第三十七話「羅刹に手籠めにされそうになる赤錆」
「うん、この熟語は完璧っ――と」
私は英単語カードをめくりながら呟いた。
ホテルでやる勉強は思いの外、快適に進んでいた。
静かに誰にも邪魔されないから集中できるのがいいのかもしれない。
二人でやる勉強の方がずっと楽しいけど、集中できているかと言われると微妙な所だ。
でも私がいないと美耶子は全然、勉強しない。
今もきっと部屋でゴロゴロしながらテレビでも見てる筈だ。
「テスト前だから美耶子にはついてあげたいけど、仕方ないよね」
今日と明日の辛抱だ。
それが過ぎれば……。
過ぎれば?
「どうなるんだろう」
例えば分家の反乱を抑えたとして、真打ちになった私はどうなるんだろう。
今までの話から考えて、真打ちの存在がとても大きいという事は確かだった。
そんな存在を野放しにしておくだろうか。
「……ああ、何かすごい嫌な予感してきた」
私を殺さない為に真打ちにした、という羅刹の言葉を信じるなら少なくとも消される事はない、と思うんだけど。
それもどこまで本当なのか今一、分からない。
そもそも私は羅刹と殆ど話をした事がないから、どんな人なのか掴み切れていないのだ。
そこまで考えた時に、部屋がノックされた。
「はい、どなたですか?」
「わたしよー、わらし」
ドアの向こうから鵺さんの声が聞こえる。
何だか呂律がまわっていないような。
私は嫌な予感をひしひしと感じながらもドアを開いた。
その瞬間、鵺さんがなだれ込むように部屋の中に入ってくる。
鵺さんの足元はおぼついていない。
誰がどこからどう見ても、泥酔していた。
「あかさび~~」
「ぬ、鵺さん! 大丈夫ですか!?」
私はふらつく鵺さんを支えようとする。
でも鵺さんは立とうという意志がなく、私に体重をかけてきた。
私は鵺さんの重みに耐えきれず、押し倒される。
「うぎゅー!」
床と鵺さんに挟まれながら私はもがいた。
「温かいけど小さいベッドねー。それに変に、ぷにぷにしてる」
「ぷにぷに言わないで下さい! あと私はベッドじゃないです!」
「そんなのわかってるわよぉ。ばっかじゃないの~?」
鵺さんはドアノブにしがみつきながら立ちあがった。
「た、沢山飲んだんですね」
酒臭い息を間近で浴びた私は、眼鏡を直しながら立ちあがる。
「ビール五本くらいよ。まだまだまだまだ」
まだまだと言ってるけど、ぜんぜん駄目そうだ。
「鵺さん、寝ます? お風呂入ります?」
「化粧を落としてない。肌が荒れる……」
「顔洗うだけでいいんですか? お風呂は……危ないかな」
今、鵺さんをお風呂に入れると溺れてしまいそうだった。
でも真打ちだから溺れたくらいじゃ死なないのかな。
って、そういう問題じゃないか。
「肩貸しますから歩いて下さい」
私は鵺さんに肩を貸す。
鵺さんはだらりと私にのしかかってきた。
「飲みすぎですよ」
「こんなもん序の口よ。私が本気で飲むと――」
「本気で飲むと?」
「気分悪い」
「うわぁああ!」
私は全力で洗面所に急ぐ。
洗面所に到着した鵺さんは突っ伏して、生唾を吐き始めた。
どうやら本当に危なかったっぽい。
私はほっと一息つく。
その時、またドアを誰かがノックしてきた。
「この忙しい時に……はーい、どなたですか?」
私は洗面所から出て、愚痴りながらもドアに声をかける。
「私だ」
ドアの向こうから聞こえて来たのは羅刹の声だった。
私はドアを開く。
外では羅刹が心配そうに、こっちを見ていた。
「鵺は大丈夫か? ふらついて帰ったから、ちゃんと戻れているかと思ってな」
「ええ、戻ってはきましたけど……」
