聖上への来訪者
世界は混沌としている。
いつの世も、どこの世界も、毎日のように尊い命がこの世を去って行き、どうでもいい命が腐り果てながらも生き続けていく。尊い死者の名は誰の記憶にも深く残らず、腐った生者がこの世の歯車を回して歴史に名を刻んでいく。
それは人が人として存在する世界である以上、どうしても避けられない輪廻。人が築き上げる歴史と未来は常に似通った螺旋階段。栄枯盛衰、盛者必衰は世の理。破壊と再生を経て、過去の過ちを学んだと口々に言う人々は似通った過ちを幾度となく繰り返し行ってしまうもの。
故に、世界は混沌としている。それはどこにも例外はない。
世界を客観的に見れば、そこに見えるのは常に『力の差』だ。資金力の差、権力の差、軍事力の差、そんなものが嫌でも目についてくる。
それはこの混沌とした世界でも何も変わらない。荒れ果てた無情の大地に住まう力なき凡百の人間と、恵まれた場所に立つ一握りの勝者。荒れ果てた大地を這い蹲る者達は空を見上げてそこを目指し、恵まれた勝者はただ荒れ果てた大地を見下ろす。それが定められた運命であり、従うしかない人の世の理。
だが、稀にその理を逸脱した者が現れることもまた、人の世の理でもある。
「~~~~~♪」
軽快な鼻唄は心躍るリズムを刻んでいく。
吹き抜ける風が鼻歌を歌う人物の衣服を勢い良くはためかせる。
「お星さま、お星さま。私は大空を飛びたいのです」
漆黒の夜空からやや明るみが見える明け方に近い空に向けて願いを口にするのは一人の少女。長い髪が風になびく上品な少女を包み込むのは強風。
「籠の中の鳥は空を飛べるでしょうか?」
少女の視界にはほぼ真っ暗闇の世界が広がっている。ただ、少しだけ朝日が昇りかけていることから漆黒というほど暗くはない。
うっすらと明るさが見える世界は絶景。広がる自然そのものの大地は少女にとって新鮮なものではなく、いつも目にしてきた光景。ただ、今日は普段より暗いというだけ。
「お星さま、お星さま。私は自由へと羽ばたきたいのです」
そう言う少女の目には星が一つも見えていない。それは明け方へと移り変わっているからではなく、この世界ではもう星を見ることは叶わなくなっていた。故に星は文献上に残された幻想の一つであり、人々が歴史の中で失った景色の一つである。
「飛んだことのない鳥は空を飛べるでしょうか?」
そう言いながら少女は背の丈ほどもある柵をゆっくりと乗り超えていき、柵の向こう側に立つ。そこは視界に人工物が何一つとして入り込まない。見える全てに絶景の自然が現存のまま存在する。人は闇を恐れ嫌う者。故に少し震える手が、今しがた超えたばかりの柵を力いっぱい掴んで離さない。
少女がいるのは地上からはるか上空、その高さは数百メートルもの高い位置。吹き抜ける強風は少女の体を揺らす。それは眼下へ、漆黒の闇に包まれた奈落の底へ少女を誘おうとしているかのよう。
「お星さま、お星さま。どうか願いをかなえてくださいませ」
少女の震える手が柵から離れる。強風が少女の衣服を介して少女の体を大きく揺らす。
「どうか雁字搦めの鎖から解き放ってください」
少女の体がゆっくりと前のめりになる。
「全てを奪われた束縛の聖上より自由の願いを………」
少女の体はゆっくりと漆黒の闇へと自らの意志で倒れていき、倒れるとともに少女の体は足場から離れる。重力に逆らう術を持たず、自らの体を支える者も経つべき足場もない少女の体。障害物が存在しないため何かに邪魔されることはなく、見えない足場よりもはるかに下の、奈落の底へと頭から落下していった。
それを目撃した人は誰一人いない。地上からはるか上空数百メートルもの高い位置からの身投げ。遺書はなく、少女は最後まで願いを口にしていた。束縛からの解放、自由への羽ばたきという願いを。
暗い夜空をそのまま鏡写しにしたかのように暗い大地。申し訳程度の街灯が微妙に足元を照らしているのだが、その街灯は役に立っているとは言い難い。
暗い夜道を二人の男が歩いている。一人は頭の前方が少し禿げ、背はそれほど高くはなく、恰幅がいいというわけでもない平凡な中年男性だ。もう一人は暗い闇が保護色となるような、全身を黒一色で統一した若い青年。
「いやぁ、お前のおかげで今日は楽勝だったよ」
中年男性がバンバン青年の背中を叩いて大喜びしている。
「それは良かった。また機会があったら頼むよ」
「それはこっちからも願ったり叶ったりだ。お前がいるのといないのとでは他の奴らの士気も変わってくるからな」
「おやっさん。それは買いかぶり過ぎだよ」
黒い青年をベタ褒めする中年男性には青年の言葉は謙遜にしか聞こえない。
「謙遜することはないぞ。今時ガンブレードを完璧に使いこなせる奴なんてそういるものじゃないからな。それは実力を反映した結果だ。みんな言っているさ」
中年男性は黒い青年の腰にぶら下がっているものに目を向ける。銃剣と言えば、銃に短剣や刃物を取り付けたものが一般的だ。だが、彼が持っているものは剣を主体にした銃剣だ。柄があり、剣があり、その刃に沿って銃身や銃口がある。近距離戦では剣として扱えるだけでなく、遠距離戦では銃としても活用できる画期的な武器だ。
しかし人気は極めて低い。遠距離戦に特化した銃よりも遠距離戦は戦いにくく、近距離戦に特化した剣よりも近距離戦は戦いにくい。さらに接近しない遠距離で戦えて事が済むのであれば、わざわざ危険を冒してまで距離をつづめる必要はない。よって銃と剣は分けて扱うのが一般的に主流であり、銃を持つものが接近された時の対応策として銃を主体にした銃剣はよく見かけるが、彼のように剣を主体にした方の銃剣を扱う人間の数は極めて少ない。しかしその結果、ガンブレードを扱えることで高い実力を持っていることが裏打ちされることとなった。
「しかしまぁ、どうしてガンブレードを選んだんだ?」
世の中に武器はごまんと種類がある。その中で人気も低く扱いにくい武器を選択した理由は知り合いの中年男性にとっても疑問に思うもののようだ。
「………昔、仲間と武器や戦闘時の役割で言い争いになったことがあってね。その時に決めた役割分担で、俺が受け持った役割をこなすにはこいつが一番ピッタリだったんだ」
「ほぉ、そうだったのか」
「まぁ、うまく扱えば攻守のバランスが取れるからな。最初こそ扱いづらくて危ない目に合ったことも多い。でも、今はガンブレードで良かったと思うよ」
中年男性と黒い青年が話しながら夜道を歩いている。その途中、分かれ道に来たところで二人は足を止めた。
「おやっさん。ここで大丈夫か?」
「ああ、ここまでくればもう家は目と鼻の先だ。すまんな。送ってもらって」
