最恐の皇帝陛下はどうやら可愛い犬(半獣)に懐かれてしまったようです。
リゼーレ──世界一の勢力を誇る巨大な帝国。
此の国の頂点に立つ人間、それが私、ルイディーク・ラ・リゼーレだ。
私は人を基本信用していない。例えそれが我が軍の兵士であっても、執事であっても、宰相であっても、身内の者であっても──だ。
「陛下。何処へ行かれるのですか?」
執務の間で一仕事終え、外の空気を吸いに行こうとしたところ、第一騎士団団長のエアハルトに呼び止められた。平民上がりだが剣の腕は帝国一の赤髪の男。
小居殿に入ることを許した数少ない一人だが、この男のことも信用はしていない。いつも笑ってばかりで何を考えているか全く分からないからだ。いや、もしかしたら何も考えていないだけかもしれない。
「外の空気を吸いに行くだけだ」
「お付きの者をつけましょうか?」
「不要だ」
踵を返し足早に廊下を進んでいく私に、エアハルトは特に引き止めもせず「お気をつけて」の一言だけを返す。まぁ、いつもの事だ。この男には止める理由も無いのだろう。
嫌になる程に長い廊下を歩いていく。すれ違う家臣達は私を見るなり血相を変えて、深々と挨拶。正門から出れば面倒な見送りが待っているだろう。仕方ない、今日は裏口から出るとするか。
黄金の刺繍が入ったマントを翻し、来た道を引き返す。裏口へと向かうことにした。
本格的な冬の時期に入ってきたのか、吐き出す息が白くなる程に外は冷え込んできた。今にも雪が舞い落ちてきそうな灰色の雲が、空全体を覆っている。
「ギルバード、待たせたな」
美しい漆黒の鬣を纏った、愛馬のギルバードの鼻梁を優しく撫でる。ギルバードは顔を上げると嬉しそうに鼻を鳴らした。
手綱を引き、小屋から外へ。颯とギルバードの胴体に股がり、尻を鞭で打つ。ギルバードは鳴き声を上げると、逞しい足で街を走り出した。
帝都を囲う壁の外へと扉から出て、美しい緑が生える草原を駆け抜ける。
目的地は帝都の外にある教会──昔、母に連れていって貰った思い出の教会だ。
教会に辿り着き、目の前で馬を止める。
相も変わらず、寂れている。古い教会だ。
祖母の代より遥か昔からある建物だ、致し方無いだろう。
ギルバードを教会の隅に待機させ、縄を柱に括り付ける。 そして木製の扉から教会の中へ──
「……ん?」
普段と変わりない教会の中に一つだけ見慣れない物があった。それは、中央に敷かれた古い絨毯の手前側に置かれた、大きな箱。
何かの荷物かと思い、近付こうとした刹那、箱が僅かに揺れ動いた。
「っ……!?」
思わず後退りしそうになったが、意を決して箱の中を覗き込む。
箱の中にいたのは人間……ではなく、犬……でもない。其処に身体を丸めるようにして眠っていたのは、灰色の狼の耳と、尻尾を携えた一人の少女──
「んんっ……」
少女は伸びをするように身体を動かすと同時に瞼を開くと、小さな鼻を僅かに痙攣させた。
「……ヒトの……匂い……」
寝惚けた目を擦りながら少女は上体を起こし、首を此方に向ける。そして私の姿を見るなり円らな目を大きく見開いた。
「ヒト! 人間!」
「うっ!?」
避ける暇も無く少女は大砲並みの威力で私の腹部に抱き付く。勢い余り、そのまま仰向けに倒れてしまった。
後頭部と背中に走る痛みに顔を歪めながら瞼を開くと、目の前には少女の顔が──彼女は尻尾を千切れんばかりに左右に振りながら、私の顔や首、そして服の匂いを嗅ぐ。
「……ヒトの匂いだ」
少女は顔を上げて、子供のような無邪気な笑顔を浮かべる。微動だに出来ず固まっている私に顔を近付けると、小さな赤い舌で頬を擽るように舐めた。
──しまった。変な動物に懐かれてしまった。
後悔した時には既に遅かった。少女は首に抱き付きながら嬉しそうに尻尾を振り回す。少女の腕の力は少女と思えない程に強く、剥がし取ることは敵わずに数分間その体勢のままだった。
