2章 俺、恋人と別れる
講義が終わり、帰り支度をしていた頃。
「翠命」
「……ああ、矢千夜」
顔を上げると、矢千夜がこちらへ来ていた。
ふと俺は、違和感を覚えた。
矢千夜自身はいつもと変わりない。
白いTシャツの上に灰色のパーカー、濃紺のジーパン。黒いダウンジャケットを羽織って黒いリュックサックを背負っている。
動きやすさを重視した、矢千夜らしいラフな格好だ。毛先を外に跳ねさせたボブヘアとマッチしている。
じゃあ、この違和感はなんなんだ?
少し考えて俺は気付いた。原因は外にではなく、己が内にあると。
心が冷めきっているのだ。以前までなら、矢千夜と会う時は多少なりとも心が浮き立っていたはずだ。年齢=彼女がいない歴の俺にとって、女子の方から自分に会いに来てくれるというだけで幸福感を得ることができた。
しかし今はもう、なんの感慨もない。
知ってしまったからだ、より甘い喜びを……。
「どうしたの? なんか元気、ないみたいだけど」
「あ、ああ……。ちょっと寝不足なんだ」
「へえ、何してたの?」
「講義の予習をちょっとな」
「講義の予習って……、あんたが?」
ぷっと吹き出す矢千夜。
客観的に見たら可愛いのだろう。以前のように胸がときめくようなことはないが……。
「予習どころか、課題だってほとんど出さないじゃない」
「単位が取れる程度には出してるよ。事前にちゃんと計算してるんだ」
「努力するべきところを大きく間違えてる気がするけど。まあ、せいぜい単位を落として落第なんてしないようにね」
「わかってる、気を付けるよ」
笑いすぎて出た目じりの涙を拭いながら、矢千夜は訊いてきた。
「……で、今日は暇?」
「ああ、時間はあるが」
「じゃあさ、久しぶりにデートに行かない?」
「別に構わないが。どこか行きたいところとか、あるのか?」
「映画。新作で、面白そうなものがあったのよ」
「新作って、なんだ?」
「脳移植が題材のノンフィクションのヤツ。タイトルはなんだったっけ……」
「『Brain Transplant』」
「そう、それそれ」
「珍しいな、お前がお堅い作品に興味を持つなんて」
「桂木先生が絶賛してたのよ。手術の時のカメラワークがすごかったって」
「作家の影響か」
「で、どうなの? もちろん、行くわよね?」
「ああ。いつもの近くの映画館でいいよな?」
「オッケー。あそこのポップコーンは美味しいしね」
「ポップコーンの味で映画館を決めてるのはお前ぐらいだよ……」
「ふやけたポップコーンを食べながら観る映画ほどつまらないものはないわ。ちゃんとパリっとした歯ごたえがないとね」
「映画とポップコーン、どっちが目的なんだよ……?」
「どっちもよ。最高の映画とポップコーン、それに炭酸バリバリのコーラ。この三種の神器がそろうことで、初めて最高の映画鑑賞と呼べるのよ」
「俺は空調がちゃんとしていて、周りの客がまともなら特に言うことないけどな。まあ、映画が詰まらないのは論外だが」
「大丈夫よ。もしも映画が外れだったら、終わった後に翠命に思いっきり愚痴るから」
「俺を連れていく目的はそれか……」
「あはは。もちろん、恋人だから一緒にいたいっていう純粋な乙女心もあるのよ」
「……自分で言っちゃうと嘘くさくなるぞ、それ」
「いいのよ。どれだけ嘘くさくても、翠命さえ信じてくれればいいんだから」
腕を強引に組んできて、矢千夜は顔を覗き込んでくる。はちきれんばかりの元気が溢れた笑顔で彼女は言ってくる。
「さ、行くわよ。映画の後は、買い物にも付き合ってね」
「ああ、わかったよ」
歩き出そうとするも、矢千夜は立ち止まったままだ。見ると彼女は意外そうな顔でぱちぱち瞬きを繰り返していた。
「どうしたんだ?」
「え? あ、その……。いつもなら翠命、恥ずかしいから人前で腕を組むなとか言いそうなのにと思って」
「……ああ」
なるほど、確かに以前の俺なら羞恥心の一つでも抱いていただろう。
女の子と腕を組んでいるところを不特定多数の他者に目撃されるなんて、鈍感な精神の持ち主でもない限り耐えられないはずだ。
だが俺の心は山間にひっそりとある湖のように凪いでいた。
なぜだろうと考えて、すぐ答えが導き出された。
もう俺は矢千夜のことなど眼中にないのだ。
こうして腕を組まれているところを他人に見られて関係を勘繰られたとしても、まるで動じない自信がある。自身が彼女に対してそういう方面の興味を抱いていないと確信しているからだ。
ただ、その目撃者がアイツだったら……。
想像しただけで不安が一気に胸中に押し寄せてきた。
「……なんか顔色、悪くない?」
「い、いや、なんでもない。早く行こうぜ、時間ないんだろ?」
「そうだけど……。でも、具合が悪いなら……」
「大丈夫だって、寝不足なだけだし。ほら、行くぞ」
俺は矢千夜の腕を引いて、歩きだそうとした。
だが彼女が急に「あっ」と声を上げた。
「翠命、荷物を忘れてるわよ」
「え、あ……やべ」
言われて気付いた。まだバッグを机の上に置きっぱなしだった。
「もう、ドジなんだから」
けらけら矢千夜に笑われる。
俺が何かをミスって、しっかり者の彼女にフォローされる。いつものお決まりみたいなやり取りだ。なんだか少し、懐かしさみたいなものを感じた。
リュックを背負った時、ポケットの中でスマホが鳴った。
まだメアドは誰とも交換していないし、LIWEのフレンド登録も一人としかしていない。
通知が来るようなアプリはそのLIWEくらいだ。
となればこの送信音は十中八九、アイツからの連絡だ。
スマホを取り出しスリープモードを解除して目に入ったのは、やはりLIWEの通知。もちろん送信者は空華だった。
『設定資料の報酬、まだ渡してなかったよね。どれぐらいがいいかな?』
これから会おうという誘いでなかったことにひとまず安心する。さすがに連絡が着てすぐに約束を破棄して去るのは怪しすぎるからな。
……いや、待て。そもそも……。
「あ、やっとスマホ買ったのね」
そうだ、まだ矢千夜にスマホを買ったことを報告してなかったな。
……マズいな。
恋人よりも先に、別の女の子とLIWEのフレンド登録をしたってバレたら……。
「ねえ、翠命。……聞いてる、翠命?」
「……なっ、なんだ!?」
はたと我に返ると、矢千夜は眉根を寄せてこちらを見ていた。
「本当にどうしたの? 今日の翠命、なんか変よ」
「いやいや、全然普通だって。……あ、そうだ。矢千夜も連絡先交換しようぜ。その方が色々と便利だろ?」
「……え?」
「どうしたんだよ。交換しないのか?」
「あ、その……」
矢千夜は何か言いたげだったが、それをぐっと飲みこんだ様子で「ええ」とうなずいた。
LIWEでフレンド登録した後も、矢千夜の表情は曇ったままだった。
「おい、矢千夜?」
「……………………」
「矢千夜、矢千夜っ」
「……あっ、ごめん。なに?」
「いや、特に何もないが……。大丈夫か? なんか、ずっと浮かない顔してるが」
「気にしないで、何もないから。本当に、何も……」
その沈んだ声音を聞いて気にするなというのは、到底無理な話だった。
連絡先を交換した時から……いや、その少し前からだったか。矢千夜はずっと上の空で話していてもすぐに物思いにふけってしまう。
何が原因だろうか。
いくら考えても、俺には皆目見当もつかなかった。
○
映画を観終えた俺達は、適当なファミレスに入って食事をとっていた。
「結構面白かったな」
「ええ。脳移植をしても人格が引き継がれなくて、家族がショックを受けるシーンが特にリアリティがあってよかったわ」
「確かにあそこは観てて心が痛んだよ。だけどなんで人格が変わっちまったんだろうな。記憶はまったく欠損してなかったのに」
「人格を形成しているのは記憶だけではないからよ」
「……でも心っていうのは人によって違う経験を蓄積しているからこそ、十人十色の形に成長するんじゃないか?」
「確かに記憶は人格の形を決めるうえで大きな役割を担っていると思うわ。生まれ育った家庭環境、受けてきた教育、己の汗や血を流して努力したこと、嗜んだ趣味や人々とのかかわり。送ってきた人生を体現化したものが、その人の人格といっても過言ではないわ。例外を除いてね」
「その例外っていうのが、脳移植なのか?」
「まさしく」
矢千夜は慣れた手つきでフォークを使い、明太子のパスタをきれいに巻き取り食べた。
それからお冷で口を潤した後、先を続けた。
「人格を形成しているのは記憶の他に、もう一つ存在する。なんだと思う?」
いきなり問われた俺は戸惑い、しばし黙考してから答えた。
「……先天的なものじゃないか。遺伝とか」
「当たらずも遠からず、ってところね。正解は器……身体よ」
「身体ってアバウトだな。人体のどの辺りを言ってるんだよ?」
「全身よ。翠命はコネクトームって知ってる?」
「コネクトームって……、神経回路のことだったか?」
「ええ。脳の全神経配線図を意味する造語よ。これをとある研究組織が完璧に解析したことで、あらゆる精神病を治療できるようになったと言われているわ。でも、それが誤りであることはもうわかっているの」
「えっ……、どういうことだ?」
「あの映画がその答えよ。確かに脳は人格の中核的な存在なのかもしれない。ただしそれだけじゃないの。身体の部分もその構成要素に大きく含まれるのよ」
「よくわからないな」
「健康な精神は健康な肉体に宿る」
「……ユウェナリスだな」
「正解。本来の意味とは異なるようだけれども、今回は額面通り受け取って」
矢千夜はすっかりきれいになった皿にそっとフォークを置き、その持ち手を指先で撫でながら続けた。
「精神と身体は密接な関係にあるの。どちらかに変化があれば、もう片方にも間を置かず影響を及ぼすわ。空模様と潮の満ち引きのようにね」
「空が荒れれば海も荒れる。逆もまたしかり、ってことか」
「その通りよ。だから映画の中の主人公も脳移植が成功したにもかかわらず、人格が大きく変わってしまったのよ。身体がまったく別のものになってしまったから」
