1章 お嬢様、黒巫女に惚れる
「ねえ、翠命。いい加減、スマホぐらい買ってよ」
カフェでお茶をしていた時、向かいの席に座っている彼女がため息混じりに言ってきた。
「それって、矢千夜の誕生日プレゼントか? 少し高すぎるだろ」
「そうじゃなくて、翠命が自分のスマホを買ってってことよ」
「……なんでだよ」
「今のままじゃ、色々不便でしょ。連絡を取るのだって大変だし」
「家のパソコンがあればメールはできるじゃないか」
「大学とか外にいる時はどうなのよ。急に話したくなった時とか、時間が余って一緒にお茶したりデートできる時は?」
矢継ぎ早に責めるような問いかけに、俺はやや気圧されながらうなずいた。
「……なるほど、まあ確かに多少の不都合はあるかもしれないな。そろそろ俺もスマホを買うべきなのかもしれない。だがそれには一つ問題がある」
「なによ、問題って?」
「スマホを買えるような所持金が俺にはないってことだ」
矢千夜はさっきよりも気持ち大きめのため息を吐いた。
「いい加減、バイトの一つぐらいしなさいよ」
「バイト……か」
「親の仕送り頼りで倹約して生活するのって、一生に一度のバラ色の大学生活を棒に振ってると思わない?」
「でもお前がいるだろう?」
「その彼女がお願いしてるのよ、スマホを買ってくれって」
俺はこのカフェで一番安いコーヒーで唇を湿らせた。焦げた何かを溶かしたようなくどい苦味が口の中で広がった。
「…………まあ、余裕ができたら買うよ」
矢千夜は肩を竦めて席を立った。
「ちょっとお花を摘んでくるわ」
「そういう奥ゆかしい言葉選び、俺は好きだよ」
「ありがとう」
さらっと言い残して矢千夜はお手洗いへ向かった。
俺はコーヒーをソーサーの上に置いて、バッグを開いた。
中を覗き、目的のもの探す。
……ない。中のものを机の上に広げて確認したが、やはり見つからない。
さっと全身の血の気が引いていく。
マズイ。あれを誰かに見られたら……。
おそらくあれは、講義室に置き忘れてしまったのだろう。
今の時間は講義が入っていないから、誰もいないはずだ。しかし一刻も早く回収に向かうべきだ。
俺は机の上のものをバッグに詰め込んで席を立った。
ちょうどお手洗いから戻ってきた矢千夜は、訝しそうな目を俺に向けてきた。
「どうしたの、何か用事でも入ったの?」
「ああ、ちょっとな」
「この後、一緒に買い物に行く約束してたじゃない」
「急用なんだ。この埋め合わせはいつかする」
「……わかったわよ。買い物とは友達と行くことにするわ」
「すまない。じゃあ、急いでるから」
そう言い残して俺はその場を後にし、カフェを飛び出した。
胸騒ぎがしていた。
それは講義室に近づくにつれて、無視できないものになっていた。
早鐘のごとく鳴る心臓が、不安を煽っていく。それは最悪の想像を頭の中で鮮明に描き出す。掻き消しても無駄だ。表層意識上の想像を掻き消したところで、胸中の不安がまた同じ映像を頭の中に送り込んでくる。雑草の根から取り除かなければ、再び生えてくるみたいに。
別に嫌な予感を抱くのはいい。それが現実のものにならなければ……。
だが現実は無情だった。
教室のドアを開いた瞬間、絶望の二文字を突きつけられることになった。
ある女性が、ノートを耽読していた。
無論それは、俺のものだ。
「あ、あ……あぁ……」
俺は思わず情けない声を漏らして、その場にへたり込んだ。足元の地面がガラガラと崩れ落ちたかのようなショックで、立っていられなくなってしまったのだ。
声を耳にして気付いたのだろう。ノートを読んでいた女性――名前は空華夢月だったか――がこちらを見やってきた。
空華は俺を見るなり、目を丸くして呟くように漏らした。
「……黒巫女様?」
俺は自身の顔から、さらに血の気が引いていくのを感じ取った。
「読んだ、のか?」
「…………あっ、えっと、うん」
僅かな間を挟み、空華がはたと我に返った様子でうなずく。
俺は頭を抱え、うずくまって胸中の思いを口に出した。
「……オシマイだ」
「ど、どうしたの?」
「煩悩まみれの自作小説を読まれるなんて、もうオシマイだ……」
そう、あのノートには俺の妄想がふんだんに詰め込まれた小説が書かれている。
内容はというと、怨霊退治という方便で女の子同士が身体的な触れ合いで愛を育む百合百合な作品である。あまりおおっぴらに人に見せられるようなものではない。
目の前が真っ暗になる、という言葉の真の意味を思い知らされる。
もしも眼前に太刀があれば、切っ先を自らの腹に突き立てていたかもしれない。
足音が近づいてくる。悪魔か、あるいは死神のものだろうか。殺してくれるならば今はこの上なくありがたい。
希死念慮に苛まれていると、ふいにぽんと肩を叩かれた。
顔を上げると、目の前には微笑を浮かべた空華がいた。
可愛い……お世辞ではなく、本心からそう思った。
ぽうと見惚れていると、空華は心が解きほぐされる柔らかな声で言った。
「大丈夫、誰にも言わないから」
「ほっ……、本当か!?」
聞き間違えだろうと思ったが、空華はしっかりうなずいてくれた。
心に立ち込めていた暗雲が流れていき、胸中が安堵の温もりに包まれて、強張っていた身体から力が抜けていく。
空華は指を一本立てて、再び口を開く。
「でもその代わり――」
心臓がドキッと音を立てる。
これは小説のことを秘密にする代わりに、何か対価を要求してくる流れだろう。
どんな無茶な交換条件を出されるんだ……?
反射的に身構えつつ、俺は尋ねた。
「そ、その代わり……?」
空華はにこっと笑みを浮かべて言った。
「このノート、ちょうだいな」
「…………え?」
俺は拍子抜けした思いで、しばし空華の顔を眺めていた。
「そ、そんなことでいいのか?」
「うん。黒巫女様がこの後どうなるか知りたいしね」
弾んだ声、無邪気な笑み、ぎゅっとノートを抱きしめた手……。
嘘を言っているようには見えなかった。
俺はすっかり警戒心を解いてうなずいた。
「ああ、わかった。それは空華にあげるよ」
「本当!? やったぁ、ありがとう!」
ぴょんぴょん跳ねて喜ぶ様は、到底大学生のものには思えなかった。
空華が小柄で童顔だからというのもあるだろう。まるで幼い子供のようだった。腰の辺りまであるツインテールが、その印象をより助長させていた。
空華はノートを手にしたまま――できればバッグに入れてほしかった――浮き足立ったまま講義室を出て行った。
一人残された俺は、頭を掻いてぼそっと呟いた。
「変わったヤツだな……」
○
しとしと雨が降っていた。
こういう日はあまり外に出たくない。家の中でゲームでもしながら、雨音を楽しむのが乙だろう。
とはいえ、講義があるのだからそうも言ってられない。
俺は重い腰を上げて雨降る中に出向き、大学にやってきていた。
講義室の中は三分の一ぐらい席が埋まっていた。
時間的に受講者はこれでほぼ全員だ。
ここで今から行われる講義は日本文学概論。
人気ではないが、敬遠されてるわけでもない。単位を取るのはそこそこ難しいが決して無理ゲーではない塩梅。興味があるヤツだけが受ける、そんな講義だ。
受講者の中に知り合いもいないし適当な席に座るか、そう思った時だった。
「おーい、山村くーん!」
ぶんぶん手を振り、俺を呼ぶ女性――というか見た目的に少女か――がいた。
あんな幼い見た目の大学生を俺は一人しか知らない。
というか声がデカイせいで、周りの目が一斉に俺とアイツのどちらかに集中していた。めっちゃ恥ずかしい。
他人の振りをして別の席に行こうとすると、さらに声量を上げて呼びかけてきた。
「山村くーん、こっちこっちー!」
……これ以上無視しても無駄だろう。より周りから好奇の視線を向けられてうっとうしくなるだけだ。
観念した俺は、声の主の元へと赴いた。
「…………なあ、呼ぶ時はもう少し目立たないよう心掛けてくれないか?」
俺を呼んでいた少女――空華はきょとんとした顔で首を傾げた。
「どうして?」
「どうしてってお前……、恥ずかしくないのか?」
「なんで?」
「……俺と空華じゃ、根本的に精神構造が違うんだろうな」
我知らず、かなりデカいため息が漏れた。
「お前がどうであれ、今度から俺を呼ぶ時は声を抑えるなりしてなるべく目立たないようにしてくれ」
「うん、わかった」
天真爛漫を絵に描いたような顔でうなずく空華。本当にわかってるのかなはだ怪しいがきちんと伝わっているのを祈るしかない……。
気を取り直して俺は適当な話を振ってみた。
「……空華もこの講義を受講してたんだな」
「そうだよー。夢月ね、本を読むのが好きだから」
「……夢月?」
「夢月の下の名前だよ。知らなかった?」
「いや、知ってるが……」
一人称に自分の名前を採用しているヤツが大学にいるとは思わず、面食らってしまった。
「山村くんも、本読むの好き?」
「まあ、そこそこな」
「ほえー。どんな本を読むの?」
「桂木紫先生とか、重垣望浩先生の作品は新刊が出る度に買ってるぞ。夏目漱石とか芥川龍之介みたいなコテコテの読書家が好みそうなものを本腰入れて読んだことはない。あとはもっぱらラノベだな」
「ちょっと意外かも。文体は太宰治にちょっと似てる気がしたけど」
「そうか? 自分じゃよくわからんが」
「あ、山村くんの小説と言えば」
空華は鞄をごそごそと漁ったかと思うと、例のノートを取り出した。
「これ、面白かったよ」
「ちょっ、おまっ、それはッ!?」
突然の予期せぬものの登場に、つい俺は取り乱してしまった。
「あれ、注目されるの嫌だったんじゃないの?」
悪戯っぽく笑う空華。コイツ、確信犯だ……!