「気にするな。奈落は治安が悪いからな。知り合いに死なれるのは気分が悪いだろ。それに仕事仲間でもある。これくらいのことで礼はいらない」
中年男性と黒い青年が分かれ道で別れる。
「じゃあな。次の仕事でも活躍頼むぜ」
中年男性はそう言って分かれ道の一方へ歩いて行き、闇の中にその姿をゆっくりと消していった。
「さて、俺も帰るか。もう明け方の時間帯だってのに、相変わらず暗い」
中年男性が見えなくなるまで見送ると、黒い青年は分かれ道のもう一方へ足を進めていく。暗闇を照らす街灯はほとんど役に立っていない。うっすらと目視できる入り組んだ道を一人で歩いて行く。その最中、ほぼ習慣になったとも言える空を見上げる動作を今日も行ってしまった。
「あっちは眩しいな」
空を仰げばそこには光の塔が遥か彼方まで延びているように見える。外観は壮大過ぎるチョコレートフォンデュタワー。無機質な鉄やコンクリートを始めとした人工物が空高く塔のように伸びている。何百メートルという高さに加え、土台は直径何十キロかそれ以上の何百キロかと呼ばれるほどの広さを誇る。バランスと安全性を保つために上階層に行くにつれて面積は狭くなるのだが、頂点に近いところでも普通に町や村が一つ丸々飲み込まれても余裕があると言われている巨大な建造物がそこにある。
建造物は光を発し、何やら機械が動く音が聞こえる。巨大な建造物の下層部は二十四時間眠らない工場や作業場でもあり、日中は太陽の光が当たり夜間は人工的に作られた光が煌々と照らしている。頂点に近づくほど金や権力を持った人間が住んでいる。彼らは夜間には落ち着いて静かに眠ろうとすることから、頂上の方は暗く眠りやすそうな環境が整えられている。
そんな建造物との環境の差を見れば、青年が立っている場所はまさしく奈落の底。明かりは皆無で、明るすぎる建造物のおかげで余計に自分達がいる場所が暗く感じる。明るすぎる恩恵を受けて足場が照らされるのであれば少しくらいは救われるのだが、自分達ばかりを照らそうとしていることから明るさが際立っているということくらいしか伝わってこない。恩恵など皆無だった。
「はぁ、羨んでもしかたないか」
圧倒的な差が一体何であるのか、考えたところで何も変わりはしない。今を生きる自分は今を生き続けるしか道がないのはわかっている。見上げるしかできない今の自分をどうしたって変えられないことも、否定したいとは思いながらも心の奥底ではそれが不可能であることを理解している。
「死ぬまでに地上くらいは見てみたいものだな」
大地を踏みしめながら歩く黒い青年は空と巨大な建造物を見上げるのをやめようと視線を前に戻す。だが、その視線が何となく違和感を察知して再び見上げる。
「……………って、マジかよ」
青年の視界に入って来たのは落下物。猛スピードで上空から落下してきている何かが視界に入った。だが、それ自体は特に珍しいことではない。空高くにいる権力者達は時折、ゴミをポイ捨てする。それが青年達の住む場所に落ちてくることはよくあるのだ。
しかし、青年はその落下物を見て驚いた。それはどこからどう見ても人だった。人間が落下してきているのだ。どこから落ちてきているのかはわからないが、このままでは確実に地面と激突して大惨事となる。そして落ちてくるおおよその場所が、彼の直観では自らが今から帰ろうとする自宅付近で、今いる場所からさほど離れていないところだということが瞬時に導き出された。
「命を粗末にするなよな!」
青年は落ちてくる人間の落下点へと全速力で駆ける。それと同時に腰に装備しているガンブレードを手に取り、ポケットから一発の弾丸を取り出す。通常の弾とは違う特殊な加工が施された弾丸。見た目には色と模様が刻まれていることくらいしか差は見受けられないその弾丸を瞬時に装填し、落ちるであろうおおよその場所に即座に狙いを定める。
「魔弾っ! 風波緩衝」
一言、青年は告げるとともにガンブレードの引き金を引く。その瞬間、たった今装填させた弾丸が射出され、狙い通りの場所に着弾する。その瞬間、まるで小さい竜巻のような風が着弾点を中心に巻き起こる。着弾点から風が生み出され、周囲全体に風を放出し続けている。
青年は小さな竜巻の余波ともいえる周辺の風を切り裂くように一直線に風の中心部へと駆ける。どう考えても高速で落下してきている人間が落下するまでには間に合わない。しかも高速で落下してきているだけに衝撃はすさまじく素手で受け止めることも不可能。だが、先ほど着弾した弾丸により起こった風が人間の落下速度を緩和させる。そして僅かに余裕のできた落下点へ、手に持っていたガンブレードを投げ捨てて滑り込むようにして飛び込み、落下速度と衝撃が小さな竜巻の風によって大きく緩和された人間を両手で何とか受け止めることができた。
「ふぅ、何とか間に合ったか」
落ちてきた人間を両手の中に抱いたまま座り込み、さらに仰向けに倒れ込んで大きく深呼吸をする。すでに仕事も終わり、このまま帰宅して一息つこうという状況でのことだったため、急な動き出しで心臓を始めとした体の内部が大きく拍動しているのがわかる。しかし何とか落下してきた人間を無事受け止めることができた安心感から、幾度かの呼吸を経てその大きな拍動はゆっくりと治まっていく。
冷静になりながら落ちてきた人間をよく観察する。落ちてきたのはいかにもお嬢様という様子がひしひしと伝わってくる少女。雰囲気から巨大な建造物の頂点に近い住人だということがわかる。夜明け前の夜空を高速で落下したことにより体温はかなり下がっていたが、心臓や脈は正常で死は免れたことに安堵できる。しかし意識は失っているようで、青年に助けられたことも今はわかっていないようだ。
「聖上から、とんだ贈り物だな」
仰向けに寝転んだことで巨大な建造物がいやでも目に入ってくる。その建造物から落ちてきた少女。何もわからないが、命を粗末にすることだけが許せずに突発的に助けてしまった。先のことなど当然考えてはいない。
「とりあえず、家の近くだ。今日は泊めてやる」
少女を抱えて立ち上がり、放り投げたガンブレードを回収する。体の冷えた少女を抱きかかえたまま、彼は少し急ぎ足で目と鼻の先にある家へと帰宅していった。
夜は明け、朝の明るさが世界に戻ってくる。荒廃した大地にそれぞれ家を建て、思い思いに住むスラム街のような街。住民の数は数え切れず、老若男女を問わずそこに住んでいる。肌の色も髪の色も目の色も関係ない。容姿はそれぞれ違う。そんな住人の唯一の共通点は同じ場所に住んでいるということ。
そんなスラム街の中にある一つの簡素な建物。やや大きめの面積を持つその建物は二階建てで部屋の数もそれなりに多い。だが、配管がむき出しになっていたり、愛想のないコンクリートの壁が一面を覆っていたりと実にスラム街らしい。
