13.ヴィーセル・ラウンデル
憎いと思い続けていた相手との婚約。白い結婚と決めた、何ともばかげた未来への幕開け。
そう思いながら佇んでいた祭壇の前で、ヴィーセルは目の前の少女が『一年共に学園で過ごしたアイリス』ではないことを、綺麗な形の爪を見て瞬時に悟った。
ピンクゴールドの髪、少し大き目な緑の瞳の少女。女神のような美しい造形だが、中身は自己中心的で残忍。そんな彼女には魅力を全く感じず、なにより―――ノエルを殺した女とずっと恨み、憎んできた相手。だから姿形は目に焼き付くほど見てきた。
故にヴィーセルは確信している。ここにいる、頬を染めて自分をうっとりと見つめるこの少女は『アイリス』ではないことを。
定例のお茶会でヴィーセルは贈り物として『アイリス』に茶葉を渡してきた。それを毎回飲んでいた『アイリス』の爪は薄紅色だった。一昨日の別れ際にもそれを確認している。それが宣誓で口にした、一年学園で共に過ごしてきた『アイリス』だ。それに『アイリス』は
「お慕いしております」
何度もヴィーセルに向かって言ってはいたが、頬を染めたり熱を持った瞳を向けたりしたことなどなかった。『アイリス』は熱ではなく、些細なことにも感謝を伝える瞳をしていた。
ならば、祭壇の前に一緒に立つこの女は誰だ?
貴女はアイリスではないと指摘すれば、目の前の女は確固たる声で自分はアイリス・サプスフォードだと名乗った。
とすれば、あの『アイリス』は誰だ。この女がアイリス・サプスフォードならば、控え目な笑顔で「ごきげんよう」と挨拶をしていたのは、贈り物として渡した茶葉を嬉しそうに飲んでいた彼女はどこの誰だ。もしや姿の見えない『彼女』はまたもこの女に―――
行き着いた嫌な考えにヴィーセルの心臓が逸る。
「アイリス・サプスフォードとして過ごしていた彼女は、今どこにいる?」
ヴィーセルの再度の問いにアイリスは質問の意味がわからないとばかりに数回瞬きをし、しかしすぐにああと小さく頷いた。
「『あの子』のことですの? 『あの子』のお仕事は終わりましたから、もういないですわ」
「いない?」
「ええ。そうお父様がおっしゃったわ。役に立つのは今日まで、婚約の儀までだからと」
「今日まで……どういう意味だっ」
アイリス相手では埒が明かないとヴィーセルがステンを見やれば、彼は下座にいる白髪の黒衣の魔導士と目配せをしていた。
何かをする気だ、とヴィーセルは思った。
だが、ここで何ができるというのか。この場にいる彼らの仲間はサプスフォード親子と彼の連れてきた黒衣を纏った魔導士数名だけ。神殿の中、しかも祭壇の間においては魔法の制限がかかる。ならば『何かをする』のは魔法ではないはず。
そんなヴィーセルの考えとは反して白髪の魔導士が呪文を唱え始めた。ヴィーセルが知る限り水の国では使われない言語の詠唱だった。立ち合いとして同席していた神官と護衛で控えていた魔導士たちもそれを察して慌てて王族とヴィーセルを守るように囲み、魔法を唱え始める。
しかし、呪文の完成は白髪の魔導士の方が早かった。
ステンとアイリスの足元に魔法陣が浮かび、同時に室内に風が巻き起こった。
何かに捕まらなければ立っていられないほどの強風。水の国の神官も魔導士も屈強な騎士たちさえもただその場にいることで精いっぱいだった。
ヴィーセルが風や風で舞う粉塵から顔を守っている腕の隙間からステンの方を見れば、彼の傍には涼しげな顔の魔導士たちが集まり、その手には剣があった。
神殿に刃物の携帯は許されない。騎士たちでさえ入り口で剣を預けているのに。あるはずのないはずの剣がなぜここに? 魔法が使えないはずの場所で白髪の魔導士の魔法が発動した、ということはあの魔導士が剣に術をかけていて、みな隠し持っていたのか?
