白線の内側までお下がりください
やってしまった。
連日の残業で疲れが溜まっていたのか、うっかり熟睡して降りる駅を乗り過ごしてしまった。座れて運が良いと思っていたのだけれど、これならパンプスに締め付けられた足が悲鳴を上げても、立ち続けていた方がマシだったかもしれない。
耳に入ってきたアナウンスが全く聞き覚えのない駅名だったので、咄嗟に閉まりかけていたドアの隙間から飛び出してしまったが、見るからに寂れていて人気も無い様子に、再び「やってしまった」という言葉が脳をよぎる。
しかし、慌てて振り向いた時にはもうドアを閉じた電車が動き出しており、私は肩を落として反対側のホームへ覚束ない足取りで向かった。
昼から何も食べていない胃は既に空腹を通り越してしまっていて、食欲は遥か彼方だ。ただただ、目が霞むほどの疲労がずしんと重く伸し掛かる。
ギシギシと軋む木製のベンチに腰掛けて、ぼんやりと電光掲示板を見上げれば、次の電車が来るまでニ十分ほど待たなければならないと分かり、深々と溜息を吐いた。
夜になっても涼しさとは無縁の蒸し暑さと、じっとり滲み出る汗で張り付くシャツの煩わしさに辟易していた所で、むわりと倦んだ熱気を掻き回すように、カァンカァンと踏切の遮断機の音が響いた。
ようやく来たか、と安堵で顔を僅かに緩ませつつ立ち上がる。冷房の効いた車両が待ち遠しくて、ついホームの先を覗き込もうと、白線を少し踏み出して首を伸ばした。
……だが、酷使されていたのは己の体だけでは無かったらしい。いきなりパンプスの踵が折れ、がくんと後ろによろけてしまう。
「う、わわっ!?」
たたらを踏むも体勢を立て直せず、情けない悲鳴を上げて尻餅をついた――瞬間。
ひゅごぉおおおぉぉうっ
線路を、何かがとんでもない速さで駆け抜けていった。
風圧に煽られてぶわりと髪が翻り、同時に頬を鋭い痛みが走る。
カァァン……と音が間延びするように遠ざかる中、私はペタンと座り込んだまま、目を見開いて固まっていた。
震える指先で頬に触れれば、まっすぐな赤い線が指に残る。どうやら浅く切れてしまったらしい。
――もしも、あのまま白線の向こうへと、顔を出していたら。私の首は。今頃。
暑さからのものではない、冷たい汗がどっと噴き出して全身を凍てつかせる。
粘つくような生温い空気も今は遠く、ただ歯をカチカチと鳴らして震え続けた。
やがて、何事も無かったように「間もなく、一番線に電車が参ります」と電車の到着を知らせるアナウンスが耳に届いた。遮断機の音は聞こえてこない。
……そう、ホームであれほどハッキリと聞こえる事など、まず無い筈なのだ。普通、踏切は駅から多少なりと離れた場所にあるのだから。
震える足でよろりと立ち上がると、プァン! と甲高い音を立てて電車がホームに滑り込んできた。いつも見ている、いつも乗っている、見慣れた路線の電車だ。
高さの合わなくなってしまったパンプスは随分と歩き辛かったが、私はふら付きながらも急いで電車に飛び乗った。
そして、空いている席は幾つかあったけれど、自分の降りる駅までずっと吊革に掴まって立っていた。
あれから、私は変わらず電車で通勤を続けている。
今日も、明日も、明後日も。毎日のように電車に乗り続ける。
でも、私は二度と、電車がホームに停まるまで、白線の内側から足を踏み出す事はしないだろう。