「おい、朝飯だぞ」
いくつもある部屋へとつながる扉があるリビング。そこに全身を黒で統一した服装の青年がトレイに食器と食事を乗せてキッチンからやってくる。
リビングの真ん中にはテーブルがあり、椅子がいくつも置いてある。多人数が同時に食事をとれるようになってはいるが、そのリビングにいる人は青年を除けば他には一人だけだ。さらに青年が持っているトレイに乗った食器の数も二人分。青年ともう一人の分しかないというのは一目瞭然だ。
「ん………」
部屋の片隅にある使い古されたソファーに転がる一人の少女。真っ白なロリータ風のドレスを身に纏っている少女は寝惚け眼をこすりながらとぼとぼとリビングの椅子に腰かける。その少女の前に黒の青年が食器を置く。
「…ったく、自分の部屋があるんだからそこで寝ろよな」
青年も椅子に座って食器を自分の前に配置する。
「手間………」
「どこがだよ」
リビングと各部屋には扉一枚を隔てているだけだ。手間という程の距離があるわけでもない。ベッドから起きて数歩で扉に到着、開けてリビングに出てまた数歩でテーブルに到着できる。時間にして数秒だ。
「ベルリオが起こしに来る手間を省いているだけ」
「俺が起こしに行くのは確定かよ」
黒で統一された青年の名はベルリオ。少し高めの身長に細身ながらも鍛えられて絞り込まれた体のラインに沿った衣服は彼の男としての魅力を引き立てている。
「いいか、モニカ。夜は自分の部屋で寝ろ。朝くらい起きろ。そして飯くらい自分で作れ」
白いロリータ風のドレスを着ている少女はモニカ。ベルリオと共にここで暮らしている同居人である。
「気が向いた時は作った」
モニカはそう言うと目の前の食事にありつき始める。
「いつの話だよ。少なくとも先月以前の話だろ」
呆れながらもベルリオも朝食を食べ始める。
「そもそも、一緒に仕事をする仲間を養うのは家主の義務」
モニカは手に持ったスプーンでベルリオを指す。
「食器で遊ぶな。それと部下じゃなくて仲間だったら少しは自立しろ」
モニカの方を一瞥しただけでベルリオは食事の手を止めない。
「嫌」
「即答かよ」
自立するように言った言葉に対して即答で拒否を申し出た。
「そもそも、私が料理をすると嫌な顔をするベルリオが悪い」
「自分の分だけ作れってことだよ。自分のことは自分でやった方がいい」
「どうして?」
「お前の飯は不味いから」
まったく戸惑うことなく放たれたベルリオの言葉にリビングは一瞬沈黙に包まれた。
「………そう? 前は割と出来が良かった気がする」
「食えるだけマシだったってだけだろ。その前………って、もう半年くらい前か。あの時は食えるものが何一つなかった」
「ん? そうだっけ?」
ベルリオの記憶の中にはまともに食べられない味付けの料理が並んだあの日のことを思い返していた。だが、モニカは表情一つ変えることなく食事をしていたのだ。
「食に執着しないのはどうかと思うぜ?」
モニカは食べるものに一切執着心を持っていない。食事とは栄養補給と空腹を満たすだけの行為と彼女は認識している。よって味付けにこだわりはなく、食材にも興味はない。食べられる物を使って食べられるものを作っていればいいというのが彼女の料理のスタイルだった。
一方、ベルリオの料理はそれなりに信頼と評価が高い。以前、仕事でレストランのコックをさせられたことがあった。その時の彼の腕が好評だったせいか、正規に就職しないかという誘いがあったくらいだ。当然断ったが、それ以降もちょくちょくレストランから声がかかるのだ。
「ごちそうさま」
食の大切さを話している最中にモニカは早々に食事を終わらせてしまった。
「今日、仕事は?」
「今のところないな」
「ん、わかった」
モニカはそれだけ聞くとソファーへと戻り、再び横になってしまう。
「やれやれ………」
ベルリオは溜息を吐き、自分の食事を終わらせる。そしてモニカの食器を一緒にトレイに乗せ、キッチンへと運んでいき、洗い物を始めるのだった。
窓から差し込む光が強くなるにつれて微睡の世界から引き戻される。感覚を失っていた体は徐々に神経がいきわたって自分の体として認識できるようになり、明るさによって自分がまだこの世に存在するという事実を思い知らされる。
「………え?」
訳も分からずベッドから起き上がったのは一人の少女。白一色、まるで死に装束のようなワンピースを着ている。そのワンピースと同じ真っ白なシーツが敷かれたベッドで目覚めた少女は自分が今置かれている状況を理解しきれていない。
「私………生きて………いるの?」
それが少女の頭をよぎった最初の疑問。
少女の記憶ははるか上空ともいえる場所から自由を求めて身を投げ、奈落の底へと向かって落ちていく最中に夜明け前と高速移動による空気の冷たさで意識を失った。当然死んだものだと思っていた自分が今、温かいベッドの上で生きている事実が少女にはどうしても納得がいかなかった。
「いったい………どうして?」
ベッドから起き上がった少女。その部屋はお世辞にも綺麗とは言い難い。コンクリートで取り囲まれ、所々配管がむき出しになっている。長らく使われていない部屋なのだとわかるほどこの部屋には生活臭もなく、ただ部屋として存在していただけの空間だということだけがわかる。
「明るい………」
窓から差し込む光は今まで自分が住んでいた場所と何ら変わりがない。そう感じとった時、あの身を投げた行動自体が自分の夢だったのではないかとしか思えない。
少女はベッドから降りて部屋を少し見渡すと、そのまま部屋の扉を開く。そこはやや広めのリビング。簡素なテーブルや椅子、そして少女が眠っていたのと同じような部屋へと続くのであろう扉がいくつか壁にある。そして部屋の片隅にはソファーがあり、純白のロリータ風のドレスを着た天使のような少女がかわいらしい寝顔で寝息を立てている。
「ここは………どこ?」
現在地すらわからない。夢だと思ったとたん、見たこともない家と可愛らしい少女を見た。それは夢ではなく現実。虚実の中で少女は少し混乱している。
リビングを見渡した後、少女は玄関と思われる扉の前に立ち、ゆっくりと扉を開いた。すると、ある光景が見えてくる。それにより、今いる場所がようやく理解できた。
「ここって………奈落?」
家の扉を開いた少女の前に高々とそびえ立つのは巨大な建設物。会食などのバイキング方式の場で、いくつもの皿が中央の支柱によって何段か重ねられており、そのさらに段ごとに彩りを考えて料理を置く食器を少女は見たことがある。それを連想させるかのような巨大な建造物。数多の鉄などの資材が使われ、空高く伸びる建物は階層ごとに人が住んでいる。それはまさに階層ごとに皿によって分けられた料理のようだ。
