05. 後見人の署名 (後)
ロゼッタの父親フィリッポは、カゼッリ一族の男だ。分家の出だが、非常に気位が高い。
実の姉が、当主カゼッリ伯爵の正妻で、フィリッポが子供の頃から弟の肩ばかり持っていた。彼は姉を後ろ楯に、伯爵家の権威をふりかざして成長したのだ。
またフィリッポ自身も、ロゼッタの母から強く請われて結婚している。強要されたといっていい。特別な背景を持つ自分は、身勝手な振る舞いが許されると思い込んでいた。
「屑どもめ、卑劣な真似を……フィネッティ子爵の入知恵だな……業突張りの恥知らずが!」
フィリッポは悪態をついた。何故、自分がこんな場所へ来なければならないのかと、はらわたが煮えくりかえっている。
これまで何度も、フィリッポの元へ報せが届いていた。ロゼッタの婚約にあたって、後見人の署名が必要だという内容だ。領主館まで署名しに来いとの呼び出しを、彼はずっと無視してきた。
署名が必要なら、先方から出向いて懇願するのが礼儀というもの。当たり前の道理である。泣いて頼まれたところで、署名する気は無かったが、這いつくばるくらいの誠意をみせるべきだろう。
それを、あの屑どもは、従わなければ援助を打ち切ると通達してきた。
最初は虚仮威しだと軽く見ていた。しかし、先月の生活費が未だ支払われていない。勿論、今月分も未払いである。
次は別邸から退去させるという脅迫文まで受け取った。姉に助力を願ったが、あの毒虫のような男が関わっている以上、不用意に動けないと無念そうに慰められた。
もはや彼は、呼び出し状を無視できなかった。
「それもこれも、奴の息子のせいだ。あの小僧のせいで、子爵風情に何もかも台無しにされていく。あんな小僧、死ねば良かったのに。それが、娘婿だと? ふざけるな……くそっ!」
怒り心頭のフィリッポを執事が先導し、長い廊下を進んでいく。彼の後ろに、若い従僕が続いた。厚遇しているようで、実際はただの監視である。執事たちは当主から、この男をコンサバトリーへ近付けるなと厳命されていた。
「ずいぶん遅かったわね、フィリッポ。まあいいわ、そこへお掛けなさい」
「遅刻の謝罪は不要だ。後見人の署名は、ここと、ここへ。サインを終えたら、お引き取りいただいて結構」
鼻眼鏡をかけたボルジャンノ夫人が、読んでいた書類から顔を上げた。フィネッティ子爵は淡々と指示を出す。入室したフィリッポへ、敬意を示すどころか、立ち上がって挨拶する気配もない。
「ひとを呼びつけておいて、何様のつもりだ!」
フィリッポが怒鳴りつけた。夫人は目を瞬いたが、子爵は視線ひとつ向けようとしない。
「くだらない口論はよそでやれ。ここと、ここへ署名したら、もう帰っていい」
「卑しい虫けらの分際で、偉そうな口を叩くな! 気高いカゼッリの血に連なる私へ、貴様ごときが指図していいと思っているのか!」
怒りにまかせて、婚約契約書を破り捨てようと手を伸ばす。鼻息荒く近付いてきたフィリッポへ、子爵は深々とため息をついた。
「俺は今日、契約書の予備を用意していない。理由がわかるか?」
言葉こそ静かだが、フィリッポの足をギクリと止める力があった。
「お前がそれを破り捨てたら、カゼッリ伯爵へ正式に抗議するからだ」
「な、なにを……」
「当家とアルベローニ家の縁組みを、お身内を使って妨害される貴殿の意図は如何様なものか────そう声高に訴えるつもりだ。お前がカゼッリの名をもって契約書を破棄した事実は、ボルジャンノ夫人に証言していただく。二大伯爵家の対立が表沙汰になれば、南部貴族たちはどう立ち回るのか。考えてみると面白いな」
子爵の口調は淀みない。平坦な声音でつまらなそうに『面白い』と語る姿は、うすら寒いものがある。
