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11. 野花の見た風景

 ヴァイオレット・トゥッチは、アルベローニ伯爵領にある、庭付きの邸宅で誕生した。


 ヴァイオレットの母は、すでに亡くなっている。生前の彼女は、トゥッチ夫人と呼ばれていた。妾といっても、ふしだらな女ではない。出自はカゼッリ伯爵家の領地管理人、小領主とも呼ばれる家の娘である。


 地味なドレスを好む素朴な人で、髪は菫色だった。飾り気は無かったが、いつも左手に金の腕輪を着けていた。腕輪はけして豪華な品ではない。平民の男が、どうにか買える類いの細手の腕輪だ。

 内側には小さな文字でメッセージが刻まれていた。


 ────私のすみれ 愛する野花へ


 時折、腕輪を外して、裏側に刻まれた文字を指先でなぞっていた。そんなときの彼女は、寂しそうな困ったような、複雑な笑みを浮かべていた。


 父フィリッポは、母とヴァイオレットを大事な家族として扱った。カゼッリ家で内々の祝い事や茶会があると、仲睦まじい両親に連れられて、楽しく出かけたものである。


 カゼッリ伯爵は思いやりがある人だ。トゥッチ家は領民のために尽力してきた高潔な一族。だから、ヴァイオレットもトゥッチ家の一員として胸を張っていいのだとよく話してくれた。そんな伯爵のお話に大人たちが、特にトゥッチ家の人達が涙ぐんでいた。


 伯母のカゼッリ伯爵夫人も、従兄のジェラルドを伴って、時々家を訪ねてくれた。母と伯母は仲が良かった。父方と母方、双方の祖父母も遊びに来て、孫としてちゃんと可愛がってくれた。


 父は週に一度、朝早く帰宅した。笑顔で『ただいま!』と家に飛び込んでくる。そして翌日か翌々日の夜に、この世の終りみたいな暗い顔で出かけていくのだ。

 ヴァイオレットは、父は仕事が忙しくて帰ってこれないのだと思っていた。母がトゥッチ夫人と呼ばれているから、父の名前は当然フィリッポ・トゥッチだと信じていた。


 ヴァイオレットの認識と、現実の間に歪みが生じたのは、母が外出先で亡くなってからだ。


 通常、葬儀は午前中に行う。だが、とても偉い人が亡くなって、同じ日に弔いがあるらしく、母の葬儀は午後へずれ込んだ。

 母を失った父は、ずっと家にこもって塞ぎこんでいた。


 ある日、少しだけ気持ちが回復したらしく、ヴァイオレットの頭を優しく撫でてくれた。


『私のすみれ、可憐なすみれ。これからは、お父様と一緒にお祖父様のおうちで暮らそうよ。贅沢は出来ないけど、自然がとても綺麗なんだ。お父様はね、お前がいれば何もいらない』


 二人は引っ越しの準備を始めた。母の部屋から、若草色の華やかなドレスが一着出てきた。隠すようにしまってあった。若草色のドレスを胸に抱くと、父はうずくまって咽び泣いた。


 荷造りが終わる前に、知らない人たちが訪ねてきた。父はヴァイオレットへ子供部屋に行くよう命じた。彼らは父と言い争った。その人たちは、ヴァイオレットと父を引き離そうとしているようだった。


『娘は私の命なんだ! 私から娘を取り上げてみろ! 悪魔に魂を売り渡してでも、穢れた棘花など焼きつくしてやる!』


 叫び声は子供部屋まで轟いた。父があんな声を上げるのを初めて聞いた。膝小僧のすり傷を見ただけで失神しかける弱虫だけど、血も暴力も苦手な優しい父が、精一杯怒鳴って、追い払おうとしてくれた。


 だけど、その人たちは何度も訪ねてきて、諦める気配がない。結局、ヴァイオレットと父はトゥッチ家ではなく、大きなお屋敷へ住むことになっていた。


『いいかい、ヴァイオレット。前のお家から一緒に来てくれるお手伝いさんたちや、お父様の側を離れてはいけないよ。真っ赤な髪の女の人と子供には、絶対に近付かないで。もし、お父様に何かあったら、急いでお屋敷から逃げるんだ』


