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世界の続きと生まれ変わり

 甘いものが食べたい。

 たまにはケーキでも買って帰って、妻と一緒に食べるのもいい。

 私は駅前のケーキ屋に寄って帰ることにした。

 数年ぶりに一人でケーキ屋に入る。いつもの私には甘すぎるこの匂いは、今日だけはちょうどよい。

「ショートケーキ二つ」

「はい、ショートケーキですね……」


 少し遅くなってしまった。普段乗っている電車はもう行ってしまったようだった。

 いつもより遅い時間のホームには、濃い茶色の空気が流れている。

 辺りを見回すと、この淀んだ空気とは不釣り合いな色を放つ少年がいた。

 白くて薄い光をまとっているかのような、彼の佇まいに目を奪われた。が、よく見るとうちの学校の生徒であるようだ。高校生がこんな遅くまで外にいるなんて、塾にでも行っていたのだろうか。

 それとも……。

 そんなことを考えていると、彼の方から私に話しかけてきた。

「名倉先生、こんばんは。今帰りなんですね」

 声まで、澄んでいる気がする。

「こんばんは。……随分遅いね、塾の帰りかい?」

「いえ、塾ではないです。たまにはちょっと遠出して、違う町の本屋さんへ行こうと思って。そしたらこんな時間になっちゃいました」

 ばつが悪そうに言って、腕時計に目を落とす彼。

「まだあと三十分以上、電車こないです」

「そうか。だいぶあるな」

 さっき買ったケーキが心配だ。傷まなければいいが。

「名倉先生って、倫理の先生ですよね。ちょっとお話ししたいなって、ずっと思ってたんです。でもなかなか機会がなくて。もしよければ、少し付き合っていただいてもいいですか?」

 彼を包む白い光が、一瞬赤く染まったような気がした。

「他にすることもないし、構わないよ」

「良かった、ありがとうございます。さっそくなんですけど、先生は永遠ってあると思いますか」

「永遠か。いきなり難しいことを聞くね。私は永遠はあると思うよ……」

 しばらく『永遠』について話した後、彼がふっと笑って言った言葉。

「永遠なんて、お金で買えるんですよ。時間の永遠に限って言えば、ですけど」

 彼はさらにこう続けた。

「どうですか先生。買ってみますか?」

 ここまで約二十分。彼と話してみてわかったことは、一見馬鹿げているように聞こえる事柄でも、彼は本気で言っている、ということである。

 つまり、私が私を信じるならば、彼は本気で永遠を売る気だ。

「私は、世界の続きを見たいとは思うが、永遠を手に入れたいと思ったことは、ない。だから、永遠はいらない」

 私がそういうと、彼はまるで好都合とでもいうように、目を細めて私を見つめる。

「先生。先生は、何歳まで生きたいですか。世界の続きって、一体いつですか?」

「先生が望むまでの時間だけを買うことも、もちろんできるんですよ」

 教師が生徒から何かを買うという行為自体、私はあまりしたくない。その売買の対象が時間であるというのは、いささか興味深いが、それでも私はあまりしたくない。

「俺から、生徒から何かを買うのはいやだって顔していますね。でも、俺が直接売ってるわけじゃないので、そういう心配は要らないと思います。もし買いたくなったら、ここに電話するといいですよ」

 そういって彼から渡された名刺には、『時間屋』という文字が真ん中に大きく、『to 光希さん』という文字が端に小さく書かれていた。

 ……そうか、彼は七年前、私が担任を持っていた子の弟なのか。

 数十秒の沈黙を破ったのは、私でも彼でも他の客でもなく、やっときた電車の音だった。

 そして私は、光に照らされた彼の頬を、藍色の涙が伝うのを見逃さなかった。


 *


「おかえりなさい」

 いつものように妻が出迎えてくれる。今日みたいに彼女に何か買って帰るのは、いつぶりだろうか。

「遅くなってごめん。ただいま」

「気にしないでくださいな。あ、ケーキ。珍しいですね、ありがとう」

 にこにこしながら、晩御飯を温めている妻を見て、自然と心も温かくなった。

「ああ。あとで一緒に食べよう」

 さっき会った名前も知らない生徒から渡された名刺にふと目を落とす。

 電話番号と『時間屋』という文字と七年前の教え子の名が書かれたその小さな紙を、くしゃっと握りつぶした。

「ご飯、温まりましたよ」

「ありがとう」


 ご飯を食べてお風呂に入り、買ってきたケーキを妻と食べる。

「義孝さん、私ね、今日病院行ってきたの」

「どうした、どこか悪いのか?大丈夫か、こんなに動いて」

「うん……。あのね、私、もう長くないって言われてしまいました」

 涙目になりながら話す妻を、私は抱きしめることしかできなかった。

 私が仕事をしているとはいえ、子供も成人して、二人でゆっくり話す時間をたっぷりとれるのは久しぶりだというのに。楽しみにしていたこの時間でさえ、神は無情にも奪ってしまうのか。

「もう、なにをしても無駄なのか?」

「そうらしいです。数年前から、いつかはこうなるって分かっていたし、覚悟は決めていたけれど、今はやっぱり怖いです……」

 私と目を合わさないようにしているのは、きっと泣いているところを見られたくないからだ。

 私の肩の上に顔をのせて震えている彼女の嗚咽を聞きながら、なぜか私は薄情にも今日あった出来事を思い返していた。

「亜子はいつでも温かいな」

 何気なく思ったことが口から出た。今はこんな言葉をかける場面ではないというのに。

 私のそんな小さな後悔など知らないという風に、亜子は力なく微笑み、私の目を見てこう言った。

「最期まで、どこにもいかないでくださいね」

 この時ほど亜子のことを(かな)しいと思ったことはなかったと思う。

「俺は、亜子が生まれ変わってもう一度俺に会いに来てくれるまで、死ぬつもりはないよ」

 この日の夜、私は時間屋にかけるつもりのなかった電話をかけ、百五十歳までの『永遠』を買った。

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