──どうしてこうなってしまったのか。
城の裏口にて、大きな溜め息を吐く。理由は一つ、マントの裾を握り締めながら立っている例の狼少女。教会でこの少女に出会してから、ギルバードに乗ってそのまま逃げようとしたのだが、少女は帝国最速の馬と呼ばれるギルバードと難なく並走。そのまま城まで付いてきてしまった。
「……城に入ったら大人しくしておけよ」
私の言葉に少女は大きく頷く。
取り敢えず、奥の間にでも置いておいて侍女達に世話をさせよう。頃合いを見計らって孤児院にでも送り出せばいい。
裏門の扉の取っ手に手を掛け、本日二度目の溜め息を吐いた──その時だった。
「うおっ!?」
扉を開くなり、視界に飛び込んできたのは、世話係で一番古株のべレーヌ。彼女の険しい顔付きで佇む姿に、肩を大きく揺らす。
「ルイディーク様、お帰りなさいませ。お夕食の準備が整っております」
「あ、ああ……ご苦労」
べレーヌは私の顔を暫く見つめた後、視線を少女がいる後方へと移そうとした。反射的に少女を庇うように、彼女の目の前に立つ。
「ルイディーク様。何を隠そうとしていらっしゃるのですか?」
「い、いや……」
吃り口調になる私に、ベレーヌは顔を顰めると、無理矢理私の背後を覗き込んだ。
「これは……」
少女の姿を目の当たりにしたベレーヌは大きく目を見開き、彼女をまじまじと見つめる。少女は鬼の代名詞とも呼ばれるベレーヌの顔に小さく身体を震わし、私の腕にしがみついた。
「ルイディーク様。何処で拾ってきたのですか? 今すぐ元いた場所に返してきて下さい」
「拾ったのではない。ついてきたのだ」
「どちらでも同じです。さぁ、早く……」
壁の外を指差したと同時に、ベレーヌは少女と目が合う。瞳を潤まし、小さく唇を結んでいるその姿──まるで捨てられた子犬の顔、そのものだった。ベレーヌは眉根を寄せ、何かを考え込むように唸る。
「……まぁ、その見窄らしい姿で外に放り出すのも可哀想なので、最低限の身なりを整えてあげましょう。ついてらっしゃい」
ベレーヌは少女にそう告げると、踵を返して足早に城の中へ。少女は戸惑いを見せるように私とベレーヌの後ろ姿に視線を何度も行き来させる。
「早く行け」
顎で城の中へと方向を示すと、少女は私の手を一度強く握り締め、離した。そして灰色の艶やかな毛並みの尻尾を揺らしながら、小走りでベレーヌの後を追っていく。
よし、取り敢えず此れで一安心だ。後はベレーヌ達に任せておけば、どうにかなるだろう。
居殿の食事の間にて、夕食の一時──
純白のクロスが敷かれた長テーブルに並べられた食事を前に、椅子に腰掛けようとした刹那の出来事だった。
「あっ、こら! 身体を濡らしたまま走らな……きゃぁぁぁ!」
「何という足の早さ! そっちは陛下が今食事を摂られていますから、行ってはいけません!」
「止めて! 誰かその女の子を止めなさい!」
「あああああ! 廊下が水で滑るっ……!」
部屋の外から聞こえる侍女達の会話と悲鳴、そして此の場に似つかわしくない騒々しい足音──何が起こっているのか、嫌でも想像出来た。
分かりやすく溜め息を吐くと同時に、部屋の扉が勢い良く開く。そこに息を切らしながら立っていたのは、服を着たまま全身ずぶ濡れになった少女。彼女は私を見るなり、側に立っていた衛兵を突き飛ばし、胸の中に飛び込んできた。
「……何をしている。今は食事中だ、離れろ」
頭に手を置き、宥めるように声を掛けるも、少女は全力で首を横に振る。此方の服まで濡れてきたじゃないか。勘弁してくれ。
何度目かは分からない溜め息を吐き、顔を上げると同時、鬼のような形相を浮かべたベレーヌが姿を現した。
「さぁ、来なさい。大人しく身体を洗うのです……!」