「カゼッリ伯爵は、誰よりも南部の平和を望む御方だ。さすがにお前を排除するしかなかろうよ。目障りな後見人は消え、賠償金が懐に入る。息子と次期女伯は、ほとぼりがさめた頃、改めて婚約させればいい。何もかも好都合だ」
「義兄上は……カゼッリ伯爵は、私の行動とは無関係だ。なんと……なんと、悪辣な……」
「今さらだな。強欲な虫けらどもの頭目こそ、この俺だ。義理の娘になる令嬢を悲しませるのは忍びないから、餌を我慢しているに過ぎん」
青ざめて立ちすくむフィリッポを、子爵はようやく振り向いた。見てくれこそ優美だが、貴族らしからぬ野卑な獰猛さが、瞳の奥に垣間見えた。
「先程は、俺の言い方が悪かった。いいか、フィリッポ・アルベローニ。俺がお前を、骨の髄までしゃぶり尽くしたくなる前に、大人しくそこへ座ってサインしろ。後見人の署名欄は、ここと、ここだ。わかるな?」
□
帰り支度を済ませたフィネッティ子爵は、顧問弁護士に契約書を持たせた。正面玄関で待機するよう命じておく。
これからランドルフを回収しに行くのだ。ボルジャンノ夫人も部屋を出て、肩を並べて歩きだす。
「見事な手際でした、フィネッティ卿。あんまり恐ろしいことをおっしゃるから、フィリッポは震えあがっていましたよ。署名を終えると、転がるように逃げ帰って。ふふっ」
「予備の契約書が無駄になりました。一応、三部つくらせておいたのですが」
「まあ、あなたフィリッポを騙したの?」
目を丸くするボルジャンノ夫人に、子爵は平然と肩をすくめる。
「カゼッリ伯爵へ、おおやけに楯突くなんて御免です。南部貴族の半分を敵にまわすくらいなら、次期当主殿の成人まで婚約は延期にしておきますよ。まさか、あんな脅しを信じるとは。私のほうが驚きました」
「あらあら、悪いかたね。ふふふ」
「フィリッポは小心な男だ。彼だけなら、アルベローニ嬢お一人でも、いずれ容易く御せるでしょう。ただし、血がつながっただけの他人だと割りきる必要はありますが」
ボルジャンノ夫人の明るい顔が、とたんに曇った。
増長したフィリッポを従わせるには、誰が上位者であるかを理解させなければならない。
婚約の件で、呼び出しに応じないフィリッポの対応を、助言したのは子爵である。資金を乾上がらせれば別邸から出てきますと、あっさり言ってのけたのだ。
肉親の情に縛られるロゼッタだけでは、思いきれない方法だった。また、南部を離れて久しいボルジャンノ夫人では、カゼッリ伯爵夫人から悪者にされて、周囲の圧力に屈しただろう。
今回は、フィネッティ子爵家が絡んでいるからこそ、上手くことが運んだ。多少フィリッポを締め上げたくらいで、誰も嘴をはさんでこなかった。それがわからないほど、ボルジャンノ夫人は愚かではない。
次に何かあれば、アルベローニ家で解決しなければならない。いつまでも他家の力にすがる状態は危険だ。ロゼッタのために知恵をしぼり、見本になってやる必要がある。
しかし、いつまでも庇護できるわけではない。子爵の言うとおり、いずれ彼女一人で決然と采配を振るわなければならないのだ。
「ロゼッタにできるでしょうか。あなたなら、もうお気付きでしょう。あの子は母親に似て、おとなしい気質の娘なのです。とても気持ちの弱い子で……」
「そういえば先代は、ほとんど社交をされませんでしたね」
先代女伯の社交放棄は、フィリッポを増長させた一因だ。彼は公式の場で、当主さながらに弁舌をふるい、大っぴらに女を侍らせた。だがそれは、伯爵が担う社交の義務を、フィリッポが全て負担していたとも言える。
「アルベローニ嬢は、ご自分の義務を果たされるおつもりです。気質が似て見えたとしても、先代と同じとは限りませんよ」
「そう、ですわね……」
