07. 彼女を助けたいなら
ランドルフの兄リベリオは、無機質な目で青髪の少年を観察した。
「ジェラルド・カゼッリか。後ろにいる娘は……ああ、なるほど」
慶事を喜ぶ和やかな雰囲気が一変し、誰も彼もが神経を尖らせている。
この婚約披露にはアルベローニ家の衰えぬ権勢と、二大伯爵家の結束の強さを南部地帯へ示す、重要な意味があった。それを、カゼッリ家の人間が台無しにしたのだ。衝撃は計り知れない。
まさか、ロゼッタ・アルベローニの破談話まであげつらって、衆目の前で辱しめるとは。こういう事態を大惨事というのだろう。
「良く聞けロゼッタ! 根暗でつまらない女だと思っていたが、化けの皮を剥がした浅ましい本性よりマシだった! 仮にも次期当主であれば、誇り高く正義を成すべきだろう!!」
なのに、当時者はこれである。まだ吠えている。薔薇庭園に轟く大声量だ。もはや揉み消しは不可能。己の浅慮が南部地帯へ災禍を招くと、考えてもいない顔だ。
これほどの侮辱を放置すれば、アルベローニ家は派閥の旗頭として面目を失う。権威の維持には、受けた恥辱をすすぐほど苛烈な報復が必要だ。現在のアルベローニ家では、まず無理な芸当である。
カゼッリ家もまた、策謀の果てに名門アルベローニ家を斜陽に追い込んだ俗物と非難され、対立派閥の恨みをかう。清廉な青菫は、薄汚い雑草へ意味を変えるだろう。南部貴族の敬意なくして、権勢の維持は難しい。
盟主を失った南部地帯は混乱する。二大伯爵家の庇護に甘んじてきた弱小貴族が、果たしてどれだけ生き残れるだろうか。
リベリオは出席者の様子を伺った。
招待客は、不測の事態に、ただ聞き耳をたてている。諍いへ近付こうとしない。関わりたくない気持ちはよくわかる。
ボルジャンノ夫人を見やれば、可哀想に呆然としていた。唇の動きは『そんな……まさか……うそよ……』と読み取れる。リベリオは大いに共感し、さもあらんと頷いた。
カゼッリ伯爵はあまりの事態に、グラスを握り潰してしまったようだ。こちらの反応も茫然自失。カゼッリ伯爵を信奉する伯爵夫人とフィリッポたち姉弟が、呑気に怪我の有無を心配している。
客のごく一部にだけ、見世物を楽しむ気配を感じた。この独特のいやらしさ……どう食い物にしてやろうか値踏みする下衆な視線……。間違いない、フィネッティ子爵家と中立派の仲間たちだ。人様から忌避される理由がよく分かる。
リベリオは破綻した茶番劇から、すっかり興味を失っていた。ランドルフは大事な弟。条件の良さから、父とともに後押ししてきた婚約だが、こうなっては手を引くべきだ。
リベリオが、アルベローニ家の令嬢を見捨てる予定を組んでいる時だ。凍りついていたランドルフが、悔しそうに声をあげた。
「…………元彼っ!」
「今、気にすべきは、そこじゃないと兄は思うぞ」
相当ショックだったようだ。過去の縁談相手くらいで動揺する弟が微笑ましい。
「そうでした、それどころじゃない。ロゼッタを助けなきゃ」
「相手は我が家より、上位家格の子息だが?」
「家格なんか関係ありませんよ。それが何だってんだ」
「大人しく撤退しておくべきだと思うけどなぁ……」
ランドルフは、緊張に包まれた空気に気付いて、ようやく周囲を確認した。不味いことになっていると子供なりに理解したのか、息をつめている。
「そうですね。こんな騒ぎに、いちいち関わってらんないよ。大至急とんずらしましょう」
「おっ?」
腹をくくったランドルフが、真剣な表情でリベリオを見上げた。
「兄上は先に逃げて。俺はロゼッタを連れて、後を追うから」
あらやだ失敗しそうとリベリオは思った。そして、弟の保護対象へ自分が含まれていることにキュンとする。弟はいい。長兄で良かった。弟が五人もいるのだ。
「いいかランディ、もし本当にアルベローニ嬢を助けたいなら、彼女を連れてくるだけじゃ駄目だ」
「えっと……」
「簡単に言うと、今日のお披露目は揉め事があってはならないんだ。あの青頭とアルベローニ嬢の小競り合いは、特にまずい。この場だけ仲裁しても、火種が残る。それは誰にも消せないし、必ず燃え広がるだろう」
「じゃあ、この争いそのものを無かったことにしておかないと、ロゼッタが危険なんですね?」
「うん。難しいだろ。どうだ、彼女を助けられそうか?」
うつむいて悩んでいる弟を見守る。できないという結論なら、婚約者をすげ替えるだけだ。次は、多少条件が悪くても家庭環境に問題がない令嬢を探してやろう。
うーっ、と小さく呻いてランドルフが顔を上げた。
「わかりました、やってみます」