それが作られた理由は酷く単純だ。世界は一度滅んだ。人間たちの好奇心と欲求、欲望と本能によって一度終焉を迎えたのだ。それにより汚染された大地から離れ、汚れた大気が沈殿する地上付近から遠い場所に居住地を求めた結果の建造物。
人には過ぎたる力、それが全ての元凶となった。発展しすぎた科学の力は常に軍事力への利用と並行して行われ、世界各国が力を持ち始めたことから始まった僅かな均衡のずれの結果、それは世界崩壊への序曲となる。さらに研究が進めば今度は科学とは相反する魔法の力にまで研究が及ぶ。それにより科学力を持たない国は魔法力で軍事力を補い、科学を推進する国と対抗し始めた。
世界中が戦う力を持ったことでさらに均衡は確かなものとなった。どこの誰に喧嘩を売っても必ず仕返しをするだけの力があるということで争いは避けられた。しかし、それは永遠ではなく、僅かなずれが小さな争いを生み出し、その小さな争いはやがて世界を巻き込んだ崩壊への一途となる争いへと変わっていく。
世界大戦で崩壊した世界は汚染された。大地は荒廃し、空は基本的に澱んでいる。夜空には霞んだ月が見えるだけで星は一つも見えやしない。人里近い大地は草木の数が極端に減ってしまった。自然を求めて人里から離れればそこには異形の怪物がうようよしている。科学実験と魔法実験の弊害で生まれた突然変異生物や人の手によって生み出されたキメラと呼ばれる合成獣。それらは自分達の生活圏や生存地区を各々で決め、お互いを敵視し、人すらも敵として襲い掛かってくる。新たな食物連鎖が出来上がっていたのだ。世界はそんな最悪の状態に変わり果ててしまった。しかし、それでも人は生き続けることをやめることはできない。
汚染された大地から離れるように空へと伸びる建築物を作る。科学と魔法を駆使した技術により作り上げられた空中へと伸びる都市は人外の外敵から人を守り、生きている人間の権威の象徴でもある。汚染された大地から離れ、星の見える場所までそれは伸び続けるだろう。今はその成長の最中だ。
その建物によって地上から隔離された第一階層を人々は新たな『地上』と呼ぶ。そして空へと近づくにつれて二階、三階と階層が上がっていく。そしてある一定を超えた先を敬意や嫉妬、夢や恨み、希望や絶望を込めて『聖上』と呼ぶ。そこは空気も綺麗で大地からかけ離れている。権力者達が住まう場所だ。
「高い………あそこから身を投げたのに………」
少女は空高くにある聖上をただ見上げている。その距離はどれだけあるのかわからない。だが、途方もない距離から身を投げたことだけは確かだった。
そんな少女がいまいる場所、それは地上よりも下の汚染された大地そのもの。そこは人々にとって地上よりも下、しかし地下ではない場所として『奈落』と呼ばれている。外敵に襲われる危険があり、汚染された大地に直接家を建てて住むことで病気の危険性も高い場所。そして世界中に生きる人口の約九割が奈落に住んでいるとも言われている。いわゆる、救われない人達が肩を寄せ合う場所なのだ。
「よぉ、目が覚めたか?」
遥か高い聖上を見上げる少女は声をかけられて視線を下ろす。そこには全身黒で統一された青年が立っている。
「あんまり勝手なことをするなよ。折角生きているんだ。楽しまなきゃ損だぞ」
「え? もしかして………」
身を投げたことを知っているような口ぶりの青年。彼がそれを知っているということは少女を助けたのも彼と考えるのが筋だ。
「私を………助けたのですか?」
「ん? まぁな。運が良かったな。たまたま仕事で帰りが夜中になった。さっさと帰りたいと思っているときに空から誰か落ちてくるのが見えた。まぁ、かなりビックリしたけどな」
フッと小さい笑みを漏らす青年。何百メートル以上の聖上から身を投げた少女を助けることができる青年となれば、間違いなくただ者ではない。
「あなたは………」
「おっと、人に何か立ち入ったことを訪ねるときは自分から名乗るのが常識だろ」
「あっ―――――」
青年に言われ、一瞬言葉が詰まる。なんと言っていいかわからない。
「どうせ聖上に住んでいるお嬢様か何かだろ? 俺は別に生まれや育ちなんか一切気にしねぇよ。必要なのはそいつがそいつであるという事実と証明だけだ。名前はその一つ」
聖上に住む人が奈落に住む人と接触することはまずない。必ず地上の階層の人間を介する。そして聖上に住む人たちは奈落に住む人達を警戒する。自分達を襲う可能性がゼロでないという危機意識からだ。
「まぁ、俺以外には伏せておいた方がいいな。中には面倒な奴もいる」
どうやら少女の心構えに間違いはなかったようだ。たまたま助けてくれた青年が細かいことを気にして人を差別するような性格ではないということに救われた。
「私の名前はティティスと言います」
少女は青年を信頼して名乗った。
「俺はベルリオ。荒事専門で仕事をしている。中で寝ているのは相棒のモニカだ。まぁ、いつまでかは知らねぇけど、よろしくな。お嬢様」
黒の青年ベルリオはそう言うとティティスの傍を通り抜けて建物の中へと入って行った。
「―――――よろしく?」
ティティスはベルリオの言葉の意味が分からなかった。ただ、その言葉には今まで感じたことのない何かがあることだけはわかった。心に生れてこの方、籠の中の鳥だった間に感じたことのない感情が湧き出てきたのだ。それが何ともむず痒い複雑な思いを抱かせるのだが、なぜか嬉しさや好奇心などもその複雑な思いの中に交じっている。その感情をさらに知りたいと思い、ティティスはベルリオの後を追って自らが目覚めた建物の中へと引き返した。
中ではモニカがいつの間にか目覚めており、ティティスとそれなりに自己紹介をしてリビングの中央に設置したテーブルを囲むように置かれた椅子に思い思いの場所へ腰掛ける。ベルリオが人数分のコーヒーを用意し、それぞれの前に置いて彼も椅子に腰かけた。
「ブラックですか?」
ティティスは目の前に置かれた真っ黒なコーヒーに戸惑う。テーブルの上を見渡したところで砂糖やミルクといった類の物は一切見つからない。
「砂糖は高い。地上のやつらがいつも優先して買うから奈落じゃ常に品薄だ」
ティティスは今までの自分の生活を顧みて申し訳ないと思った。当たり前のようにミルクや砂糖を使っていた日常。それ自体が恵まれていたということを今日初めて知ったのだ。
「ミルク………欲しければ出せばいい」
「ふへぇ?」
いつの間にかティティスの傍らに接近していたモニカ。彼女は豊かなティティスの胸元をちょんちょんと突っついていた。
「こ、こらぁっ!」
咄嗟に両手で胸を覆って防御姿勢をとる。モニカはその様子を無表情で見ている。