次々と疑問が湧くがその答えは得られぬまま、白髪の魔導士の詠唱は続いていく。
気付けばステンの傍の魔導士の数が増えていた。ふとヴィーセルの目に映った、アイリスのお目付けであるローレンの姿。眩い魔法陣の中から突然現れた彼は、白髪の魔導士の『召喚』によってこの場に導かれたようだった。そのローレンが、アイリスに駆け寄ってステンの元へと誘導した。
それでもなお、白髪の魔導士の詠唱は続く。
まだ何かをする気だ。
それがわかっていても騎士も神官も誰一人見動きがとれない。何かをしなくてはという思いと悔しさ混じりにヴィーセルが思わずステンの方に手を伸ばした瞬間。
「ドラコちゃんっ!」
ウォーーーッ!
激しい風音を割るような動物の鳴き声が響いた。一瞬にして風は収まり、神殿の中は轟音から静寂へと変わる。
「な、……っどうしてっ」
自分の魔法が解除されるなどあり得ないと言った形相で白髪の魔導士が周囲を見渡す。神殿の入り口に立っていたのは薬術師の少女。その少女の足元には口を開いた小竜の姿。
「それは……デスドラゴン……ッ!」
小竜を目に留めて魔導士が口元を戦慄かせた。
「デスドラゴンが人里に、まして人の命を受け入れるなどあり得な……」
「アンタの国じゃ小竜はそう呼ばれてんのか? こっちじゃ『魔導士の敵』だけどな」
厄介なのは同じかと毒づきつつ、ロザリンドの背後に立ったダニエルが鋭い眼差しを向けて白髪の魔導士に苦笑して見せた。
「小竜のおかげでこの神殿内の魔法が一斉に解除された。小竜が唸ってる間は悲しいかな、神殿なのに神官も魔導士も役立たずだ。ってことで、騎士団の出番だな」
神聖な場所であるにもかかわらず足音を立てて入って来たアンドレイ率いる第七騎士団員は、剣を携えていた。神殿内にいる第二騎士団たちの剣も持って。
王達を護衛しつつキン、と剣の交わる音がしばし響いた。しかしその音は次第に少なく、弱くなり。サプスフォードに仕えていた魔導士たちは次々と捉えられていった。素行不良で魔力は強大の魔導士揃いであったが、魔法が仕えなければ非力な男たちばかりだ。中には魔導士に扮した力に覚えのある夜盗もどきもいたが、この場にいるのは洗練された騎士たちだ。力に自信があったはずの者たちも、騎士によって取り押さえられていた。
ステンもアイリスも、騎士に囲まれるという状況に血色を無くし、表情を強張らせていた。
しかし、その中で唯一白髪の魔導士だけが余裕の笑みを見せている。
「ああ、言っておくが、アンタの光の魔法はもう使えねぇぞ。光の魔法に対する封印の符陣があるからな」
「なにっ!」
白髪の魔導士の驚きの声に、ヴィーセルもまた驚く。地・水・風・火という四大精霊以外の、この大陸では使われないはずの光の魔法を操る魔導士がいたことに。光の魔法を使うということは、この大陸の人間ではないということだ。先に聞いた知らない言語は、他大陸の古の言葉なのだろう。
笑んでいた魔導士が、誰も邪魔立てできない己が操る魔法を使っていずれ逃げるつもりであること、それを見越してダニエルが釘を刺したのだ。
小竜の唸りは治まっており、魔法が使える状態であることを確認した白髪の魔導士は呪文を唱え、何も発動しないことで呆然とした。虚報と信じて疑わなかったダニエルの言葉が事実だと突きつけられたからだ。
「っつーわけで魔法が使えないアンタはもう、ただの……老人だな」
「光の魔法構成を、この大陸のお前が解明したというのかっ」
そんなことができるはずがない、と騎士たちに拘束されながら白髪の魔導士がダニエルに吠える。
白髪の魔導士の言うように、この大陸の人間には確かにできないはずだ。知らぬ言語。見たこともない魔法構成である光の魔法だ。強大な魔力を持つ元王宮魔導士のダニエル・アロカだからできたのか、という周囲の視線に眉間に皺を寄せてダニエルは否定する。