腰を浮かせていた俺は、こっちを見ているヤツ等にごまかし笑いをしつつ座り直した。
それから気持ち声を抑えて言った。
「……おい、なんでそんなもの学校に持ってきてるんだよ!」
「山村くんに感想を伝えたかったから」
「感想だけなら、口頭で済むだろ」
「あとね、行き帰りに車内で読みたかったの」
「まっ、まさか電車の中でこのノートを広げてたのか!?」
「ううん。車だよ」
「車……? 誰かに送り迎えしてもらってるのか?」
「そうだよ。あ、今度から山村くんの送り迎えもしてあげよっか?」
「いや、遠慮しておくが……。というか俺と空華じゃ住んでる場所も取ってる講義も全然違うだろ」
「だったら、夢月と一緒に住めばいいんだよ」
一瞬、耳を疑った。
冗談だろうと思ったが、空華は無邪気な笑みを浮かべているだけで冗談を言っている様子ではない。
「……お前、一人暮らしじゃないだろ?」
「お父さんとお母さんは海外出張に行ってて、今はメイドさんしか家にいないよ」
「メイドって……、秋葉原とかにいる?」
「そうじゃなくて、本職のメイドさんだよ。夢月のお父さんが雇ってるの」
今度こそ冗談じゃないかと疑念の目を向けたが、相変わらず空華の相好に怪しいところはなかった。
「……もしかしてお前、資産家のお嬢様なのか?」
「まあ、それなりに」
「マジか……」
空華の服装や装飾品、バッグを見やったが特に高価そうなものはなかった。
「ふふふ、学校にはあまり高級品を持ってこないようにしてるの。それで以前、失敗したことがあるから」
「なんだ、結局お前も注目されるのが嫌なんじゃないか」
「そういうことになるのかな」
しばし黙した後、空華は少し前のめりになって尋ねてきた。
「ねえ、山村くんって今日の講義はこれで最後?」
「ああ、これが最初で最後だ。わざわざ一コマしか講義を取らなかったことを今になって後悔してるよ。通学時間が余計に一日増えたようなもんだからな」
「そっか。ならさ、講義が終わったらどこかで話さない?」
「別に構わないぞ。この後、特に予定もないしな」
「よかった」
ふと思いついたことがあって、俺は小声で訊いた。
「……もしかしてその話って、小説のことか?」
「うん」
「なら、場所は学校から離れたところにするか……」
「どうして?」
「言わずもがなだろ……」
「別に恥ずかしがることないと思うよ。あの小説、とっても面白いもん」
「そういう問題じゃないんだよ」
くすくす笑う空華。
その姿が可愛らしかったからだろうか。俺は胸の内に、ほんのりとした優しい温もりを覚えていた。
○
講義が終わった後、空華は「ちょっと待っててね」と言って電話をかけた。
「……あ、モニク? 今日はお友達と遊ぶから、帰るの遅くなるの。……場所? たぶん、学校の近くだと思うけど……」
空華は通話に使用していたワイヤレスイヤホンを外し、俺に尋ねてきた。
「ねえ、今日行くところって、どこ?」
「個人経営のカフェだ。駅の向こう側。大体ここから二十分ぐらい歩けば着く」
「ふむふむ、なるほどねー。……モニク、詳しい場所は着いてからLIWEで伝えるわ。……大丈夫よ、山村くんは悪い人じゃないもん。きっとね」
最後はこちらを横目で見て、軽く笑った。幼い容姿にしては妙に垢抜けた表情だった。さすが良家の令嬢といったところか。
簡単に挨拶を済ませて、空華は電話を切った。
それからふぅ吐息を吐いて、肩から力を抜いていた。
「電話って嫌いなんだ。誰が相手でも緊張しちゃうもん」
「それで微妙に他所行きの表情をしてたのか」
「え? もしかして夢月、変な顔してた?」
「いや。いつもの子供っぽさ丸出しの顔より、幾分もマシだったと思うぞ」
「むぅ。それってどういう意味?」
ぷぅっと頬を膨らませる空華。
それは笑いの琴線に触れるには十分すぎる表情だった。
「ちょっとー、なに笑ってるの?」
「ははは、すまんすまん」
「まあ、嫌いでも便利だから、結局使うんだけどね。あ、そうだ。山村くんもLIWEのフレンド登録しようよ」
スマホを両手で持ってこちらに向けてきた空華に、俺は頭を掻いて言った。
「すまない、スマホは持ってないんだ。家にパソコンはあるんだが」
「そっかー。だからノートに小説を書いてたんだね」
「ああ。パソコンで文字を打つ方がよっぽど楽なんだが、デスクトップだから外に持ち出すこともできないしな」
「うわぁ、すっごい不便だね」
空華は大げさに驚く素振りを見せた後、眉をひそめた。
「スマホぐらい買えばいいじゃん」
「金欠なんだ。それに、なくてもどうにかなるしな」
「ふぅん、変わってるね」
「かもしれないな」
俺は軽く首を巡らすようにして言った。
「ここで立ち話をしてるのもなんだし、そろそろ行こうぜ」
「そうね。早く小説について語り合いたいし」
見るといつの間にか鼻歌でも歌い出しそうな、上機嫌な顔になっていた。
ころころ表情が変わる空華は、眺めているだけでも退屈しそうになかった。
歩き出して間もなく、全身の血が一瞬にして凍り付くような思いに襲われた。すぐ先の光景を目にして……。
俺は有無も言わさず空華の腕を強く引いた。
「な、なに急に?」
「いいから来てくれ」
俺は強引に空華を近くの空き部屋に連れ込んだ。
その小さな体を隠すように立ち、ドアの隙間から通路の様子を窺う。
ちょうどその時、目の前を矢千夜が通り過ぎた。
もしもアイツに空華いるところを目撃されたら、面倒なことになっていただろう。しかもこれから二人きりでお茶しに行くなんて知られたら、なんて説明すればいいのか。口が裂けても百合小説のことなんて話したくないしな……。
「あ、あの、山村くん……?」
はたと気付いて俺は空華の方を見やった。
戸惑ったような、怯えているような顔が目に入る。
「……夢月、この状況って叫ぶべきなのかな? 助けてーって……」
「あ、いや、すまん。実は……いたんだよ」
「いたって、何が?」
俺は正直に伝えるべきか少しの間逡巡したが、結局ありのまま言った。
「……彼女がさ。だから空華と一緒にいるところを見られるのが気まずかったんだ」
「彼女って、恋人さん?」
「ああ……」
「ふぅん。山村くんって、恋人がいたんだー」
ニヤニヤ笑いの空華が、ジロジロ俺の顔を覗いてくる。
「ねえねえ、その彼女さんって誰?」
「誰でもいいだろ」
「気になるなー。教えてほしいなー」
「そんな義理はない」
「教えてくれないなら、みんなに小説のこと話しちゃおっかな」
「んなっ……!? お前、卑怯だぞ!」
「ふっふっふー。使えるものはなんでも使うが夢月のモットーなんだ」
「くっそ……」
「大丈夫だよ、誰にも言わないから。夢月だけにね、こっそり教えてほしいんだ」
「……人の恋路に首を突っ込むようなヤツは、長生きできないぞ」
「それなら大丈夫だよ。夢月は元々、美人薄命っていう星の元に生まれてるから。覚悟はもうとっくにできてるんだ」
俺は空華の短身の頭からつま先まで見やって、一笑に付した。
「はっ、そのナリで美人とか」
「むむむーっ! ちっちゃいからってバカにしないでよ!!」
「すまんすまん、バカにするつもりはなかったんだ」
「もうっ、山村くんのイジワル」