ボルジャンノ夫人は曖昧に頷いたが、複雑そうな顔をしていた。
フィネッティ子爵とボルジャンノ夫人のもとに、子供たちの声が聞こえてくる。真剣に話し込んでいるうち、もうコンサバトリーの近くまでたどり着いていた。
「マ……マ……マル……?」
「合ってます! ランドルフ様、もう一息ですよ!」
「マル……マルター? マルター男爵?」
「正解です! すごいわ! では、マルター男爵のご令嬢は?」
「マルター男爵令嬢……モリアムッ!!」
「んんん~っ、ミリアムさんです、惜しいぃ~っ」
「ぐわー! ミリアムさんかぁ!」
開放的な硝子張りの小部屋。明るい陽の光の中、ランドルフとロゼッタが長椅子に座っている。
クイズ形式で名前を暗記しているようだ。手元の招待客名簿を、両側から覗きこんでいる。今のは惜しかったと、ひとしきり悔しがった二人は、顔を見合せクスクス笑った。
作り物ではない、生き生きとしたロゼッタの表情が、ボルジャンノ夫人には意外だった。
フィリッポは腹を立てると、気がおさまるまでロゼッタを激しく怒鳴りつけるような男だ。娘に文句を言おうと、屋敷中を探し回る父親の罵声が聞こえないことから、婚約が上手くいったと察したのだろう。
それでも、以前は家族がもたらす気鬱から、立ち直るのに時間がかかっていた。痛々しく疲弊するばかりで、とても見ていられなかった。
ボルジャンノ夫人はロゼッタをじっと見守る。心から楽しそうにしている。きっと、ランドルフが側にいるから、ロゼッタは前向きになれるのだ。できれば、このままそっとしておいてあげたい…………。
しかし、情緒を軽視するフィネッティ子爵が、さっくり息子を呼びつけて、二人きりの時間は終りになった。
「おい、ランドルフ」
「あ、父上」
ランドルフが急いで父に駆け寄る。名残り惜しそうなロゼッタに気付かないあたり、彼は間違いなく子爵の息子だ。
「婚約はどうなりました? 俺とロゼッタ嬢の婚約、ちゃんと成立しましたか?」
「ああ。お前とアルベローニ嬢は、今日から婚約者だ」
「やった!」
目を輝かせたランドルフは、その場で小さく足踏みした。小躍りである。父フィネッティ子爵は、自宅以外では珍しく、五男坊の頭をポンと撫でた。
「良かったな」
「へへっ」
「これからお披露目の準備で忙しくなる。今日は、もうおいとまするぞ」
「はい!」
ランドルフが、婚約者を振り返る。
「またね、ロゼッタ」
「!?」
棒立ちになるロゼッタへ、ランドルフは嬉しそうに笑った。
ミラノス王国の貴族社会では、親しい呼び方、話し方が許されるのは婚約者からだ。突然すぎて頭が追いつかず、ロゼッタはアワアワしているが、そこまで非常識な行為でもない。
「君もさ、俺を敬称抜きで呼んでよ。敬語だって、よそよそしすぎると思わない? ずっと普通に話したかったんだ。今日は暗記を手伝ってくれて、ありがとう。また遊びにくるね」
子爵に促されたランドルフが、元気に手を振って退室した。真っ赤な顔で震えていたロゼッタは、時間差でハッと我に返る。
「大叔母様!」
「なにかしら?」
「私、ランドルフ様を……いえ、ラ、ランドルフ、を、お見送りして参ります!」
慌ただしく、浅く膝を折る挨拶をして、ロゼッタはスカートの裾を摘まみあげた。そのまま、玄関を目指してパタパタ走っていく。
「あのロゼッタが、あんなお転婆をするなんて……」
ボルジャンノ夫人の顔へ、次第に笑みが滲んでいく。それはロゼッタを思いやる、大叔母らしい表情だ。
「そうね。フィネッティ卿のおっしゃるとおりだわ。ロゼッタはきっと強い伯爵になる。母親と同じ轍など踏みませんよ」
それは、ただの独り言であった。ボルジャンノ夫人は、他の誰でもなく、自分自身に言い聞かせていた。