第四話 不協和音
舞花が居なくなった世界は異様だった。
不思議なことに、彼女が居なくなったにも関わらずそれを気にする者は誰一人として居なかった。
世界は異常な程にいつも通りだった。
――ただ一人、私を除いて。
「笹倉舞花? あれ、そんな人うちのクラスにいたっけ」
「ごめん、聞いたことないなぁ」
クラスメイト達は誰も舞花のことを覚えていなかった。
「この学校の七不思議? 噂話なら聞いたことくらいはあるけどさ……」
「確か……理科室、体育館、音楽室、洗面所の鏡、階段、美術室と……あとは、トイレだったかな」
トイレ。そうか。それが最後の――。
「え、知らないの? もう使ってない西校舎の3階の女子トイレだよ。その奥から3番目の個室のドアを叩いて声をかけるとさ……トイレの中にいる幽霊の花子さんに、中に引き摺り込まれるんだって」
「 」
「戦時中にさ、学校のトイレの中で女の子が一人で死んじゃったんだと」
「 」
「それからずっと、成仏できずにいた花子さんの霊がそこにいるらしくて」
「 」
「自分が死んだって分からないまま、遊び相手を探して待ってるんだ……って噂だよ」
「怖いけど……何か、かわいそう」
クラスメイトの一人がそう言うと、先程まで説明していた生徒は「あくまで噂だから」と笑った。
でも、と彼女が付け加える。
「これも噂だけどさ。七不思議って、全部の秘密を知っちゃうと呪われるとか不幸になるとか、なんか良くない事が起こるっぽいから気をつけた方がいいよ。あんまり深入りすると……」
クラスメイト達の話が、頭のどこか遠くのほうで響く。
七不思議最後の秘密。それを求めに、舞花はたった一人で夜の学校へと消えていった。
私を一人、置き去りにして。
《お化けさん達はね、きっと寂しがり屋なの。だから、皆に自分の存在に気づいてもらいたくて、自分はここに居るんだよって示そうとしてるだけなんだよ》
《寂しいよね。私も……分かる気がするの》
彼女の居なくなった世界は、酷く暗い色をしていた。
明るかった教室の色は灰色に染まり、空には曇天が広がっていた。
彼女が居なくなった世界には、昼は訪れず、夜だけが訪れた。
彼女が居なくなった世界では、誰もが仮面を付けたような偽物の笑顔を浮かべていた。
クラスメイトも、
家族も、
誰もかも……
教室の外で、激しく雨が降り始めた。
舞花の居た机には、顔のない人形が座っている。
気が付けば学校のチャイムが不協和音を奏で、クラスメイト達は機械人形のように一斉にして席に座った。
私だけが、取り残されたようにして席を立っていた。
教室では変わらずいつもの授業が始まった。
気が付けば、私の周りには一様に顔のない人形。人形。人形。
世界が、歪んでいく。
暗い夜の空から、激しい雨が降る。
顔のない人形達は一様にそろった動きで、言われた言葉を必死に書き取っていく。
まるで奴隷のように。思考を放棄した畜生共のように。
いない。
この世界には、いない。
舞花……舞花、舞花、舞花……!
私は怖くなって教室を出た。
――助けてくれ、舞花……!
呼吸が荒くなっていく。
――この世界は、怖い。一人で生きていく事なんて、私には出来そうにない。
私は教室から逃げるようにして、ひたすら走り続けた。
――君の居なくなった世界は、真っ暗で何も見えなくて。
私は、君が居ないと――
西校舎は、酷く老朽化していた。
錆び付いた階段の手すりは今にも崩れてしまいそうなほど脆く、酸化した鉄の臭いが雨の湿気と混ざって鼻をつく。
(こんな場所がこの学校にあったなんて)
人の気配のない暗い廊下を進み、階段を上がる。
天井は腐敗し、屋根の上から水が少しずつ漏れ出している。
――ピチャン。
雫が床に落ちる音だけが、静かに校舎に響き渡った。
私の荒い呼吸を聞く生者は、おそらく私の他にいない。
何か出てきてもおかしくない、寧ろ何も出てこないのが不思議な空間にたった一人。
恐怖を覚えない方がおかしかった。
それでも舞花を探す手掛かりがそこにあるというのなら、私は向かうのだ。
西校舎の3階。そこに、確かに目的の場所は存在していた。
今にも消えかかったような女子トイレの看板。古びてついたり消えたりを繰り返す、黄色い蛍光灯。
彼女はおそらくここで、七不思議最後の秘密を知った。
……知ってしまったのだろう。
割れた鏡。掃溜めの溝のような臭い。
老朽化した換気扇が生温い風を送り込む。古びた蛇口から、滴り落ちる水がピチャン、ピチャン、と音を立てている。
奥から3番目の個室。
彼女はここで、引き摺り込まれてしまったのだろうか。
この世のものでないモノに――
《そういうのって本当、わくわくするよね!》
だから言ったんだ。
そうやって平気そうにしてる人から連れて行かれるんだって。
《寂しいよね。私も……分かる気がするの》
心根の優しい彼女はその時、中の存在に対して何と声を掛けたのだろう。
暗闇の中に引き摺り込まれる瞬間、どんな表情を浮かべていたのだろう。
私は、暗いところが怖い。
暗いところにいると、自分がどこかへ連れて行かれてしまいそうな気持ちになるから。
あの夢を思い出すから。
《私を出して……ここから出してくれ……!》
私という存在はちっぽけで、自分がいつか消えてしまうかもしれない恐怖に怯えることしかできずにいる。
いつかこの幸せな日常が崩れ落ちて、大事な何もかもが掌から零れ落ちてしまうのではないかと――そんな悪夢に怯えている。
今だってそうだ。
この先に何が待ち受けているのかと考えると、足が震え出す。手から汗が滲み出してくる。
でも、彼女は違う。
彼女が笑ってお化けの話ができるのは、
彼女が暗い闇を歩けるのは、
彼女が恐怖に怯えることがないのは、
きっと彼女が。彼女自身が――
「だ、誰か……」
カラカラに乾いた喉を絞って出てきたのは、何とも情けない声だった。
私は勇気を振り絞り、冷たい灰色の扉を小さくコン、コンとノックする。
「誰か……居るんですか……」
物音はしなかった。
代わりに、得体の知れない黒い液体が中から溢れ出しているかのような錯覚に陥った。否、もしかしたら実際にそうなのだろうか。分からない。分かりたくない。
背中に冷たい汗が流れ、全身の筋肉が強ばる。
それでも。
《おはよう、夏奈子!》
《夏奈子の怖がりが治るように、ショック療法を実施します!》
《秘術、目覚めの一撃!》
《私、一人で行ってくるね》
もう一度、舞花に会えるなら。
彼女という光を取り戻すためなら、私は――
「返してくれ……私の舞花を、私の日常を、返して……!」
扉の中から溢れ出す黒い液体が、次第に世界を呑み込んでいく。
私は歯を喰いしばり、白く錆び付いたドアノブに手を掛けた。無機質な金属の冷たい温度が手の中を伝う。黒い液体は徐々に足底を、くるぶしを、膝を呑み込んでいく。
じわりと熱い泪が両目に滲む。
私は叫び、勢いよくドアを開けた。
すると、その先にあったものは――
(そうか。舞花は)
(真実を知って、この扉から元の世界に帰ったのか……)
舞花が闇を恐れなかったのは、彼女自身が光だったから。
私が闇を恐れ、光を求めた理由。
その先にあった、本当の真実。それは――
私自身が、トイレの花子さんだったということ。