じわりじわりと近付いてくるベレーヌに、少女は口から小さな悲鳴を漏らし、私の背中にしがみついて隠れる。
おいおい、人を盾にするな。
私はこの帝国の主だぞ、こんな扱い方をされるのは生まれてこの方初めてだ。
私を壁にして、べレーヌと少女は睨み合う。そして最終的にぐるぐる回って追いかけっこをし始めた。
「……おい。いい加減にしろ」
凄みを利かせた声に、二人の動きがピタリと止まる。口を小さく開いて青ざめた表情で此方を見上げる少女──そんな彼女の小さな頭に手を置き、溜め息と共に言葉を吐き出した。
「大人しく、身体を洗ってこい。言うことを聞けば、お前の願いを聞いてやる。一つだけな」
少女は目を大きく見開くと、口角を上げて満面の笑みを浮かべた。
しまった。余計なことを言ってしまったか。
「願いって、何でも?」
「……可能な範囲でな」
「分かった! 行ってきます!」
少女は先程とは一変、嬉しそうな表情で頷くと、軽い足取りでベレーヌの所へ。相当苦労したのであろう、この短時間で頬が窶れたベレーヌは態とらしく溜め息を吐き、少女と共に部屋を去っていった。
食事が終わり、小居殿の書斎で休憩の一時──
数多くある本棚から迷うことなく一冊を取り出し、そのまま椅子に腰掛ける。そして昨夜の続きを読もうと、栞紐が挟んであるページを開こうとしたその時だった。
静寂な空間に扉をノックする音が響き渡る。
「入れ」と言葉を告げると、ゆっくりと扉が開いた。其処から姿を現したのは、エアハルトに抱きかかえられた少女の姿──
「陛下。可愛いお姫様を連れてきましたよ」
エアハルトは少女を抱えたまま、私の椅子の前に跪く。少女は薄浅葱色のドレスを身に纏いながら、エアハルトの腕の中で健やかな眠りについていた。
「可愛いですね。このワンちゃん」
琥珀色の瞳を細めながら、エアハルトは少女の薄赤く染まった柔らかな頬にそっと触れようとする。
「触るな」
気付けば私はエアハルトの腕を掴み、動きを制止していた。エアハルトは一瞬驚いたような表情を浮かべると、意味有りげに口元に笑みを溢した。
「侍女達が疲れきっていたから俺が代わりに運んできただけですよ。はい、どうぞ」
エアハルトは少女を差し出し、私の両腕に抱かせる。
「う……ん……」
寝惚けているのか、少女は小さな呻き声を上げながら、首に顔をすり寄せるようにして腕を回す。息が若干苦しい……まぁ、しかし、何処か安心感が得られるのも、嘘ではない。
「寝ていても懐かれているんですね。そして陛下も満更じゃ無さそうですね?」
嗤いを含ませながら告げられる言葉に、思わず少女の頭を撫でようとした手が止まる。エアハルトは赤い前髪の隙間から覗かせる目を細めて笑うと、背中を向けた。
「それじゃあ、ペットの御世話、頑張って下さい」
エアハルトはそのまま書斎の扉へと向かい、その場を後にした。
……あの男にこの少女を近付けるのは些か危険だ。なるべく目を離さないようにしよう。
胸に寄りかかるようにして寝息を立てて眠る少女を抱く力が、自然と強まる。少女の身体からは、僅かな獣の匂いと、石鹸の香りがした。
私はとある問題に直面していた。
少女が寝る場所を考えていなかった為、仕方なく自室まで運び、ベッドで寝かせようとした。しかし、少女は服をしっかりと掴んだまま、手を離す様子が見られない。寝ている筈なのに何だ、この怪力は。
「頼むから離してくれ。不眠症で最近は特に睡眠時間が確保出来ていないんだ」
取り敢えず自分はソファーで寝れば良いと考えていたのだが、そうもいかず。この手を離して貰わないとそれさえも出来ない。
胸元を掴んでいる少女の手に触れ、指を一つずつ剥がそうと試みる。
くそっ! 全くと言っていい程に剥がれない!
接着剤でも塗っているのか!?