「……その人格って、元の身体の持ち主に近い感じになるのか?」
「さあね。あの映画の元になった出来事以来、脳移植事態が禁止になってしまったから、あたしも知らないわ。その人も自殺してしまったからね」
「そ、そうなのか!?」
「おそらく絶望してしまったんじゃないかしら。自分という存在があやふやなまま生きていくことに」
その言葉を聞いた途端、胸中に痛みを覚えた。
あやふや……その言葉になぜか、引っ掛かりを感じた。
ああ、そうか。今の俺のことをぴたりと言い当てられた気がしたのだ。
「……ねえ、これを食べたら今日はもうお開きにしましょうか」
「この後、買い物に行く予定じゃなかったか?」
「そうだけど……。翠命の具合がよくなさそうだから」
「別にそんなことはないけどな」
何かデザートでも食べようかとメニューに手を伸ばした時、スマホが震えた。映画を観る前にマナーモードにしてて、それを解除していなかったからバイブレーションしたのだ。
スリープモードを解除すると、LIWEにメッセージが届いているという通知が表示されていた。もちろん、空華からだ。
『起きたらお話ししてほしいな~』
ずっと返信していなかったから、昼寝でもしていると思われたのだろう。他にも何件かメッセージが届いていた。
俺は慣れない手つきで『今はデート中だから後でな』と返した。
ふと気付くと、矢千夜がじっとこちらを見ていた。
俺が見返すなり、彼女は硬い表情で訊いてきた。
「……誰から?」
「えっ……?」
「メールか、メッセージが届いたんでしょう。その相手は誰なの?」
「ええと……、母さんだよ。来月の仕送りはいくらぐらいがいいかって訊いてきたんだ。ほら、スマホも買ったし今までの仕送りと同じ額だと足りないだろ?」
「……そう」
少し矢千夜の表情は和らいだ。
それを見て俺は平均台を渡り終えたような安堵感を覚えた。
スマホのタスク管理ボタンを押して、LIWEのアプリをスライドして閉じた。几帳面な性格というわけではないが、一度使ったアプリはこうして毎回きちんと閉じておかないと落ち着かなかった。
ホーム画面に自分の好きなゲームのヒロインキャラが映る。つい表情筋が緩んでしまいそうになるが、恋人の前なのでさすがに自重する。
スマホをスリープ状態にして机に置いた時、ふと尿意を覚えた。
「すまん、ちょっと花を摘んでくるよ。荷物を見ておいてくれ」
「ええ、わかったわ」
俺は席を立って手洗いに向かった。
個室に入り便座に腰を下ろしてすぐに、腹の具合が悪くなった。そのせいで思ったよりも時間がかかってしまった。
トイレから出て腕時計を見ると、すでに十分近く経過していた。
矢千夜を待たせてしまった罪悪感から、急ぎ足で席に戻った。
だがそこには、矢千夜の姿はなかった。彼女の荷物もなくなっている。
急用が入って、帰ってしまったのかもしれない。矢千夜は暇人の俺なんかとは違って、多忙な日々を送っているからな。
LIWEに何かメッセージが届いているかもしれないと思い、スマホのスリープモードを解除した。
ロック画面を解いてすぐにLIWEアプリの空華とのトーク画面が映る。
ふと違和感を覚えた。
別におかしいところはないはずだ。それなのに、なんで……。
しばらくスマホの画面を凝視して気付いた。
……あれ。そういえば俺、LIWEのアプリを閉じなかったか?
間違いない、確かに閉じたはずだ。だからロック画面を解除したら、まずホーム画面が映らないとおかしい。
じゃあなんで、LIWEのトーク画面が映ってるんだ……?
さあっと全身の血の気が引いていく。
……まさか。いや、そんなはずは……。
浮かんだ最悪の考えを頭の外に追いやろうとする。しかしそれはこびりついてしまった汚れのように払拭することができない。
俺は事実を確認すべく、別のフレンドのトーク画面を開いて、メッセージを送った。
『俺のスマホを勝手に見たりしてないよな?』
意識していなかったが、自然とそれは責めるような文調になっていた。
まるで自分の犯した罪から必死に目を逸らそうとしているかのようだ……。口に含んだブラックコーヒーの苦味が、さっきよりもくどくなっているような気がした。
少ししてマナーモードを解除しておいたスマホから着信音を鳴った。
画面を見た俺は、奈落の底に突き落とされたような絶望に目の前が真っ暗になった。
『もう二度と連絡してこないで』
それからすぐに矢千夜にブロックされて、もう二度と彼女にメッセージを送ることができなくなった……。
○
ふらふらと長いこと色々な場所を彷徨い、外が暗くなってから俺は帰宅した。
自室に入るなりベッドに倒れ込み、目を閉じた。
そして何度も繰り返した自問自答を再び始める。
どうすればよかったのだろう?
スマホにパスワードを設定しておけばよかったのだろうか?
机の上に出しっぱなしにしていたのがいけなかったのだろうか?
そもそも矢千夜にスマホを持っているのを知られたのがマズかったのか……。
……いや、そうじゃない。そうじゃないだろう。
俺は皮を破かんばかりに唇を噛んだ。
空華に心が揺れ動いてしまったこと。それこそが今回の事態を招いてしまった原因そのものじゃないか。
空華と親しくならなければ。
彼女の支援を受けなければ。
……あの日、ノートを講義室に忘れなければ。
こんなことにはならなかったのに……。
後悔が胸を巣くっていた。
だがそれはすぐに別の感情に取って代わられた。
……ああ、よかった。煩いの種がなくなって。
これでもう、余計なことに頭を悩ませずに済む。
安堵。解放感。ふつふつと喜びが湧いてくる。
たちまち頭の中から矢千夜に関することがなくなっていく。その空白を埋めるように、空華の顔、彼女と交わした言葉、そして共に歩むであろう未来予想図が浮かんできた。
そうだ。別にもう矢千夜のことなんてどうでもよかったんじゃないか。
俺には空華がいる。
彼女さえいれば、他のことなんてどうでもいいのだ。
だからこれは違う。
決して悲しさに起因するものではない。
嬉し泣きだ。嬉しさがあり余って、涙として流れ出してきているのだ。
胸が張り裂けそうなのは、喜びがはち切れそうなぐらいそこにつまっているからだ。
矢千夜にフラれたのは、僥倖だったのだ。
俺は何も失ってなんかいない。これからそれ以上のものを手に入れるのだから。
ベッドから身を起こして、ふらつく足でパソコンの前に向かった。
パソコンを立ち上げて、オンラインストレージを開いた。
そこから昨日預けたばかりの小説のファイルをダウンロードする。
これは俺が空華との愛の交歓を夢見て書いたものだ。欲望の権化と呼んでもいい。
正常な思考回路を持つ人間が見れば、たとえ百年の恋を抱いていたとしても一瞬にしてそれは冷めてしまうだろう。
だが空華なら、あるいは……。
俺はパソコンでLIWEを開き、空華とのトーク画面へ飛んだ。
メッセージ欄にある添付ボタンをクリックし、さっきダウンロードした圧縮されたままのファイルを選択。
あとは送信すれば、空華に届く。
これを送ってしまえば、全てが終わってしまうかもしれない。
矢千夜にフラれて、空華に嫌われる。そうすればもう、俺は一人きりになってしまう。
……まあ、別にいいじゃないか。
俺みたいなロクでもないヤツは報いを受けるべきなのだ。それが道理というものだろう。
もしかしたら少し自暴自棄になっているのかもしれない。このままだと何か取り返しのつかない失敗をしでかしそうな予感がした。
……取り返しのつかない失敗? そんなのとっくにしているじゃないか。
自嘲的な笑いが漏れた。
もう何も考えなくてもいい。すでに己が身は半壊している。
残された可能性は二つ。完全に自爆するか、立ち直れるか。それだけだ。
覚悟を決めて送信ボタンをクリックした。すぐに小説が添付されたメッセージは空華へ送られた。
意外にも俺は落ち着いていた。あるいは諦観が達観へと転じたのかもしれない。
平静さを取り戻した途端、腹が空いていることに気付いた。
タスクバーのデジタル時計を見ると、『20:47』と表示されていた。
もうそんな時間だったのかと少し驚く。
冷蔵庫の中に何があったかと考え出してすぐ、スマホが鳴った。
もしかして矢千夜が……と、飛びつくようにして手に取り電源ボタンを押した。
だがLIWEの通知は空華からのものだった。
喉の奥から胃の底まで重くなるような酷い落胆を感じて、今更気付く。
矢千夜のことも俺はまた、空華に劣らず愛していたのだと……。
ぼうとした意識のまま、通知ボタンをタップしてLIWEを開いた。
『小説送ってくれてありがとう! 早速読んでみるね♪』
そのメッセージに俺は失意の底に沈みながらも、口の端を僅かに緩めることができた。
料理をする気も起きず、夕食はカップラーメンで済ませることにした。
それだけじゃおそらく足りないので、何かおかずになるものを探して冷蔵庫を漁ると、冷凍のタコ焼きがあったのでそれをレンジで温める。
なんとか体裁を整えたものの、寂しい食卓だった。いつもと同じはずなのだが、今日は一段と色彩を欠いて見えた。
しかし一度食事を口に入れると、空きっ腹が満たされていく多幸感から箸は普段よりも進んだ。その現金っぷりに俺は我がことながら呆れた。
マヨネーズマシマシのシーフードヌードルを啜っていると、スマホが鳴った。
もう俺にメッセージを送ってくるヤツは一人しかいない。
この着信は十中八九、小説の感想だろう。
じっとりと全身が汗をかいていた。暖房が効きすぎているわけでも、炬燵が熱すぎるわけでもない。むしろ汗はバイカル湖から汲んできたかのように冷たかった。
俺は震える指で通知をタップし、LIWEを開いた。
メッセージを見た瞬間、抱いていた諸々の感情が頭の中から全て抜け落ちてしまった。
『今回のはとびっきり面白かったよ! 報酬は次に会った時に渡すね(^^)』
拍子抜けした思いでしばらく俺は画面を見つめていた。
……それだけ?