「お詫びにお茶は奢ってやるよ。……って言っても、お嬢様のお前じゃ全然ありがたみがないか」
「そうだねー。むしろノブレス・オブリージュの言葉に従うなら、夢月が奢らなくちゃいけないのかな」
「え、マジで? いいのか?」
「……ねえ、バカにした人から奢ってもらおうなんて本気で思ってるの?」
「まさか、俺が空華様のことをバカにするわけないじゃないですかー」
「うわー……、調子いいね。厚顔無恥って知ってる?」
「恥なんて犬に食わせておけばいいんだよ。その代わり自分が美味いもんを食えばいいわけだし」
「まさか、お茶以外にも何か頼もうとしてる?」
「あそこの店、カツサンドが美味いらしいんだよなぁ。付け合わせのフライドポテトもからっと揚がってて、中はホクホクでいくらでも食えちまうって評判でな。それにパフェも値段の割にボリューミーでクリームは北海道産ってこだわりの一品でな……」
「そんなに頼むつもりなんだ……、別にいいけどさ。でもそんな性格だと、たぶん色んな人に嫌われることになると思うよ」
「嫌われるとか好かれるとかを気にして生きるのなんてつまんないだろ。素の自分を好きになってくれる環境に身を置くのが、一番幸せな人生を送れる方法なんだよ」
「ふぅん。本気でそう思ってるの?」
「ああ、もちろんだ」
「なら、なんで小説のことを周りから必死に隠そうとしてるの?」
「……そ、それは――」
痛いところを突かれて、言葉に詰まってしまった。
そんな俺を空華は微笑を浮かべ、小首を傾げて見上げていた。
「結局、山村くんだって周りの人の顔色を窺って恐々日々を送ってるだけなんだよ。素の自分をさらけ出して生きていけるっていうのはね、それだけで稀有な才能。選ばれた人だけに与えられた特権中の特権。……ううん、もしかしたらそんなもの持ってる人なんていないんじゃないかな?」
「……でも空華は好き勝手に生きてるように見えるけどな」
「全然そんなことないよ。夢月だって、本心を押し隠して生きてるの。もしもそれを打ち明けてしまったら……」
空華は虚空を見やり、寂しそうにぼそりと呟いた。
「今という時間は終わっちゃうかもしれないからね」
○
カフェに着いて、俺は早速宣言通り今まで頼みたくてずっと我慢していた品々を全て注文した。
顔見知りの店員は、注文を取っている最中に目を丸くしていた。
「今日はすごい奮発するんだね。それに、彼女じゃない女の子と一緒だし……」
「コイツは空華。友達だよ」
紹介すると空華は軽く「どうもー」と会釈した。
「……小学生、いや……中学生?」
わかりやすく「むっ」という表情になる。
「大学生だよ」
「あ、こりゃ失礼」
店員は慌てて頭を下げる。
きっと空華はこれまでの人生で何度もこんなやり取りをしてきたんだろうなぁ、と俺は軽く思いを馳せた。
とりあえず話の路線を元に戻すことにした。
「コイツが俺の分まで奢ってくれるんだ」
「……えぇ? 女の子に奢らせる気なのかい」
「金持ちなんだよ。だから気兼ねしなくていいってさ」
「金持ちって言ったって……、ん?」
店員は急に考え込むような表情になって空華を見やった。
ニコニコ笑みを浮かべている空華に店員は尋ねた。
「嬢ちゃん、もしかして……空華グループの娘さんかい?」
「うん、そうだよー」
「えっ、ええぇえええええッ!?」
カフェに似つかわしくない大音声を上げて仰天する店員。すぐさま店の奥からギロッと睨んできたマスターに気付いた彼は、慌てて頭を下げていた。
俺はさっぱりワケがわからず、店員に聞いた。
「なんだ、空華グループって?」
「知らないのかい? 日本で指折りの大企業だよ」
「あんまり世間には詳しくなくてな」
店員は呆れたような目をしながらも教えてくれた。
「空華グループは国内の医薬品、医療機器を開発している研究機関やメーカーを統括している企業だ。扱っている商品はどれも世界中で認められていて、今は各国の大企業や研究機関と様々な新薬や機器を共同開発してるらしい」
「……なるほど。でもなんでその娘の空華が文学部なんかに来てるんだよ?」
後半は空華に向けて訊いた。
「跡取りはお姉ちゃんだから。私は好きにしていいんだー」
「なるほど。金があり余るほどあって、自由に生きられるってわけか。お気楽な身分じゃないか」
「でも、お姉ちゃんがすっごく優秀だから小さい頃は比べられて肩身が狭かったんだよ。今はもう気にしてないけどね」
「お前みたいなヤツでも苦労してたんだな」
「もう。山村くんって本当、デリカシーないよね」
「ははは、二人共仲がいいんだな」
談笑してると、カウンターからマスターが店員に向けて睨みを飛ばしてきた。
「……おい、いい加減注文を取って戻ってこい」
時刻は十二時前。そろそろランチ・タイムになる。この店で一番客が入る頃合いだ。
店員は「す、すみません」と謝りつつ注文票を手に急ぎ足で去っていった。
俺は小さなため息を吐きつつ空華に言った。
「お前って、すごいところのお嬢様だったんだな」
「まあね。でもみんな医薬品とか医療機器がどこで作ってるとか全然興味ないんだよね。さっきみたいに苗字で驚かれることって、すっごく珍しいの」
「なんとか製薬、みたいなのは聞き覚えあるんだが……、グループと医療はイメージ的に全然結びつかないな」
「正確には開発支援グループって感じかな。でも夢月の家ぐらい規模の大きな場所は世界中を探してもそうそうないと思うよ」
「なんでそんなものが極東の島国なんかにあるんだよ」
空華は「ちょっとおかしいよね」と笑いつつ説明してくれた。
「元々空華家が直接管理していた研究所の一つが、すっごい発見をしてね。それが巨万の富に化けて、今みたいな感じになったの」
「へえ。なんなんだよ、その発見って」
「うーんとね……、あまり詳しくは言えないんだよ。世間的には多くの病気を治療しうる善玉ウイルスの発見、ってことになってるけど」
「なんか奥歯に物が挟まったような言い方だな」
「色々と事情があるんだよ。察してほしいかな」
「……わかったよ。まあ、聞いたところで門外漢の俺じゃ理解できないだろうしな」
「夢月もちゃんとわかってるわけじゃないしね。……さて、そろそろ本題に入ろっか」
「……俺としては今の話題の方がメインっぽかったんだが」
「なに言ってるの! メインは山村くんの小説に決まってるじゃん」
声を張り上げる空華に、俺は慌てて口の前で指を立てて言った。
「だから、声がデカいって……」
「ほえ? でもここには、学校の知り合いはいないんじゃないの?」
「あの店員が俺の彼女の顔見知りなんだよ」
「なら別のお店にすればよかったじゃん」
「他に行きつけの店がないんだよ。……はあ、新しい店を開拓すべきかな」
「なら、今度は夢月のお気に入りのお店を紹介しよっか?」
「連れていってもらうだけならともかく、絶対に高すぎて普段通いなんてできそうにない場所なんだろうな……」
「ちゃんと山村くんの気に入りそうな場所を選んであげるね。いくつか候補があるけど、どこにしよっかなー」
「行くのは決定してるんだな……」
ふとある考えが脳裏を掠めた。
というか、もうそれってデートのラインの内側に入らないか?
っていうか客観的に見て、今の状況はどうなんだよ?