 赤い髪の女の人は、とても美人でニコニコしていた。けれど、ヴァイオレットは彼女の笑顔が、何故かとても恐ろしかった。彼女と並んで立っている赤髪の子供は、女の子だった。女の子はヴァイオレットをずっと睨んでいた。


 女の子の名前は、ロゼッタ。ヴァイオレットの妹らしい。母が妹を産んだとは気付かなかったが、ずっと一人っ子はつまらないと思っていた。ヴァイオレットは単純に、妹ができて嬉しかったのだ。


『ロゼッタってお名前なの? わたし、ヴァイオレットだよ。ロゼッタのお姉ちゃんだよ!』


 喜びのあまり父の言い付けを忘れた。ヴァイオレットは、ロゼッタへ駆け寄って両手を握った。ロゼッタが目を丸くして、それから顔をくしゃくしゃにした。何か悪いことをしてしまったのかと、慌てて謝ろうとしたら、視界がぶれた。


 そのとき、何が起こったかよくわからない。

 横から、頬に強い衝撃を受け、気付けば床に転がっていた。痛くて痛くて、泣きじゃくった。父が悲鳴をあげて、ヴァイオレットを抱き上げた。


 それから、赤髪の美女に信じられないことばかり教えられた。


 父の名前は、フィリッポ・トゥッチではなくフィリッポ・アルベローニ。

 トゥッチ夫人は妻じゃない。ロゼッタの母親でもない。

 卑しいただのアイジンで、ヴァイオレットは恥ずかしいシセイジ。

 ロゼッタとヴァイオレットは姉妹だけれど、この屋敷の物は全部ロゼッタのもの。

 ロゼッタは偉いけれど、ヴァイオレットは偉くない。だから、お姉ちゃんと呼んでもらえないし、ロゼッタを妹だと言ってはいけない。


『うそつき! あんたなんか、だいきらい! お父さまも、うそだって、この人にちゃんと言って!』

『…………』


 父は弁解しなかった。消え入りそうな声で、すまない、すまない、と苦しそうに呻いていた。嘘つきは赤髪の女ではなく、ヴァイオレットの父だった。


 娘は自分の命だと、父は言った。ヴァイオレットとロゼッタ、どちらの娘のことなのだろう?


 ふとよぎった疑問を、父へ尋ねることができなかった。ヴァイオレットは生まれて初めて、父に不信を覚えていた。これだけの愛情を受けながら、一瞬でも疑ってしまったのだ。


 あの屋敷にいた頃、父はずっと緊張していた。何かあると、赤髪の女たちへギャンギャン怒鳴り散らす姿は、母が生きていた頃と、別人のようだった。

 あれは威嚇だ。近付いて欲しくなくて喚いていた。たぶん父も、あの赤髪の女を怖がっていた。あの女に似た顔立ちで、黙って睨むロゼッタにも怯えていた。

 どんなに怒鳴りつけても、隙あらば父にすり寄ろうとする、蛇みたいな目つきをした赤髪の女が、心底恐ろしかったんだと思う。


 嫌々連れてこられたお屋敷は、赤髪の美人がいなくなった途端、邪魔者みたいに追い出された。

 追い出されるとき、父はどこかの男の子に腹を立てていた。あんなに我慢したのに、子供一人に台無しにされたのだと。

 だけど、その子に怒りながらも、あの屋敷から出られたことに、すごくホッとしたみたいだった。


 トゥッチ家へ帰りたいと言ったら、ヴァイオレット一人で行くようボルジャンノ夫人に命じられた。後見人は次期当主の近くにいなければならないそうだ。

 じゃあ、ロゼッタも一緒に来ればいいと言い返したら、無礼で馬鹿な子だと、ボルジャンノ夫人はムッとしていた。正直に、くそばばあと呼んでやったから、ヴァイオレットはあの人に嫌われている。