「俺は光の魔法構成なんか解明してねぇぞ」
「ならば、なぜ」
「光の魔法を使える者がこの大陸に『いた』から、封印魔法の符陣を預かっただけだ」
ぴらり、とダニエルは魔法陣の書かれた紙を風になびかせ見せつける。その紙に描かれた符陣は黄金色に輝いていた。輝きは白髪の魔導士の魔法を完全に抑え込んでいるという証拠だ。さほど大きくない一枚の紙に秘められた符陣。だが、そこにある魔法量は相当なものなのだということを魔力のないヴィーセルでもわかるほど符陣から威圧を感じる。
はっ、と白髪の魔導士が息を呑んだ。この大陸で光の魔法を使える人物。それに白髪の魔導士に心当たりがあったようだ。しかし。
「あの逃亡者か! あの二人はこの国にいたのかっ」
白髪の魔導士の言っている「逃亡者」や「二人」の意味を知る者はいない。
「自分は正義だ」
「騙されるな。光の魔法を操るあいつらは犯罪者だ。それなのになぜ捕らえない」
白髪の魔導士が腕を掴む騎士に必死に訴えるが、ダニエルは
「正義は偽造硬貨に手は出さねぇ。他国の王族を自然死に見せかけて殺すこともしねぇ。テメェの方が犯罪者だろ」
そう言って適当にあしらいながら、白髪の魔導士の手首に珠が連なったブレスレットを着ける。
「こっちの魔法錠じゃあんたに効果はねぇだろ。だが、これでアンタの魔法は未来永劫完全に無効だ」
死刑宣告に等しいダニエルの言葉に、白髪の魔導士はようやく口を閉ざした。
「あの、ヴィーセル様……」
サプスフォード一味が全員魔法錠をかけられたのを確認し、アンドレイに許可を得たロザリンドがヴィーセルに近寄り、おずおずと声をかけた。
「なんだ」
「先ほど、アイリス様に薬を飲ませていたとおっしゃっていましたよね? その薬ってなんですか」
「ウィダー草だ」
「え、それって毒草だろっ」
白髪の魔導士を騎士団員に引き渡したダニエルが振り返って驚きの声をあげた。ヴィーセルは勢い良く首を振る。
「ち、違うっ! ウィダー草は『痛み止め』の薬だっ」
「だが、ウィダー草は」
「うるさいです、ダニエル先生」
そう言ってロザリンドが小竜をダニエルに向けた。小竜がその尾をダニエルのすねにペシリと叩きつければ、ダニエルは一瞬にして青ざめ、口を噤んだ。
「ウィダー草を、お茶会でのアイリス様に贈るお茶に混ぜていましたよね」
ヴィーセルは頷いた。
「アイリスの右足は健常ではなかったのだと思う。走ったり歩く時間が長かったりすると顔を顰めていたし、右足を庇おうとする歩き方をしていたから。だが、誰もアイリスに何も言わない。仕えているローレンでさえもアイリスに気遣いがなかった。俺も事情あってアイリスに表立って心配の声をかけたくなかった。だから、誰にも知られぬよう薬草で」
「痛み止めでウィダー草を、だったんですね。でもヴィーセル様。薬は良薬にも毒薬にもなるんですよ」
「どういうこと、だ?」
「ウィダー草って以前は痛み止めとして使われていました。でも、毒性成分が身体に蓄積されることと使用方法によっては死に至ることで、毒薬指定になったんです」
「あれは毒、だったのか? 俺が『アイリス』に毒を……まさか彼女はっ」
最悪な想像をして狼狽するヴィーセルに、ロザリンドは小さく首を横に振った。
「蓄積はしていましたが、あの状態だと致死量ではなかったです。ですからアイリス様の痛みは軽減されていたと思います。それで」
口ごもり、視線を彷徨わせた。何かを言いたいが言ってもいいのかを迷っているようなその姿に、ヴィーセルは視線で話せと伝える。