思わず舌打ちしそうになったその時、手首を強く掴まれ、そのままベッドの上に引き摺り込まれた。
「っ!」
突然の出来事に何が起こったのか分からず、反射的に瞑ってしまった瞼を開ける。いつの間に起きていたのだろうか、顔の直ぐ側には目を見開いて此方を見つめる少女の姿が──
「……お願い、これでいいよ」
「は?」
覆い被さるようにして倒れていた私の背中に少女は腕を回し、横向きに倒す。為されるがまま呆然とする私に、少女は身体をすり寄せてきた。彼女の耳が顔を擽り、僅かにむず痒い。
「おやすみ……なさ……い……」
有ろうことか、少女は私を抱き締めたまま眠り始めた。おいおい、このままの体勢で寝れる訳が無いだろう! 寝れる訳が──
──いつの間にか私は眠りについていたらしい。
瞼を開けると、私の腕を枕にしてあどけない表情で眠る少女の顔が目の前にあった。随分と時間が経ったのだろうか、腕が痺れて感覚を失ってきている。
「おい、起きろ」
自由な方の手で少女の肩を揺さぶる。少女は長い睫毛を携えた瞼をゆっくり開き、ルビー色に輝く瞳を露にした。
「……おはよ……う?」
少女は片方の目を擦ると、笑みを向けた。そして私の肩を掴み、顔をゆっくりと近付け──
「んっ」
私の唇に自身のそれを押し付けた。
突然の彼女の行為に抵抗するのも忘れ、瞬きを繰り返す。更に唇を強く押し当てられた後、暫くして惜しむように離された。
銅像のように固まってしまった私に、少女は先程の行為に何ら恥じらう様子なく顔を崩して笑う。
「名前、何て呼べばいい?」
「は?」
「ルイディークって呼ばれてたから……ルイ、でいいかな?」
「いや、おい」
「私はマナでいいよ!」
此方の回答など聞く余地も与えず、少女は再び笑い、寝た体勢のまま抱きついてきた。目まぐるしい少女の行動、言動の連続に深い溜め息が吐き出される。
──どうやら私は本当に変な生き物に懐かれてしまったらしい。一体これからどうすれば……
回答に導けない問い掛けを自身の中で繰り返し、延々と頭を悩ませた。
それからというもの、少女──マナは私の後をついて回るようになった。執務の間で書類関係の仕事をしている時も、閣議に参加している時も、軍事演習の見張りをしている時も、食事をしている時も。
夜まで時間を共にするのは私だけでなく家臣達も不味いと思ったのか、マナは別室へと誘導された。ベレーヌ曰く何か間違いがあってからでは遅いとのこと。そんな事は起こる筈も無いだろう、相手は子供だぞ。
世話が焼けるのは勿論あるが、マナの親しみ深い性格は侍女達との仲を馴染み深いものへと変えていった。特にベレーヌは歳の差の関係もあるのか、マナを実の子のように可愛がり始めていた。私もマナと一緒の時を過ごす事が当たり前になり、いつしかそれは心地好い環境に。
しかし、それを快く思わなかった者もいるようで──
「陛下。随分と可愛いペットを連れていらっしゃるのね」
控えの間から丁度出てきたパーランド侯爵夫人が、私の後方を歩くマナを見るなり、派手な扇子で口元を隠しながら眉を顰めた。
「……パーランド侯爵夫人。付き添いで来られたのですか」
「ええ、まぁ」
濃い化粧を施した目でマナを見下ろすパーランド侯爵夫人。彼女の鋭い視線にマナは身体を震わして、私の腕を掴みながら隠れる。
「……小汚ならしい犬ね」
鼻で嗤うと、パーランド侯爵夫人は護衛を引き連れてその場を後にした。
「若さを羨むが故の嫉妬による発言だ。気にするな」
「……うん」
腕にしがみつくマナの頭に手を置く。首に手を回し、軽く指で擦ると、マナは気持ち良さそうに目を細めた。
大丈夫だ。皇帝である私が側にいればマナは守れる。否、絶対守り通してみせる。
しかしその数ヵ月後、事件は起きた。
ベレーヌにマナを任せ、騎士団を率いて遠征に向かい、二週間程掛けて帝都に戻った。城に帰ればマナが笑顔で出迎えてくれる──しかし、そんな浅はかな思いは直ぐに崩れ去った。
城の中へ足を踏み入れるなり目に入ったのは、床に額を付けて身をうつ伏せにするベレーヌと侍女達の姿──