 仕方なく父と二人で元の家に住んでいる。実はこの家も、ロゼッタのものらしい。


 人払いをされているのか、別邸にはお客さんがほとんど来なくなった。顔を出すのは生活用品を届けてくれる商会の人くらいだ。ジェラルドがこっそり訪ねてくれなければ、神経の細い父は倒れてしまっただろう。


 別邸に戻ってからは、都合の悪いことは全て、父やヴァイオレットのせいにされている。短気で、いばりん坊で、小悪党そのものといった父親だから、批難されて然るべき問題行動があるのは事実だ。

 しかし、現実は灰色。黒が濃いか薄いかの違いしかない。父やヴァイオレットにだって言い分がある。妾を持った入婿と私生児の話では、聞く価値がないらしいけど。


 婚約のお披露目の意地悪は、悲しかった。


 今度こそロゼッタと仲良くなろうと、おめかししてパーティーへ出かけた。カゼッリ伯爵がヴァイオレットを見て、驚いていた意味が、その時はわからなかった。

 ジェラルドは、いつも通り親切にしてくれた。久しぶりにいろんな人と話したいとうちあけたら、悩んだあげく連れて行ってくれたのだ。

 知り合いの子供たちを探したり、お喋りしているうちに、ジェラルドとはぐれてしまった。けして側を離れちゃいけないと言われていたのに。


 困っていたら、新しい友達が一人できた。貴族の女の子だけれど、キョロキョロしているヴァイオレットに気付いて、声をかけてくれた。貴族といっても身分が低いから、かしこまらなくていいと言ってもらえて嬉しかった。


 お友達とは気が合った。けれど、これはロゼッタの婚約パーティー。いつまでも自分ばかり楽しんじゃいけない。ジェラルドが見つからないなら、先にロゼッタをお祝いに行かないと。

 そう思ったヴァイオレットは新しい友達と別れて、妹を探しに行った。友達はヴァイオレットを心配し、やめたほうがいい、一緒に従兄を探してあげると、あんなに止めてくれたのに耳を貸さなかった。


 きっと、貴族の彼女には、ヴァイオレットがどんな扱いをされるか、予想がついたのだろう。しきりに不安がる彼女へ、妹は歓迎してくれると断言し、また後でねと手を降った。


 ロゼッタは特別綺麗なドレスを着て、友達に囲まれていた。


 おめでとうを言うために近づいたら、ロゼッタの友達に阻まれた。婚約の祝福は、ヴァイオレットだけ屋敷でこっそり行わなければいけないらしい。屋敷に食べ物や飲み物を運んであげるから、パーティーが終わるまで隠れているように、ロゼッタの友達から小声で言われた。

 ロゼッタの友達は悪口なんか言ってない。彼女たちは、ただ困っていた。むしろ優しく言い諭された。まるで、頭の弱い子を相手にするみたいに。


 うまく息ができなくて、震えていると、ロゼッタの顔がどんどん険しくなっていった。なんでこんなことがわからないのかと、責められている気分だった。


 悲しくて、惨めで、泣いてしまった。ロゼッタの気持ちがわからない。


 かっこいい婚約者を自慢して嬉しかった?

 楽しそうなパーティーを見せつけて面白かった?


 嫌な考えばかりがわいてくる。こんな陰湿で淀んだものは、いらないのに。あの赤髪の女みたいに、気持ち悪い化物になりたくない。


 ジェラルドの怒鳴り声が聞こえた。はぐれてから、ずっと探してくれたみたいだった。急いで駆け寄ってきて、背中に隠してくれた。大声をあげるのはやめて欲しかったが、その気持ちは嬉しかった。


 ジェラルドは兄のような人だ。ヴァイオレットを妹みたいだと言ってくれる。

 けれど、ジェラルドの妹分という立場まで、ロゼッタがあっさり奪っていった。

 ロゼッタは、ジェラルドお兄様と言ったのだ。みんなの前で、当たり前みたいに。


 ショックを受けているうち、馬車へ放り込まれてパーティーを追い払われた。野良犬のような扱いだ。私生児は傷つかないとでも思っているのだろうか。私生児は笑い者にしていいのだろうか。


