彼女の一番大切な宝物
目の前に何度も夢に見た本物の辿くんがいる。柔らかい猫っ毛もきれいな指も変わってない。辿くんの声も、纏う空気も泣きたくなるくらいあの時のままだった。
あの日、どうしても苦しくて寂しくて辿くんに電話をした。辿くんは基本的に電話に出ないから奇跡のようなタイミングだったのだと思う。電話越しの声が優しくて自然と涙が溢れた。
「辿くん、久しぶり。元気? 最近はずっと会えてなかったから気になって。そういえば引っ越しもしたんだよね? 辿くんが体調が良い時で良いから遊びに行っても良い?」
「うん。大丈夫だよ。今はちょっと体調悪くて駄目かも」
「そっか。そしたら具合が良くなったらショートメールで住所教えて? 辿くんの好きそうな甘いもの買って行くから」
「うん。ありがとう。連絡するね。それじゃあまたね」
「うん、連絡待ってるね。辿くんと久しぶりに話せて嬉しかった。ありがとう」
電話を切ってからも発信履歴を確認して、自分に都合の良い夢なんじゃないかと何度も思ってしまった。でも、頬をつねっても頭を壁にぶつけても夢は醒めなかった。嬉しい、辿くんにまた会える。
ずっと辿くんに会いたかった。過去の思い出で自分を慰めるのもそろそろ限界だった。親友が婚約者と幸せそうに過ごしているのを見て暗い気持ちになって、二人のことは大好きなのに、そんなことを考える自分が嫌になった。
数日後に辿くんから住所と日付だけ書かれたメッセージが届いた。私の予定とか聞かないのが辿くんらしいなと思って笑ってしまった。もちろんショートメールは鍵をかけたししクラウドに保存した。念のためスクリーンショットも取ってパソコンにも転送して保存した。
雨が降ろうが槍が振ろうが絶対に辿くんの家に行くつもりで、その日に向けて美容院を予約して服も買った。前日は楽しみで結局午前三時まで眠れなくて、でも絶対当日辿くんと一分一秒でも長く過ごしたいから眠くなる薬を服んで無理やり眠った。夢の中で辿くんに会ったような気もする。日向ぼっこをしているような暖かい幸せな気持ちで目が覚めた。
いつもより時間をかけて髪をセットして念入りに化粧をした。少しでも綺麗だと思われたかった。もし、この先会えなくなるとしても辿くんが最後に見た私が綺麗であってほしかった。
ショートメールに書かれていた住所に行くと落ち着いた色合いのマンションがあった。駅徒歩五分、新築、コンシェルジュ付きの綺麗なところだった。辿くんが前に住んでいたボロアパートとの差に驚く。部屋番号を押して呼び出しをするとオートロックが解除された。私はエレベーターを降りてから三回深呼吸をした。
辿くんの部屋のチャイムを押す指が震える。呼び出し音がした後、ドアが開いた。焦茶色のスウェットを着た辿くんは相変わらず折れそうなくらい細かった。私を確認してから、どうぞと中に入れてくれた。
「久しぶり。元気だった?」
「うん。辿くんも元気だった?」
「うーん、おれはまあ、生きてるよ」
「それは見ればわかるよ。でも、会えて良かった。これ、お土産。バウムクーヘン。好きでしょ?」
「わあ、美味しそう。コーヒー淹れようか? 映美子ちゃんお腹空いてる?」
「ううん、そんなに空いてないよ。辿くんは?」
「おれもまだそんなに空いてないかなあ。じゃあ後で食べようか」
「うん。そうする」
前に会った時、辿くんは疲れてずっと眠っていた。電話をした時も調子が悪そうだった。でも、今は普通だった。辿くんの体調には波があって、まともに見える瞬間もある。だけど、いつもどこかに消えてしまいそうな危うさが辿くんにはあった。
注ぎ口の細い銀色の薬缶で辿くんはフィルターにお湯を注ぐ。インスタントドリップですら滅多に飲まないのでレギュラーコーヒーなんて久しぶりだった。コーヒーの良い香りがした。