「……どうしたの? なんか顔、赤いよ?」
「い、いや、なんでもない」
落ち着け。もしもデートだと認めてしまったら、その時点で矢千夜への裏切り行為……つまり浮気が確定してしまう。
たとえ客観的に見て現状がすでにアウトだったとしても、主観的に捉えなければセーフなはずだ。認めるな、現実から目を逸らせ。今はただ、友達とカフェでお茶をしてだべっているだけなのだ。
「……そういえば、ここに来たのは小説について話すためだったよな」
「え? あ、うん。そうだね」
「よし、話そうじゃないか。大いに語り合おう」
「……夢月は嬉しいけど。でもなんか、急に乗り気になったね」
「そ、そんなことないぞ。全然決して、そんなことないんだからな」
「……う、うん、わかった」
怪しんではいるが、目をつぶってくれるらしい。
俺は密かに胸を撫で下ろしつつ、目をキラキラさせだす空華を見やった。
その手には例のノートがあった。
「あのね、あのね。この『黒巫女様』っていう小説、ものすっごく面白くって、大好きになっちゃったの!」
なんの飾り気もない、熱意だけがこもった直球な賛辞。その火の玉ストレートに、俺は初っ端から身悶えることになった。
「そ、そうか……。具体的に、どの辺が?」
「退魔のシーンがね、とっても興奮したの! 黒巫女様がとってもカッコよくて、それとどことなく妖艶な雰囲気を纏ってるの。読んでるとその光景がはっきりと目に浮かぶんだ」
「ああ、あのシーンは結構悩んで書いたな。もっとねっとりと濃厚に書くか、それともあまりごてごて飾らずに流れを重視するかってな」
「ねっとりって、官能シーンみたいに?」
さらっと出てきた核弾頭みたいな単語に、一瞬俺は呆気にとられた。
「……空華って、そっち方面の耐性があるんだな」
「まあね。エッチなのも結構好きだよ。そういうゲームも漫画もいっぱい持ってるし」
「マジか……」
童顔でちっこい空華と十八禁コンテンツ――なかなか等式で結ばれない組み合わせだ。想像していると、背徳的でなんかゾクゾクしてくる。
「……空華って、十八歳なのか?」
「当たり前だよ。外国じゃないんだから、飛び級なんてないし」
「そうだよな……」
「それより、『黒巫女様』のことだけどね。やっぱり主人公の黒巫女様がとっても魅力的だと思うの! いつもクールだから泰然自若っぽい印象を持っちゃうんだけど、実は甘いものとか動物が好きな女の子っぽい一面があったり、川柳を作るのが趣味だけど実はそれが乙女チックなものばっかりで恥ずかしいから秘密にしてたり。あと、誰かが危険に陥ったら命を賭してでも助けようってするところが、グッと心に来るんだ! 普段は自己中心的な冷たい態度を取りがちだけど、本質は奉仕的な性格なんだよね。あ、もちろん可愛い女の子が好きなところもいいなって思うの。もしも黒巫女様が夢月のことを求めてきたら……って考えちゃうと、すっごいドキドキするんだ」
ぽっと頬を染めて身を捩る空華。
恋する乙女そのものな姿に、俺はある疑問を持った。
「お前って、黒巫女様が好きなのか? それとも恋愛対象が女の子とか?」
「夢月はもう、黒巫女様一筋だよ!」
強い語気の断言に、俺は「お、おう」と内心でたじろぎながらもうなずいた。
空華は「あ、ごめんね」と我に返って少し落ち着いてから、少し考える素振りを見せつつ言った。
「……確かに前までも、イケメンより可愛い女の子が好きだったかも」
「そういうのって、何かきっかけがあったりしたのか?」
「うーんとね。……たぶん、ないかな。生まれつき男の子より女の子の方が好きだった気がする」
「へえ。遺伝的なものなのかな」
「どうだろうね。……黒巫女様はどうなの?」
「へ? ……黒巫女か?」
「うん。黒巫女様はどうして女の子が好きなの?」
問われて俺は答えに窮した。
こんな熱心な読者を前に、まさか百合ものが書きたかったからそういう設定にした……なんて浅すぎる動機を口にできようものか。いや、俺にはできない。
後でそういう理由付けのエピソードを考えようかとか思案はしていたが、そんなものをとっさに作れるような技術は俺にはない。
とりあえずこの場凌ぎのために、俺は思い付きの返答をした。
「……黒巫女も生まれつき女の子が好きだったんだよ。少女時代に初恋をした相手も女の子なんだ」
「そうなんだー! 嬉しいな、夢月と一緒だ」
無邪気に喜ぶ空華。そんな姿を眺めていると、心中に罪悪感が芽生えてくる。
「でも『黒巫女様』の時代設定ってたぶん江戸時代以前だよね。その頃って同性愛の女の人っていたのかな?」
「記録が少ないだけで、実際にそういう性的嗜好を持ってる人はいたみたいだぞ。鎌倉時代にはレズビアンを扱った小説がすでに存在してたみたいだしな」
「ほえー。やっぱり小説を書く人って、物知りなんだね!!」
「い、いやいや、全然そんなことないぞ。ただ執筆前にネットで調べて知っただけだ」
「ちゃんと下調べして書いてるんだー」
「あ、で、でも時代考証とかはたぶん間違ってるぞ。結構、想像だけで書いちゃってる部分が多いし……」
「大丈夫だよ、読んでてあまり気にならなかったし。純和風な世界観って夢月好きなんだけど、それを物語の序盤から丁寧に描写していて、ぐっと引き込まれたの。黒巫女様達が生きてる世界ってこんな場所なんだって、想像してワクワクしたなぁ」
「いや、だけど……」
「ふふふ。山村くんって、あまり自分の書いた小説に自信ないんだ」
「それは……」
図星だった。
俺は自作の小説を新人賞に応募したり、投稿サイトに公開したことは一度もない。
リアルで誰かに小説を執筆していることを打ち明けたことすらない。
自分以外の人に読んでもらった経験がないのだ。
「……ねえ。もしかして山村くんって、自分の趣味が周りにバレることよりも、誰かに小説を読まれること自体を怖がってるんじゃないかな?」
「……え?」
空華はふっと優しい笑みを浮かべて続けた。
「もしもつまらないって思われたらどうしよう。バカにされたらどうしよう。そもそも最後まで読んでもらえなかったら……。そんな不安が、山村くんにはあるんじゃないかな?」
「いや……、それよりも百合好きが周りにバレたらどうしようとばかり思ってるが」
「百合要素のない作品は書いたことないの?」
「いくつかはあるが……」
「その作品だって、誰にも見せてないんでしょ?」
俺は口を閉ざして目を逸らした。だがその沈黙が何よりも雄弁な肯定だった。
「小説を書いたことはないけど、なんとなくわかる気がするの。きっと書いたものを人に見られるのって、少し嫌だなって思うよね。自分の妄想や考えていることをありったけぶちまけちゃってるんだもん」
「……まあ、そうだな」
「本当に嫌だったら、別に誰かに見せる必要はないと思うの。書き上げたものを机の引き出しの奥底や、パソコンのファイルの奥底にしまっておけばいいんじゃないかな。でも山村くんはそうじゃないよね?」
空華は目を覗き込んで訊いてきた。その大きな瞳と視線がぴたりと合った瞬間、まるで金縛りにでもあったように体を動かすことができなくなっていた。聴覚は周囲の環境音を一切受け入れず、ただ空華の声だけに意識を集中させてくる。
「夢月が『黒巫女様』を褒めた時、とっても嬉しそうだったもん。山村くんは小説を書くことが好きで、本心ではそれを誰かに見てもらいたいと思ってる。違う?」
「俺は……」
頭の中は言葉という言葉がすべて抜け落ちてがらんどうになっていた。だからこそいつもは無視している心の奥底の声が、明瞭に聞こえてきた。
「……空華の言う通りだ。ずっと思ってたんだ、自分が丹精込めて執筆した小説を誰かに読んでほしい。そして感想を聞かせてほしいって……」
「そうだよね。でないと、書けないよ。こんなにぎゅっと魂がこもった小説は」
空華は椅子に座り直して、一度瞬きをした。
途端、俺の体は意識と接続し直したみたいに自由に動かせるようになっていた。聴覚も元に戻り、いつの間にか入店していた他の客の会話やジャズ・ミュージックが空っぽの容器に水が満ちるように意識の空白を埋めていった。
ちょうどやってきた店員は注文の品だけ置くと、すぐに立ち去って他のテーブルの客から注文を取り始めた。今の時間帯は無駄話をする暇もないのだろう。
俺は料理やカップに手をつけず、ただ空華を見ていた。
「食べないの?」
くすっと笑われて、俺はなぜか頬に熱を感じつつカツサンドを手に取った。
空華は人差し指を立てて、誕生日前の子供を彷彿とさせる無邪気な下心が透けて見えるような調子で言った。
「ね、一つお願いがあるんだけど」
「なんだよ、お願いって?」
「夢月に、山村くんの作品の稿料を支払わせてほしいの」
しばらくの間、俺は空華が何を言っているのかよくわからなかった。
「こうりょう……?」
「うん、原稿料」
「……まさか俺が書いた小説に、空華が報酬を支払うってことじゃないよな」
「そうだよ」
「いやいや、おかしいだろ!」
空華はぱちくりと瞬きをして首を傾げた。
「何がおかしいのかな?」
「だって、俺はただの素人だぞ。そんなヤツの書いた小説に金を払うなんて……」