「出るわけがないでしょう!」
「大きいのに?」
「大きかったら出るというわけじゃないの!」
「出るようになったら大きくなるって聞いたことある」
「他人に胸を触られたのも今日が初めてです!」
「ふぅ~ん。残念………」
モニカは無表情のまま自分の席に戻る。そして真っ白な衣服とは対照的なブラックのコーヒーを躊躇うことなく口に運んでいく。
「ブラックのコーヒー………苦くないの?」
「別に………」
「うぅ、私は苦手なんだけどなぁ」
「ふぅ~ん、お子ちゃま」
「うぅっ!」
ブラックのコーヒーを飲むモニカと口すらつけられないティティス。外見から見ればティティスはモニカよりもはるかに大人だが、味覚などの目に見えない部分ではティティスはモニカに大きく負けているのかもしれない。
「ははっ、お嬢様は口達者じゃないんだな」
モニカとティティスが言い合いをしている間にどこかへ行ったベルリオ。戻って来るなりティティスの前に白い粉が入った小瓶を置いた。
「高価なんだ。使いすぎには気を付けてくれよ」
「え? これ………もしかして砂糖………」
小瓶には白い粉状の物が入っており、小さなスプーンもついている。
「ほら、冷めないうちに飲めよ」
「あ、はい」
自分の席に着いたベルリオはブラックのコーヒーを平気で飲む。ティティスは渡された砂糖をスプーン一杯分コーヒーへ入れ、一口飲む。
「熱っ!」
コーヒーの熱さにティティスが一瞬身をすくめる。
「猫舌? ますますお子ちゃま?」
「うぅ………言い返せない………」
モニカに弄ばれながらも、コーヒーを少し冷ましながら少しずつ飲んでいく。まだ眉をひそめてはいるが、飲めない状態ではないのか、少し苦味を我慢しながら飲んでいた。
「それで、ティティスはどうして身投げなんかしたんだ?」
早々にコーヒーを飲み終えたのか、ベルリオは椅子の背もたれに持たれながらティティスを直視して問う。
「………自由が欲しかったんです」
「自由?」
ティティスの言葉にベルリオは首をかしげる。
「聞いた話じゃ、聖上に住む奴らは何不自由なく生きているらしいが?」
「確かに、欲しい物は手に入ります。食べたいものはいつでも食べられますし、着たい服があればすぐに手に入ります。ですが、個人に大きな自由はありません。毎日が繰り返しです。朝起きて、勉強して、お稽古を受けて、また寝る。使用人と話すこともまれで、友人と呼べる人も多くはありませんでした」
決められた毎日が当たり前になってくる。権力を持つ者は権力を持つ者としての生活を刷り込まれていく。
「それに私、もうすぐ結婚させられる予定でしたから」
「………おめでとう?」
「全然めでたくありません。親が勝手に決めた相手です。それも親しくもない二十近くも年齢が離れたおじさんですよ。かみ合わないのはジェネレーションギャップだけじゃなかったんですから」
「それは災難だったな」
疑問を持たなければその生活を一生続けていく。彼女は例外でその生活に疑問を持ったのだろう。
「昔、本で読みました。今はもう見えませんけど、夜空にはたくさんのお星さまがあって願い事をすれば叶うというお話がありました」
「それで、あんな時間に?」
「はい」
自由を求めて、繰り返しの毎日や決められた未来から逃れるため、神頼みならぬ星頼みで彼女は自らが生まれ育った聖上から身を投げたのだった。
「奈落に住む奴は誰もが聖上を見上げて生きる。地上にすら上がることなく死んでいく奴がほとんどの中、まさか逆に聖上が嫌になって落ちてくる奴がいるとは思わなかったな」
奈落に住む者達は地上や聖上に憧れる。しかし、地上に指をかけることすらできないまま死ぬものがほぼ全てだ。立ち入ることができるものだっていないに等しい。何不自由なく生きられる聖上は夢のまた夢。だがその夢の世界にも苦痛はあるということ、それは聖上自体を見上げることしかできない奈落の住民は知るよしもない。
「それで、どうしたい?」
「え?」
ベルリオの雰囲気が少し変わる。
「ティティスはどうしたいんだ? もともとは死を覚悟で飛んだんだ。死にたいって思うのならいつだって俺達が苦しまないように殺してやる」
そう言った瞬間のベルリオの目は冷たかった。冷徹で冷酷、そんなイメージしかできない視線がティティスに突き刺さる。ティティスは背筋に冷たさを感じ、言葉を一瞬失う。だが、それもあくまで一瞬。ベルリオの視線はすぐにその鋭さを引っ込める。少し余裕のできたティティスには一つの確固たる思いがあった。聖上を脱して奈落で九死に一生を得たことから生まれた彼女の新たな望みだ。
「奈落で………生きてみたいです」
聖上では自由が無かった。誰もが憧れる場所が必ずしも万人に幸せを与える場所とは限らない。それを奈落に来て知った。聖上では奈落など見下すだけの存在でしかない。しかし、聖上では知ることのできなかったものがこの奈落にはたくさんあるような気がしたし、聖上では感じたことのない感覚がこの奈落には満ちていると思う。その思いと感情がティティスに奈落の生活という者への興味を持たせたのだ。
「奈落で生活してみたいです。聖上では自由がありませんでした。どんなものでも手に入るけれど、だからこそ大切なものが手に入らない気がします」
身投げをした時、全ての思考を捨てたティティス。だが、今では負の感情も含めて全てがプラス思考として働いている。そう、彼女は聖上で生きる気力を失ったが、奈落で生きる気力を取り戻したのだ。
「しばらくここに置いていただけませんか?」
ティティスの言葉に迷いはない。行き当たりばったりで言った言葉とは思えないほど力強くはっきりと言葉を発している。彼女は心からこの奈落で生活してみたいと考えているのは間違いない。それは言葉の端々に感じ取れる語気で十分察することができる。
「………まぁ、いいか。大気汚染や土壌汚染も聞くところによると昔ほどひどくないらしいし、な。お嬢様でも体調管理さえしていれば暮らしていけるだろ」
しばらく考えたベルリオ。彼の言った言葉は彼女の住居を許可するものだった。
「本当ですか?」
「ああ。それに見ての通り、この家は部屋ばっかり多くてな」
リビングから各部屋に続く扉は多い。階段で二階に上がることもできる。なら、二階にも部屋があるのだろう。そう考えるとこの建物だけで二十人近くがそれぞれのプライベート空間を確保することができる。
「他に住居者の方は?」
「いないな。俺とこいつだけだ」
住んでいるのはベルリオとモニカだけ。部屋の数は十分すぎるほど余っている。
「どうして二人だけしか住んでいないのですか?」
もっともな疑問だ。奈落には聖上や地上に住めない人があふれている。住居を求める人は少なくないはずだ。
