10.アイリス・サプスフォード
「アイリス様。今日は館での最後の晩餐となりますので、料理長が腕を振るいました」
いつものように食するは己一人のテーブルに座るアイリスに向かって、ローレンは笑顔もなくそう言った。
棟内には使用人の姿はなく、いや、料理を作ってくれている料理人は厨房にいるのだろうが、今アイリスの給仕をしているのは全員黒衣を纏った、ステンが抱えている魔道士たちだった。最後の晩餐ではあるけれどステンの姿はなく、そもそも今日は朝から声さえも聞いていないステンは明後日の婚約の儀のために忙しくしているのだとアイリスは思った。
今日は館での最後の晩餐。城内の神殿で行われる式は明後日だが、明日は一日をかけてアイリスは身を綺麗にしなければならない。そこには表だけではなく内側も含まれており、
「穢れた物に触れてはいけない、食してはいけない」
と、明日口にする食事は神官長より許可をもらったものだけと制限を受けている。
アイリスの目の前に並ぶは普段よりも色合い鮮やかで香りもいい品ばかり、初めて目にするメニューだった。
「料理長にお礼を伝えて」
言いながらスープを一口飲む。
美味しい
感想が勝手に零れてしまうほど、味も素晴らしいものだった。
最上の食事をアイリスに。
おそらくこれが、この場にいないステンの指示なのだろう。
「ねえ、ローレン」
アイリスが口を開けば黒衣達の鋭い視線が一斉にアイリスへと向かった。口に食物を入れた状態での会話は淑女として失格な行為だ。普段なら教育係からの叱責を受ける。しかし、いまその教育係はこの場にはいないので気にするでもなく、アイリスは食事を続けながら独り言のように言葉を紡ぐ。
「ずっと貴方の手を煩わしてばかりで、ごめんなさい」
「アイリス様?」
「今までありがとう」
訝しむローレンに対し、顔を上げてアイリスは微笑んだ。明後日はアイリスの婚約の儀が執り行われる。ヴィーセルの伴侶に、という幼い頃からの夢の階段を一気に駆け上がる。今までの努力が実り、ヴィーセルの相手としてアイリスは申し分ないと王妃のお墨付きも貰った。自分を嫌っているはずのヴィーセルも、なぜか婚約について反対の声は上げなかった。
離婚をよしとしない水の国では婚約の儀を交わした二人は結婚とほぼ同じ扱いとなる。つまり、婚約の儀の後ヴィーセルがアイリスのことで不満を申し立てたとしても、婚約を破棄することはできない。婚約の儀の直前に意義申し立てをすれば、多くの人に迷惑がかかる。優しいヴィーセルのことだ。ここまで来てヴィーセルが異議申し立てをすることはないだろう。
それはアイリスだけではなく、ローレンもそう思っている。
ヴィーセルと共に二人で歩む未来、それはアイリスにとっては心の安寧と幸せが保証された未来だ。
だから、ローレンに幸せになって貰いたいと心からアイリスは思っている。
ヴィーセルの婚約者として相応しくあるよう、ずっと傍で自分を支えてくれていたローレン。彼が、仕えるアイリスの幸せを常に願って行動してきたことは熟知している。
アイリスの幸せが確保されたのなら、次はローレンの番だ。
「アイリス・サプスフォードは必ず殿下と幸せになります。だから貴方も、幸せになって」
これはずっと身近で世話をしてくれていたローレンへの、心からの言葉だった。その言葉を複雑そうな顔でローレンは受け止めていた。
アイリスは食事を進める。サプスフォード家における、最後の晩餐を楽しんだ。
出された食事を全て腹に納め、黒衣の男たちに囲まれながら自室前に着いたアイリスに薔薇が差し出された。
「これは?」
「ステン様からあなたへ、と」
薔薇を差し出している黒衣の男が無愛想なままそう告げた。
「これを……」
薔薇を凝視しての、アイリスの呟きに黒衣の男が返す。
「今宵眠りにつく際、共にと」
「わかったわ」
「アイリス様。首のネックレスをこちらに」
バラを手にしようとしたアイリスに、ローレンがその前に、と口早に告げる。
アイリスの首を常に飾っていた、赤い石のネックレス。
「そう、ね。もうこれは不要ね」
アイリスは長い間常に飾っていたネックレスを外しローレンに手渡し、壊れ物を扱うかのようにそっと薔薇を受け取った。そして自室の扉を開く。
「ローレン。幸せに、ね」
扉を閉じる直前にアイリスは祈るようにローレンに言った。