他には何か言うことはないのだろうか?
まさか、散々黒巫女の性技で淫靡に喘がされた水無月のモデルが自分だと気付いていないのか?
いや、さすがにそんなことはないだろう。容姿からしゃべり方など、ほぼ全てを空華に寄せて書いたキャラなのだから。これでもしも彼女が少しも引っ掛かりすら感じていないのだとしたら、俺は描写力の自信を失ってしまう。
メッセージで訊こうかと思ったが、今はまだ心の準備ができていない。
今度会った時に会話の流れでそれとなく尋ねてみよう。いやまあ、空華の性格を考えたらどっちに転んでもただ答えるだけじゃ済まない気がするが……。
何はともあれ、あのとんでもない小説を受け入れてもらえてよかった。
安堵感を覚えると共に、空腹感が膨れてきた。このタコ焼きとカップラーメンだけでは到底、腹を満たせそうにない。冷凍ピザがあったはずだ、それも温めよう。
俺は鼻歌を歌いながら冷蔵庫へと向かった。
とろっとしたチーズがこれでもかと載せられたピザの包装袋を見るなり、テンションが上がってきた。
デザートに冷凍庫で大量に保存しているアイスも食べることにした。
ラーメンをスープまで飲み干して完食し、タコ焼きをつまみながら待っているとレンジからチンッという音が聞こえてきた。
ドアを開くなり、ふわっと出てきた熱気が顔にかかった。ピザの生地に触れてみると、指先からじんわりと伝わってくる。
取り出して手で適当に千切り、三角状になった中心部分を一口。オーブンの時とは違うほろっとした柔らかさのチーズ。甘酸っぱいトマトソースに後からかけたバジルソースがピリッと来る。もたらされる熱と共に、咀嚼してそれ等を楽しむ。
口の中に残ったものをミルクティーで流し込んで、二口目。さっきより欲張って大口で食べて、何度も噛む。その度にうま味が広がって多幸感で頭の中が満たされていった。
ピザを食べ終えて、アイスに取り掛かる。
バニラ味のウルトラカップ。ラクトアイスだから植物油脂が入ってるし体に悪いんじゃないかと思いつつも、安くて美味いからついつい買ってしまう。
あらかじめ出しておいたから、程よく溶けていてスプーンが気持ちよく刺さる。
口に入れるなりさらっと溶けて、ひんやりした甘みが広がっていく。
温かい炬燵に入って、冷たいアイスを食べる。これこそまさに、今の日本における最高の冬の過ごし方ではないだろうか。なんか贅沢な気分になれるのがいい。
アイスを食べながらチューナーレスのテレビで動画配信サービスに繋ぎ、お気に入りのアニメをだらだら流し見しつつ次の小説のネタを考えた。
眠くなってきた頃に風呂に入ってシャワーだけさっと浴びて、パジャマに着替えた後にホットミルクを飲んだ。生きている中で小確幸を得られる貴重な一時だ。
それから歯を磨いてベッドに潜り、目を閉じる。
掛け布団の中でぬくぬく温まっていると意識が微睡んでいき、夢の世界へと誘われる。
眠りに落ちる一瞬、俺は思った。今日はいい夢が見れそうだと。
○
数日後、俺はカフェで空華と会っていた。
「はぁ~、生き返るねえ」
分厚い上着を脱ぎ捨てた空華は、机に上半身を投げ出しふにゃけた顔で脱力している。なんか新種の軟体動物みたいだ。
「ババ臭いな」
「仕方ないじゃん。なんかここ数日で、ものすっごく寒くなったんだもん。暖房のついてない場所はもう極寒地獄だよ」
「確かに冬場はあまり外には出たくないよな」
「でしょ。まあ、雪でも降ってくれるなら話は別だよ。すっごいきれいな景色が見れるし、雪遊びもできるもん」
「雪遊び……? お前って本当に大学生なのか?」
「山村くんはしないの?」
「そりゃ、まあな。中学生の頃にはもう卒業したぞ」
「はやっ! もしかして年寄り臭いのって、本当は山村くんの方じゃない?」
「寒いのにさらに体が冷えるようなことをするのって、バカだろ」
「典型的な引きこもり気質なんだね」
「夏と冬に好き好んで外に出るヤツは全員、ドMだと思ってる」
「じゃあじゃあ、海水浴にも、スキーとかスノボーにもいかないの?」
「どっちも嫌いだ。日本の汚れきった海に入るヤツ等なんて気が知れないし、同じ場所を何度も滑るだけのスキーとかスノーボードなんてただ退屈なだけだろ」
「……やっぱり夢月より山村くんの方がシルバー世代だよ」
「なんと言われようとも、俺はアウトドアなことはできる限りしたくない。家の炬燵でぬくぬくしながらアニメやゲーム、読書とか動画鑑賞をしてるのが正しい冬の過ごし方だ」
「えー。じゃあ、温泉とか興味ない?」
「……なにっ!?」
釣り針にかかった自覚はあるものの、一度抱いた期待を捨てることはできない。
思わず身を乗り出すと、空華はくすくす笑った。
「食いつきがいいね」
「温泉って言ったら、冬場のオアシスだぞ! 日本人なら誰だってその単語を耳にしたら誘惑の魔法にかかるだろ」
「誘惑って……そんなサキュバスみたいな」
サキュバスという単語を耳にして俺は思い出した。
そういえば今日はあのことを空華に訊こうとしていたんだった。
俺は一度心を落ち着けてから、できるだけ自然な感じになるよう努めて切り出した。
「……なあ。そういえば、この前送った小説だけど……」
「エッチな『黒巫女様』のこと?」
隠す気なんてさらさらないストレートな一言に、俺は羞恥心で全身を焼き尽くされそうになった。
「なあ、もうちょっと時と場所を考えた言い方ってあるだろ!?」
「え、何かマズかった?」
「今の会話聞かれてたら、俺が官能小説を書いてるって思われるだろ!?」
「でも事実だよね?」
「だとしてもだよ! 俺を羞恥心で殺す気か!?」
「大丈夫だよ、官能小説家さんの中にもカフェで打ち合わせする人はきっといるから」
「その人達は心臓に毛が生えてるんだよ。っていうか俺は官能小説家にはならないからな」
「もったいないなぁ。山村くんには、そっちの才能もあると思うよ」
「俺が書きたいのは一般小説とかラノベだ。官能小説家には興味ないんだよ」
「そっか。まあ、山村くんならどんな道に進んだとしても、きっと成功するよ」
空華はバッグからノートとプリント用紙を取り出して、それを俺の方へ突き出してきて言った。
「だってこんなに面白い小説が書けるんだから!」
そのプリント用紙を見た途端、俺は血管の中が一瞬で凍り付くような感覚に襲われた。
「……なあ、それってもしかして……この前送った小説か?」
「うん、プリントアウトしたんだ」
景色が揺らいだかと思うと、重力が氾濫した川から溢れてきた濁流のように押し寄せてきて、全身を巻き込むような尋常じゃない眩暈を覚えた。
「……それ、スマホでも読めるデータで送ったよな?」
「うん、普通のテキストファイル形式だったよ」
「じゃあ、なんでわざわざプリントアウトしたんだよ」
「夢月、紙派なんだ。だからラノベとか漫画も、特典とかついてないなら本の方で買うようにしてるの」
「……そうか、俺も同じだから気持ちはわかる。でもわざわざカフェまで持ってこないでくれないか?」
「前にも言ったけど、行き帰りの車の中でも読みたいんだよ」
「……モニクの前でもエッチなシーンを読むのか?」
「うん。たまに涎が垂れちゃった時、ハンカチで拭いてくれるんだよ」
「マジかよ……」
想像の斜め上を行く衝撃のエピソード。俺は驚く前に呆れてしまった。
「まあ、ともかく。その小説の感想を改めて聞かせてほしいんだ」
「すっごく面白かったよ!」
「……もっと具体的なコメントはないのか?」
「今回の黒巫女様は夜伽だからかいつもと違って、淫靡で積極的だったよね。そこもまた魅力的だったよ。色んな女の子と床を共にしてきたから、同性への性技が卓越してるって部分も説得力があってよかったなぁ。あと山村くんって貝合わせのシーンを書くのがすっごく上手いよね。なんだか自分が水無月ちゃんになっちゃったみたいでドキドキしちゃったよ。あ、そうそう、水無月ちゃんといえば……」
その名前を聞いた途端、胸骨が砕けそうな勢いで心臓が暴れだした。
一体、どんなことを言われるのか……。緊張が最高潮に達して、鼓動の音が耳の近くでひっきりなしに響いていた。
空華は顎に手をやり、天井を見上げながら言った。
「初めてにしては、ちょっと夜伽に慣れすぎてるなぁって感じちゃったかも。もう少し初々しくして、黒巫女様に床の手解きをされてるところを見てみたかったなって。そこがちょっぴり残念だったよ」
俺は衝動的に机に突っ伏していた。天板に勢いよく額を打ち付けてしまって、ヒリヒリと痛みを訴えていた。
「わっ……! ど、どうしたの山村くん!?」
「……いや、そのさ。もっとこう、何か他に気になることはないのか?」
額を撫でながら身を起こすと、空華は腕を組んで難しいで唸っていた。
「他……って言われても。今回もほとんど文句のつけようもないぐらいの傑作だったし」
「いや、小説自体の出来じゃなくて……。こう、キャラクターの雰囲気とか」
「……あ、もしかして水無月ちゃんのモデルが夢月だってこと?」
「やっぱり気付いてたんかいっ!」
思わず関西の漫才師みたいなノリで突っ込んでしまった。
方々からくすくす笑い声が聞こえてきて、俺はかぁっと顔が熱くなるのを感じた。
