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序章

 時は戦国。

 各国の武将等が、我こそが天下を取らんと覇を競い合っていた。

 その時代であっても、戦乱の火の手をまぬがれている平和な村。

 村民はときの声や法螺ほら貝の音など知らず、穏やかな暮らしを送っていた。

 だがたった一つだけ、平穏に影を落とすものがあった。

 村からすぐ近くにある、禍々しい黒い霧が漂う森。

 その奥深くに古びた神社が建っている。

「それに近づいちゃあならねえ」

 腰の折れ曲がった細身の老夫、村長は訪れる旅人に決まってこう語る。

「神社にゃ、悪霊が住み着いてる。森の外にゃ出てこねえから、近づかなきゃ問題はねえ。だが中に入っちまったら、もう手遅れだ」

 老夫の目は細められ、霧の漂う森へ向けられるだろう。

 そしてこう続ける。

「悪霊は人の心にすっと入ってくる。憑りつかれちまうんだ。そうなったらもう、死ぬまで悪霊に身体をいいように使われちまう。つまりな、おめえの人生が終わっちまうってことだ。だから森には近づくんじゃねえぞ。ぜってぇに、近づくな」


 空を覆わんばかりの雲の切れ間から、僅かばかり星が覗く満月の晩。

 森の奥深くにある神社は、今宵も黒い霧の中に沈んでいる。

 朽ちかけた門柱には『白藍はくあい神社』と彫られていた。

 神社の本殿は老朽化がはなはだしく、屋内には隙間風が吹き込み、雨漏りで床の所々が腐り穴が開いている。にもかかわらず蜘蛛の巣一つなく、鼠や虫の姿も影もない。ただただ、黒い霧のみが魚の群れのように漂っている。

 命の存在を許さぬはずのこの場に、だが今は二人の少女がいた。

 一人は巫女装束を着た女。

 まるで一流の人形師が手掛けたように、恐ろしいほど容姿が整っている。そこには瑕疵かしというものがまるでない。黒く艶ややかな長髪は清らかな川のごとく腰まで流れている。真珠さながらに白い肌にはニキビやほくろなど一つたりともない。

 赤袴には神職に不釣り合いな刀を差していたが、凛とした佇まいゆえか、それは自然と彼女の身体の一部のように馴染んでいる。

 彼の者こそが、数多の悪鬼羅刹、人に仇成す物の怪共を討ち滅ぼしてきた天才退魔士、黒巫女その人である。

 もう一人は粗末な小袖を身に纏った村娘。

 風下に置かれた蝋燭の灯火のように、身体が絶えず揺れている。しかしそこに隙は一切存在しない。彼女の双眼は血に飢えた猛禽類のごとく爛々とした輝きを放っている。

 発している雰囲気は明らかに人外のものである。天を衝くほどの大蛇がとぐろを巻き、紅い舌を出して獲物を見下ろしているかのような不気味さと威圧感。並大抵の者なら相対するだけで戦意喪失してしまっただろうが、天才退魔士はその名に恥じぬ落ち着きよう。顔色一つ変えることはない。

 黒巫女が紅い唇を割り、娘に告げる。

「貴様の悪運もこれまでじゃ」

 村娘――みどりに憑いた悪霊が彼女の口を借り、憤怒に満ちた声でまくし立てる。

「コロス、オマエコロスコロスコロス、コロスッ!」

「やれやれ。言の葉も満足に交わせんとは、とんだ低級悪霊だったようじゃの」

 黒巫女はそっとかぶせるように柄に手をかける。

「貴様はこの場で討たれる定めじゃ。地獄に落ちる前に、辞世の句でも残すがよい」

「シネシネシネ、シネシネシネシネシネシネェッッッ!!」

 悪霊は先刻までふらついていたのが嘘のように、俊敏な動きで黒巫女に飛びかかった。

 黒巫女は柄に手をかけたまま、その場にただ佇んでいる。

「……お主も哀れよのう。我と同じく、神から見捨てられてしもうたのだから」

 音もなく刀は抜かれる。手妻のように現れる鋼の刃。それは風に吹かれた花弁のようにひらりと振られて、みどりの腹へと打ち込まれる。どっと微かに音が鳴った。峰打ちだ。

 直後、悪霊の声は途切れ、華奢な身体は床の上にどさっと落ちた。

 黒巫女はみどりのかたわらで膝をつき、彼女の様態を確かめる。

「ア……アア……」

 憑りついている悪霊は苦悶の声を上げているが、身体の方には目立った異常はない。

 安堵の息を漏らし、黒巫女は苦笑混じりに独りごちた。

「……神に仕えていた者が刀の腕ばかり上げとるとは、世も末じゃな」

 黒巫女は自身の親指に歯を立てた。白い肌に、黒い血が滲み出る。

 それを自身の唇に塗った。鮮やかな紅色が漆黒に染まる。

 指についた血を舐め取った後、黒巫女はすっと顔から感情を掻き消し、淡々とした声で唱えた。

「黒くよどむ退魔の血よ、悪しき霊をはらいたまえ――雪吻せっぷん

 黒き唇が白い煌めきを放ち始める。

「ヤ……ヤメ、ヤメロッ……!」

 悪霊が顔を蒼ざめさせるが、黒巫女が後の行動を躊躇することはなかった。

 彼女は素早く、みどりの唇を奪う。

「――ッ、ギャアアアアア!」

 みにくい断末魔を上げた悪霊が、みどりの身体から勢いよく飛び出てくる。辺りを覆う黒い霧をさらに濃彩にした煙上の身体からは、眩い白い光が発せられていた。

 やがてそれ等は徐々に薄らぎ、全て朝靄あさもやのように立ち消えていった。


 目を覚ましたみどりは、ぼんやりした様子で黒巫女の顔を見やりながら呟く。

「黒巫女様……」

 黒巫女はしばし探るような視線を向けていたが、ややあって微笑を浮かべて訊く。

「我を取り戻したか」

「……その、ごめんなさい。黒巫女様の手をわずらわせてしまって」

 黒巫女は落ち込むみどりの頭を、いたわるように撫でてやる。

「悪霊に憑かれていただけじゃ、気にするな」

「黒巫女様……。なんてお優しい御方」

「ふふっ……。い奴よ、みどり」

 二人はお互いの瞳を見つめ合い、そっと口付けを交わした。

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