「へえ! そうかそうか。場数を踏むのは大事だな、うん」
「あの、リベリオ兄上」
「ん?」
「そこの青頭の歳、いくつだか知ってますか?」
「確か、お前と同じ十一歳だと思うが」
「良かった、なら大丈夫かな。行ってきます」
弟を送り出したリベリオは、顔色の悪い給仕係を手招きした。上機嫌で銀盆からグラスを受け取る。一杯ひっかけながら、特等席で見物するつもりだ。
くだらない茶番劇でも、身内の出番があるなら話は別である。弟の学習教材として、あの無能には役に立ってもらうのだ。
□
一歩、一歩、前進するたび耳障りな罵声が大きくなる。数年ぶりに腹を立てたランドルフは、感情制御の難しさに直面していた。
青頭が好き勝手に喚き散らす暴言は、独りよがりで聞くに絶えない。
その背には、一人の少女が寄り添っている。波打つ長い髪は明るい紫。青菫ではなく、普通の菫色だ。つぶらな瞳の愛らしい顔立ちをした少女は、怯えた様子で華奢な体を震わせる。ほんのり上気した頬が、あふれる涙で濡れていた。
「やめて、ジェラルド。もういいの。もういいから……ううっ……ひっく……」
「それでは、ヴァイオレットが傷つくばかりだろう。おい、ロゼッタ! いい加減に過ちを認めないか! お前ができないと言うのなら、せめて取り巻きどもを跪かせて、ヴァイオレットへの嫌がらせを詫びさせるんだ!!」
少年少女が対峙するのは、伯爵令嬢ロゼッタ・アルベローニ。まるで悪の権化のように険しい顔をした令嬢だ。彼女はギリギリと歯を食い縛り、殺しそうな目で二人を睨みつけている。
ロゼッタは、一粒の涙もこぼさない。
一歩たりとも後方へ退きはしない。
青ざめた取り巻き令嬢たちの壁になり、背筋を伸ばして、すっくと立ち塞がっていた。剣で斬りつけられようが、けして退くものかという強靭な意志が伝わってくる。
まるで、姫君と聖騎士対、邪悪な魔女軍団の構図である。
フィネッティ子爵家の五男坊は、最も邪悪な緋色の魔女の元へ馳せ参じる。彼女を助けるためには、あの騎士気取りの青頭を怒っても殴ってもいけないのだと、心の中で繰り返しながら。
「騒がしいようだけど何かあったの、ローズ」
殺気立った険悪な修羅場。ひょっこり踏み込んだランドルフは、お天気の話でもするように気楽な調子で話しかけた。
「え、ランド……」
「こちらは、お知り合い? 私に紹介して欲しいな、ローズ」
驚くロゼッタの呟きへ、言葉を重ねる。君を助けに来たんだ、俺に合わせて。そう祈る気持ちで澄んだ瞳を覗き込み、微笑みを深めた。
「ええ……そうね……。ええ、ええ。わかりましたわ、ランディ」
聡明なロゼッタが、すっと呼吸を整える。次期当主の表情で、彼女は口角を吊り上げた。
そうだ、まずは立場の提示だ。二人は親密な婚約者。敵が呼び捨てなら、こちらは愛称で。青頭の家格は関係ない、婚約者が会話に加わるのは当然のことだろう。
「この御方はジェラルド様。カゼッリ伯爵のご子息ですわ。わたくしの従兄ですのよ」
「おお、それはお会いできて光栄だ。私はフィネッティ子爵の五男、ランドルフです」
「……その銀髪……お前……まさか……」
何故かジェラルドがたじろいでいる。ランドルフは若干困惑したが、それどころじゃないと小芝居を続行した。理由はどうあれ、これは好機。動揺しているうちに畳み掛けてしまおうか。
「堂々としたお振る舞いを拝見し、感服しておりました。そうですか、カゼッリ伯爵家のご嫡男でしたか! なるほどね!」
「いやだわ、ランディ。ご嫡男は、ジェラルド様のお兄様でしてよ」
「えぇっ!? いや、私はてっきり……。だって、ほら、次期当主の君に……ねえ?」
ジェラルドの偉そうな態度を皮肉った。叩くところは、ちゃんと叩いておかないと、ロゼッタや取り巻きたちの面子が潰れてしまう。
ジェラルドが立場をわきまえず、暴言を吐いたのは事実だ。お披露目に招いた全員が目撃している以上、非難しないのはかえっておかしい。
「ほほほ。かまいませんわよ、従兄同士ですもの。よく言いますでしょう、喧嘩するほど仲がいいって」
「……ははは、そうだね」
ランドルフは笑みの下で冷や汗をかいた。駄目だ、そうじゃないと焦っても、人目があるため説明できない。いくら親しい関係を強調しても、喧嘩だと認めてはいけない。認めてしまえば火種が残ると、わざわざ兄が教えてくれたのだから。
うちあわせ無しで会話を進めるのが、なんとも歯がゆい。
「ジェラルド様とは、私よりも仲良しなのかい、ローズ?」
「まあ、嫉妬ですの」
「いいじゃないか。ジェラルド様だって、さっき焼き餅を見せてくれたのだから」