時間帯は午後三時頃、店内の客はまだ主婦の方達しかない。そんな彼女達に微笑ましいと思われているのなら、マズい部分を聞かれたということはないだろうが……。それでも注目されてしまった現状には羞恥心を感じてしまう。
俺は気持ち小さくなり、声を潜めて会話を再開した。
「なあ、その……。嫌じゃなかったか?」
「嫌って、何が?」
空華も俺に合わせた声量にしてくれる。
そのことに少し安堵しつつ、続けて言った。
「自分がモデルにされたキャラが……その、夜伽をしてる小説を読むのって……」
「全然。むしろ嬉しかったよ」
「は……? う、嬉しい?」
予想外の言葉に目を丸くしていると、空華はこくんと大きくうなずいた。
「うんっ。大好きな黒巫女様と、夢月が愛を語り合って肌を重ねてるんだーって、読んでるとすっごく幸せな気持ちになれるの! 人生の中で一番感動しちゃったよ♪」
「そ、それは過言だろ……」
「全然過言なんかじゃないよ。山村くんは夢小説ってもちろん知ってるでしょ?」
「ああ。俺はあまり読んだことないけど、確か主人公の名前を自由に変えられたりする、主に二次創作の小説のことを指す……みたいなヤツじゃなかったか?」
「そうだよ。その主人公がまさに自分そのままの性格で、完全に自己投影ができるうえに物語は自分の大好きなキャラと交流して結ばれるって言う理想的な展開! そんな小説に巡り合えた時に、すっごい多幸感を感じるの。山村くんが今回書いてくれた小説は、まさにその究極形だったんだよ!!」
宝石を詰め込んだように、眩い眼差しで力説する空華。
俺は褒められて喜びを覚えながらも、少し引っかかりを感じた。
「……でもそれって俺の技量とは関係なしに、たまたま空華の好みに合う小説を書けたってだけだよな」
「でもね、それは誰にもできることじゃないと思うんだ」
「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるって言葉があるだろ。数さえこなせば誰だって一発は的に当てることができるんだよ」
「山村くんはその的に、もう二発も弾を当てたんだよ。しかもど真ん中の星にね」
「星……ああ、星的か」
「山村くんはやっぱり物知りだね。大半の人は今の星って聞いて、とっさに弓道の星的を思い浮かべることはできないよ」
「たまたま知ってただけだよ」
「……夢月の勘違いかな。山村くんって、進んで自分が自信をなくすための理由を探しているように見えるんだけど」
指摘されて、俺は瞬間的に息を飲んだ。
今までの自分を思い返すと、心当たりが少なからずあった。
「謙遜って、夢月は嫌いだな。それってつまり自分に実力があるのに、相手の人にわからなように隠してるってことでしょ。汚いよ、やってること詐欺師と同じじゃん。ちょっと言葉が悪くなるけど、汚らわしいよ」
空華にしては、やや口調が強めだった。わざわざ似たような言葉を重ねて主張する辺りから彼女の熱意というか本気度を感じた。
「……でも謙遜ってへりくだりっていう、日本の伝統みたいなもんじゃないか?」
「そんなの漬物石より役に立たないよ」
「能ある鷹は爪を隠すってことわざもあるじゃないか」
「まあ、そうだけど……。夢月はちゃんと正直に自分の能力をアピールしてる人の方が、好きだな」
好きだな、好きだな、好きだな、好きだな、好きだな、好きだな……。
最後の一言が、俺の中でいつまでも反響し続けていた。
「……つまり今の俺は好きじゃないってことか?」
「ほえ? あー、えっと。謙遜してるところ以外は、いいなって思うよ」
つまるところ、そこが唯一のウィークポイントになってしまっているというわけだ。
一般的にどう捉えられるかはともかく、少なくとも空華の目には汚らわしい部分として映ってしまっているらしい。
ならば俺のやるべきことは一つ。
その欠点を矯正しなければならない。
「……わかったよ、空華。俺、ちゃんと自分に自信が持てるように頑張るよ」
「うん、その意気だよ。夢月も協力するから、手伝えそうなことがあったらなんでも言って欲しいな」
「ああ、わかった。とりあえず今は、一人前の小説家になれるように新作を書かないとな」
「それなら、渡りに船な話があるよ」
「お、なんだ?」
「さっき、温泉の話をしてたでしょ?」
「ああ、そういえばしてたな」
「今度ね、お父さんの知り合いが新しい旅館をオープンするんだけどね。その前に一度、下見に来ないかってお誘いを受けてるの」
「下見……っていうと、仮想の客としてってことか?」
「そうだよ。夢月が実際に接客を受けて、ここは素敵だなって思ったことと、直した方がいいなって感じたところを教えてほしいんだって」
「へえ、なんかすごいな」
「でね、よかったら山村くんにも一緒に行ってほしいなって。どうかな?」
「……えっ、俺も?」
「うん。本当はお父さん達も一緒に行く予定だったんだけど、海外でのお仕事が忙しくて当分帰国できないような状態なんだって。一人じゃあまり参考になるような意見も出せないかもしれないし、他に一緒に行ける人もいなくて」
「モニクはどうなんだ?」
「予定してる日には用事があるから、同行できないんだって」
「へえ。いつなんだ?」
「この日なんだけど、空いてる?」
空華に見せてもらったスマホのカレンダーには、予定の日にマークがついていた。
「ああ、その日なら大丈夫だ。……まあ、俺は暇人だから大体の日がフリーなんだけどな」
「へえ、そうなんだ。……あ、彼女さんとのデートとかは大丈夫なの?」
その一言がざっくりと、切れ味のいいナイフのごとく俺の心に突き刺さった。
「あれ、どうしたの? 毒薬を投与されたモルモットみたいな顔して」
「……いや、その」
「んー……、もしかしてフラれちゃった?」
二撃目が心中深くにぶっ刺さる。もはや完璧なオーバーキルである。
「うわぁ、すごい。ライフル弾を食らった熊みたいな顔になってるよ」
「さっきから妙に生々しい表現だな……」
「それで、どうなの? 図星なの?」
「……ああ、そうだよ。先日、ちょっと色々あってフラれたんだよ」
「ちょっと色々……。こういう表現をする時って、決定的な事実が一つだけあってそれを隠そうとする心理が働いてることが多いんだよね」
「お前は探偵か!?」
「まっさかー。ただのお金持ちの令嬢だよ」
「いずれにせよ全然一般市民じゃないよな」
「まあ、ちょっと特殊な家庭環境で育ったからね。普通の人があまり興味のない分野について詳しかったりするの。ほんの少しだけね」
「ちょっとに、ほんの少しだけ、か……」
「あはは。これから山村くんは、夢月に少しずつ毒されていくんだね」
「……かもな」
自分が空華の考えや価値観の影響を受けて、少しずつ彼女に近しい人間になっていく。そんな未来を想像をするのは悪くなかった。
「でも彼女さんにフラれた割には、意外と元気そうだよね。あっ、もしかして次の新しい恋人候補をもうみつけちゃったとか?」
「……い、いや、俺はそんなに節操のない人間じゃないぞ!?」
「ふーん、そっかそっか」
何かを納得したようにうなずいている空華。
この瞬間に悟ってしまった。今後の人生で俺は、空華を完全に騙しきることは絶対にできないんだろうな……と。
「次こそ恋が実るといいね。応援してるよー、がんばえ~!」
「その応援の仕方、空華にめっちゃ似合うな」
「うわっ、失礼!」
「お前が自分からやりだしたんだろ……」
「そうだけどさー。……まあでも、きっと次こそ大丈夫だよ」
「……そうか?」
「うん。だって山村くんはとっても素敵な人だもん」
にこっと笑いかけられた、その表情に俺はクラっと来てしまう。まだ未成年だから飲めないが、酒に酔う瞬間ってこんな感じなのかもしれない。体が火照ってきて、その感覚がとても心地いい。
……あれ。ちょっと待て。
今更俺は、重大なことに気付く。
空華の両親は海外から帰ってこない。モニクも同行しない。
となると……。
「なあ、現地までは誰が送ってくれるんだ?」
「あ、今回は他に一緒に行く人がいないから、電車とバスを乗り継いで行くんだよ。山村くんが車を運転できるなら、それで行ってもいいよ」
「いや、運転できないが……。じゃあつまり、今回の旅行って俺と空華の二人っきりってことか!?」
「うん、そういうことになるね」
「……へ、部屋は?」
「ん、部屋がどうしたの?」
「だからさ。部屋は……さすがに一緒じゃないよな?」
「あ、そっか。二人になるから、お布団を二枚敷いてもらわないとね」
「お、おいおい、ちょっと待てよ。空華は俺と同じ部屋でいいのか?」
「ほえ? 二部屋使っちゃうと旅館の人がお掃除する時に大変かなって思ったんだけど。もしかして山村くんは夢月と同じ部屋で寝るのは嫌かな?」
「い、いやいや!」
「あ、やっぱり嫌なんだ……」
「そっちの嫌じゃなくて! 俺は全然構わないぞ、空華と同じ部屋に泊まるのは」
「ううん、無理しなくていいんだよ。ごめんね。ちゃんと山村くんの気持ちを考えてあげられなくて……」
チクショウ、何やってんだよ。
なんで空華にこんな悲しい顔をさせちまってるんだ……!