「陛下。申し訳御座いません。私達がついておりながら……」
「……何があった?」
「マナ様を……マナ様を御守りすることが出来ませんでした……」
涙混じりに震えた声で話すベレーヌ。
マナという言葉に心臓が大きく飛び跳ね、首筋に冷や汗が伝う。
「陛下! 何処へ行かれるのですか!」
気付けばマナの部屋へと足を進めていた。後ろからエアハルトの呼び掛ける声が聞こえたが、気に留める余裕などある筈も無い。
早く、早く、マナの元へ──
「マナ!」
扉を開くなり、衝撃的な光景が目に飛び込んだ。
そこにいたのは、ベッドで上体を起こしているマナの姿──目元には血が滲んだ包帯が巻き付けられ、彼女の狼の耳は引き千切られていた。身体も傷や痣にまみれ、見るに堪えない程に酷い。
「その……声は……ルイ?」
包帯で巻かれているせいで見えてないのか、それとも目本来の機能を失ってしまったのか、マナは私の姿を探すように首を動かし、手探りで両手を広げる。直ぐ様側に駆け寄り、彼女の上体を腕の中へと抱き寄せる。
「何があった。一体何があった……!」
怒りに寄る震えを抑えながら、彼女を只々抱き締める。包帯を通して滲んだマナの涙が頬を伝い、血が混ざった液体として垂れ落ちた。
「私の姿は……私は……この世界に生まれるべき者ではないんだって……」
「……は?」
「人間でもない、獣人でもない、半端な存在は神によって裁かれるべきだって……あの貴族の人が……」
震えた身体で、震えた声で話すマナ。
どれだけ辛い思いをしたのだろう。
どんなに苦しい思いをしたのだろう。
どれ程に痛い思いをしたのだろう。
考えるだけで怒りが沸き上がり、それを理性で止めることは最早敵わなかった。眉を顰め、側に座っていた医者に鋭い眼力を放つ。
「マナを絶対に死なすな。死なせたらお前を殺す」
「へ!? いや、あの、陛下……!」
医者の言葉を待たずに踵を返して部屋を後にする。
腰に携えた鞘を握り締め、目的地へと、否、目的の人間がいる場所へと向かった。
マナを苦しめた人間は、彼女と同じくらい──いや、それ以上の痛みと苦しみを味わって貰う。
険しい面持ちのまま、城の中にある礼拝堂の前で佇む。
この時間帯であれば貴族達は間違いなく、此処で神に祈りを捧げているだろう。
迷うことなく扉を開く。木の軋む音で誰かが入ってきたことに気が付いた貴族達が、一斉に振り返った。
周囲を睨むように見回し、ある方向で視線を止める。その視線の先にいたのは、鼻の下に綺麗に切り揃えた髭を蓄えたパーランド侯爵。私の顔を見るなり、血の気が一気に引かせている。犯人であることの何よりの証拠だ。
周囲がざわつく中、大股で赤い絨毯の上を進み、最前列の長椅子の前で足を止める。パーランドは座ったまま私の顔を見上げ、口を半開きにして身体を震わせていた。
「へ……陛下……一体どうされ……」
「お前か」
「は……はい……?」
「マナに手を出したのはお前かと聞いているんだ、パーランド!!」
凄まじい剣幕に怯え切ったのか、パーランドは悲鳴を漏らし、直ぐ様床に這いつくばる。
「も、申し訳御座いません! 妻から目障りな者を消して欲しいと頼まれ、家来を使い……その……その……!」
「聞く耳持たぬわ!」
剣を勢い良く抜き、パーランドの首を目掛け振り下ろそうとした──その時だった。背後から両腕を掴まれ、動きを制される。後ろを振り返ると、そこには息を乱しながら険しい表情を浮かべるエアハルトの姿があった。
「エアハルト! 離さぬか!」
「陛下、落ち着いて下さい。神聖なこの場を血で汚してはなりません」
「っ!」
強く握られた手を剥がし取り、身体を向き直してエアハルトを睨み付ける。
「お前は私を誰だと心得ている。私に逆らう気か?」
「勿論心得ております。しかし、貴方がこの帝国の頂点に立つ人間だからこそ、俺から言わせて頂きたい御言葉があります。気に食わなければ話を聞いた後にでもお斬り下さい」
「なに……!?」