「今はそういうの、全然普通だと思うけどな。ネットだとほら、イラストのリクエストを絵師さんに出して、描いてもらったものに報酬を支払うのとかやってるじゃん」
「まあ、そうだけど……。でもリアルで顔を突き合わせてやるのって、抵抗ないか?」
「別にないよ。夢月はこの『黒巫女様』を読んで、とっても面白いと思ったもん。だからこれを読ませてくれたお礼をしたいなって思ったの。何か変かな?」
「だからって……、現金なんて」
「山村くんはお金、欲しくないの?」
「そりゃ欲しいさ。バイトもしてないから、常に金欠だしな。でも顔見知りから金を取るのはちょっと……」
「大丈夫だよ。夢月、お金ならいくらでも持ってるもん」
「そういう問題じゃないんだ」
「……わからないな、何を迷ってるのか」
空華はすっと笑みを引っ込めて、背筋を伸ばした。
「山村くんはなんのために小説を書いてるの?」
「俺は……、自分が楽しむために書いてたんだ。でも、今は……」
俺は天井を仰いで、そこにあったファンを眺めた。それはゆっくりと、しかし止まることなく同じ場所を回り続けていた。
「……誰かに、俺の作品を読んでもらうために書いてみたい」
「だったら、目指してみようよ。小説家を」
俺はぱっと弾かれたように空華を見た。
目の前には、午後の優しい日の光に照らされた微笑みがあった。
「俺が……小説家に?」
「山村くんならきっとなれるよ。だってこんなにすっごい面白い小説が書けるんだもん」
にわかに信じ難く、俺はじっと空華の顔を凝視してしまった。
だがその穏やかな笑みはいくら経っても、少しも歪むことはなかった。
「だからさ、まずはその練習だと思って夢月の専属作家になってみない?」
「……専属作家って、さっき言ってたイラストの受注みたいな感じのことか?」
「うん。夢月が読んでみたい小説を依頼するから、山村くんがそれを書くの。完成したものを渡してくれたら、それに対して稿料を払うよ」
「確かに空華に読んでもらって感想を聞くのは、俺の成長に繋がると思うけど……。でも金をもらう必要はないんじゃないか?」
「夢月はとっても大事なことだと思うよ。創り上げた作品を読んでもらって、その人から報酬をもらったらプロ意識が芽生えるはずだよ。そうすればきっと、今よりもっと面白い作品が書けるようになると思わない?」
「……まあ、一理あるかもしれないな」
「でしょ!」
空華は机上に置かれたノートにそっと手を乗せて言った。
「じゃあ、まずはこれの稿料を支払うね」
「いや、それはもう空華にあげたものだから……」
「払わせてほしいの。夢月はこれを読んで、すっごく楽しいなって思ったんだ。だからそのお礼の意味も込めて、ね?」
結局俺は空華に押し切られる形で「ああ」とうなずかされた。
いや、断固拒否する姿勢でいればその提案を退けることもできたはずだ。
しかしそうしなかった。それは俺という人間の浅ましさの証左に他ならない。芽生えた金欲を摘み取ることができなかっただけなのだ。
自己嫌悪に陥りつつ、俺は密かに小さくため息を吐いた。
「じゃあ、とりあえずこれぐらいで」
机の上に置かれた紙幣を目にした途端、俺は呆気に取られて瞬きすら忘れ、それをしばらく眺めていた。
「……多すぎだろ、これ」
目の前には渋沢栄一が印刷された紙幣が十枚ほど置かれていた。
「ううん。夢月はこれでも足りないと思ってるぐらいだよ」
「いやいや、そんなことないだろ。そのノートに書かれてるのは、多くても文庫本二冊程度の量しかないんだぞ」
「これだけあれば、スマホを買えるでしょ」
にこっと笑う空華を見て、俺はようやく彼女の意図を汲み取ることができた。
「スマホなら直接会わなくても、いつでも書いた小説を空華に送ることができるな」
「えへへ、バレちゃった」
お茶目にぺろっと舌を出すそのあざとさに、心臓は敏感に反応した。ふと脳裏に矢千夜の顔が浮かんだが、俺は空華から目を離すことができなかった。
「完成した作品をね、少しでも早く読みたいの」
「……ああ、わかったよ。だけど俺は結構遅筆だぞ」
「大丈夫、その間は山村くんがくれた作品を再読してるから」
「なんかそれは、少しこそばゆいな。でも報酬は本当にいらないんだが……」
「ダメダメ、ちゃんと払うよ。そのお金で資料とか小説に必要なものを買ってほしいの」
「経費みたいなもんか」
「もちろん生活の足しにしたり、他の趣味とかに使ってもいいよ。でもスマホを買ってもあまりソシャゲとかにのめり込んだりしないでね。報酬は山村くんの執筆活動を応援するためのものなんだから」
「わかった。もらった報酬は、ちゃんと小説のために使うよ」
「うん! 約束だよ」
ぱあっと輝きを放つ空華の顔を見て、俺は胸がいっぱいになような思いを覚えた。
○
空華と店の前で別れた後、俺は携帯ショップに寄ってスマホを一台購入した。
諸々月額制の契約などはあったが、ちゃんと小説を執筆すれば空華からの報酬で支払うことができるはずだ。貯金はいくらかあるから、いざとなれば数ヶ月分はそこから出せるだろう。
帰宅した俺はパソコンの電源を入れて、早速執筆を始めようとした。
だがふと気になることがあって、俺は検索ブラウザを立ち上げた。
そこに空華グループと打ち込んでエンターキーを押した。
いくつか出てきた検索候補の内、適当なサイトをいくつか別窓で開いた。
それ等にざっと目を通して、興味の引かれた部分を拾い読みしていった。
空華グループは明治頃から前身となる組織があったらしい。
それが戦後、所属していた研究者のとある発見を契機に飛躍的に成長を遂げて、今のような巨大な組織に発展したそうだ。
その発見というのが、コネクトーム。
神経回路の地図……つまり、神経内の様子を詳細に記したものらしい。
空華グループは誰よりも早くその解析に成功した。そして今まで長い時間をかけて治療するしかなかった精神病の患者を手術によって完治させる方法を確立した。
それを発表すると世界中から認められ、以後研究や新薬、機器を開発する際には多額の支援金を得られるようになった。
そういった経緯があり、今に至るという。
「……よくわからんが、すごいっていうことだな」
まだ理解できていない部分もあるが、それは今度空華に直接訊けばいい。
俺はブラウザを閉じて、今度こそ執筆を開始した。
○
次の日、学校で講義を終えて帰ろうとしていた時だった。
「あっ、山村くーん!」
背後から聞き覚えのある声で呼ばれた。
振り返ると、空華が小走りで駆け寄ってきていた。
「山村くんも今、帰り?」
「ああ。空華もか?」
「うん。ねえねえ、今日も時間ある?」
「特に予定はないぞ。帰って小説の執筆でもしようかと思ってたんだが」
「そっかー。じゃあさ、今日山村くんの家に寄ってもいい?」
俺は一瞬、我が耳を疑った。
「……俺の家に、空華が?」
「ダメかな?」
「いや、ダメってことはないが……。俺は一人暮らししてるんだが」
「それがどうしたの?」
「……一つ忠告させてくれ。一人暮らしの男の家に、無警戒で上がるのは危ないぞ」
「わかってるよ。でも山村くんなら大丈夫だと思ったんだもん」
「何を根拠に……」
「だって、彼女さんがいるんでしょ?」
「いや、彼女持ちだからって他の女に手を出さないとは限らないだろ」
「そうだね。でも、山村くんは酷いことしないもん。ね?」
にこっと笑って小首をかしげる空華。
その無条件の信用を向けられて、俺は自らの胸の内にじんわりと温もりを伴った喜びが広がっていくのを感じた。
「……絶対に安全だって保証はしないぞ」
「え、なになに? もしかして山村くん、夢月の魅力に惚れちゃってるの?」
グラビア女優がやりそうな、あざといお色気ポーズを取る空華。だが悲しいかな、そのちんちくりんボディでは色気の欠片もない。……ないにもかかわらず俺は、いくばくかの時間目の前の少女に視線を釘づけにされてしまう。
「……バカなことやってないで行くぞ」
「あっ、ちょっと待って。お迎えに来てるメイドさんに、山村くんのお家に送ってもらえるように電話するから」
「そういや、空華は送迎してもらってるんだったな。……っていうか、そんなことしてもらえるんだったら昨日もカフェまで歩く必要なかったんじゃないか?」
「多分、そこまで距離は変わらなかったと思うよ。メイドさんが車を停めてた駐車場も、カフェと同じぐらい離れたところだったし」
「え、学校の前まで来てもらってるんじゃないのか?」
「うん。だってそんなことしたら、みんなにお金持ちだってことバレちゃうじゃん」
俺は思わず苦笑を漏らしていた。
「やっぱりお前も目立つのは嫌いなんだな」
「あはは、そうだよ。人はね、誰しもいくつか隠し事をしてるの。夢月にとってそれは、実家がお金持ちってことなんだ」
「でも俺にはあっさりとそれを打ち明けたよな」
「山村くんは特別だもん」
「特別って……?」
「あんなに素敵な小説を書ける人だから。信用しちゃっても大丈夫だなって思ったの」
「……お前に警戒心はないのか」
「ちゃんとあるよー。信用できる人かどうかなんて、目を見て話せばわかるもん」
