7.ローレン
「ローレン。今日、ヴィーセル様との仲が深まった気がするの」
ふふっ、と眩い笑みを零してアイリスがローレンに話しかける。
夕食後のアイリスの部屋での語らいは何年も続いてきた恒例の日程の一つだ。今日の話題は昼に行われたヴィーセルとの定例の茶会。初めてアイリスとヴィーセル以外の人物がその茶会に同席したが、その変化が功を成したか通常とは異なる雰囲気であったとローレンも思っていた。
「今日はいつもよりもヴィーセル様の表情が豊かでしたし、お言葉も多く聞けたわ。あの子のおかげね」
茶会でのヴィーセルのことを思い出して、両頬に手を添えてほうと息を吐きながらアイリスは話し続ける。確かに、ローレンの知る限り今日のヴィーセルは今までで一番『話』をしていた。普段ならば、ヴィーセルはサロンで待つアイリスに来訪の挨拶をし、次に口を開くのはお暇の挨拶だけだ。今日のヴィーセルが『話をした』とはいっても、それはアイリスに向かってではなく薬術師の少女に、ステンに向かってであったのだが、アイリスはそれを気にする様子はない。ヴィーセルの声を聞けたというだけで満足しているようであった。
「そうそう、ローレン。次のお休み、お父様がお買い物に連れて行ってくださるの。王宮に行く前の、最後のお買い物になるだろうから不足があれば何を買っても構わない、何年も我慢してきたのだから好きなものを好きなだけ買っていいって言ってくれたのよ」
そこまで笑顔で声を弾ませていたアイリスだったが、急に眉根を寄せた。
「わたくしが一番欲しいのは昔からヴィーセル様よ、と伝えたら、お父様が少し怖いお顔をされたの。どうしてかしら?」
「お嬢様とヴィーセル様の婚約の儀まであと二週間もありません。婚約の儀の後は王宮にお住まわれますので、お嬢様がこのお屋敷を離れることへの寂しさからのものではないでしょうか」
理由が全く分からないという瞳を向けたアイリスが安心するようにローレンは微笑む。娘を溺愛していることで有名なステン・サプスフォードだ。ローレンの笑顔と言葉はアイリスが納得するのに十分であった。
しかし、とローレンは思う。
王妃の開くお茶会に出席するアイリスの評判は上々で、ミドルクラスまでのような反対の声はなかった。婚約の話についてもヴィーセルは異議を一切唱えることなく頷かれたと言われている。異議を唱えてはいないが、ヴィーセルがアイリスに向けている鋭い視線にローレンは気付いていた。それこそサプスフォード家に引き取られ、ヴィーセルとアイリスが同席している場に初めて立ち会った時から、ヴィーセルがアイリスに憎しみの瞳を向けていることを。
ヴィーセルがなぜそんな目でアイリスを見るのか、ローレンはその理由を知らない。ただローレンは、砂漠の国で身寄りなく寂れた家で餓死が迫っていた自分から魔術の能力を見出して引き取ってくれたサプスフォード家のために役に立ちたいと思っている。主であるステンの娘、無垢で純真すぎるアイリスの『ヴィーセルの伴侶になる』という夢を叶えるために、ローレンは王子よりもアイリスの手助けをすることを決めていた。
「婚約の儀の衣装は既に揃っておりますし、王宮に移られてから必要なものは一通り取り揃えております。ですが、王宮で過ごすにあたりヴィーセル様が目を奪われ心惹かれるような衣装を整えられてはいかがですか。そうですね、衣装に揃う装飾品も。お披露目を兼ねたパーティが幾度も開催されるでしょうから、ドレスを数着を追加されては」
ステンのアイリスへの愛情は限りない。値段など気にすることなくアイリスの求める物を購入する事だろう。アイリスの胸を飾っている瞳と同じ色の大きな宝石のネックレスも惜しみなく買ったくらいだ。
「そう、ね。ローレンの言うようにヴィーセル様に気に入ってもらえるような新しいドレスとアクセサリーをお父様におねだりすることにするわ。ローレンの言うことに間違いはないですもの。これからもよろしくね」
頼りにしているわ、とアイリスがローレンに信頼の目を向ける。
婚約の儀の後は、アイリスは王宮で過ごすことになる。ローレンがこうやってアイリスの傍に仕えることができるのはあと少しだ。けれど学園では会うことができるしローレンは王宮魔導士を目指しているので、卒後採用されれば再び王宮でアイリスを護ることができる。ローレンとアイリスが離れている期間は長くはないだろう。
「そうだわ、あの子にお礼を言った方がいいかしら」
アイリスが首を傾げてローレンに訊ねた。
「あの子がいたからヴィーセル様との仲が深まったのだし」
「彼女にお礼は必要はありません。彼女は……彼女なりの損得で動いているのですから」
そう? と確認するアイリスにローレンは頷いた。
「彼女はお嬢様が礼を言うほどのこともしておりません。お気になさらなくていいと思います」
ローレンの言葉に、アイリスは微笑んでわかったわと答えた。
そう、彼女に礼などいらない。聡い彼女は自分の立場を理解し、納得した上での行動している。お嬢様が彼女に礼を述べる必要はない。それにしても。
―――本当にお嬢様は無垢だ。
ローレンはそう思った。
「寄付の話を受け入れたい」
そうロザリンドから返事があったのはサプスフォード家で行われた茶会の翌週のことだった。診療所の設立者である養父母と相談すると言っていたので、ローレンがアイリスに付き添って買い物に出た日にロザリンドは養父母のもとへ行き了承を得たのだろう。ローレンはステンから預かっていた寄付金や寄付に付随する条件が書かれている書面を読みながら説明し、ロザリンドのサインを確認して封筒に魔法印をかける。