「まぁ、ちょっとした理由で人が寄り付かないだけだ」
「ちょっとした理由?」
「そのうちわかるさ」
ベルリオはそう言うと席を立つ。皆が飲み終わったコーヒーのカップを回収してキッチンへと持っていく。
「部屋は好きなところを使ってくれ。それと、しばらくはいいがいずれ家賃は取るぜ。できることがあったら言ってくれ。仕事を探してくる」
コーヒーカップをキッチンで洗いながらリビングへと声をかける。
「できること?」
ティティスが首をかしげる。
「何かあるだろ? 特技みたいなもんだよ」
手際よくコーヒーカップを洗ったベルリオはキッチンからリビングへと戻ってくる。
「……………ないです」
「はぁ?」
「本当に………何もないんです」
ティティスの言葉にベルリオも次の言葉が出て来ない。
「今思えば私、ほとんどのことを自分の手でしたことがありませんでした。料理や洗濯は使用人がしていましたし、スタイリストが選んだ服を着ていました」
彼女は服の選択すら自分の意思でしていなかったのだ。
「そんな状態でよく身投げとかできたよな」
死を決意した行動は最大にして究極の選択だ。それをした当人がまさか私生活での選択権が今までいっさいと言っていいほどなかったのは驚くべきことだった。
「じゃあ、しかたねぇな。手伝ってやるから、何でも一からやって覚えることだな」
「あっ、はい」
そう言うティティスの視線がモニカに向かう。
「彼女は何ができるのですか?」
白いロリータ風のドレスを身に着けた可愛らしい女の子。椅子に座っている様子は大きめのビスクドールのようだ。そんな彼女がどのような仕事をしているのか、そもそも仕事というものができるのか、ティティスはとても疑問だった。
「モニカの仕事? まぁ、ド派手にぶちかますことくらいだな」
「………?」
説明が全く理解できないティティス。どう返答していいのか、リアクションすら思い浮かばない。そのため、リビングは一瞬沈黙に包まれた。
「確か明日は集合がかかっていたな。百聞は一見にしかずだ。明日見学するか?」
「お仕事を拝見させてもらえるのですか?」
「まぁな。説明するのも面倒だし、奈落がどんなところか知るのにもちょうどいい」
さっそく仕事というものを直接目で見ることができることにティティスは喜びを感じて笑顔がこぼれている。楽しいイベントを翌日に控えた子供のようだが、その笑顔も次の一言で凍りつく。
「ああ、それと一つ言っておくぞ」
「はい?」
「死にたくなかったら指示には絶対に逆らうなよ」
「………え?」
ベルリオの一言に楽しい気分が一蹴されるティティス。どういうことか説明を求めようにも言葉が出てこず、彼はさっさとその話題を切り上げて日常の連絡事項へと移っていった。
「それと夕飯は日が沈んだころだ。好きな部屋を使っていいからそこで休め。外出は一切禁止、明日は朝一から行動だから今日はゆっくりしておけよ」
ベルリオはそう言うと自分の部屋なのだろう。リビングから繋がる扉の一つを開いて中へと入って行ってしまう。
「ど………どういうことですか?」
椅子に座っていたモニカに視線を向ける。
「夕飯は日が沈んでから。それまで自由行動。でも外に出ない方がいい」
モニカはティティスの視線を無視してリビングの端に置いてあるソファーへと向かい、衣服がしわになることなど気にすることなくソファーに転がる。
「奈落では慎重すぎても安全とは言えない。だから勝手なことはしない方がいいというだけのこと。外は無法地帯だから」
モニカはそう言うとソファーの上で寝転がったまま目を閉じる。
「な、なんなのよ。いったい………」
訳の分からないティティス。唯一よく分かったのは外出すら許されない治安の悪さだということだけ。外に出ようものなら即座に犯罪に巻き込まれることだろう。その時、忠告を無視したということでベルリオもモニカも助けに来てくれるとは到底思えない。
「うぅ、わかりました。部屋でじっとしておきます」
ティティスは湧き出ていた好奇心など色々と諦め、自分が目を覚ました部屋へと向かう。部屋の中に入ってベッドに転がり、今までの人生を振り返りながら、様々なことに思考を巡らせていく。すると身投げしたときの心的ストレスのせいか眠気が襲ってくる。そして睡魔に襲われ、夕飯までの時間を寝て過ごすのだった。
深い眠りから現実に引き戻される。体に外から何かしらの干渉とも思える接触を感じ、その違和感から意識がゆっくりと目覚めへと向かって行く。
「ん………」
目を開けば見慣れない天井。一瞬の混乱と戸惑いを経て、今までの自分の行動や経緯を思い出して瞬く間に現状に納得がいく。
(固いベッドのせいかな? よく眠れなかったような………)
眠りなれたふかふかの大きく広いベッドはもうこの奈落にはない。自分の今までの人生を捨て、今までなかったものを求めると決めたのだ。
そこまで考えた時、胸元に再び違和感がある。
「―――――へ?」
何かが胸をつつく。目を見開き胸元へ目を向けると可愛らしい手が人差し指だけを突き出して胸をつついている。その手の主は考えるまでもない。
「ひっ………ひゃぁっ!」
変な悲鳴をあげてベッドから起き上がり、可愛らしい手から逃れる。
「な、なんですかっ!」
ベッドから飛び起きたティティス。彼女の視線の先には無表情で人差し指を突き出した右手をじっと見ているモニカがいた。
「夕飯だから………起こして来いってベルリオが言った」
モニカはそう言うと手を引っ込め、何事もなかったかのようにティティスの部屋から無言で出て行ってしまう。
「あの子………いったい何?」
モニカの行動や考え方が一切読めないティティス。しばらくモニカが出て行った唯一の出入り口となる扉を呆然と固まりながら見つめているのだった。
数分の硬直から復帰したティティスはリビングへとやってくる。そこでは夕飯の配膳が終わろうとしていた。モニカは自分の指定の席なのだろう。コーヒーを飲んだ時と同じ席に座り、ただ配膳が終わるのを手伝うことなく見守っている。
「よぉ、起きたか。座席は勝手に決めさせてもらったぞ」
ベルリオがティティス用に配膳した場所はコーヒーを飲んだ時の席。置かれているのは今まで高級料理した見たことのないティティスが見たことのない物ばかり。だが、雰囲気で肉とサラダ、そして米があるのがわかる。どうやら一般的なステーキ定食と言ったところだろう。
「あ、ありがとうございます」
そう言った時、ティティスのお腹が可愛らしく鳴る。その音にティティスは恥じらいを感じて顔を真っ赤に染めるのだが、同じくリビングにいるベルリオとモニカは一切表情を変えることなく、ましてや気にするそぶりもなく無視している様子もない。