「本当か?」
「うん、本当、本当。さあ、そろそろ行こうよ」
俺は空華に手を取られて、引っ張られるようにして歩きだした。
こんなところ矢千夜に目撃されたらマズいと、慌てて周囲を見回した。
幸い、彼女の姿はどこにもなかった。
俺は心中で安堵の息を吐いて、空華の後をついていった。
普段は絶対に立ち寄らない、地下駐車場。
中に入るなり俺は、眼前の光景に仰天することになった。
「……なっ、こ、これって全部高級車じゃないか!?」
ベンツ、ポルシェ、ランボルギーニ。
あらゆる高級車が駐車場の一角を占めるように並んでいた。
「ここには二十四時間、警備員さんが駐在してるの。だから高級車を街中で駐車したい人はみんな、セキュリティーが万全なここに来るんだ」
「それでこんな高級車博覧会みたいな状態になってるのか……」
「メイドさんの車はあれだよ」
空華が指差したのはやや平たい車体、惚れ惚れする真紅のボディ、スタイリッシュなデザイン。極めつけは跳ね馬のエンブレム。
「フェラーリなんて、初めて見たぞ……」
「夢月はブガッティのディーボが好きなんだけど、メイドさんはフェラーリがお気に入りなんだって」
「お前と話してると、金銭感覚がおかしくなってくるよ……」
空華はフェラーリに向かってぶんぶんと手を振った。
すると運転席のドアが開き、メイド服の女性が出てきた。
背が高く、手足がほっそりとしている。
腰まで届くロングのブロンドヘア。空間が薄暗いからか、女性の髪は眩く輝いて見えた。
陶磁器のように白い肌、すっと鼻筋が通っている顔。線の細い輪郭。
まさに絵に描いたような美人がそこにいた。
「あの人がね、夢月のメイドさんなの。ほら、挨拶して」
女性は俺の顔を真っ直ぐに見て、薄桃色の唇を開いた。
「わたくしは夢月お嬢様にお仕えしている、使用人のモニクと申します。以後、お見知りおきを」
深くお辞儀をしてくるモニクに、俺は少し気後れしつつも背筋を伸ばした。
「お、俺は山村翠命だ。こちらこそ、よろしく」
モニクに倣って頭を下げると、空華のくすくすという笑い声が聞こえてきた。
「そんなにかしこまらなくても大丈夫だよ。モニクはお仕事だからそうしてるだけなんだからさ」
「そ、そうか。でも急にこんなフォーマルな対応されたら、こっちだってかしこまらないわけにはいかないだろ」
「山村くんって変なことをこだわるんだね。まあ、モニクに対しては気安く接しても構わないよ。ね?」
問われたモニクはゆるりとした動作でうなずいた。
「はい。わたくしに対しては、敬意や気遣いは一切不要です」
「……ええと。じゃあ、モニク。これからよろしくな」
「はい。よろしくお願いいたします」
さっきと同じく、九十度の礼をされる。この対応に慣れるのは、少しばかり時間がかかりそうだ……。
「本日は山村様のご自宅に訪問されると伺っておりますが」
「うん、そうだよ。山村くん、ここから自分の家までどういう道筋か、わかる?」
「ああ、多分大丈夫だと思う」
「じゃあ、案内は任せたよ。モニクにちゃんとルートを説明してあげてね」
「わかったよ」
「では、参りましょう。お嬢様、こちらへ」
モニクは助手席を開けて、空華を乗せようとした。
「あ、今日は山村くんが助手席に座った方がいいんじゃないかな。その方が道案内もしやすいでしょ」
「……おっしゃる通りです。では山村様、ご乗車をお願いします」
「あ、ああ」
俺はやや緊張しながら、助手席に座った。
座席はほどよい座り心地だった。柔らかすぎず、固すぎず。正直、いつも家で使っている椅子なんかよりこの座席の方がちゃんと体を支えられている気がする。重力がまったく気にならないと思ったのは初めてだ。
二人が乗って、エンジンがかけられる。
一般乗用車と違って、その音はかなり抑えられていた。走り出しても、ほとんど振動は感じない。さすがは高級車だ、乗り心地も抜群である。あるいはそれはモニクの運転技術のお陰でもあるのかもしれない。
公道に出る頃には、空華はすやすやと寝息を立てていた。寝つきのよさは素より、悩みなんてまったくなさそうな幸福そのものを体現化したような寝顔には羨望を覚えた。
俺とモニクの間には、しばらく道案内以外の会話はなかった。
そろそろ家に着く頃になって、初めてモニクが話題を振ってきた。
「山村様はどうして、お嬢様の支援を受けようと思ったのですか?」
ズキンと胸が痛んだ。
やはり世間的に見て、学友から金をもらうのは常軌を逸しているのだろう。
「言い訳はしない。ただ、金が欲しかったんだ」
「さようですか」
予想に反したあっさりとした返答に、俺はちょっと拍子抜けした。
「……それだけか?」
「というと?」
「空華から持ち掛けてきたとはいえ、同じ学生から金をもらおうとしてるんだぞ。そんなのおかしいだろ……」
「おかしいと思いつつ、あなた様はその提案を受け入れた。そういうことですか?」
「ああ……」
「ならば今から出も辞退すればいいでしょう」
「でも、もうスマホを買っちまったし……。それに……」
よかれと思って空華は支援を申し出たのだ。もしもそれを今更断ったら、きっと彼女は悲しむことだろう……。そんな顔を俺は見たくなかった。
横目でこちらの様子を窺ってきていたモニクは、信号が青になって正面を向いた。
静かにフェラーリが走り出した。
「二つ先の交差点を左折して、左手に見えるマンションが山村様の自宅でしたね?」
「あ、ああ」
車内に何度目かの沈黙が流れる。しかし今回は今までのものとは違い、静寂が体にまとわりついてくるようだった。
俺は居心地の悪さから逃れるように俯いた。
ややあってモニクが沈黙を破った。
「……借りは返すことができます」
その一言を耳にした瞬間、俺は地の底で頭上から降ってきた一筋の光を目で追うような思いで顔を上げていた。
モニクはハンドルを切りながら続けた。
「支援を断らず、罪悪感を払拭したいのなら、受けた恩をそのままお嬢様に返せばいいのではないでしょうか」
「……そうか。いつか出世払いして、返せばいいんだよな」
「はい。もちろんそれは、山村様が一定の成果を上げるのが前提条件になりますが」
「成功するさ。なんてったって、俺には応援してくれるヤツがいるんだから」
俺は後部座席で寝ている空華を振り返って見やった。
その時、彼女の口の端が少しだけ持ち上がったような気がした。
○
マンションの前に、フェラーリが停車する。
俺達を降ろしたモニクは、パワーウィンドウを開いて空華に言った。
「ではわたくしは、駐車場を探してきます」
「ここにも来客用の駐車場はあるぞ?」
「いえ、他の方のご迷惑になってしまうかもしれませんので遠慮しておきます。都合のよさそうな場所が見つかったら、LIWEでお伝えします」
「うん、わかったよ」
「お帰りの際はお嬢様の方からご連絡ください、お迎えに上がりますので。では」
パワーウィンドウを閉じて、フェラーリがゆっくり発車する。
急に手に温かくて柔らかな感触。心臓が激しく震えて、かっと顔が熱くなる。
見ると、小さな手が俺の手を握っていた。
「さ、行こうよ」
「あ、ああ」
俺は空華の顔を見れず、少し顔を俯けたままマンションに入った。
誰かに見られたらどうしようかと思ったが、空華の手を離す気は起きなかった。
「ほえー、ここが山村くんのお家なんだー」
空華はぐるっとリビングを見回した後、けらけらと笑った。
「なんか、とっても狭いねー」
「いや、普通ぐらいだぞ。アパートとかだと、もっと狭いし」
「えっ、そうなのー?」
「……っていうか、さすがに今のは冗談だよな。お前、アニメとか観てるんだから一般住宅のスペースがどれぐらいか知ってるだろ」
「あ、バレた?」
ぺろっと舌を出す夢月。
俺はちょっと彼女から目を逸らして訊いた。
「……モニクは家に来ないのか?」
「うん、駐車場で待ってるって」
「そうか……」
ということはつまり、今この家には俺と夢月の二人きりということだ。
……まあ、マンションの一室だしあまり無茶なことはできない。それでももしかしたらという期待は捨てきれず、心臓の鼓動がひっきりなしに胸の奥で響いていた。
「そ、それで、何する? ゲームでもやるか?」
我ながら情けなくなるぐらい、動揺していた。
変に思われたらどうしようかと焦ったが、杞憂だったようだ。空華は気にした風もなく目をキラキラと輝かせて言ってきた。
「あのね、あのね。夢月ね、『黒巫女様』の裏設定とか知りたいの」
「裏設定……?」
「うん。だからね、設定資料集とかあったら、見せてほしいなって」
俺は軽く笑いながら脱力してしまった。
結局、空華は俺のことなど眼中になく、『黒巫女様』にお熱なのだ。
熱意のあるファンがいるのは嬉しいが、少しぐらい作者に興味を持ってくれてもいいではないか……と少し寂しくなった。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない……。設定なら一応何冊かのノートにまとめてあるけど、そこまで面白いものじゃないと思うぞ」
「ほええ、そんなにたくさん練ってあるんだ。見てみたいなぁ」
