2.ヴィーセルとアイリス
爵位で地位を表現していますが厳密な設定は考えていないので、さらりと流して下さると助かります。
水の国王妃が主催の、貴族の子供の交流会を兼ねたお茶会が北の館で開かれた。ビンセンスの誕生日後ということもあり賑やかな開催となった。だが、北の館はノエルが消えた場所であり、笑顔溢れる会場にいながらもヴィーセルは複雑な心情だった。そんな中、
「アイリス・サプスフォードと申します」
ヴィーセルに挨拶して顔を上げたサプスフォード公爵令嬢。その顔を見た瞬間、目を瞠った。
―――彼女だ
ストロベリーブロンドに翡翠の瞳の、人形のように可愛らしい少女。半年ほど前、この館のバルコニーからノエルを笑顔で川に落とした『人殺し』はこの少女だ、と思った。
「お初目になります。娘のアイリスでございます」
少女の隣でステン・サプスフォード公爵が、丸い体型を恭しく曲げて王妃とヴィーセルに挨拶をする。
「初めて?」
ヴィーセルが訝しげに呟く。
あの日、半年ほど前にアイリス・サプスフォードはこの館にいたではないか。
そう思ったが、それを口にする前に
「噂以上に可愛らしいですね。ヴィーセル、あなたもご挨拶なさい」
母である王妃がアイリスを初見と認める。
水の国では、親立ち合いの正式な場での挨拶をせずに他家へ訪問はしない。ヴィーセルとアイリスの挨拶が今日初めてであればアイリスが半年前に王宮に来たはずがない。アイリスが北の館にいた、という記憶は真実味を失くし、ヴィーセルは愕然とした。
ヴィーセルはステンの横に立つ、会場内の誰よりも人形のようにかわいい少女を見る。形の良い赤い唇の両端をあげて静かに、輝く翠色の瞳でヴィーセルの姿を留めていた。母に促されたこともあり、ヴィーセルはアイリスにぎこちないながらも挨拶を返す。
「はじめまして。ヴィーセル・ラウンデルです。あなたに会えて心より嬉しく思います」
「ヴィーセル様。どうぞ、この先の長きお付き合い、よろしくお願いいたします」
にっこりと笑みを深めて愛嬌を振りまくアイリス。その場にいる誰もがその可憐さに目を奪われていた。
だが、ヴィーセルはこの館で少女と挨拶を交わしたのは運命と思った。自分を物欲しげに見つめる少女の瞳を見たことで確信したのだ。
ノエルの手を手すりから外そうとしていた少女と同じ瞳。間違いなくこの『可憐な少女』がノエルを殺したのだ、と。
水の国では王族や貴族は王立学園に通うことが通例である。十二歳からのミドルクラスは一般教養を、十五歳からのハイクラスは一般教養に加えて騎士学、魔学、神学、教養学の専門科を選んで学ぶことになっている。
ヴィーセルも十二歳となり、王立学園のミドルクラスに通うこととなった。もちろん、同じ歳であるアイリスも同様だ。挨拶を交わしてから入学までの約六年、なにかしらの交流会でアイリスとヴィーセルは顔を合わすことはあった。が、傍に親がいたり他の子供を交えての関わりしか持たなかったので二人で遊ぶ、話す、ということは一切なかった。
しかし親は学園にはいない。つまり、子の行動をたしなめる人物がいない、ということである。
「ヴィーセル様。ご一緒にいかがですか」
入学するやアイリスがそれまでと異なる行動に出た。事ある毎にアイリスがヴィーセルの傍へと駆け寄り、共にと誘う。入学当初は容姿の優れた二人が並ぶ姿を見て周囲は『お似合いだ』と口々に伝えていたが、それは次第に変化していった。
目に見えて境ができたとすれば、アイリスがヴィーセルの婚約者候補に正式に名を上げた二年次だろう。それまでもアイリスのヴィーセルに対する独占欲は目に見えていたのだが、ヴィーセルに言葉をかける全ての生徒に対し、アイリスが綺麗な笑顔で言い放つようになったのだ。