今までとはまるで違う周囲の感覚や対応に戸惑いを感じながらもティティスは自分の座席となる席に腰を下ろす。
「ああ、勝手に食べてくれていいぞ」
ベルリオは配膳の途中だというのに二人に食べていいと言い、またキッチンへと足を運んだ。その様子を完全に無視して食べていいと言われたことからモニカが全く躊躇う様子を見せることなく食べ始める。
「ま、待たないのですか?」
聖上にいたころ、ティティスは使用人が用意した料理が配膳し終わったところで食べ始めていた。揃って食べるという感覚ではなく、配膳が終わっていないにもかかわらず食べ始めるのはどうかという考えが働いたのだ。
「………食べていいって言ったから」
モニカはそう言うとフォークを豪快に突き刺したステーキにかじりつく。まるで骨付き肉にかぶりつく原始人を思わせる食べ方に、見た目との大きすぎるギャップがティティスを唖然とさせた。
「えっと………じゃあ、いただきます」
納得しきっていないティティス。食べていいと言われてモニカが食べている中、自分が食べないというのも居づらく、しかし家主であるベルリオが働いている最中に食べるのも少し気が引ける。しかし、出された食事を冷めさせてしまうのも悪いと思い、心の中でベルリオに悪いと思いながらも食事に手を付ける。
「………?」
ステーキにフォークを突き刺し、ナイフで切ろうとした時、なかなか肉が切れない。一口サイズにして食べようとしたティティスの試みを嘲笑うかのように肉はなかなかナイフによって切り分けられてくれないのだった。
「ははっ、悪戦苦闘しているみたいだな」
ステーキの肉に苦戦しているティティスの前にスープが置かれる。置いたベルリオは自分の席に着き、食事を始める。
「突然変異体のビッグウルフだ。聖上で食べられる家畜の肉とはわけが違う。筋張っていて固いのはしかたないさ。これでも少しは食べやすく工夫したんだぜ」
そう言うベルリオはナイフとフォークを使ってステーキに切れ目を入れ、モニカ同様かぶりついて食いちぎる。実にワイルドな食べ方だ。
「えっと………」
食事が進む二人の真似をするように肉にかぶりつく。とはいってもティティスの上品なかぶりつきは小さな口での可愛らしい食べ方。しかし、それでも先ほどナイフでの悪戦苦闘が功を奏し、強く切れ目が入れられた肉は思いの外綺麗に食いちぎることができた。
「………っ!」
食いちぎった肉をほおばり、ティティスの表情が一変する。
「おいしい………ですね」
固く筋張った肉ではある。しかし、それが逆に歯ごたえとなり、強めの確かな味付けが長く舌を満足させてくれる。上品さはかけらもない味付け。大味だが、その大味さが肉にピッタリ合っており、ティティスは思いの外満足している。
「食材には食材にあった味付けのしかたがあるのですね」
今まで食事を作るなどということを考えたこともなかったお嬢様は、今日初めて食材や料理に関することを考え、実感することで一つの新たな知識を手に入れたのだった。
「お嬢様のお口にはあわないと思ったけどな」
「いえ、何といえばいいのか、斬新………ですか?」
今まで感じたことのない新感覚にティティスは表現の言葉が見つからない。
「言葉の説明はいらねぇよ。作り手は食ってるやつがうまそうな顔をしているだけで嬉しいもんだ」
ティティスは今までの人生を振り返る。食事は毎日決まった時間に運ばれてきて、飽きるほど高級食材を使った料理を毎日食べていた。その日々の中で自分はコックと顔を合わせたこともあまりなかった。美味しそうな表情をしたことがどれだけあったのか、今までの人生を振り返って後悔していた。
「おいおい、辛気臭い顔をするな。うまい飯はみんなでうまいなりに食う。不味い飯は不味いなりに食う。飯は一種の共感を得られる時間だ。仲間内なら特に、な」
使用人たちに囲まれて食べる日々が幸せだったかどうか、考えるまでもない。過去と比べれば当時の方が圧倒的においしい物を食べているはずだ。だが、今の方が何倍も何十倍もおいしく感じられる。
「そうですね。とてもおいしい………」
筋張った硬い肉がとてもおいしく感じられる。食事の時を始めて至福の時間に変えることができた瞬間だった。
食事が終わった瞬間、席を立ったモニカが再びソファーで寝転がろうとする。それを高速で移動したベルリオが肩を掴んで止める。
「おい、何してんだ?」
「………寝る」
止められたことなど気にせずマイペースでいるモニカ。だが、ベルリオは見逃さない。
「寝る、じゃねぇよ。寝る前に着替えやがれ」
「………手間」
「手間、じゃねぇよ。その服三日目だろ」
「これはもはや体の一部」
「グダグダ言ってねぇで着替えろ。じゃないと寝るな」
「………」
我を通しきれないと悟ったのか、モニカは諦めて自分の部屋に向かう。そして五分ほどで帰ってきたモニカは相変わらず白いロリータ風のドレスに身を包んでいた。しかし、その手には先ほどまで着ていた方のドレスがあり、適当に丸めてベルリオに投げ渡される。
「寝る」
モニカはそう言うとソファーに横になろうとするが、またしてもベルリオに止められる。
「歯、磨けよな」
「………」
早く眠りたいのか、今度は抵抗することなく洗面所へ向かう。数分で戻ってきたモニカはソファーに転がり、一分も経たないうちに可愛らしい寝息を立てる。その間、常に無表情だったことを除けば、小さな女の子が駄々をこねている可愛らしい様子だった。
「まったく、こいつは相変わらずだな」
溜息を洩らしながらも手に持っている丸められたドレスを他の洗濯物と同じ場所に放り投げてまとめる。
「あの………」
二人のやり取りをただ見つめているだけだったティティスが口を開く。
「お二人は一体どういう間柄ですか?」
雰囲気から見ればベルリオが保護者でモニカが子供のようだ。だが、年齢はそれほど離れているようには見えない。兄妹か、またはお嬢様と執事か、そのような関係に見える。
「うーん………難しいな。一言でいえば同業者なんだけどな」
「同業者?」
「ああ、同じ仕事をしているからな。まぁ、ライバルじゃなくて仲間だけど」
今までの全ての会話を聞いて引っかかる点が出てくる。
「あの、仕事っていったいなんですか?」
「ん? 明日まで待てないか?」
「いえ、その………あの子が働いている姿が想像できなくて………」
そもそもティティスの想像力は極めて貧相だ。籠の中の鳥として生きてきた彼女が見てきた世界というものは決して広くは無い。そんな彼女がモニカの仕事内容の想像ができるなどまずありえない。
「表情一つ変えず、感情があるのかどうかもわからないから………」