「ジェラルド様が……ですか?」
ロゼッタの戸惑いが伝わる。いや、全ての招待客が戸惑っている。薔薇庭園はシンと静まり返り、ランドルフの発言を聞いているのがわかった。
ランドルフは、兄リベリオの忠告の正しさを思い知る。みんな、ジェラルドが吹っ掛けた『喧嘩』を、もっと穏便なものへつくり変えて欲しいのだ。
ランドルフは、コホンと咳払いした。ここは期待に応えなければ、婚約者の名がすたる。道化を意識し、わざと滑稽な調子で朗々と声を張り上げた。
「いいかい、ローズ。男心は繊細で複雑なんだ。たとえばね、我が家の庭師の息子が、下働きの娘のおさげ髪を引っ張って、よく泣かすんだ。憎くてやっていると思うかい? いいや、違う。女性には理解しがたいらしいけど、本当は大好きでたまらないんだよ。
子供なりに格好をつけたいんだろうね。優しい接し方を知らず、男の矜持が邪魔をして、つい本心とは逆の行動に出てしまうのさ。
まして、妹のように親しんできた女性が相手なら、どうだろう。妹のような女性が、どこかの馬の骨と婚約すると言い出したのなら。妹を奪われてしまう焼き餅や、馬の骨と婚約して大丈夫なのかという不安や葛藤。
それらがないまぜになって空回りしても、おかしくないだろう。自分にだって、こんなに親しい女の子がいるんだぞと、大騒ぎして気を引こうとしても、仕方ないと思わないか?」
婚約者を差し置いて、男女の愛情は不適当。あくまで妹への想いと設定する。カゼッリ家との仲良しアピールにちょうどいいだろう。
そして『嫉妬』では言葉が強すぎるから『焼き餅』と表現する。焼き餅は喧嘩じゃない。喧嘩のきっかけにはなるが、吹っ掛けられた相手が笑い飛ばせば、ジェラルド一人で完結する醜態に過ぎない。
紫髪の少女へのいじめ問題はどうする?
全部無視でかまわない。ランドルフは、ただの言いがかりだと判断した。
過酷な後継者教育や下位貴族たちの取り纏めに、ロゼッタは時間と労力と神経を磨り潰して生活している。性格云々以前に、少女をいじめる時間的余裕がまず無いのである。
「では、先程のアレは、わたくしを妹のように大切に想われた結果だとおっしゃるのね?」
「その通り。我々はまだ幼い子供だから、親愛の表現が上手くいかないことだってあるんだよ」
ミラノス王国の成人年齢は男性十八歳、女性十五歳。しかし、はるか昔は男女ともに十二歳だった。
現代でも十二歳をこえて分別がないと眉をひそめられるし、犯罪の刑罰だって重くなる。だが、十一歳は幼い子供だ。ギリギリだし屁理屈だが、幼いったら幼いのだ。
「あれは、子供じみた焼き餅であって、君を妹のように大切に想うがゆえの不幸な行き違いさ」
「ジェラルド様は、まだ十一歳の子供ですものね。焼き餅だなんて、お可愛らしいこと。ほほほ!」
ロゼッタが呼吸を合わせてくれた。ランドルフは、自分の考えが伝わったことにホッとする。
この喜劇の幕はロゼッタにしか下ろせない。子供のしたことですからと軽く流していいのは、迷惑を被った本人だけなのだから。
事の成り行きに愕然として、羞恥に茹であがり、ブルブル震えているジェラルド・カゼッリ。愚かな幼子、齢十一歳のジェラルド少年へ、年下のロゼッタ・アルベローニが慈悲深く申し渡した。
「わたくし、お気持ち嬉しく存じますから、焼き餅の謝罪は必要なくってよ、ジェラルドお兄様」
□
ジェラルドの不始末は、幼年期にありがちな恥ずかしいほのぼのエピソードへと、力ずくで変更された。これに飛び付いたのは大人たちだ。カッとなったジェラルドが反論する前に、カゼッリ派の男たちが足早に近付いてきた。
「いやはや、微笑ましいですな」
「私にも覚えがございますよ。姉が嫁ぐ前の晩に、義兄と私、どちらが大事なのかと泣いて困らせたものです」
「男なら誰しも、一度は通る道ですな。わはは」
「まったくです。ははは」
談笑する集団は、手際よくジェラルドと泣いていた少女を回収し、素早く立ち去った。
二人は青菫の紋章がついた馬車へ、各々放りこまれると、アルベローニ家から追い出された。
青菫にヤロウの葉が添えられた本家紋の馬車は、カゼッリ伯爵家の領主館へ。分家紋の馬車は、アルベローニ家が所有する別邸を目指して走り出す。
分家紋の馬車は、悲しそうにすすり泣く少女を乗せていた。
「追い出すなんて、ひどいわ。せっかくおめかしして、お祝いのパーティーへお出かけしたのに。どうしてロゼッタは、私ばかりいじめるの?」
白い指がガリッと座席を引っ掻いた。
「妹のくせに」
少女の名前は、ヴァイオレット・トゥッチ。ロゼッタの異母姉であった。