下唇を噛み締める私を、無表情で見据えながら、エアハルトは言葉を紡ぎ始めた。
「まず一つ目、陛下はあの娘に御執心し過ぎです。御自身が未婚の立場でありながら、素性も知れぬ異形の娘を連れて歩くことが周囲の目からどう映っているかよくお考え下さい」
「な……」
「そして次に、此れは俺からの提案です。あの娘は一刻も早く城から、否、国から追放した方が良いでしょう。それが陛下にとっても、あの娘にとっても最善の道かと思われます」
淡々と告げられる言葉に、剣を強く握り締め、視線を床へと落とす。そして顔を上げると同時に、エアハルトの身体を蹴り飛ばした。
「エアハルト、そこに直れ! 覚悟は出来ているんだろうな!」
エアハルトは無言で体勢を整えると、その場に跪き、頭を下げた。
「……陛下ならば分かって下さると思ったのですが」
「黙れ! 私に逆らう者は死をもって償って貰う!」
エアハルトの頭部を踏みつけ、息を呑み込み剣を振り上げる。眼前にひれ伏す、数年来共に戦場を駆け抜けてきた家臣目掛け、斬り付ける──寸前だった。
「ルイ! やめて!」
後方から聞こえた叫びにも近い声に剣の動きをピタリと止める。声が聞こえた扉の方向に視線を向けると、そこにはベレーヌによって支えられて立っているマナの姿が──
マナは足を引き摺りながら手探りで前へと進み、私の目の前で足を止める。そして私の足元に縋り付きながら、崩れ落ちるように座り込んだ。
「ルイ……お願いやめて……貴方が人を傷付けるのは……見たくない……」
嗚咽を漏らし、啜り泣く彼女に、行き場の無い感情が胸を燻る。気付けば掌から剣が滑り落ち、礼拝堂の大理石の床に刃が当たる音が鳴り響いた。
その日から、以前にも増してマナといる時間が増えた。いや、違う。私が無理矢理増やしたのだ。彼女が一人でいる時間が無いようにと。私が彼女をいつでも守れるようにと。
夜も私の寝室で共に過ごすことにした。
いつ、誰が彼女を狙うかは分からない。毎晩マナをベッドに寝かせ、私は一睡もせずに彼女を見守っていた。
そんな日々が続いたある日──
ベッドの上で横になっていたマナは、ソファーで本を読んでいた私の名を呼んだ。私は直ぐ様本を閉じ、彼女の側へ歩み寄る。
「どうした」
愛らしい瞳で此方を見上げる彼女の頭を優しく撫でる。マナは私を見つめた後、毛布を捲り、両手を広げた。
「……今日だけ、一緒に寝て欲しいな」
暫く聞くことがなかった彼女の願い──私は小さく頷き、彼女の隣に横になった。
「どうした。眠れなかったのか」
いつものように彼女の首を指で優しく擦り、頭を撫でる。マナは気持ち良さそうに目を細めた後、私の胸の中へ顔を埋めた。同時に目に映る、彼女の痛々しい耳の傷痕──そっとその耳に唇を落とし、彼女の身体を強く、強く、抱き寄せた。
「ルイ……」
鼻を啜る音と共に運ばれる、涙混じりの震えた声。彼女の顎を掴み、そっと顔を上げさせると、大粒の涙を流している姿が目に入ってしまった。
「……何故泣くのだ」
「ごめんなさい。ごめんなさい……」
マナは目を逸らすように俯き、嗚咽を漏らしながら泣き始める。私は再び彼女の顔を上げさせ、互いの鼻が掠る程の近さまで顔を近付けた。
「……泣くな。私はお前の泣く姿など見たくない」
親指で、涙が滲むマナの目尻を優しく撫でる。そして彼女の額に、瞼に、頬に、優しく唇を落とし、最後は唇に触れた。
「んっ……」
マナは一瞬驚いた表情を浮かべたものの、抵抗は見せずにそれを受け入れる。唇から漏れる吐息にマナは僅かに身を捩らせながら、私の背中に腕を回した。
触れるだけの長い口付けを重ねた後、顔を離し、身体を密着させるように抱き締め合った。互いの温もりを求めるように、強く──
随分と長く眠っていたのだろうか、身体が鉛のように重たい。
半分脳が眠った状態のまま、マナの体温を確かめるように手を探る。
「……ん……?」
身体どころか、温もりすら感じられない。
違和感を覚え、瞼をゆっくりと開く──昨日まで共に過ごしていた筈のマナは、忽然と姿を消していた。