モニカという存在を理解するのに必要な時がまだまだ足りていないのは承知の上だ。だが、それでもモニカという存在を少しでも知りたいとティティスは思った。
「まぁ、あいつは心を無くしたからな」
「心を………無くした?」
ベルリオのいきなりの発言にティティスは困惑する。言っている意味が分からなければ言いたいこともわからない。だが、納得ができる言葉ではある。
「もうけっこう前のことなんだが、合成獣が奈落の街中に何匹か入り込んだんだ」
「え?」
合成獣とは過去に科学や魔法を研究していた人達が生み出した進化の過程から外れた人工生物。その形は様々で、様々な猛獣の体を持ったものや、獣の範疇を超えて他の生物の長所だけを合わされたものもいる。作り出された歪な生命体で、野良のものは特に獰猛だということは有名だ。
「その時に襲われたんだ」
「モニカさんが?」
「まぁな」
ティティスには想像できない事実だ。聖上にはそういった獣が入り込むことなど無い。地上ですら稀な出来事だ。それが奈落では珍しいことでもなんでもない。
「まぁ、犠牲になったのはあいつの両親で、あいつ自身は無傷だったんだけどな。だがなんというか、相当ショックな光景だっただろうな。目の前で父親が巨大な脚に踏みつけられて圧死した次の瞬間には母親が鋭い牙で体の一部を食いちぎられたんだ」
ティティスは相槌すら打つことができない。話に完全に飲まれてしまっている。
「あいつが助かったのはその合成獣が他でも食事をしていて腹がいっぱいになったのと、腕利きの掃除屋や狩人の到着が間に合ったからなんだけどな」
頭の中に光景が過ぎる。巨大な獣が目の前で人を食らう光景。想像でしかないが、背筋が凍りつきそうなほどの恐怖が感じられる。
「おかげであいつはそれ以来一切笑わない。感情もほとんどなくなっちまった。美味しいとか不味いとか、そんな感覚すら今のあいつにはないんだよ」
「え?」
またしても驚愕の事実をティティスは聞かされた。
「コーヒーの話だけど、あいつは昔、甘党だったらしい。コーヒーなんて飲めるキャラじゃないんだけどな。それでもブラックを無表情で飲む」
「それを知っていて………わざとコーヒーを?」
「ものさしの一つだ。生活に変化があれば少しは変わるかと思ってちょくちょく飲ませている。アンタが来たことで何か変わったかと思ったけど、特にこれといって変化はなかった。まぁ、アンタが悪いわけじゃない。そのあたりは気にするな」
気にするなと言われたが、気にせずにはいられない。自分の存在が彼女に対して何の影響にもならなかったのは良いことか悪いことかわからない。だが、彼女の現状を知ってしまった今、影響を与えられる者でありたいという願いがティティスにあった。
「その後はあいつも掃除屋か狩人になって戦うって言い出したんだけどな。まぁ、年齢が年齢だからどこも受け入れてくれなかったわけだ。そこで俺のところに来た」
「ベルリオさんのもとに?」
「ああ、当時の俺も若かったからな。正式な許可が取れなかったから無免許で裏稼業に近いことをやっていてな。奈落じゃ暗黙の了解で取り締まられることは無いんだが、やっていることは掃除屋や狩人と大して変わりはない。無免許のやつらは賞金稼ぎって言われている。俺はガキの頃からやっていたからな。あいつが俺のところに来たのはタイミングもあるだろうけど必然ってことだ」
両親を殺された復讐のために戦う力を欲したモニカ。しかし子供だったせいでどこも受け入れてくれるところはなく、裏稼業をしていたベルリオのもとにやってきたのだ。
「掃除屋と狩人の違いはなんですか?」
「掃除屋ってのはいわゆる治安維持役員、狩人は出征討伐役員ってところだ。一応奈落ではそこそこ腕が立つ奴らはそんな感じで役割分担が決まっている。もちろん免許制だ。協会があって試験もある。それに合格していない奴らは無免許で色々待遇は悪いが、組織の縛りが一切なく自由に動ける。それが賞金稼ぎってことになる」
守るか攻めるか組織に属さず両方をこなすかと言うだけの違いで、全てが戦闘要員であることに代わりは無い。常に外敵から襲われる危険と隣り合わせの奈落だからこそ戦力はあっても困らない。そのため無免許での勝手な行動も取り締まられることは無いのだ。
「ちなみに、俺もモニカもまだ無免許だけどな」
「………」
奈落では時に違法も暗黙の了解で合法となる。無法地帯故の柔軟な発想と言えば聞こえはいいが、要はその程度のことに尽力している暇が管理側に無いということだろう。
「しかたねぇだろ? 免許は二十歳を超えないともらえないんだ」
「………え?」
「でも無免許が許されるのは若くても腕のいい奴を片っ端から取り締まるよりも、放置して自由に育った後で組織に組み込めばいいって考えだろうな」
後半の話は耳に入らず、年齢の話がティティスの目を丸くしていた。
「あの………ベルリオさんはおいくつですか?」
「俺? まだ十九だ」
大人びた堂々とした雰囲気と、モニカの保護者と言っても通りそうな普通な接し方にもっと年上の印象を持っていたティティス。
「モニカは十六だぞ」
「え? あんなに小さいのに?」
モニカの見た目はどう見ても十二か十三と言ったところだ。
「精神的なストレスが成長の邪魔をしているのかもな。詳しいことは知らねぇけど、俺としては腕が良ければ何歳だってかまいやしない」
免許制度も年齢制限も上辺だけで一切関係がない実力社会。それが奈落の本当の姿だ。
「つまり、俺もモニカも仕事は賞金稼ぎだ。納得したか?」
「あ、まぁ、少しは………」
いろいろと話を聞けてティティスとしては良かったかもしれない。モニカの昔話のショックはまだ尾を引きそうだが、それでもこの奈落を知識としてではあるがより一層知る事ができたのはどう考えてもプラスだろう。
「よし、じゃあ今日は早寝だ。明日は早いからさっさと寝な」
もう話は終わりだ、そう言う様子でベルリオが会話を区切る。
「あ、あの、寝る前にシャワーを浴びたいのですが………」
ティティスがベルリオに申し出る。聖上では毎日のように浴室へと足を運んでいた。時間がない時でもシャワーを欠かした日は一日もない。
「シャワーとか贅沢なことは仕事があって成功した日だけだ」
「え?」
「水は貴重なんだよ。海からくみ上げた海水をろ過して真水にしたものを使っているんだが、取りまとめが地上のやつらでな。水道代が高いんだよ。飯の時はしかたなく使うが、それ以外は必要最低限だ」
「え、えっと………それじゃあこれからシャワーは………」
「確実な稼ぎがあった時だけだな」
「そ………そんなぁ………」
綺麗好き、もとい綺麗にするのが当たり前となっていたティティスの日常。それは奈落での生活を得ると同時に欠かしたくない毎日の繰り返しさえも脆く崩れ去ったのだった。