奥の洗面所から「おえー」と声が聞こえて来た。
「駄目そうだな」
「そうですね」
「吐いてしまえば酔いも醒めるだろう。真打ちは外部からの毒に対しても耐性が高いからな」
「色々と便利ですね」
「兵器なのだから、その程度の耐久性がない事には話にならん。毒ガス程度で戦闘不能になられては困るだろう」
「は、はぁ」
何て返せばいいのか答えに困った。
「……」
「……」
そして沈黙が辺りを支配する。
聞こえてくるのは鵺さんの嗚咽だけだ。
お互いに話す事が無くなってしまって言葉がでない。
なのに羅刹は帰らなかった。
普段なら「それではな」とか言って帰りそうなのに。
「――赤錆」
最初に沈黙を破ったのは羅刹だった。
「な、何ですか?」
いつもと違う雰囲気で私は少しうろたえてしまう。
「すぐ部屋に来い。一人でだ」
それだけ言い残して羅刹はドアを閉じた。
「……」
何だか凄く嫌な予感がする。
も、もしかして鵺さんがいる前ではカッコつけてるだけで実はムッツリなのかもしれない。
良く考えたら実の妹がいる前で「体の世話をしろ」とか普通、言わない。
この鵺さんが酔い潰れている、この状況は私に手を出すのに格好の機会……。
「これはもう逃げるしかないよね!」
私はばたばたと勉強道具を片づけ始めた。
でもすぐに手を止めて考える。
逃げたからと言って事態が好転するとは思えない。
住んでる場所や学校、本名とかの個人情報は全て握られているのだ。
友好関係もばっちり知られている。
本気で羅刹から逃げるとしたら学校とか友達とか、戸籍とか全部を捨てて逃げるしかない。
さすがにそんな事は出来なかった。
「ああー、やっぱり、い、行くしかない……のかな」
いざとなったら剣になればいいはず。
自分の意志で剣に変化した事は無いけど、鵺さんが変化できたんだから私も出来る筈だ。
さすがの羅刹も鉄の塊をどうこうしようとは思わないだろうし。
剣になってじっとしていたら、そのうち部屋にいない私を探しに鵺さんが来るはずだ。
そうすれば羅刹も私に手出しできない。
よしっ、その作戦で行こう。
対策を考え付いた私は、緊張しながら羅刹の部屋に向かった。
一つ深呼吸してから羅刹の部屋をノックする。
「赤錆か」
「は、は、は、はい!」
私は引きつった声で返事する。
ドアが開き、羅刹が出て来た。
「まあ中に入れ。外では話しづらい」
羅刹はそう言ってドアを大きく開く。
「わかりまし――」
羅刹の部屋に入った瞬間に、ある事に気がついて私は凍りついた。
剣に変身したとしても、羅刹が『戻れ』と命令したら無条件で私は命令を聞いてしまうから、意味ないんじゃ……。
「もう風呂には入ったのか?」
羅刹がそう言ってドアを閉め、鍵をかける。
「は、は、は……い」
私は最後の抵抗手段が奪われ、ガチガチに緊張しながら答えた。
お、お風呂に入ったっていうのはやっぱりその……。
頭にかっと血が昇ったのが分かった。
「なら良かった。ではベッドに座ってくれ」
「!」
ベッドに……ベッドに。
私の頭はオーバーヒート直前だった。
「い、嫌……です」
「この部屋には椅子が一つしかない。ベッドに座って貰うしかないのだが」
「べ、べ、べ、ベッドに座らせてどうするつもりですか」
「ん?」
羅刹が不思議そうな顔をする。
だがすぐに羅刹は何かを理解したかのような表情になった。
「大丈夫だ。そう緊張しなくてもいい。すぐに済む」
そう言って羅刹は私の肩を掴んだ。
ここここ、これはもう間違いなく、間違いなく……!
「へ、へ、へ――」
「む?」
「――変態!!」
ばっちーん、と。
羅刹の頬を私の右手が直撃した。