辿くんの部屋はシンプルだけど前みたいに極端に物が少ないわけではなくてソファもあった。相変わらず一人暮らしには大きい冷蔵庫と焦茶色のビーズクッションがあった。辿くんは色々下手くそだけど料理と掃除は上手いのだ。私は辿くんがきちんと暮らしていることに安心した。
あんなに会いたくて堪らなかったのに、いざ目の前に辿くんがいると気の利いたことも言えなかった。辿くんも口数が多い方じゃないからちょっとだけ気まずかった。
「映美子ちゃんは最近はどうしてるの?」
「今は修士論文を書いてるよ。博士課程に進みたいからちゃんとやらないとね」
「相変わらず頭が良いんだね。映美子ちゃんは昔から勉強が得意だったもんね」
「羽子板もだるま落としもトランプも得意だよ」
「おれは全部苦手だなあ」
「辿くんの曲、聴いたよ」
「うわ、恥ずかしいなあ。親戚に聴かれるのはちょっと複雑」
「恥ずかしくないよ。辿くんすごいって思ったもん。辿くんに救われる人がたくさんいるんじゃないかな」
「そんなに褒められると恥ずかしいよ」
照れる辿くんは可愛い。こんな姿を見られるのは私くらいじゃないだろうか。そう思うとかなり欲が満たされた。黄色いマグカップからコーヒーを飲む。辿くんはコーヒーを淹れるのも上手かった。
ガラス製のローテーブルの上にある蛍光ピンクのガラケーが振動した。辿くんはもう何年もこの時代遅れのガラケーを使っている。
「あ、善ちゃん先輩だ。ちょっと出ても良い?」
「もちろん。気にしないで」
「そしたら向こうで話してくるから寛いでて。テレビのリモコンはテレビ台のところにあるから」
「うん。ありがとう。適当に時間つぶしてるよ」
辿くんが奥の部屋に入って行った。多分寝室か楽器があるのだろう。一人暮らしにはかなり広くて、居心地の良い家だった。私は置いてあるものを観察する。テレビ、大きな冷蔵庫、焦茶色のビーズクッション、テーブル、椅子、観葉植物、ベランダ菜園、ギター、雑誌。ここで辿くんが生活をしている。その空間にいられることが嬉しかった。
辿くんは前よりもきちんと生きている。すぐに消えてなくなりそうだったから、少し安心した。彼の苦しみはきっと一生続く。それでも、生きていてほしい。
電話を終えた辿くんが戻ってきた。少しだけ疲れているようだった。でも、帰りたくなかった。だから、昔みたいに時計を止めたくなった。きっと寝室にあるのだろう。前みたいに会えなくなるのが嫌で私は辿くんに縋りついた。辿くんは一瞬だけ驚いて固まったけれど私の背中をさすってくれた。
「ねえ、辿くん。私、辿くんのことが好き。大好きなの」
「どうしたの? おれも映美子ちゃんのこと好きだよ」
「違うの。辿くんの好きと私の好きは違う。私は、ずっと辿くんのことを異性として見てたよ。気持ち悪い?」
「えっと、気持ち悪くはないよ。でも、それは、考えたことなかった」
そうだと分かっていたけど、辿くんが私のことを親戚として好き程度の認識だった。私はいつでも辿くんに好意を伝えているのにと思うとポロポロと涙が溢れた。こんな風に考えるのが見当外れの八つ当たりだって分かっていても涙は止まらない。
辿くんはおろおろしながらティッシュを渡してくれる。私の顔に触れるか触れないか迷うその手を掴んだ。細くて大きな手はひんやりとしていた。
「映美子ちゃん、大丈夫?」
「駄目。全然駄目。ねえ、辿くん。初めて会った日から辿くんはずっと私の特別で大切な宝物なの。閉じ込めちゃいたいくらい好きなの。辿くんのことが、好きなの。だから、前みたいに会えなくなるのが嫌なの。辿くんのそばにいたい。辿くんの特別になりたい」
「特別かぁ、特別。えっと、映美子ちゃんはおれといるといつも泣いてるね。ごめんね。おれがいつも迷惑ばかりかけて、ほんとにごめんね」
「良いの。辿くんは何も悪くない。悪いのは、私だから」