書面自体に魔法がかかっているので
「ロザリンド・アナフガルはサプスフォード家からの要望に関して拒否は一切しない。口外しない」
ロザリンドはこの一文を必ず守る。もし、これを破れば書面にかけられた魔法が発動するのだ。今回の契約に関しては、もし内容を口にしたり拒否をした場合契約者の命を奪う、というものだった。その文面があるにもかかわらずサインをしたということは、それほどまでにステンの示した寄付金額が魅力的だということだろう。
ステン・サプスフォードが若い薬術師の娘に寄付の話を持ち出した事に理由はある。
「有能な薬術師のために」
とステンは言ったが、本当は魔道士や神官に囲まれているビンセンスや現国王の殺害のためだ。
ステンはビンセンスを常々亡き者にしようとしていたが、それは叶わなかった。なぜならば王宮でも学園でも騎士や有能な魔導士が邪魔立てしていたからだ。ステン自身も王子として王宮に住んでいたので王宮の構造や王宮での人の動きはよく知っている。その知識を持っていても、一度としてビンセンスに害を及ぼすことができなかった。
「とにかくアレが邪魔だ」
ステンが特に気にしていたのはダニエル・アロカの存在。二十年前の砂漠の国で起きた反乱の際に、ジョルディ・ロメイ元帥と共に水の国から派遣し鎮静化に一役買った魔導士だった。
ダニエルのような能力ある魔導士が近くにいては魔法が察知されてしまう。故にビンセンスには魔法とは関係ない死が望ましいと考えるようになった。ダニエルが学園に移動した際には少しは穴ができるかと思ったが、ジョルディ元帥がその穴を埋めてしまいジョルディ引退後もその穴は綻びを見せずにいた。そんな時、薬術師の少女が学園に通うという話がステンの耳に入ったのだ。
「王宮には薬術師は在籍しておらず、神官による回復や魔導士による治癒が間に合わない毒ならばビンセンスの死は確実だ。だから死因が突然死で片がつく毒を薬術師に用立てしてもらう。毒の動きが露見した場合は若い薬術師のせいにする。事実、調達したのはその薬術師になるのだからな」
魔法契約書を預かる際にローレンは白髪の魔導士からそう説明を受けた。そして、今回の仕事次第で卒業後王宮魔導士としての立場を優遇すると言われた。
ローレンは白髪の魔導士の言葉を真に受けているわけではない。ロザリンドを簡単に切り捨てる気でいるのだ。サプスフォード家に仕えているとはいえ、自分が『守られる』という保証はどこにもない。だが、
「アイリスの夢を叶えてあげたい。あの子には幸せになってもらいたいのだ」
なによりも命の恩人であるステンからの伝言を聞いて、ローレンは王子暗殺の協力を断ることができなかった。
自分の立場に対する靄を抱えているローレンはロザリンドを前にすると別の靄を自覚するようになった。その靄の意味は『困惑』だと理解したのはいつだったか。
実の親に捨てられたという同じ生い立ちながらも彼女は自身の能力に、薬術師という職業に誇りを持って行動している。だが自分はどうだ。サプスフォードに恩があり行動しているが、魔導士を目指す者としての誇りはあるのか。
そんなことを考える時間が増えた。しかし今は事が動くアイリスとヴィーセルの婚約の儀の日が迫っている。ローレンは迷いを降りきるようにかぶりを降った。
ロザリンドのサイン入りの魔法契約書を白髪の魔導士に渡したローレンはすぐに新たな使命を預かった。ロザリンドに毒薬を調達してもらう、というものだった。
その言葉を聞いてやはりとローレンは思った。
ロザリンドに毒の調達を依頼するのはローレンで、ローレンがロザリンドから毒を受け取る。毒の動きが露見した際にはロザリンド同様間違いなくサプスフォード家から切り捨てられる存在なのだとローレンは理解した。
「ローレンがアイリスの為と勝手にしたこと」
そう言い張るであろうことが容易に想像がつく。それでも、アイリスのためにと魔導士に言われたことを遂行する。
昼休みにロザリンドを学園の裏庭に呼び出したローレンは、時間通りにやって来たロザリンドを認めて結界を張った。この時間裏庭に人が来ることは少ないのをローレンは知っていたが、誰かに聞かれては困る内容なので人除けと遮断の魔法を同時に使う。
「お前に頼みがある。公爵のために薬を用意してもらいたい」
「薬ですか? 準備できるものであれ……いえ、どのような効能の物をご希望ですか」
『ロザリンド・アナフガルはサプスフォード家からの要望に関して拒否は一切しない』という書面の内容を思い出したのだろう。『準備ができない』とは言えないロザリンドは言い直していた。
「即効性で確実に死に至り、しかし自然死と判断される毒薬だ」
「ど、毒って……用途について、お伺いしても?」
「言及は不要。準備できるのか、できないのか」
返事は二つのうちひとつ。だが、できないと言えばこの少女は白髪の魔導士の魔法により、この場で屍となる。
「サプスフォード家からの要望に関して一切拒否はしない」
文面に違反したことになるのだ。即座にあの書面にかけられた魔法が発動するだろう。
「でき、ます」
青ざめながら逡巡し、戸惑いながらもロザリンドは返答した。
「それから―――」
続いたローレンの言葉に、ロザリンドは困ったという表情をしながらも、
「できます」
と頷いた。