 ロゼッタは、いつもそう。自分の都合ばかり押し付ける。

 なんでこんなことばかりするのだろう。説明せずに、黙ってただ睨みつけるだけだ。


 妹のくせに。なんでも持っているくせに。どうして意地悪するのか、憎らしくなってくる。

 最初はこんな気持ちじゃなかった。一緒に遊んでみたかった。庭の薬草畑を、父とロゼッタと三人で、色々な話をしながら手入れしてみたかった。ちゃんと家族になりたかった。




 馬車が揺れる。ヴァイオレットは流れていく街並みをじっと見ていた。


「無理しなくていいんだよ、ヴァイオレット」


 ポツリと話しかけられて、ヴァイオレットは声のほうへ目を向けた。隣に座る父が、気遣わしげに彼女を見つめている。


「やっぱり、やめよう。お前は体調が悪くて寝込んだとでも誤魔化しておくよ。業腹だが、私が頭を下げれば文句はあるまい。届け物だって、代わりに渡してくる」

「お父様」


 かたく握りしめた父の手。父フィリッポは気位が高くて小心だ。嫌われ者だし、馬鹿にされているのを知っている。娘ロゼッタを愛せない酷い父親である。


 だが、カゼッリ家やヴァイオレットのためなら、どんな屈辱でも耐える愛情深い人でもあった。


「もういいよ。次期当主様と婚約者様へ、謝ればいいんでしょう。そのくらい、ちゃんとできるわ」

「何故、お前が謝罪などしなければならないんだ……!」

「たぶん、大騒ぎになったから、かな」


 お披露目の後、別邸を訪れたカゼッリ伯爵を思い出す。意外にも、ヴァイオレットは叱られなかった。

 カゼッリ伯爵は、泣いているヴァイオレットの頭を撫でて、静かに質問しただけだった。ヴァイオレットは頷いて、自分宛の招待状をお見せしたのだ。


 ヴァイオレット・トゥッチ様と書かれた、ロゼッタからの招待状を。

 その筆跡を確認したカゼッリ伯爵は、傷ついたみたいに息をつめた。


 招かれたの。だから行ったの。異母姉の自分が呼ばれるとは思っていなくて、とびあがるほど嬉しかった。


 病欠するつもりでいたお父様を、必死で説得した。時代遅れの服を着て恥をかかせてやろうとするのを、どうにか止めた。遅刻しないように、当日も行きたくないと散々ぐずったお父様を、おだてて、なだめて、沢山お願いして、馬車へ押し込んだ。


 異母姉が恥ずかしいなら、最初からパーティーが終わるまで隠れていて欲しいと、はっきり言ってくれたらよかった。婚約者の家族にだけコソコソ挨拶して、そのまま帰ったってかまわなかった。妹のためなら。ロゼッタのためなら従ったのに。


 まさか、いそいそ近付いてくるほどの馬鹿だとは思っていなかった?

 そこまで常識がないなんて、考えてなかった?


 貴族令嬢の常識を、どうやって身につけたら良かったんだろう。

 トゥッチ家の一員、純朴な平民の娘であれと言い聞かされてきた。小領地で困らないように、家事や冬の手仕事、植物の見分け方を教わった。貴族のマナーなんて知らない。


 そんなヴァイオレットに、ロゼッタはいったいどんな行動を求めていたのだろうか。


「私は、伯父様と伯母様のために謝るの。大事な姪だって言ってくれたから。うふふ、嬉しいな」


 カゼッリ伯爵はヴァイオレットを、自分の姪だとはっきり言ってくれた。納得いかないだろうが、先方へ出向いて頭を下げて欲しいとおっしゃられた。そして、カゼッリ伯爵の姪として、用事を頼まれたのだ。