小居殿を抜け、急ぎ足で城の裏口へと向かう。
まだマナは近くにいるかもしれない。急いで外へ向かわなければ、早く、早く──
廊下の突き当たりまで進み、曲がろうとしたその時、その場で待機していたかように佇んでいたベレーヌが行く手を阻んだ。
「ルイディーク様。何処へ行かれるのですか?」
両手を腹部の前に重ね合わせるようにして添えながら、ベレーヌは無表情で尋ねる。
「マナを探しに行く。そして城へ連れて帰る。そこを退け、ベレーヌ」
間髪入れずに答える私に、ベレーヌの表情は険しさが増す。
「……マナ様は自らこの城を出ていかれたのです。彼女の覚悟を踏みにじるつもりですか?」
「ああ。だから私もそれ以上の覚悟を決めた。ベレーヌ、お前は私の覚悟を踏みにじるつもりか?」
「……それ以上の覚悟?」
ベレーヌは眉を顰めながら、睨むように此方を見つめる。私は一息吐き出すと、マントの裏側に潜ませていたとある物を取り出し、彼女に見せた。
「これは……」
掌の上のそれを見て、ベレーヌは息を呑み込む。そんな彼女の顔を真っ直ぐに見据え、再度同じ問いを投げ掛けた。
「ベレーヌ。此れを見てもまだ私の覚悟を踏みにじるか」
城を出て、馬小屋へ向かおうと道を駆け足で進む。しかし、又もや行く手を阻む人物が──
「陛下。何処へ行かれるんですか」
目の前に現れたのはエアハルト。
琥珀色の瞳を細めながら此方を見つめる姿に、礼拝堂での出来事がふと思い出される。
「……エアハルト。退いてくれないか」
私の問い掛けにエアハルトは何も答えず、前を見据える。
そしてふと笑い声を漏らした後、手を頭の上に掲げ、指を鳴らした。それを合図に出てきたのは、衛兵に連れられたギルバード。
「早く行かないと逃げちゃいますよ。ワンちゃん」
「……エアハルト」
口角を僅かに上げながら、大きな溜め息を吐くエアハルト。数歩前を進むと、私の側で足を止めた。
「やるなら最後までとことんやって下さい。俺は中途半端が一番嫌いです」
小さくも、低く威厳のある声でエアハルトは呟くと、そのまま逆方向へと歩き始めた。赤髪を風に揺らしながら城の中へと消えていくその後ろ姿を、暫くの間見つめる。
拳を強く握り締めた後、目の前で大人しく待機するギルバードへと視線を戻した。
「ギルバード。頼むぞ」
ギルバードに飛び乗り、帝都を駆け抜けて、壁の外へと向かう。目的地はあの場所──
「さぁ、ギルバード! 急げ!」
鞭で尻を打つと、ギルバードは雄々しい鳴き声を上げて加速した。
マナがあの場所にいる保証なんて何処にも無い。しかし、彼女は待っている。絶対に待っている。心の何処かでそう確信を得ていた。
汗が滲む掌で手綱を強く握り締め、壁の扉を抜け、壮大な野を駆け抜ける。マナがきっと待っているに違いないあの場所を目指して──
辿り着いた先──そこは私とマナが出会った場所、教会。
教会の前でギルバードから降り、彼の頭を撫でてその場で待機させる。そして身体を教会正面へと向き直し、深く息を吸い、吐く。ほんの僅かに震える掌を強く握り締め、教会の扉に手を掛けた。
扉を開いた先──教会の中は森閑としており、人の気配は無いように感じられた。寒さで白く濁る息を吐き出しながら、中央の絨毯の上を一歩踏み出す。
「マナ……いるのか」
両脇に立ち並ぶ長椅子の間を覗き込みながら、前へと進んでいく。姿は見当たらないまま、聖壇の前で足を止めたその時、何かが動いたような物音が耳に届いた。
「ん……?」
音が聞こえた場所、そこは聖壇の裏側。まさか──と思い、息を呑み込んで裏に回った。
「……マナ」
そこにいたのは、聖壇の裏に身を縮めるようにして座っていたマナ。恐らく匂いで私が入ってきたことに気付いたのであろう、特に驚いた表情を見せることなく、視線を持ち上げて唇を小さく結んでいる。
今にも泣きそうな表情を浮かべている彼女の側にしゃがみ込み、赤く染まった頬にそっと触れた。
「マナ。帰るぞ」
囁くように告げると、マナは大きく首を横に振った。