俺は心底イラついた、自分のふがいなさ、バカさ加減に。
だが今はそれ以上に、目の前で泣きそうな空華を元気付けてやりたかった。
気が付けば俺は、身を乗り出して小さな両手をつかんでいた。
「……ほえ?」
きょとんとした空華が、ぱちぱち瞬きをしてこちらを見ている。
俺は彼女のつぶらな瞳を真っ直ぐに覗き込んで言った。
「俺は本当に、空華と一緒の部屋で止まるのは嫌じゃない。むしろ、嬉しいんだ」
「嬉しいって……、どうして?」
「そりゃ……!」
……おい、ちょっと待て。
今、俺は何を口走ろうとした?
その言葉を頭にちゃんと思い浮かべた瞬間、頭から蒸気が噴き出しそうなぐらい体温が急上昇して、言語野に通ずる思考回路が焼き切れてしまった。もう口をパクパクするしかできない、玩具以下の存在に成り下がる。
空華も似たような様子で、頬をリンゴのように赤らめていた。
しばらく見つめ合っていたが、ふいに空華は少し目を逸らして言った。
「……あ、あのね。夢月もその、嬉しいの。……山村くんと同じ部屋に泊まれることが」
「ほっ、本当か!?」
「うん。……だって、朝までいっぱいおしゃべりしたり、遊んだりできるでしょ」
純粋さに満ち満ちた笑み。そこにはよこしまな感情は一切混じっていなかった。
俺は毒気を抜かれたようにしばらくぽかんとしていたが我に返って「ああ、そうだな」とうなずいた。
「それに今回は山村くんの取材旅行も兼ねてるからね。同じ部屋だとそこで見つけたよさそうなネタとか、小説の次回作について夜遅くまでお話できるからいいと思うんだ」
「……え、取材旅行?」
「うん。言ってなかったっけ? 今回の旅館はもう雪がいっぱい積もってる場所があって、景色がとってもきれいなんだって! それに歴史ある神社とかもあるから、『黒巫女様』の舞台にぴったりだよ!! 楽しみだね~」
ようやく合点がいった。
まだ親しくなったばかりの空華が、ただ旅行に誘ってくれるわけがないのだ。
小説が絡んでるとなれば、全て辻褄が合う。
まあ、自分の小説にそこまで入れ込んでくれる人に巡り会えたというのは、それはそれで奇跡的なことだとは思うが。
「……ねえ、山村くん。一つだけ訊いてもいいかな?」
「ん、なんだ?」
「あのね……。そろそろ手、離してほしいなって」
言われて気付いた。
俺は今もまだ、空華の両手をつかんだままだった。
「あっ、す、すまん」
俺は慌てて空華の手を離して、自身の手を膝の上に置いた。
手の平には彼女のすべすべとした、温かい肌の感触が残っていた。それを意識した途端、頭頂部まで熱を帯びて耳の奥に鼓動の音が響いてきた。
顔を上げようとして気付いた。空華のことを直視できない。もしそんなことをしたら、心臓が破裂してしまうかもしれない。それでも彼女の様子が気になって仕方がなかった。
苦肉の策で、上目遣いにちらっと見る。
空華は自身の両手の甲をじっと眺めていた。その目線は母が子に向けるような優しいものだった。
耐えられないほどの羞恥心を感じた俺は、再び視線を膝の上に戻した。
それから解散するまで、もう俺はまともに空華と会話することができなかった。
○
次の土曜日の早朝。
俺は大荷物を持って最寄り駅へやってきていた。
その荷物はもちろん、宿泊のためのものだ。
スポーツバッグの中には衣類や洗面用具、雪国対策の防寒着、先日空華からもらった支援金で買ったノートパソコンなどが入っている。
俺は空華を待つ間、今日を有意義に過ごすためのイメージトレーニングをしていた。
まず、会ったら服装を褒めるか?
……いや、無理だろう。その思考は、今が冬場だということが頭からすっ飛んでいる。外では暑い上着を着ているだろうし、お洒落をしていたとしてもわかるわけがない。ヘアスタイルが変わっているならワンチャンあるかもしれない。だが空華の艶やかな髪が切られている様を想像するのは少し寂しかった。できればあのロングヘアはいつまでもそのまま保っていてほしい。
出会って少し話したらホームへ行く。その時にさりげなく空華の荷物を代わりに持つと申し出る。ここで少しでもポイントを稼いでおく。そうすれば……。
にやけそうになる表情を慌てて引き締める。
ダメだダメだ、今日一日は気を緩めるな。
油断は命取りになる。それで何度も痛い目を見てきているじゃないか。
今の瞬間だって空華がやってきて、だらしない表情を見られていた可能性があるんだぞ。片時も気を抜いちゃダメだ。
「おはよー、山村くーん!」
ほら、来た。あと少し早かったらヤバかったじゃないか。
精神統一、最後の瞑想だ。
今日は旅行が決まった日からずっと繰り返してきたイメージトレーニング通りに、完璧な姿を空華に見せるんだ。
俺はそう自分に言い聞かせてから、空華の方へ向き直った。
「おう、空華。おはよ……」
目にしたものが信じられず、俺は唖然としてしまった。
空華は予想通り、厚着をしていた。今日も背中の辺りまで伸びている長い髪がさらっと揺れている。
それはいい。可愛いその姿に胸がときめく、目がめっちゃ喜んでる。
問題は、空華の手だった。
俺がイメージトレーニングした際には、空華は重い荷物をえっちらおっちら担いでいた。あるいは大きめのキャリーバッグをカラリカラリと引いていた。
だが実際の空華は、ハンドバッグを一つ持っているだけだった。ぱっと見て彼女が旅行者だとわかる人はいないだろう。
「なあ、空華。今日は旅行に行くんだよな?」
「うん、そうだよ。楽しみだね~」
「荷物、それだけなのか? 色々と足りない気がするんだが……」
「大丈夫だよ、荷物はもう旅館の方に送っちゃったから」
「……そうか」
「あ、山村くんの荷物も一緒に届けてもらえばよかったね。うう、ごめん……」
「いや、気にしないでくれ……」
まさか初っ端から計画が狂ってしまうとは……。ここで空華の荷物を持ってやることでポイントを稼ぐつもりだったのに!
「……あ、あの、やっぱり、怒ってるよね……」
「え? いや、全然そんなことないぞ!」
「でも今、せっかく出した歯磨き粉を洗面台に落としちゃった時みたいな顔してたよ」
「どんな顔だよ……。まあとにかく、俺は平気だから。これぐらいの荷物を持っていくのなんてへっちゃらだ」
「今度からは気を付けるから……、本当にごめんね」
今度から……?
それってつまり、これからも空華は俺と一緒に旅行に行ってくれるってことか!?