「―――実は私が同席したお茶会の時に。アイリス様はお茶のウィダー草に気付いたわたしに『内緒にね』と言われたんですよ」
「内緒?」
「アイリス様はウィダー草がお茶に含まれているのも、ウィダー草がどういった物なのかも承知の上でお飲みになっていた、ということです」
「知って、いた?」
ヴィーセルは愕然とした。
お茶の中に『毒』が入っていること、飲み続ければ間違いなく命を落とすということを知りながら、彼女は何も言わず、責めず、嬉しそうにそれを飲んでいたというのか。
「お放しなさい!」
ヴィーセルの思考を遮る甲高い拒絶の声。赤の衣装に包まれたアイリスのものだった。
「落ち着いてください、お嬢様。今はおとなしく同行しましょう」
「ローレン。わたくしは何もしていないわ。なのにどうして皆怖い顔をしているの? 悪者扱いをされるの?」
「お嬢様に御自覚は無くても、悪いことをしてきたのです。ステン様の作った硬貨で様々な買い物をしてきたことも、『彼女』のことも」
「お金はなければ作る、いくらでも使っていいとお父様がおっしゃったのよ。何がいけないの? それに『あの子』がいないのは、もうわたくしの役に立たないからでしょう。それは当然のことでしょう。それなのに、どうしてわたくしやお父様が悪者なの?」
「お嬢様は遅まきながらも世間の常識を学ばなければいけないのです。サプスフォード家が今までしてきたことを知らなければならないのです。そして私たちは償わなければならないのです」
「償いなんてどうして? そのようなものする必要などないでしょう。償うのはサプスフォード家に逆らう者たちの方よ。サプスフォードに立てつくものは排除しなくてはいけないのよ。わたくしたちは選ばれた人間なのですから」
「お嬢様……知るべきなのです」
「ローレンはどうしてお父様のいいつけを守らないの? ああ、ヴィーセル様っ! わたくしを……」
「お嬢様っ!」
説得を続けるローレンとアイリスの拒絶の声が続き、その内容にヴィーセルは呆れた。ましてこの期に及んで自分に助けを求めるなど。
アイリスに『アイリス』のことを訊ねようにも無駄のように思えた。恐らく彼女は言っていた通り『アイリス』がいるかいないかくらいしか知らないのだろう。
その時ステン・サプスフォードが騎士に囲まれてヴィーセルの横を通り過ぎようとしていた。
「サプスフォード公、貴方ならご存じか。貴方の娘を演じていた『アイリス』の所在を」
「あれはもういないぞ」
「な、に?」
「アイリスが言っただろう。もう用はない、と。あの偽物は、我が娘アイリスとお前の婚約が決まれば邪魔となる者。消し去るが普通。あれはもう片付けた」
「片、づけ?」
「一昨日あの娘でお前たちを殺すために用意した毒を使って試した。事切れたのを確認しているっ」
ヴィーセルはステンから口にしていない『ざまあみろ』という言葉が聞こえた気がした。王の座を二度逃したステン・サプスフォードはヴィーセルを含めたラウンデル家全員を殺したいほど憎んでいた。
「残念だったな、ヴィーセル! いかに望もうとも、お前はあの娘を手にいれることはできないっ! 遺体も森へ放棄した。今頃は獣の餌になっているだろうなっ」
ようやく一矢報いたと高らかに笑い続けて立ち去るステンを、硬く握った拳を震わせヴィーセルは睨むことしかできなかった。
ステンやアイリスがしてきたことをヴィーセルは許せないと思った。けれど、ステンやアイリス以上に自分を許せなかった。
以前はノエルを。今回は『アイリス』を。
この手は、彼女たちを救うことができなかった。
俺は誰も救えない。この手は誰も掴めない。
自分の震える手を見ながら、ヴィーセルは胸に思い石が乗ったような気がした。