「いや、でも、おれが悪いような気がする。映美子ちゃんを泣かせているのはおれだし。辛いのに会いたいって思うの?」
「うん。だって辿くんのことが好きだから。また会えなくなったら嫌だから、気持ちを伝えたかったんだ。私、辿くんのことが好きだよ。ずっとずっと。この先会えなくなっても死ぬまで一生辿くんのことが好きだよ。私には辿くん以外の人なんて考えられないよ」
「なら、結婚する?」
「…………え?」
「映美子ちゃん、おれと結婚する?」
「本気? 本当に? 取り消さない? 私は同情でも何でも構わないから辿くんのそばにいたいよ。親がなんて言っても絶縁したって良い。辿くんがいれば他になんにもいらない。今はまだ就職もしていない身だけど辿くんのこと養えるぐらい頑張るし、一緒に幸せになりたい。辿くんのことが好き、大好き、愛してるの」
「映美子ちゃんは知ってると思うけど、おれは駄目なところばかりで迷惑をかけると思う。それでも一緒にいたい?」
「……うん。私を辿くんのお嫁さんにしてください」
「そしたら、今度指輪を買いに行こうか? おれ、女の人と付き合ったことがないけどそういうのがいるってことはわかるよ」
「指輪はもう貰ってるよ。ずっと前に縁日で当たった指輪、今でも大事に取ってあるの。私の宝物なんだ」
「今まで忘れてた。そんなこともあったね。映美子ちゃん、そんなに昔からおれのこと好きだったんだね」
「うん。ずっと好きだった。ねえ、辿くん。結婚するなら私たち婚約者ってことだよね? なら、キスしたい」
「え、おれ経験ないんだけど」
「私だってないよ。でも、夢みたいにフワフワしてるから証拠が欲しい。これが現実だって証明したい。辿くん、目を閉じて?」
「うん」
辿くんの頬を両手で包んで口づけた。くちびるが予想以上に柔らかくてドキドキした。離れ難かったけど辿くんの顔色が悪くなってきたのでやめた。名残惜しくてくちびるを舐めると甘い味がした。
「辿くん、呼吸は鼻でしても良いんだよ。あと、甘い」
「さっきシナモンロール焼いたんだ。ちょっと味見したから。映美子ちゃんも食べる? あ、でもバウムクーヘンもある」
「バウムクーヘンは明日にしない? 日持ちするから。私、明日は休みなの。だから、辿くんと夜もずっと一緒にいたい」
「おじさんとおばさん、心配しない?」
「今、寮に住んでるから問題ないよ」
「本当に良いの?」
「前は泊めてくれなかったよね」
「あの時は、映美子ちゃん中学生だったし」
「うん。普通の大人は一人暮らしの部屋に中学生を泊めたりしないよね。でも、今はもう成人してるよ。だから、咎める人なんていないよ」
「うん。それじゃあとりあえずシナモンロール食べようか? 夕飯は何が良い?」
「辿くん相変わらず食べるの好きだね。あのさ、食べる前にもう一度キスして良い?」
その言葉を聞いて辿くんは私の頬に触れてからキスをした。辿くんから触れてくれたことが嬉しくてまた泣いてしまいそうだった。
その日から私と辿くんの関係が変わった。私は授業がない日は辿くんの家に入り浸りそこで勉強をした。博士過程に進む時、辿くんの家に転がり込んだ。私が辿くんとお付き合いしていることを告げると両親は驚いていたし、辿くんの家族もかなり衝撃を受けたらしい。
引っ越しと同じタイミングで婚姻届を出した。辿くんのタキシード姿がどうしても見たくて二人だけで写真も撮りに行った。ヒールを履くと辿くんより背が高くなることが心配だったけど辿くんも上げ底の靴を履いたので丁度いいバランスになった。
嬉しくてその写真を飾るだけじゃなくて待ち受けにしたら石花くんに揶揄われた。私の方が先に結婚したことにちょっとだけ腹を立てていたみたいだけど、相変わらず石花くんはいとちゃんと仲が良い。二人のパワーバランスは一見石花くんの方が上に見えるけど実は彼の方がいとちゃんに夢中なのだ。私が辿くんに対して思うように惚れた方が負けなのだろう。でも、私は負けで全然構わないので死ぬまで辿くんと一緒にいたい。