「わっ、今度はたまたま見たデジタル時計の下二桁が00だった時みたいな顔してる」
「だからどんな顔だよそれは」
俺が軽く吹き出すと、空華も「えへへ」と笑った。やっぱりコイツには笑顔が似合うな。
「そろそろ行こっか。新幹線の予約が取れたから、きっと向こうに着くまで快適だよ」
「じゃあ駅弁とか買わなくても、車内販売があるな」
「山村くん、朝ごはん食べてきてないの?」
「ああ、ちょっと寝過ごしちゃってな」
「実はね、夢月もなんだ」
「マジか。どうする、駅弁買っていくか? 車内販売で売ってるのより、バリエーションがあると思うぞ」
「そうしよ! 山村くんと夢月で別々の買って、後でおかずの交換しようね」
まるで遠足前の小学生みたいにウキウキしてる空華。
そんな彼女を見ていると俺まで心が浮き立ってきた。
今日はきっと楽しい一日になる。
俺は空華と並んで歩きながら、すっと深く息を吸い込んだ。今朝の空気はいつもよりも澄んでいた。
○
新幹線を降りて駅を出た。
そこは深く雪が降り積もった田舎町だった。
わりかし駅前は賑わっているが、車窓からは家屋が点々と寂しく建っていた。ここから少し歩けば、街灯もほとんどない田舎道に出るだろう。夜になったら地元民であっても、外出する人はいないはずだ。特に冬場の今じゃよほどしっかり準備をしないと遭難して、最悪凍死してしまう。
雪景色を珍しそうに眺めていた空華は、こちらにくるっと向き直って言った。
「もう少ししたら旅館の人が迎えに来てくれるはずだよ」
「そうか。なら景色でも見ながら待ってるか」
俺は改めて街並みを眺めた。
年配の人が多く、数年後には廃れていそうな雰囲気が漂っている。
「……今時、こんな何もなさそうな田舎町で旅館を開いてもあまり人は来なさそうな気がするけどな」
「なんか古くから建ってたよさそうな建物を保存したかったんだって。それでせっかくだから旅館にしちゃおうって話になったみたい」
「だとしても、何か娯楽とか観光名所がないと経営難で苦しい思いをしそうな気がするけどな。この辺って、スキー場とかあるのか?」
「ううん。でも冬場でも登山客が来るらしいよ。駅の近くは低い山が多くて、昼間は割と安全に登れるんだって」
俺は駅の掲示板らしきものに貼られている地図を見た。
確かに空華の言うように、駅の周りは比較的標高の低い山が多かった。
だがそれを取り囲むように険しい山がそびえたっている。まさにここは陸の孤島みたいな場所だ。
「雪景色もいいけど、少し寒いね。中で待ってよ」
「ああ、そうだな」
俺達は駅の待合室に入り、ロータリーが見える場所に座った。
室内はストーブがついているお陰で、それなりに温かい。
俺と空華の他には、登山客らしい男の二人組がいた。一人はガタイがよくて口の周りがもっさり生えた髭で覆われている。もう一人は背が低く、ブクブクと太っていた。山賊だと名乗られても素直に信じ込んでしまいそうだ。
俺は空華と適当な話をして時間を潰すことにした。
「……でも空華がお呼ばれするような旅館って、すごい立派なところなんだろ? 俺なんかが行ってもいいのか」
「全然大丈夫だよ。価格帯は一般の人向けの場所だし。むしろ夢月より、庶民的な感性を持ってる山村くんの感想の方が貴重だと思うよ」
「そうか。じゃあ、宿泊費はそこまでお高くないんだな」
「あ、お金は払わなくていいんだよ」
「えっ、そうなのか?」
「うん。夢月達はテスターみたいな扱いだから」
「タダで温泉に入れるのか。そりゃありがたいな」
「温泉、楽しみだよね~。美肌効果とかってあるのかな?」
「お前はまだ、そんなの気にしなくても全然平気だろ」
「そんなことないよ。夢月は大人なレディだから」
「そりゃすごい」
「……なんか今、バカにされた気がする」
「いやいや、そんなことないって。空華は大人なレディだって、本気で思ってるぞ」
「ふぅん。ねえ、山村くんって嘘をつく時に右足の爪先を浮かせる癖があるんだよ」
言われて俺は、とっさに自身の右足を見てしまった。
遅れてそれが罠だと気付いた時には、空華のくすくすという笑い声が聞こえてきた。
「山村くんって、すっごい素直だねー」
「……あまり褒められてる気はしないが」
「そんなことないよ~。ちゃんと褒めてるよ」
「空華って意外と策略家なんだな」
「えへへ。夢月の前世は諸葛亮なんだ」
「なるほど。なら、頭脳明晰ってことだな?」
「もっちろん。見た目はレディ、頭脳は大人だよ」
「大半の大人の頭脳は凡人レベルだろ。せめて灰色ぐらい言えよ」
「あ、確かにそうだよね」
「じゃあ、その灰色の頭脳でこのクイズに挑んでみろよ」
「クイズ!? やるやる!」
俺は思いつきで空華に過去にFBIで行われた適正を測るテストの問題――といってもネットで見かけたものだから、実際に出題されたかどうかは定かではない――をいくつか出してみた。
その全てに空華は速答し、百発百中で正解した。
「……お前、マジですごいな」
「えへへー。こういうクイズって得意なんだー」
得意気に胸を張る空華。今度ばかりは俺も茶化す気が起きなかった。
「ほほう。すごいじゃねえか、嬢ちゃん」
突然横から入ってきた野太い声に、俺はビックリしながらそっちを見やった。
さっきまで仲間内で会話していた登山客の二人が、興味津々といった顔でこちらを見てきていた。
その内の一人、ガタイのいい男性――山男とでも呼ぶことにする――が空華に話しかけてきたみたいだ。
「さっき坊主が出していたのはFBIの採用テストで使われていた問題だろう。それを易々と解いちまうたぁ、大したもんだ」
「ほえ、そうだったの?」
尋ねてきた空華に、俺は「ああ」とうなずいた。
「なあ、嬢ちゃん。そんな探偵さんに、オイラも一つ問題を出してぇんだが、いいか?」
「うん、いいよ。どんな問題も真夏の氷みたいに簡単に解けちゃうんだから」
「はっはっはっ! じゃあ、問題だ」
山男は髭だらけの口をにゅっと三日月の形に歪めて続けた。
「あなたは死刑囚です。刑は三日後に行われます。ですがあなたは死にたくありません。拘置所内の警備は緩いですが、外では常に複数人体制で監視員が巡回しています。さらに最新のセキュリティー機器が設置されています。もしも建物の外に一歩でも出てしまえば監視員の拳銃、あるいはセキュリティー機器の防衛システムが働き殺されてしまいます。あなたが四日以上生き残るにはどうすればいいでしょう? ……ってのが問題だ。どうだ、わかるか?」
つまり死刑囚は完全な密室状況に閉じ込められている。そこからいかにして脱出するかという問題だろう。
山男は考え込む俺をちらっと見てきて言った。
「正解がわかったら、坊主が答えてもいいぞ」
「……いくつか質問してもいいか?」
「おう、構わないぞ」
「その拘置所の中には、死刑囚以外にも受刑者はいるのか?」
「多分、結構な人数がいると思うぞ」
「じゃあその拘置所内に、死刑囚の友人とか親しいヤツはいるのか?」
「いいや、いねえよ」
「……そうか。それなら、警備員に知り合いは?」
「いねえな。死刑囚は拘置所の敷地内にいる全ての人間と親しくねえんだ」
つまり誰かに協力を求めるのは現実的ではない、ということだ。
暴力で脅すにしても、それは自分より弱い人間に限られる。そんなヤツを仲間にしたところで役に立つかは怪しいものだ。
……いや、待てよ。
「なあ、受刑者の中には機械とかパソコンに詳しいヤツはいないのか?」
「いるかもしれないが死刑囚には知る由もねえ。……いや、存在しないってしておくか。その方がすっきりした問題になるだろ」
「じゃあ、死刑囚自身のスペックは?」
「一般的な成人男性だ。突出した能力は持っていねえが、五体満足の健康体だ。少しだけガタイがいいかもしれねえな」
「……なるほど。セキュリティー機器の電源みたいなものはどこにある?」
「拘置所の敷地外だ」
「そもそも脱出しないと辿り着けないってことか……。警備員の隙を突いて拳銃を奪うことはできるか?」
「できねえ。警備員は一人も例外なく特殊な訓練を受けている。死刑囚が不意打ちをしたところで拳銃で頭を撃ち抜かれてゲームオーバーだ」
「……拘置所内で武器になりそうなものは?」
「ねえよ。多分、拘置所には掃除用具とかはあるだろうが、そんなものを使ったところで死刑囚は警備員を倒すことはできねえ」
「拳銃を持っているからか?」
「拳銃なんかにこだわってるのか。じゃあもう一つ条件を付けくわえてやるよ。警備員はたとえ丸腰であっても、死刑囚には絶対に負けない。死刑囚がいかなる武器を持っていたとしても、だ」
「……マジか」
一旦、頭の中で情報を整理する。
敷地外に出るためには、警備員とセキュリティー機器を突破しなければならない。
だが死刑囚はいかなる方法でも警備員を倒すことができず、またセキュリティー機器を止めることもできない。
死刑囚が自由に行動することができるのは拘置所内に限られる。
なら、RPG理論だ。
自由に行動できる範囲内でアイテムや情報を集めて、現状では進行不可能なステージを攻略する。
「死刑囚が拘置所の中で手に入れられるものを全て教えてくれ」
「ええっ……、面倒臭えなぁ。まず死刑囚が着てる服と、寝る時に使う蒲団。食事の時に渡される紙皿、プラスチックのフォークとスプーン。あと料理だが、それはもうややこしくなるから手に入らないものとして考えてくれ。一応、さっき言っちまったから掃除用具も追加するか。それと歯ブラシとコップ。これぐらいだな」
「……なるほど。次は拘置所がどんな建物なのか教えてくれ」
「もう好きなのを想像してくれよ。だが現在の日本で拘置所として利用されているような建造物に限るぞ。非現実的なものは一切なしだ。ロボットに変形したり、空を飛んだり、床が取り付けられていなくて地面がむき出しになってるような欠陥が存在する……みたいなのはな」
「『赤毛組合』は阻止されたか……」
山男は「がはは」と肩を揺すって笑った。まるっとお見通し、というわけだ。
おそらく出題者から得られる有益な情報はこれで全てだろう。
後はそれ等を使って、脱出の糸口を探す。
現実に縛られる必要はない。これはクイズなのだから。
たとえ荒唐無稽だったとしても、脱出さえできてしまえばそれが正解なのだ。
ふいに思考回路に一筋の電流が走る。
そうか、あれとあれを組み合わせれば……!