「わかった、持ってこよう。……っと、その前に茶の一杯でも出すか」
「あ、ねえ、ねえ。夢月も山村くんのお部屋に行ったらダメかな?」
……………………聞き間違えか? いやでも確かに今……。
「お、おっ、俺の部屋に……空華が?」
「うん。あ、嫌ならいいけど」
「そ、そんなことないが。でも、どうして?」
「山村くんが普段、どんな場所で執筆してるのか見てみたいの」
「なるほど、そういうことか」
空華の興味が自分に向いている。その事実だけで、心が少し浮き立ってしまう。
なんか彼女の前にいると、少しずつ自分がおかしくなってしまう。でも不思議とそれは不快ではなかった。
六畳ほどの洋室。
ウォークインクローゼットが備えつけられており、その前にはものは置かれていない。
デスクトップのパソコンが一台ラック上にある。ラックの下段にある化粧箱のようなものはPCゲームのソフトだ。十八禁のものもあるが、空華は特に抵抗がないようだし大丈夫だろう。矢千夜が来る時は、事前に隠しておくようにしている。
チューナーレスのテレビがローボードの上に一台。ローボードの中にはゲーム機やソフトが仕舞ってある。
腰の高さまである本棚が二台。ラノベや漫画、一般小説が適当に分類されて並んでいる。
両開きの窓の下にベッドが一台置かれている。ベッドの引き出しの中は普段は空っぽだ。矢千夜が来るときは、見られたら気まずいものをそこに一時避難させておく。
傍にある学習机は、俺が小学生の頃からの付き合いだ。最近はもっぱらパソコンの前に座ってばかりで、この机はほとんど使っていないが。椅子はパソコンの前にあるオフィスチェアを兼用している。書き物をする時は、あれを学習机の前まで持ってくる。
俺は学習机に取り付けられた小さな棚から数冊ノートを取って、クッションの上に座ってオレンジジュースをごくごく飲んでいる空華に差し出した。
「ほら、これが設定を書き殴ったものだ。全然情報を整理してないから、かなり読みにくいと思うが……」
「わぁ、ありがとう」
弾けるような笑みを浮かべ、ノートを受け取る空華。早速それを開き、黙々読み始める。
俺は邪魔しちゃ悪いと思いつつも、少しでも会話がしたくて声をかけた。
「……その、散らかってて悪いな」
空華はノートから顔を上げこそしないものの、受け答えはしてくれた。
「んー、別にそこまで汚くないと思うよ」
「そうか……。ならよかった」
そこで会話は途切れた。
他に話題も思いつかず、空華をずっと眺めているのも不自然なので、俺は仕方なくパソコンの電源を入れて執筆をすることにした。
だが室内に空華がいるのを意識してしまって、なかなか筆は進まない。
俺は密かにため息を漏らした。
可愛い女の子が同じ部屋にいるのに、どうして俺は彼女に背を向けて小説を書いているのだろう……。
今の状況じゃいい作品を書けるはずがないと思い、早々に俺は執筆を打ち切った。
空華はどうしているのかと思って振り返ると、なぜか赤面して穴が開くんじゃないかってぐらいまじまじとノートを凝視していた。
一体どうしたのだろうと、俺はそっと足を忍ばせて彼女の背後に回り、華奢な肩越しにノートを覗き見した。
……今生一番のやらかしを、俺はしてしまったのかもしれない。
慌てて空華の手からノートをひったくり、それを背中に隠した。
彼女は驚いた様子でぱっとこちらを見上げた。
俺はだらだら汗を流しつつも、どうにかごまかし笑いを浮かべる。
「あ、あはは……。べ、別の作品の設定も混じってたみたいだな……」
「でも、書いてあったよ」
「書いてあったって……?」
彼女はしばし目を泳がせて逡巡していたが、やがてボソボソとした声で言った。
「……黒巫女様は、ふたなりだって」
さぁああ……と、全身の血の気が一気に引いていった。
もはや言い訳も思いつかず、俺はその場にへたり込んだ。
終わった、と思った。
こんなつまらない落書き一つで、全てが台無しになるなんて……。
ショックのあまり希死念慮さえ覚え始めた頃、空華はさっきと同じ声量で言った。
「……その、黒巫女様が女の子を好きなのって……、やっぱりそういう理由なの?」
俺は声が震えないよう、細心の注意を払って答えた。
「いっ、いや。本編ではふたなりっていう設定はなくなってるから……」
「……そっか」
なぜか少し残念そうな声音を耳にし、俺は「……ま、まさか?」と思いつつ顔を上げた。
あろうことか、空華の顔には落胆の色が滲んでいた。
予想がほぼ確信に代わり、俺はそれを問いにして彼女に投げかけた。
「なあ、もしかして空華は……黒巫女様がふたなりの方がいいのか?」
「ッ――!?!?!?」
ビクッと体を震わせ、硬直する空華。
やはり予想は的中していたようだ。心中に安堵のような、はたまた愉悦のような感情が広がっていく。
「へえ。やっぱり、空華って結構淫乱なんだな」
「え、えっと、……まあ」
顔や声音に照れが混じっている。
さすがの空華もふたなりがストライクゾーンだと知られたことに関しては、少なからず羞恥を感じたようだ。
「空華って、アブノーマルなフェチもあるんだなぁ」
「うう……。やっぱり、変かな?」
「別に変でもいいだろ、それで誰かに迷惑をかけるわけでもないし」
「そ、そうだよね。……でもどうして、黒巫女様をふたなりにしたの?」
「……元々『黒巫女様』は、百合じゃなくてどちらかというと、レズよりな作品にするつもりだったんだよ」
「えっ……。っていうことは、エッチなシーンもあったっていうこと!?」
キラキラした眼差しで身を乗り出してくる空華。心なしか、鼻息も荒くなっている。
俺はちょっとたじろぎながらも「あ、ああ」とうなずいた。
「へぇ、そうなんだぁ。黒巫女様が可愛い女の子達とあんなことや、こんなことを……。えへへぇ、いいなぁ、いいなぁ♪」
やっべぇ具合に蕩け切った表情。
口の端から垂れた唾液が、床にビトビト落ちているのにも気付いていないのだろう……。
「ねえねえ、エッチなシーンの下書きとかってないの?」
「……どうだったかな。一応、落書きみたいな感じで書いた記憶があるから、探せばどこかに残ってるかもしれないけど」
「――本当!?」
ぐいっと顔を近づけてくる空華。吐息の熱や湿り気さえ感じるこの距離は、ものすごく心臓に悪い……。
「いや、探してみないことにはわからないけど……。そんなに読みたいのか?」
「うんっ、読みたい、今すぐ読みたい! 黒巫女様のエッチなお話を読ませてくれたら、五十万でも百万でも払うよ!!」
「いや、そんなにもらうのはちょっと……。まあ、探してみるよ」
俺は机上のノートや、パソコンのフォルダーの中など思いつく限りの場所を探した。
だが目的のものはどこにもなかった。
「うーん……。書き損じだからって、データを削除しちゃったのかもな」
「……そんなぁ」
しおれた花のようにしょんぼりする空華。
そんな彼女を見た瞬間、胸の内でチクリとした痛みを覚えた。
だからだろう。俺は思いついた言葉をロクに吟味せず、衝動的に口にしていた。
「書くよ」
「……え?」
「黒巫女様が女の子とエッチなことをするシーンを読みたいんだろ。今からそんな物語を書いてみるよ」
植物の成長を早送りしたように元気を取り戻す空華。目も爛々と輝きだしている。
「山村くん……!」
「まあでも、前に言ったように俺は遅筆だから時間がかかるかもしれないけど……」
「ありがとう!!」
「うぉおっと!?」
いきなりがばっと抱き着かれて、危うく体勢を崩しかけた。
「ちょっ、危ないだろうが!」
「ごめんごめん。黒巫女様がエッチするお話を読めると思ったら、嬉しくなっちゃって。えへへ」
ぎゅっとさらに抱きしめられ、空華の体が密着してくる。
彼女の温もりや肉感が衣服越しに伝わってきて、体の内を流れる血液が煮え滾ったかのように熱を持ち始める。
俺は黒巫女が隠し持つあれが自分の体にもあることを空華に悟られぬようにするため、腰を限界まで引かなければならなかった。
○
空華が帰ってから俺は執筆を開始した。
題材が濡れ場ということもあり、空華の前ではどうしても書き始められなかった。
エッチなシーンというのは、ある意味執筆の際に一番エネルギーが必要なのだ。加えて資料や妄想も必要になる。ゆえに至極無防備な状態になってしまう。俺が『黒巫女様』を全年齢向けにしたのも、アダルト要素を入れると外で執筆できなくなってしまうからだ。
しかし空華から頼まれた以上、書かないわけにはいかない。
黒巫女が女の子と大人な夜を過ごすストーリーを……! 別に時間帯が夜だとは限らないけど。
まずはイマジネーションを呼び起こすのが第一段階。
森羅万象、全てのエロは健全な欲望から滴り落ちる妄想より誕生するのである。
……あ、やっべぇ。
早々に俺は頭を抱えることになった。
思いつく妄想全てに、空華の存在が含まれていた。
接吻、抱擁、同衾する相手も、全て空華だった。
無論、黒巫女が自身の分身で喘がせているのも……だ。
このまま執筆したら、おそらく黒巫女とエッチするのは空華になってしまうだろう。
さすがにそれは……。
どうするべきだろう?