辿くんが辛い時はそばにいた。辿くんが私にもたれ掛かってくれるのが嬉しかった。映美子ちゃんに触れると安心すると言われて幸せだった。辿くんが見てる怖いものを私は一生見ることができないけど、辿くんの苦しさが少しでも軽くなれば良いと思った。
私は辿くんがずっと眠っている時も、料理を作っている時も、ギターを弾いている時も一緒にいた。辿くんと長く一緒にいたくて職場の側に引っ越しもした。辿くんがもし何も出来なくなっても暮らしていけるように頑張って働いた。辿くんが側にいてくれるなら何でも出来た。辿くんとこの先もずっと一緒にいたい。私は辿くんを二度と失いたくない。
◇◇◇◇◇
窓の外を見ると雲ひとつない青空だった。私は左手の薬指に光る指輪を撫でる。四角い大きな青いサファイア。辿くんの葬儀から半年が経つ。私は辿くんの遺骨を宝石に変えた。辿くんがどうして死んでしまったかはわからない。原因不明だった。いつものようにおやすみと言って眠って、朝になっても目を覚さなかったのだ。眠る時、いつも静かだったから私は辿くんが死んだことに気づかなかった。おはようと声をかけても、揺すっても辿くんは起きなかった。事件性はなく自然死とされた。
翌日は仕事を休んで、冷たくなった辿くんと過ごした。その後のことはあまり覚えていない。喪主を務めたが正直なところ記憶にないのだ。過度のストレスによる解離性健忘だと診断された。
辿くんの遺骨でメモリアルジュエリーを作り、出来上がった指輪を受け取った日、私はそれを口に含んで転がした。このまま飲み込んでしまいたいと思った。けど、この先の人生にこの指輪があればそれは救いになると思ってやめた。辿くんはもう全部私のものだ。
「榛名教授! おはようございます」
「おはようございます。今日もよろしくお願いします」
「勿論です。自分は今日は学部生の卒論見ますね」
「自分の研究も進めてくださいね。何かあれば呼んでください。今日は二限と四限の授業が終わったら研究室に戻って、夕方には帰ります。夫の月命日なので」
電車に乗ってからバスに乗り換えた。霊園はひっそりと静かだった。辿くんのお墓に向かう。辿くんはお墓なんて要らないって思ってそうだけど、私が欲しくて用意した。辿くんの後を追わないために仕事をたくさん入れて忙しくした。それでも、辿くんがいない日々はとても寒くて寂しい。
辿くんのお墓にはいつも色とりどりの花が飾られている。ファンの人達が持ってきてくれているのだろう。声をかけられたことはない。葬儀も身内だけで行ったから騒ぎにはならなかった。ただ、ニュースにはなったようだった。善ちゃんさんは辿くんを失った私のことを気にかけてくれた。だけど、あの人のことは嫌いなので失礼にならない程度にお断りした。
「辿くん。来月は結婚記念日だよ。今年は銀婚式だったのにな。プレゼントだって用意してたんだよ? あ、バウムクーヘンを持ってきたよ。辿くんが好きなやつ。私はもう少しだけこっちにいるから、待っててね」
半年も経つと家の中にあった辿くんの匂いが薄れていく。彼が最後に着ていたパジャマは洗えなかった。辿くんが夜中に水を飲んだマグカップもジップロックにいれて冷凍庫に仕舞った。時間を止めることなんて出来ないけど、そうしたかったからした。日常が非日常になるということを辿くんは私に教えてくれた。
辿くんが昔からずっと使っていた焦茶色のビーズクッションの上に寝転がって薬指に光る指輪にキスをする。
「辿くん、おやすみ。愛してるよ」
そう言ってから、猫のように身体を丸めて目を閉じる。そのときふとシナモンシュガーの甘い香りがした。
榛名辿も鬼映美子ちゃんも気に入っていて幸せになって欲しくて書きました。評価や感想を貰えるとやる気が出ます。