「……なんだ、何か閃いたのか?」
「ああ、みつけたぜ。道なき迷宮から脱出するための突破口をな!」
「ほう。聞かせてくれよ」
「簡単なことだったんだ。拘置所からは一歩でも出れば殺される。拘置所は現代の日本に建っているようなものに限られる。床がめくれるような地下室は存在しない。つまり地上と地下を封じられたわけだ」
「地上と地下って……おい、まさか」
「そのまさかだ。地上と地下がダメなら、空を飛べばいいんだよ!」
登山客の二人はあんぐりと口を開いている。くすくすと隣から笑い声が聞こえてきた。見ると空華が口を押さえて体を揺すっていた。
俺は勢い任せで先を続ける。
「拘置所にはヘリポートがついている場所がある。だからまずは、そこに出る。問題には拘置所内の警備は緩いってあったし、屋上も建物内だ。そこにいるのはルール違反にはならないだろ?」
「あ、ああ……まあな」
「だがさすがにヘリはないだろうし、着陸しているなら警備員の一人はいるだろう。そもそも一般的な男性はヘリの運転の仕方はわからないし、離陸することは不可能だ」
「なら、どうするんだ?」
「代わりに空を飛ぶものを作ればいい。……たとえば、ハンググライダーとかな」
「はっ、ハンググライダーだと!?」
「ああ。ハンググライダーの翼部分は、ポリエステル系の合成繊維でできている。ならばそれは、死刑囚の服で作ることができる。死刑囚の服の素材とサイズは既定されていないから、ハンググライダーの翼にできるものだったとしてもなんら問題はないはずだ」
「だが、骨組み部分とハーネスはどうする?」
「骨組みは掃除用具を使えばいい。掃除用具には金具を使うものもあるだろうし、工夫すれば布に固定することも可能だ。ハーネスは余った布を使えば簡易的なものが作ることが可能だ。用意できなくても拘置所の屋上なら、成人男性の腕力があれば着陸まで取っ手をつかんでいられる。支障はないはずだ」
俺は山男に人差し指をビシッと突きつけて宣言した。
「以上の方法で死刑囚は拘置所から脱出できる! これこそがこの問題の真相だっ!!」
口を半分開けてしばし硬直していた山男は、やがて豪快に笑いだして手を叩いた。
「そうか、そうか。その手があったか。いやはや、面白いことを考えるヤツがいるもんだ」
山男の様子に俺は戸惑いながら訊いた。
「……まさか、俺の回答は正解じゃないのか?」
「いいや、ルールには反していないから正解だ。オイラの用意していた答えとは全然違うけどな」
「ってことは、俺はただ抜け道を通っただけか。それをあらかじめしっかり防がれてたら解けなかった。ゲームのバグ技を使ったようなもんだな……」
俺はがっくりと肩を落としてうなだれ、ため息を漏らした。
落ち込んでいるとぽんぽんと肩を叩かれた。
顔を上げると、空華がにこっと眩い笑みを俺に向けてくれた。
「夢月はすっごいなあって思ったよ。山村くんの出した答えは、普通の人なら絶対に思いつけないもん」
「いや、そんな褒められたもんじゃないだろ。一休さんみたいなとんちでしかないしな」
「でもそれって、他の人より柔軟な考え方ができるってことじゃん。謙遜なんかしないで誇るべきだよ」
「……そうだよな。ありがとう、空華」
「えへへ、どういたしまして」
なぜか空華の方が褒められたみたいに照れていた。そんな様子を眺めている内に、俺は自身の頬が緩むのを感じた。
「……それで、嬢ちゃん。オイラはお前さんの回答も聞いてみたいんだが」
山男は心なしか、さっきまでより少し鋭い目つきで空華を見ていた。元々ヤツは彼女に向けて出題していたのだ。挑戦的なのはそれが原因だろう。
空華は少し不思議そうな顔で軽く首を傾げた。
「答えならもう、山村くんが出したよ」
「だが嬢ちゃんの解法は、まったく別のものなんじゃねえか?」
「うん、そうだね。それも答え合わせしてくれるの?」
「ああ。まだ嬢ちゃんの回答を聞く時間はあるからな」
「そっか、ありがとう。じゃあ、夢月の回答を発表するね」
空華はにこにこと楽しそうな笑みを浮かべて話し始めた。
「出題者が求めているのは死刑囚が四日以上生き延びる方法だよね。つまり正解はそれをより確実に行える方法ってことになるの」
「より確実な方法……。俺の答えじゃダメなのか?」
「山村くん、サバイバルをしなければならない状況下での最大のタブーって何かわかる?」
「……いや、わからないな」
「それはね、自分より強い存在との戦いに直面することだよ。少しでも生存率を上げるためには命が危険にさらされる無用なアクシデントは絶対に避けるべきなの。それが絶対の安全を手に入れられるチャンスだとしてもね」
「……でもちゃんと対策をして、勝機が見いだせれば――」
「一個人ができる対策なんて限られてるよ。人間には多くの選択肢を与えられているようだけど、実際は違う。許されているのはせいぜい自分の周りを見渡すことと、危なそうな気配から距離を取ること。この二つだけ。つまりテキサスホールデムみたいなものなんだ。勝負をするか、フォールドをするか。そして今回の死刑囚に渡されたハンドは……よくて9とJのオフスーテッドぐらいなんじゃないかな」
「ちょっと待ってくれ。俺、テキサスホールデムとか全然わからないんだが」
「つまり死刑囚は99レベルがマックスのRPGで、55レベル程度のキャラってことなの」
「ああ、なるほど……」
「当然、警備員は全員が99レベル。おまけにセキュリティー機器っていう即死トラップが出口を全部塞ぐように設置されてる。たとえ死刑囚がカンストまでレベルを上げたところで突破できるようなダンジョンじゃない。だから拘置所の外に出るっていう選択は絶対にしちゃダメなの」
「……なら、どうするんだよ。拘置所の中で死刑執行日が来るのを待つしかないのか?」
「発想を逆転させるんだよ。拘置所から脱出する方法じゃない。死刑執行日が来たとしても確実に生き残る方法を考えるの」
「……脱出する以外に、そんな方法があるのか?」
「うん、とっても簡単な方法がね」
空華は一度言葉を切って、ぐるっと室内を見回した。まるでそこら中に見えない人間がいるかのように……。
ストーブの稼働音だけが響く静寂の中、俺はごくりと唾を飲んだ。その音がやけに大きく響いて聞こえた。
すっと空華が目を細める。
途端、俺はぶるっと体を震わせた。
室温が下がった気がしたのだ。
俺が戸惑っていると、彼女が再び口を開いた。
冷たい、無機質な声が室内に響いた。
「殺せばいいんだよ。自分よりも弱いヤツを」
空気が凍りついてしまった気がした。
肌には霜が降りている。
誰も言葉を発さない。身動きもしない。
ただ一人、空華だけは空間の制約を受けずに指を組んで話し出した。
「絶対に争ってはならない相手は警備員だけ。受刑者なら体格が勝っていれば、殺される確率は相当低い。幸い、死刑囚はガタイがいいから標的をみつけるのはさほど難しくない」
「で、でも……。受刑者を殺めてどうするんだよ? それじゃあ、何も変わらないだろ」
「ううん、状況は一変するよ。死刑囚は新たな罪を犯すことで、それを裁くための裁判に出席する義務が生まれる。そうすれば、本来の死刑執行日である三日後に殺されることはなくなる。この解法なら脱出するよりも安全に四日以上生き残ること可能なんだ。これが想定されていた正解でしょ?」
俺から山男に向き直って空華は尋ねた。
山男は強張った笑みを浮かべてうなずいた。
「おう、それが本来の正解だ。……よくわかったな」
「全ての不可能を除外していって、最後に残ったものがいかに奇妙なものであったとしてもそれこそが真実である……ってことだよ」
俺は低い室温にかかわらず額に滲んだ汗を手で拭って思った。
たとえ今後何百年生きることになろうとも、彼の探偵が残した名言を聞いてこんな風に血の気が引くことは二度とないだろう……と。
山男は小太りの男と目配せして立ち上がった。
「それじゃあ、オイラ達はもう行くよ」
「うん。くれぐれも遭難には気を付けてね」
「おう、ありがとな」
「登山、楽しんでこいよ」
「ありがとな。そうだ。坊主、一つだけ言っておくぜ」
山男は目に真剣な光を宿して言った。
「いざとなったら、この世界をゲームに置き換えて考えろ。そうすれば自ずと活路が見えてくるはずだ」
「……どういうことだ?」
山男はそれには答えず、手を振って小太りの男と共に待合室を出ていった。
空華は登山客達が見えなくなった後も外を見続け、それからぽつりと漏らした。
「来ないね、お迎え」
「初めて客を迎えるんだろ。旅館の準備に手間取ってるんじゃないか?」
「そうだね。……ふぁああ、なんか眠くなってきちゃったよ」
「朝早かったしな。迎えらしい車が来たら起こしてやるから、少し寝てていいぞ」
「うん、ありがとう……。そうするね」
もしかしたら俺の肩とか膝に頭を乗せてくれるのでは……と淡い期待をしたが、彼女はそのままうつらうつらと頭を揺らし、やや項垂れるような態勢で眠ってしまった。
俺はがっかりしながら、空華の寝顔を見つめた。
天使のように純粋無垢な印象の表情だ。さっきまで場が凍り付くような言葉を発していたようにはまったく見えない。
まあでも、空華はたまたま正解に辿り着いただけだ。彼女自身に猟奇的な嗜好があるわけじゃない。どちらかといえば、そんな問題を出してきたあの山男が異常なのだ。まあ、俺もあまり趣味のいいクイズを出していたわけじゃないし、お互い様か。
苦笑を漏らした時、ふいにスマホが鳴った。電話がかかってきた時の呼び出し音だ。