 ヴァイオレットが注意されたのは、ひとつだけだ。誇り高い南部女性は、人前でみだりに涙を見せてはいけないと、そう窘められた。


「泣いちゃったことは、悪かったしね。お祝いに集まった人のために、泣いてはいけなかったの。お父様、ごめんなさい。私のせいで、みっともないって笑われちゃうわ」

「いいさ。お父様は、悪者あつかいに慣れてるんだよ」


 領主館へ到着し、ヴァイオレットは父とともに馬車を降りた。アルベローニ伯爵家にふさわしい、重厚な屋敷を見上げる。

 ここに住んでいた間は、仲良くなりたくてロゼッタばかり目で追いかけていた。両手を握ったときの、あの傷ついた顔を思い出すと声ひとつかけられず、こっそり見ているだけだったけれど。


 ロゼッタはヴァイオレットと目が合うと、きつく睨んでくる。彼女はずっと父を見ていた。ヴァイオレットを可憐なすみれと呼ぶ、父のことばかり見つめていた。


 そのとき唐突に、ヴァイオレットは、ひとつの結論にたどり着いた。


 ああ、そうかと思う。ロゼッタは、私に関心がないのか、と。


 怒りが身を焼こうとしていた。受けた屈辱に眩暈を覚える。積み重った鬱屈が、憎しみへ変化しはじめた。切り裂かれた心が血を流している。赤髪の女の亡霊が狂ったように嗤っている。


 ────招待状を貰ったんだね、ヴァイオレット。


 伯父の声が聞こえた気がした。


 ────ヴァイオレットに何をしたんだ!


 ジェラルドの叫びが。


「あぁ……」


 醜悪なものを薙ぎ払い、青菫を背負う人たちの眼差しが胸を満たしていく。分かち合った痛み。着替える時間を惜しんで、正装のまま駆けつけてくれた。ただ一人で立ち向かってくれた。


 まるでヤロウの葉だ。血が止まった。


 ふっと心が軽くなる。どす黒い淀みが消えさると、最後に残ったのは寂寥だけだ。


 ロゼッタとは家族になれない。それを認めるのは寂しいが、やるだけやったという自負のお陰か、さっぱりした心境だった。


 現実を受け入れると、ロゼッタやボルジャンノ夫人の行動は、意地悪や嫌がらせじゃないと、はっきりわかった。

 領主が俯瞰で物事を考えて、村人や町民を動かすのと似ている。きっと無意識に、それこそ悪意の欠片もなく、異母姉という名前の駒を、押し退けたり、手元へ戻したり、父親をお披露目に呼ぶ釣り餌にした。


 父フィリッポは、きっとそういう冷徹さに怯えるのだ。一方的に貴族の流儀で斬りつけるばかり。あの人たちはヤロウの葉を渡さないから。

 もし、持っていないのだとしたら、自分が斬られたとき、どうやって血を止めるのだろう。ずっとそれが気になって、ロゼッタへヤロウの葉を渡す、お姉ちゃんになりたかった。


 いや、もうやめよう。自分が何かしようとすると、手を握ってしまったときのように、妹を傷つけてしまう。


 ロゼッタにはあの婚約者がいる。


 ヴァイオレットはパーティーの後、父から聞いたのだ。昔、この屋敷から逃げ出したいばかりに、父が荷担しかけた恐ろしいことを。

 それを台無しにした男の子がいた。あの婚約者の少年だ。


 きっとあの少年なら、ヴァイオレットの妹を守ってくれる。


 これからは平民らしく、父の心配だけしていよう。関わるのを避け、何か聞かれても口をつぐんで、余計なことをしないように気を付けないと。

 そして、成人をむかえたら父を連れて、カゼッリ領へ帰還する。あと五年。息をひそめて、父を励まし、耐え抜くのだ。


「パーティーのこと謝って、伯父様のご用事を済ませたら、さっさと帰ろっと」


 ヴァイオレットは、肩をすくめてニッコリ笑った。眉尻は下がっているが、もう泣きはしなかった。


 彼女は、可憐なすみれのような少女だ。見た目はとても清楚だけれど、断崖だろうが石畳の隙間だろうが、好きな場所に咲く、強かな野花によく似ている。

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