「……ダメ。一緒にいると迷惑掛けちゃう」
消え入りそうな声で答えるマナに、深い溜め息が漏れる。
「ああ、本当に迷惑だ」
「……え?」
「人の城に勝手についてきて、私の後をつけ回し、散々振り回した挙げ句、勝手にいなくなるだと? そんな勝手な真似は絶対に許さん」
口を小さく開け、マナは潤んだ瞳で此方を見つめる。鼻息を漏らし、彼女の後頭部に手を回してそっと額同士を当てた。
「これ以上私から離れることは許さない。その命ある限り、私の側にいろ」
「ルイ……」
マナの輝く紅の瞳から一筋の透明な涙が伝う。そんな彼女の涙を吸い取るように唇で目の下に触れた後、マントの裏側からあれを取り出した。
「マナ。左手を出せ」
「え……?」
戸惑いの表情を見せながら中々手を出さないマナの左手を自分の前へと引き、手の甲を上にする。そしてもう片方の手に持っているあれを彼女の白く細い薬指に嵌めた。
マナは自分の顔の前で左手を翳しながら、彼女の瞳と同じ色に輝くそれをまじまじと見る。
「これは……指輪?」
「ああ、そうだ。一生に一度、生涯を通して愛すると決めた女性に贈る物だ」
「……生涯を通して……愛する……」
息を呑むようにして、睫毛を涙に濡らしながら、マナはただ左手の薬指を見つめる。ルビーの指輪が嵌められたマナの手にそっと引き寄せ、手の甲に口付けをした。
「マナ。私の妻になれ」
「……ルイ」
「一生私の側にいるんだ」
握り締めた左手をそのまま引き、マナの小さな身体を抱き締める。マナは鼻を小さく啜り、私の心音を確かめるように胸元に手を当てた。
「……私、他の人とは違うこんな姿だよ?」
「何を言う。お前は誰よりも美しい」
「身分も全然……」
「身分など只の飾りだ」
「また誰かに……」
「私が命を賭して守る」
マナの問い掛けに、一切の迷いを見せずに答える。私の本心を、彼女に対する愛を伝える為に。
マナは顔を上げると、涙混じりの掠れた声で「はい」と小さく頷いた。目を細め、優しく笑うマナに愛おしさが溢れ出し、彼女の顎を引き寄せて顔を近付ける。
「愛している。誰よりも」
「ルイ……」
「私も」と言い掛けたマナの言葉を遮るように、唇を重ねた。マナは瞼を閉じ、自身の身体を委ねるように私の首に腕を回す。
教会のステンドグラスから射し込む陽の光を浴びながら、二人だけの時を過ごした。
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リゼーレの帝都にある大聖堂──
多くの人々に見守られながら、純白のドレスを身に纏ったマナの顔をじっと見つめる。薄く化粧を施した彼女は何処か幼さを残しながらも、今まで出会ってきた女性の中で誰よりも美しかった。
「……何笑ってるの?」
気付けば薄ら笑いを浮かべていたらしい。聖壇の前で誓いの言葉を立てる神父を前に、マナは小声で私に話し掛ける。
「いや、馬子にも衣装とはこの事だなと」
「酷い!」
頬を膨らまし、拗ねたような顔をするマナ。その表情ですら愛おしく感じる。
「──ではベールを上げてください。誓いのキスを」
神父に告げられた言葉に、マナの顔を覆ったベールを左手の薬指を光らせながらそっと捲る。ベールを乗せられた彼女の灰色の耳がそれに反応するように、ピクリと小さく動いた。
マナの両肩に手を乗せ、そっと顔を近付け、口付けを交わす。唇を数センチ離した刹那、彼女は控えめに笑い声を漏らした。
「どうした?」
「……ううん。どうしてこういう事になったのかなって」
僅かに頬を赤らめ、クスクスと彼女は笑う。自然と心の中から愛おしさが溢れ出す。
──そう。全ては可愛い犬に懐かれてしまったのが、始まりだった。
異類婚姻譚のタグがネタバレになっている(汗)
同じキャラクター達が登場する長編物語『半獣【キメラ】の少女は、世界最恐の皇帝に恋をする』を公開中です(短編はオリジナルストーリーなので、長編はまた違う内容となります)。
読みに来て頂けると幸いです∪・ω・∪