俺はまたも血管の中が凍りつくような思いに襲われた。
スマホには今も、二人分の連絡先しか存在しない。
一人は当然、隣で寝ている空華だ。
そしてもう一人は……。
まさかソイツから電話なんてかかってくるはずがない。
そう思ってスマホをポケットから取り出し、画面を見た。
そこには別れたはずの恋人、矢千夜の名前が映っていた。
彼女にはブロックされていたし、二度と連絡を取ることはないと思っていたが……。
俺は空華を起こさないよう、急いで待合室の外に出てから電話を繋いだ。
「……もしもし」
『久しぶりね、翠命』
間違いない。矢千夜自身の声と、話し方だ。
頭の中で様々な疑問でひしめく。
その中の一つを俺は矢千夜に投げかけた。
「……なんの用だよ」
『随分な挨拶ね。せっかくこうして、元恋人が電話をかけてあげたのに』
「そりゃ、ありがたいね」
『どういたしまして』
ふつふつと湧いてきた苛立ちを押さえて俺は訊いた。
「……で、なんだよ。まさか世間話が目的じゃないだろ?」
『なんであたしが翠命に腹を立てられているのかしら。本当ならそういう感情を持つのはこちらの権利だと思うんだけれど』
矢千夜の言葉に、怒りは一瞬で鎮火する。その後から申し訳なさと後悔の念が心を占めていった。
俺が黙り込んでからしばらくして、受話口からため息が聞こえてきた。
『後悔するなら、最初からやらなければいいのに』
「……返す言葉もない」
『まあ、いいわ。あたしと翠命はもう赤の他人だし、間違いを正す義理もないのよね』
電話の向こうからスマホを逆の手に持ちかえるような気配を感じた。
それから矢千夜は言った。
『今日電話したのは、元恋人として最後に翠命に一つ忠告したかったからよ』
「忠告……?」
『ええ。翠命は今、空華さんと付き合っているんでしょう?』
「……いいや、まだ友達だ」
『まだ……、ね。っていうことは趣味が合って運よく可愛い子にお近づきになれたから、あわよくば……。そんな感じ?』
矢千夜は俺のスマホを見ているのだ、あの時点までのやり取りはすべて把握しているのだろう。
「……おおむね当たりだ」
『へえ。翠命ってああいう小さくて幼い感じの娘がタイプだったのね』
「……違う。俺は空華の外見じゃなくて、中身が好きになったんだ」
『ふぅん、中身……ね』
「性格のことだからな」
『そうやって念を押してくるところが怪しいのだけれど……。まあ、いいわ。あたしには関係ないし』
一拍置いてから、矢千夜は今まで聞いたこともない深刻そうな声で言った。
『……翠命。よく聞いて』
「なんだよ、急に改まって」
『決して冗談や悪ふざけじゃないの。あんたの身を案じて言うのよ』
それから矢千夜は一度呼吸を挟んだ。彼女は酷く緊張しているようだった。
どんな話をするつもりなんだ……? 自然と俺も矢千夜に感化されるように身構えた。
黙って数十秒、あるいは一分以上待っていると、ようやく彼女は口を開いた。
『今すぐ空華さんと別れなさい』
「……は?」
予想だにしない一言に、俺はバカみたいにぽかんと口を開けてしばし思考停止していた。
ややあって俺は、からかい混じりに言った。
「なんだ、今更俺とよりを戻したくなったのか?」
『まさか。あんたの恋人なんかには二度となりたくないわ。たとえ百万回生まれ変わったとしてもね』
あまりの言われように、さすがに少しばかり心が傷ついた。
「じゃあ、なんだよ。もしかして空華のことが好きなのか?」
『違うわ。さっきも言ったでしょ、この電話は元恋人の最後の義理でかけてるのよ』
「その口ぶりは確かにふざけるような雰囲気じゃないな。だからこそ意味がわからなくて困惑させらてるんだが……」
俺は息を一つ吐き出した。ゆっくり口から立ち上った白いものに視界を覆われる。
「なあ、一体どうして空華と別れろだなんて言うんだ?」
『翠命は空華さんに関する噂を知ってる?』
「……いや。なんだ、それは?」
『これは空華さん個人に限らず、彼女の一家に関する都市伝説みたいなものなんだけどね』
尋ねた直後に、強い風が吹いた。身を切るような寒風だ。俺はぎゅっと絞るように体を縮こめた。
そんな中、矢千夜の感情を殺した声がスマホから聞こえた。
『空華の家に刃向かうな。もし敵意を向ければ、ある日突然神隠しに遭うかもしれないぞ』
霜柱が張り詰めているかのような頭の中に、矢千夜の言葉が吟味されることもなく入り込んでくる。それは意味もなく俺にゾッとするような感情をもたらした。
我に返った俺は寒さに麻痺しかけた表情筋を動かし、ぎこちなく笑って言った。
「おいおい、何を言ってるんだ? そんなバカみたいな話をまさか信じろってのか?」
『ええ』
予想だにしない即答に、俺は思わず眉をひそめた。
「……なあ、冗談だろ。空華の家って世界的に有名で、医療機器とか新薬の開発に携わっているんだろ。そんなおっかない噂が真実だったとしたら、今みたいに繁栄なんてできなかったはずだ」
『普通に考えたらね。でももしかしたら、それが真実だったからこそ空華の家はここまで栄えたのかもしれないわ』
「どういうことだ?」
『今まで空華の家にはいくつかの組織が敵対してきたり、とある個人が活動を阻むような邪魔立てをしてきたことがあったの。でもその組織のトップが突然行方不明になったり、難癖付けていた政治家がある日こつぜんと姿を消してしまった……みたいなことが起きた』
「……偶然だろ」
『一度や二度ならね。でもそんな事件が数十件も起きてたら?』
「すっ、数十件!?」
俺が思わず叫ぶも、矢千夜はいたって冷静な声で『ええ』と返してきた。
『ただ、これでも少なく見積もった数らしいけど。そんな怪しげな噂がまとわりついているにもかかわらず、空華の家を爪弾きにすることはできないの。世界にもたらす恩恵が、計り知れないぐらい大きいからね。それに敵対しなければ向こうから害を及ぼしてくることもないわけだし』
水を口に含む程度の間を置いてから矢千夜は話を締めた。
『だから今、医療界を牛耳っているのは空華家なのよ』
「……にわかには信じ難いな」
『別にこの話をまるまる信用しろだなんて言わないわよ。……ただ、一つだけ。あたしの言うことを聞いてほしいの』
矢千夜は再び真剣味を帯びた声で言った。
『空華さんとはもう二度とかかわらないで。二人きりになんて、絶対になっちゃダメよ。いいわね?』
俺が応えるより先に、電話が切れた。
画面を見ると、スマホの充電がなくなっていた。
「二人きりにならないでって言われてもな……」
今まさに、その空華と旅行に来てるなんて言ったら矢千夜はどんな反応をしただろうか。……あの真剣な口調を思い返すと、想像に難くない。
ただの与太話だと信じ込もうとした。
だがその直前に脳裏に蘇る。
――殺せばいいんだよ。自分よりも弱いヤツを。
あの時の空華は、明らかにいつもと様子が違った。
そう、まるで……以前に人を殺したことがあるような――
「あっ!」
背後からの急な声に、俺は飛び上がりそうになりながら振り返った。
そこにはいつの間にか待合室から出てきたのか空華がいて、さっきまで俺が向いていた方を指差していた。
「山村くん、お迎えが来たよ!」
「え、マジか?」
改めて向き直ると、ロータリーに車が入ってきていた。
「……メルセデス・ベンツのSクラスか」
「そうだよー。四輪駆動システムの4MATICを搭載してるから、雪国でも快適に運転できるんだ」
「あのベンツは空華の家の所有物なのか?」
「えーっとね。多分、旅館が所有してるものじゃないかな」
「……やっぱり高級旅館なんじゃないか?」
「きっと社長さんが好意でこの車を出してくれたんだよ」
「まあ、空華の令嬢が来てるんだから粗相はできないよな」
「そこまで気を遣わなくてもいいのにね」
……なんだ、この気持ち悪い会話は。
俺は胸中でもやもやしたものが渦巻いているのを感じた。
さっき、矢千夜から変な話を吹き込まれたからか?
いや、それだけじゃない。
明らかな違和感を今、覚えたはずだ。
それは……。
「ほら、山村くんの荷物」
空華は肩にかけていたスポーツバッグを「うんしょ」と下ろして俺に手渡してくれた。
「俺の荷物、持ってきてくれたのか? 重かっただろうに……」
「ううん、全然そんなことないよ。あ、車まで持っていってあげようか?」
「いやいや、それは俺のプライドが許さないって。というか、本当なら俺が空華の荷物を持ってやらなくちゃいけないのに……」
「あはは、格好つけなくてもいいのに」
「別に格好つけたいわけじゃ……」
「ほら、行こうよ。温泉が夢月達を待ってるよ」
空華に手を引かれて、俺はベンツに向かって歩き出そうとした。
だが地面から浮きかけた足が、ふと止まる。
……本当に行く気なのか?
矢千夜が言ってたじゃないか、空華にかかわるなって。
それに今日の空華は、どこかおかしい。上手く言葉にはできないが。
本当に信用して、ついていっていいのか……?
「……どうしたの、山村くん?」
我に返ると、不安そうな表情の空華に顔を覗き込まれていた。
「やっぱり夢月と一緒に温泉に行くの、嫌になっちゃった?」
「そ、そんなわけないだろ」
「でも、ずっと立ち止まったままだし……」
「ちょっとぼーっとしちゃっただけだって。長旅で疲れてるのかもな」
「そっか。じゃあ、温泉で疲れを癒やさないとね」
「ああ、そうだな」
これ以上空華を不安にさせたくなくて、俺は彼女の後に続いて歩き出した。
さっきまで抱いていた嫌な予感は、自ら胸の奥に仕舞いこんだ。なぜかそれを完全には払拭できなかったのが、気がかりだが……。