4.アイリス・サプスフォード
「アイリス様、お時間です」
学園指定である濃緑色の服に漆黒のマントを身に付けた少年、ローレンは無表情のままエントランスで佇んでいたアイリス・サプスフォードに声をかけた。
少し毛先に癖のある輝く金髪が揺れ、宝石のような緑色の瞳が彼を捕らえる。
「行ってまいります。お父様、お気をつけて」
アイリスは偶然にも館を出る時間が一緒でエントランスで鉢合わせた父親、ステン・サプスフォードに挨拶をするが、ステンは視線をアイリスに向けることなく足早に扉の向こうへと姿を消した。
ステンからの声が掛からないことは最初から理解していたので、父親の冷遇に対してアイリスは特に気に留めることはない。アイリスとて、挨拶をすることは基本礼儀と習っていたから実践したのであって、その返礼は期待などしていなかった。
「お顔が優れない様子ですが」
アイリスの表情を見て心配、というよりはそんな覇気のない様子では困ると言いたげなローレンに
「……夢見が、悪かっただけよ」
小さく微笑んでアイリスは答える。
昨晩アイリスが見た夢。それは昔からよく見る夢だった。
紅い瞳の少年が懸命に手を伸ばし、何かを叫んでいる。そんな夢。
最近その夢を見る頻度が高くなったのだ。
とういうのも、ヴィーセル・ラウンデル、という少年が夢の少年に似ているせいだとアイリスは思っている。
水の国の現国王の第二王子であるヴィーセル。彼は国内で三人しかいない「銀髪で赤い瞳」の持ち主だ。そしてアイリス・サプスフォードが幼少より心惹かれている相手でもあった。いつからか見始めた夢の中の少年。第一王子であるビンセンスも銀髪で赤い瞳で面立ちは似ているが、冴え冴えとして自信に溢れた雰囲気のビンセンスよりも夢の中の少年は信念を内に秘めたヴィーセルの方が近いとアイリスに感じさせていた。ヴィーセルとは学園の同級生として同じ教室で勉学を共にしている。あと一カ月もすればアイリスと彼は婚約の儀を交わすことにもなっているのだ。ヴィーセルのことを意識していることが一つ目の理由である。
そしてもう一つの理由はアイリスの首にあるネックレス。小粒の赤い石の付いたネックレスなのだが、その赤い石が夢の中の少年の瞳と重なっているので、アイリスにあの夢を常に思い出させているのだと考えている
「アイリス様。サプスフォード家の令嬢として皆の前では」
ローレンの強めの口調の言葉に対して、アイリスは
「大丈夫。学園に着くまでには気分は治るわ」
そう保証し、玄関先に控えている馬車へと足を向けた。
学園に行けばあの子がいる。
そう思うとアイリスの頬は自然と緩んでいた。
一ヶ月という限定された期間で学園体験をするのだと、昨日やって来た国内最年少で薬術師の資格を取った少女。
体験初日である昨日、偶々ペアとなりダンスを踊ったが、自分と同じ歳なのに背丈は小さく、小動物のように細々と動き生き生きとしていて、表情もクルクルと変わる。サプスフォード家に縛られて行動制限されている自分とはかけ離れた、眩しくて憧れてしまう少女だった。しかも
「アイリス様は足を痛めているのですか」
その少女は踊りながら心配そうな瞳をアイリスに向けた。
アイリスは動きの悪い自分の足のことを学園の誰にも気付かれないようにしてきたので、ロザリンドの言葉に驚いた。けれどすぐに医療にかかわる職業柄、ロザリンドはアイリスの足の動きがおかしいことに気付いたのだ、と思い至った。
「少々右足を痛めているだけです」
言って笑えば、それ以上深く問われることなく少女は納得してくれた。昨日の出来事を思い返して笑みを浮かべたアイリスに、ローレンが鋭い眼差しを向ける。
「薬術師と仲良くされるのは結構ですが、深入りされるのは困ります」
「わかっているわ」
「昨晩のステン様からのお話は?」
昨晩、ステンに仕える魔導士がアイリスに告げた。
「ステン様からの伝言です。学園に来た薬術師を次回の茶会の時に呼ぶようにとのことです。寄付の話をしたいそうです」
