プロローグ
拙作に興味を持っていただきありがとうございます。
流行りの異世界ものを書いてみたいな〜、と思って書いていたらこうなった、という作品です。
お楽しみいただけましたら幸いです。
※のっけから暴力的な表現があったりしますので、苦手な方はご注意ください。
沐浴場の高窓から、穏やかな午後の日差しが降り注ぐ。水盤から流れ落ちる水が虹色に輝き、大理石の床を柔らかに濡らしている。
静謐な室内とは裏腹に、外からは怒号と破壊音が響いてくる。焦げた臭いは、焼き打ちがあったか。暴徒は何故、ただ物を盗むだけではなく火を放つのだろうか。焼いてしまえば、せっかくの財も価値を無くすというのに。
──強い怒り。憎しみ。嫉妬。あるいは絶望。それを形にせずにいられずに、火を付けて回るのでしょうか。
沐浴場は巫女が身を清める性質上、内側から閂をかけられる。籠城に適したこの場所には、今二人の人影があった。
一人は巫女姫。金を含んだような淡い茶色の髪に、大地を思わせる翡翠の瞳。帝国の祭祀の頂点に立つ、弱冠19歳の少女だ。ほっそりとした体を純白の巫女服に身を包み、水盤に白い手を浸す姿からは何らの動揺も見られなかった。
もう一人も巫女服に身を包んではいるが、扉の閂をしっかりと押さえつける手は緊張に震え、表情の乏しい顔は蒼白になっている。歳の頃は30を超えた、巫女姫付きの筆頭側仕えである彼女は、神殿が攻撃対象になった事実に平静を欠いているようだった。
──はるか前から、予兆はありましたもの。覚悟はしておりました。
水盤で手を清めた巫女姫は、側仕えを振り返る。自身が神に身を捧げる前から巫女として神に仕え、巫女姫となった自分に誠実に接してきてくれた彼女には、せめて最期に平安をもたらしたい。
「ペトラ、こちらへ。あなたも清めを」
巫女姫は、優しく微笑みながら側仕えの名を呼んだ。親しみと愛情に溢れた呼び掛けに、ペトラがゆっくりと振り返る。
「巫女姫様…」
ペトラが振り返り、主人に向かって一歩を踏み出したその時だった。
ドン!と乱暴に何かを打ち付ける音が扉の外から響いた。続けて、二度、三度。意味不明の複数の怒声が、同時に聞こえてくる。
神殿の奥深くのここまで、暴徒と化した民衆が辿り着いたのだ。みしみしと軋む扉から、ペトラが後退り離れていく。彼女の瞳がもう一度主人を捉えた時、そこにはもう冷静さは残っていなかった。
「巫女姫様」
ペトラが自らの懐から、美しい装飾の施された短剣を取り出す。ただ神々と巫女姫だけに従い、現世のいかなる権力にも屈しない象徴であるその短剣の鞘を抜き払い、床に捨てる。研ぎ抜かれた刃が、高窓からの日差しを受けて白くきらめいた。
「申し訳ございません。御身を暴徒に渡すわけにはまいりません」
「ペトラ、落ち着きなさい」
ゆっくりと巫女姫に近付くペトラの足取りは覚束ないが、瞳は常軌を逸した色に染まっていた。追い詰められた人間が浮かべるその色を何度も目にしてきた巫女姫は、首から下げられた巫女姫のしるしを高く示した。
「わたくしは…」
「この身では贖いきれぬ罪であることは理解しております。ですが、どうか…お許しください」
さして広くはない沐浴場の壁際まで、巫女姫が追い詰められるのに時間は掛からなかった。両手で握り締めた短剣ごと、ペトラが巫女姫に飛び込む。帝国の名匠の手による刃は、巫女服を易々と切り裂き、深々とその胸に突き刺さった。
言葉も発せずに崩れ落ちる巫女姫の手が、握っていたしるしを砕く。しるしから零れた赤い粉が、流れる血と混じり合い、沐浴場の床に広がっていった。