「あなたはご自分の立場をわきまえておりませんのね。ご自分がヴィーセル様に相応しいとお思いですの?」
学園の生徒は公爵家より格は下でも爵位を持っているし、サプスフォード家よりも資産が上の者もいる。なにより学園内では爵位の上下は関係なく、『いち学生』として学ぶこととされている。それに倣い王子であるヴィーセルは学生として級友と交流しようとするのだが、アイリスは違う。事ある毎にサプスフォード家の名を、権力をちらつかせる。そしてヴィーセルが誰かと交流しようとすれば必ず割って入るのだ。その行き過ぎといえるアイリスの行動に苦言を呈そうものなら、彼女は極上の笑みを浮かべて
「わたくしに物申すなど、図々しいですわ」
苦言を最後まで言わせず、話も聞かずに切り捨てる。
また、学園内に迷い込んだ子猫をかわいそうに思い、どうしようと話している級友たちににっこりと笑み。
「手も服も汚れるから、わたくし動物は大嫌いですの。そのような下劣な生き物に触れるなど、あり得ませんわ。今後一切わたくしに触れないでいただけるかしら?」
以降、アイリスはその級友たちに決して五メートル以上近寄ることも、会話も、挨拶さえも交わさなくなった。『全てにおいて自分が上』『自分が中心で世界は廻る』という認識のアイリスを見るに見かねたヴィーセルが
「俺に構うな。それに級友に何という物の言い方だ」
そう厳しくアイリスに忠告をしても
「そのように恥ずかしがらないでくださいませ。ヴィーセル様のお口にできぬ思いはわたくしが代わりにお伝えいたしますわ」
笑顔でそう返され、まったく会話とならなかった。
綺麗な容貌から放たれるアイリスの愚かさと自分本位さ。輝く笑顔で見せつける包容の狭さ。
「見目だけはヴィーセルに相応しいが、アイリス・サプスフォードの言動はあまりにも、酷い」
アイリスと関わった生徒が皆、家に帰った際に家人にそう漏らしてしまうほどアイリスの言動は嫌悪された。やがて
「アイリス・サプスフォードに近寄らぬ方がいい」
学園内においての暗黙の了解が生まれ、
「もしもサプスフォード家の娘が王妃になったら水の国はおしまいだ」
そんな言葉も貴族間でちらほら交わされるようになっていた。けれどアイリスは自分がどのように言われているのかを気にすることもなく、事ある毎にヴィーセルに
「わたくしをヴィーセル様の伴侶にしてくださいませ」
自身の願いを口にし、頬を赤らめる。
ヴィーセルは、出会ってからアイリス個人へ特別に優しくしたことなど一度もない。甘い言葉を囁いたこともない。常に正式な場と同じ、格式ばった態度でしか対応していない、むしろ冷淡と言われてもおかしくないと自負するほどだ。それにもかかわらず、アイリスは気にする様子がない。
ただ、少なくてもアイリスはヴィーセルと二人だけでいれば大人しい。ヴィーセルが誰とも関わらなければ、周囲へ悪意は向かないのだ。三年次にはヴィーセル自らアイリスといることを選んだ。アイリスへの態度を改めることはなかったが、アイリスは冷たい態度のヴィーセルを気にするでもなく、一緒にいることは愛されていることと信じきっていて満足しているようだった。
そして二人を遠巻きに過ごすことが他の学生の当たり前となった。
そんな二人であったが、ハイクラスに入学した途端異変が起きた。アイリスが、まるで人が変わったように大人しくなったのだ。
美しさはそのままに、けれど淑女の手本と言ってもおかしくないくらい上品に、淑やかに、マナーを遵守し、礼儀を重んじるようになっていた。
あまりの変わりように誰もがその目を疑った。
「近寄らないでいただける?」
そう言って避けていた人たちに微笑みかけ、
「ごきげんよう」
挨拶をする。