ステンからの伝言は命令と同じだ。次回のお茶会へロザリンドに是が非でも出席してもらわねばならない。
「今日お話をするつもりよ」
いいでしょう、といった体でローレンは頷いた。ローレンは長い黒髪とつり上がり気味の細い目と黒い瞳、そして褐色の肌を持っている。砂漠の国の人間特有の特徴だ。ステンが砂漠の国へ仕事で行った際、ローレンの膨大な魔力を見出してサプスフォード家に連れ帰ったのだった。それは十年ほど前のことである。アイリスを馬車に乗せ、
「遅刻は許されませんからね。さあ、行きましょう」
同じく馬車に乗り込んだローレンにアイリスは小さく頷くと、馬車はゆっくりと動き始めた。車窓から入る朝の光を受けて、アイリスの首元の赤い宝石がきらりと輝いた。
学園に到着すると、
「先生に呼ばれていますので、寄り道せず教室へお向かいください」
そう告げてローレンはマントを揺らしながら去って行った。
ローレンが離れて行けば、張っていた気を緩ませてほうと息を吐く。周囲を見渡すと、小さいけれど存在感のある少女が目に留まった。アイリスの胸が弾み、普段よりも速く歩いてロザリンドに近付く。
ロザリンドの肩に、昨日はいなかった青いインコが乗っていたのだ。小さく、可愛らしい青い鳥は、少女の肩の上で楽しそうに鳴いていた。
「ごきげんよう、ロザリンド様。その子、可愛いですわね」
綺麗な空色の鳥。空に羽ばたくことのできる鳥。なんとも可愛らしい、とアイリスは思った。
「おはようございます、アイリス様。この子怪我していて、いま治療中なんです」
「あら、可哀想に」
空を自由に飛べないなんて。自分にはない、外に飛び出すことができる羽を持っているのに、飛び立てないなんて。
―――なんて、可哀想。
そんなアイリスの思いが眉を顰めるという形で表に出てしまう。そしてアイリスは自然と青い鳥に向かって指を伸ばしていた。
「あ、アイリス様っ」
思わぬアイリスの行動にロザリンドがあげた驚きの声を気にすることなく、青い鳥はロザリンドの肩を移動し、綺麗な形の白い細い指に留まった。そしてアイリスに黒い瞳を向けて首を小さく動かしながらチッチッチッ、と鳴く。
「まあ。大人しい子なのね」
可愛らしい仕草をみて口元が緩むアイリスを、ロザリンドのローズグレイの大きな瞳は驚きを表していた。
「あ、の……」
「ねえ、ロザリンド様。今日一日この子を連れているの?」
「はい。この子、籠の中だと興奮して、籠中体当たりしてしまうんです。ですから治療と安静のために今日一緒にいるつもりです。ダニエル先生に許可貰いました」
学園に動物を連れてくるなど異例のことだが、動物使いとしても有名な薬術師だ。人だけではなく動物も治療できるのだとアイリスは納得した。ダニエルの許可があれば学園でも連れ歩くことはできるだろう。生徒からは奇異の目で見られるであろうけれど。
「それならば、またわたくしと遊ばせてくださいね」
ロザリンドだけではなく、小さな可愛い青い鳥に触れることができると嬉しい。
幾分弾んだアイリスの言葉にロザリンドは
「もちろんです」
笑顔で大きく頷いた。
昼休み、ロザリンドが魔力測定室に行ったと聞き、アイリスは魔力測定室に赴いた。扉を小さく開けて覗き見れば、探し人は室内にいた。
「失礼致します」
声をかければ、中にいたロザリンドとダニエルの視線が同時にアイリスへ向いた。
「あの、よろしいでしょうか。ロザリンド様。その子と……」
「アイリス様、も……」
アイリスが全てを言い終える前に、ロザリンドが何かを言う前に小さな鳥はアイリスに向かって飛び、肩に止まった。ロザリンドが呆れた顔で青い鳥を見つめる。
「フィーちゃん、アイリス様のこと気に入ったんですね」
「あの、この子と遊んでいいかしら……フィーちゃん?」
サプスフォード家では動物に触れることがなかったので、アイリスは興味津々に青い鳥に指を伸ばす。
