の短い治世で、異国を討ち行われた、ただ一度の凱旋式。

 武帝亡き後、帝都で凱旋式を行うことができる将軍など現れるはずもない。

 高い声。幼い手。若い側仕え。そして凱旋式。つまり。


──これは、夢。


 巫女姫の中で、一つの結論が出る。


──きっと、神々が最後に見せてくださる、優しい夢なのでしょう。


 皇女として生まれ、神々に身を捧げた巫女姫への、死の間際に与えられた情け。幸せだった頃の記憶を、こうして手で触れられるほどに甦らせてくれた。

 また目を閉じれば、きっとおしまい。永遠の安寧の闇へと還る前の、束の間のひととき。

 横に立つ、記憶よりも若い側仕えを見上げる。

 最後の瞬間まで付き従ってくれた彼女に、巫女姫殺しの大罪を犯させてしまったことだけが気がかりだ。


──どうか彼女が赦されますように。


 視線に気付いたペトラが、じっと見返してくる。静かな鳶色の瞳に籠る色は、敬愛。


「ありがとう」


 微笑んでカップを差し出すと、ペトラはそれを受け取り片付け始めた。クッションに身を委ね、もう一度室内を見回す。

 初夏の風が、優しく室内に流れてくる。この季節に咲く柑橘の白い花が放つ芳香と、勢いを増す青草の匂いが入り混じった中で、重くなる目蓋に逆らわずに目を閉じる。

 振り返れば、幸せな生涯だったと思う。混乱し崩れ落ちていく帝国を横目で見つつ、祈りを捧げる日々だったが、そこには心の平安があった。周囲が与えてくれる、確かな愛情も。


──ありがとう。全ての人に、神々の御加護が在らんことを。

巫女姫様、ペトラがいる空間で猛毒を使うことについては何の躊躇いもありません。むしろ巫女姫殺しの罪の代償くらいの感覚でしょうか。

プロローグの「平安をもたらす」の意味も、まあそういうことです。


読んでくださってありがとうございます。

続きが少しでも気になるな、と思ってくださるようなら是非ブックマークをお願いいたします。

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