しばし逡巡した後、俺は覚悟を決めてキーボードを叩いた。
いや、投げやりというべきか。もうどうにでもなれ、と思い切ったのかもしれない。
あるいはそのどれも的外れなのかもしれない。
……ああ、そうだ。
書き進めていく内に、気付いた。
俺自身が読んでみたいのだ。
空華が快楽に溺れ、乱れる姿を。潤んだ瞳に黒巫女を映し、肌にじっとり汗を浮かべ、快感に腰を浮かせて熱っぽい息を弾ませて、喘ぎ声を上げる姿を。
そんな欲望に憑りつかれたように夢中で打鍵し続けていた。
情景描写をつまびらかにして、普段ならカットするはずの余分なシーンも思いつく限り入れた。にもかかわらず、日付が変わるより前に書き終えていた。
黒巫女と村娘である水無月の、欲に塗れた夜伽……。言うまでもなく水無月のモデルは空華である。
長さとしては短めの中編小説ぐらいか。
他の人はどうか知らないが、俺個人としては驚くべき速さでの完成だ。
いつもはこの量を書くのに一日はかかるのだが、一体俺はどうしてしまったのだろう。特に調べものをせずとも想像だけで書けるシーンしかなかったからだろうか。それにしても筆の乗り方が尋常じゃなかった気がするが……。
本当はわかっていた。
考えるまでもない。こんなにも絶えず集中力が続いたのは、妄想に溺れていたからだ。そう、色に塗れた欲望に……。
かあっと自身の顔が熱を帯びるのを感じた。
これを空華に送るのか?
今度こそ、マジで嫌われるんじゃないか……?
不安が胸を占めるが、約束してしまった以上それを果たさなければならない。
テキストファイルを圧縮し、LIWEのメッセージに添付する。
本文は思いつかなかったので空白のままにしておいた。
心臓がかつてないほど高鳴り、呼吸を忘れてしまったかのように息苦しくなってくる。
後は送信ボタンをクリックすれば、この小説が空華に送られる。
……本当に送るのか? 思い留まるなら、今しかないぞ。
第一、この小説を読んだ空華はどう思う?
自分がモデルになったキャラが色欲に溺れてまぐわい、快感によがり狂っていくのだ。不快感を覚えたとしても不思議ではない。
最悪、曲解される可能性だってある。俺が空華とそういうことをしたいと……。
いや、本当にそうなのではないか?
俺は空華に抱いている欲望を発散させるべく、代償行為としてこの小説を執筆したのではないだろうか……。
バクバクと心臓がやかましく耳元で響いている。
空華は性的な話にもオープンだ。
だがそれは架空のものに限定されていると考えるべきだ。その欲望が自身に向けられていると知ったら……。
現代社会を生きていくうえで、越えてはいけないラインを可視化する能力が必須だということは大学生の俺でもわかる。
それを見誤った瞬間、犯罪者として世界からつまはじきにされてしまう。
俺はじっと目を凝らす。自身の足が、ラインのどちら側にあるのか。
それは明らかに、ラインを越えていた。
今ならまだ、引き返せる。
だがどこからか、甘い声が聞こえてくる。
送ってしまえ。自分の欲望を全てぶちまけてしまえと……。
待て、たぶらかされるな。わかっているだろう、どっちに転んでも地獄だと。
俺にはすでに、矢千夜がいる。恋人がいるのだ。
仮に空華が俺の欲望を受け入れてくれて、その望みが叶ったとしても、それは矢千夜への裏切りになってしまう。
そうなったら、今まで通りの日常を送ることはできないだろう。
矢千夜はどちらかといえば交友関係は狭い方だから、大学生活にはあまり影響はないかもしれない。だとしても、拭いきれない罪悪感に苛まれることになるだろう。
俺はそれに耐えることができるだろうか?
人は低きに流れる生き物だ。落ちるところまで落ちれば、矢千夜との関係なんてすっかり忘れることもできるかもしれない。
だがそんな道徳観を欠いたことを、少なくとも今の俺は許せはしなかった。
送信ボタンにあったポインターをクローズボタンの上まで移動させて、クリックする。ウィンドウが閉じられ、好きなゲームのキャラの壁紙がスクリーンに映る。
これは裏切り行為にならないのかと、俺は軽く苦笑した。
それから今しがた書いた小説のテキストファイルをドラッグして、ゴミ箱の上でドロップする。
後はゴミ箱を空っぽにすれば、データを完全に削除できる。
だがいざコマンドを起動させようとした瞬間、指が動かなくなってしまった。
未練があるのか? こんな罪の権化みたいな存在に……。
どこからか嘲笑が聞こえた気がした。
躊躇していることが、何よりの答えだろう。
まったくその通りだ。
俺はメニューを閉じて、ゴミ箱からテキストファイルを取り出してしまった。
少し考えた後、それをオンラインストレージに預けた。
当分の間は忘れよう。空華には遅筆だと伝えている、時間はもう少しあるはずだ。
俺はパソコンの電源を落とし、ベッドまで行った。
そのまま枕に顔を埋めるように倒れ込んで目をつぶった。
今はもう、何も考えたくなかった。
睡魔はすぐにやってきて、俺を眠りの世界へ誘った。
だがそこにも安息はなかった。
俺は眠る前と同じように、ベッドに横たわっていた。体を起こそうとしたが、金縛りにでもあったように動かない。だが首を巡らすことはできた。
自室に空華がいる。
さっき会った時と同じ、ブラウスにコットン生地のワンピースの格好だ。
彼女は赤らんだ顔でワンピースの前開きになっている部分の、ブラウスのボタンに手をかけた。
「……ってほしいの」
指が第一ボタンを外した。白い素肌に、鎖骨の小さなでっぱり。それを目にしただけで俺は目が冴えるような興奮を覚えた。
続けて第二ボタンに手をかける。
この後の展開は、予想できる。この世界の法則は、すでに理解していたからだ。
またボタンが外される。ブラスのボタンの数が少ないから、二つ目の時点でもうすでに見えてしまう。薄桃色のデザイン。まったく膨らみがないが、それでも俺は透視をするような思いでじっと視線を注いでいた。
今も顔を背けることも、目をつぶることもできる。
だがそうしない。それをまったく望んでいないのだから、できるはずがない。
「山村くんに、なってほしいの……」
空華は俺の方へ歩み寄ってきて、両膝を床につく。すぐ目の前に、薄桃色の布に包まれた双丘がある。
手が動けば触れることができる。だが体が動かない以上、それは叶わない。
空華は熱に浮かされたような目で俺を見下ろし告げてくる。
「……山村くん。夢月のものに、なって……」
小さな手がすっと伸びてきて、俺の頬を包む。
ゆっくりと彼女の顔が近づいてくる。
瞬きの音すら聞こえそうなぐらいの距離。
俺はもう考えることをやめて、目をつぶった。
空華を受け入れるために。
甘い吐息が鼻にかかる。それは徐々に下がっていき、彼女の気配を唇の間近に感じる。
俺は薄く唇を開き、その瞬間を待った……。
……………………。