恐々と挨拶を返しても嫌な顔など微塵も見せない。言葉を交わせば助言に感謝の言葉と微笑を返す。ヴィーセルと交流を図る人たちに対して何も言わず、嫉妬の視線も向けない。彼女の異様なヴィーセルへの執着が消え去っていた。唯一
「わたくし、ヴィーセル様をお慕いしております」
その言葉だけが、ミドルクラス時代のアイリスを思い出させるものだった。
「自分が変わらなければ誰にも認められず、ヴィーセル様の伴侶になれないと気がついたのだ」
それが以前のアイリスを知る学生の一致した意見だった。
だが、いくらアイリスが変わろうとも過去は変えられない。
ヴィーセルは知っているのだ。
アイリス・サプスフォードが冷酷な人殺しであることを。
「アイリス・サプスフォードとの婚約?」
「兄のビンセンスの相手が決まっていない状況ではあるけれど、サプスフォード家からの再三の申し入れもあるから、はっきりとした返事をと思って」
サロンに呼び出したヴィーセルの顔を伺いながら、王妃は言葉を続ける。
「以前はアイリス嬢の困った行動であなたとの婚約は考えていなかったのだけれど、私の知るアイリス嬢なら、あなたに相応しいと思うの。でも、あなたに思い人がいるのであれば、もちろんこのお話はお断りするわ」
ヴィーセルの母、水の国王妃は平民出であった。当時侯爵だった父が花屋で働く母を見初め、身分の垣根を越えて結婚したのである。両親が身分差を越えた恋愛結婚であるが故に、子供たちも政略ではなく恋愛で、と考えてくれている母親だった。出自が平民なので貴族に対し未だに低姿勢となってしまってはいるが、元々頭がよく王宮における教育を受け入れるや根気よく教養を吸収して、地道に信頼を得て現在がある。
時折ボロがでることもあるが、
「初めてのことに失敗はつきもの。次は間違えない」
と己に活を入れ、前向きに夫を支えている。こんな心強い母がヴィーセルは好きだった。母がアイリスを気に入っていることは、今いるサロンで開かれるお茶会を見ていて知っていた。自分の娘同様に可愛がっていたからだ。ヴィーセルも母を喜ばせたいと思う。
だが。
「思い人……」
思い浮かぶのは何年経っても忘れられないノエルのことだった。ヴィーセルにとって『思い人』は『ノエル』と言ってもいいのだろうが、彼女はもうこの世にはいない。
この先心惹かれる女性に出会えるかもしれない。しかし、ノエルのことを忘れることができない自信の方が強かった。
この国では結婚すれば離婚することはできないので婚約は結婚に等しい。婚約後、妻となる女性は夫となる人物の家で寝泊まりし、花嫁修業をすることとなる。婚約と結婚の違いは、相手の女性が清らかな身体でいるかいないか、と言われるくらいだ。
あの憎き女と結婚などあり得ない、とヴィーセルはずっと考えていた。
しかし。
アイリスへの復讐としては『白い結婚』という方法を取るのもいいかもしれないと思い始めていた。
アイリスに決して手を出さない、愛を囁かない、形だけの妻にすること。そうすれば自分との子など成せるはずもなく、妻として母としての喜びをアイリスは持つことができない。アイリスが不満を持ち、不義を働けば神への宣誓を破ったことで神殿において罰せられる。離縁はできないが、アイリスは肉体的にも精神的にも社会的にも、相当の罰を受けることにはなる。
また、身近にいればアイリスが残酷な女であることを証明できる何かを手に入れることができるかもしれない。
人殺しを野放しにするのは許せない。
そこまで考えてヴィーセルは苦笑した。
こんな馬鹿げた選択をする男や、人殺しの女を神が王座に近付けるはずもない。王には兄ビンセンスが相応しいとヴィーセルは常々考えていたので、いま思いついた馬鹿らしい考えも一興、と結論付けた。
「そうですね。アイリス・サプスフォードとの婚約の話、進めてください」
ヴィーセルは母にそう告げた。