なんて可愛い鳥だろう。
アイリスの手の上で可愛い仕草を披露するインコと戯れるひと時をアイリスは楽しんだ。
けれど、それは本当に僅かな時間だった。
「アイリス様」
自分の名を呼ぶ声で、誰がやってきたのかアイリスは瞬時に悟った。
「……ローレン」
彼の顔を見なくても、アイリスは彼が怒っていることがわかった。彼は常々『アイリス様』と呼ぶ名に感情を入れているのだ。今の言い方はまさしく『怒り』。
「困ります。勝手に動かれては」
「ごめんなさい」
ローレンの顔を正面から見る勇気がなく、アイリスは視線を落とす。
「学園内ですし魔力測定室ならローレンに行先を告げずとも良いかと思いましたの」
「アイリス様、例外はありません。教室を出るときには行先を教えて貰わなければ。再三公爵様から言われているでしょう!」
「ごめんなさい」
普段はローレンの言いつけ通り、アイリスは教室から出る時は必ず『連絡』している。ただ、今回の行き先が魔力測定室で、魔法が関与できない空間であり安全であるからローレンの手を煩わさなくてもとアイリスは思ったのだ。
ローレンの言いつけを破って怒らせてしまったことで、アイリスは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「あのっ! アイリス様はわたしとの約束を守ってくださっただけです」
ロザリンドが気落ちしているアイリスを庇おうとしているのか、アイリスとローレンの間に立ち、必死に言葉を並べる。
「そんなふうに怒らないでください」
「部外者は口出しするな!」
「部外者かもしれませんけど、でも! アイリス様を心配しての発言なら口出ししませんが、あなたはどうみてもただ怒ってるだけですからっ……ローレンさんはアイリス様のこと、お嫌いなんですか?」
「……お嬢様のことは嫌いじゃない」
ローレンのその言葉は真実とアイリスは知っている。だからこそ、自分に厳しい言葉を向けているのだということも。
そしてアイリスは自分には今日、しなくてはならないことがあったことを思い出した。朝ローレンに確認されたこともあり、それを終えなければ彼に対して向ける顔がない。
アイリスは顔を上げ、微笑んだ。
「ロザリンド様。今度ヴィーセル様とのお茶会を開くのですけれど、ご一緒しませんか」
「え、お茶会?」
「ええ。わたくしとヴィーセル殿下のお茶会ですから、どうぞ気楽にいらっしゃって?」
突然の招待に困惑するロザリンドへ、アイリスが来てほしい本当の理由を告げる。
「父がぜひ貴女に会いたいと言っておりますの」
「サプスフォード公爵様が? わたしに?」
一体なぜ? と大きな瞳が声なき問いをアイリスに向けていた。
「父があなたの話を耳にして、年若い未来ある薬術師に貢献したいと、寄付のお話をしたいと言っていましたわ」
「そ、ですか」
神殿や魔道治療院と違い、民間の診療所はどこも資金ギリギリで開業している。
アナフガル診療所が有名とはいえ、やはり一般の診療所だ。経済的に余裕があるわけではない。サプスフォード公爵家の後見と寄付があれば、信用度は増し内情は潤い、患者により良い治療を施すことができるだろう。
寄付の話を聞くことを断る理由はないはず、とアイリスは思っており、案の定
「ぜひとも、伺わせていただきます」
暫く思案気だったロザリンドも了承の意を唱えた。
よかった、とアイリスは思う。
自分のすべきことを行え、望む答えも貰えた。ステンに良い報告もできる。
「あの、フィーちゃんも連れて行きますから!」
ロザリンドが付け加えた言葉に一瞬目を見開き、すぐに微笑んで嬉しさを伝えた。アイリスは、当日寮まで馬車を迎えに行かせると告げて、ローレンと共に魔力測定室を後にした。
愛想のないローレンと共に教室に戻りながら、アイリスは次回のお茶会にロザリンドが同席すること、可愛い青い鳥と遊べることが楽しみだと、その日が心から待ち遠しく思った。