第一話「まずは奴隷に」
私は恐怖でパニックを起こしていた。
一五年ほどの人生の中で、間違いなく過去最大の恐怖を感じていた。
「ひぃっ……ひぃっ」
声もまともに出せない。
体を動かしてもいないのに息は荒くなっている。
心臓もあり得ない程に鼓動する。
そうしている間にも私の前には、ぼたりぼたりと肉が降ってくるのだ。
たぶん、人の肉が。
こんな……こんな事があっていいのだろうか。
さっきまで私は通学路を帰りながら、普通に友達とメールを送りあっていたはずなのに。
それなのに――。
「回り込め! 一対一では勝ち目がないぞ!」「逃がすな! 後ろを固めろ!」
そんな怒号が聞こえてくる。でも、それだけじゃない。
「ぎやああああ!」
耳をつんざくような声と共に、またぼとりと肉が降ってくる。
私は力の入らない足で、排水溝にまで何とかたどり着いていた。
汚いとか、浅いとか、隠れる意味がないとか、そこまで考えていられなかった。
ただ少しでも安全な所にいたかった。
「くそっ、化け物め! こうも容易く」「は、速」
声が途中で途切れる。
代わりに重い物がゴロゴロと転がる音が二つ聞こえてきた。
私は排水溝に隠れて震えていたので何かが落ちたのかまでは見えない。
でも見ない方がいいのは確実だと思う。
そして静寂が辺りを包みこむ。
さっきまでの喧騒が嘘のようだった。
最後の叫びから、辺りは物音一つしない。
私は排水溝から恐る恐る、顔をあげてみる。
「……ひぃっ」
目の前には街灯に照らされ長身の男が立っていた。
服は血で染まり、真っ赤だ。
電灯の光を背負っていたので顔は見えない。
だが私を見ているのは間違いなかった。
右手には抜き身の剣。
細かい装飾がされ、宝石がついた美しい剣なのに、刀身を濡らしている血が剣を禍々しく見せていた。
「――見たな」
男は剣を私に向かって振り上げる。
「っ――!」
私は目を見開いて振り上げられた剣を見上げる事しか出来なかった。
殺される。
訳も分からないまま殺されてしまうんだ。
そして無慈悲にも、剣が私に向かって振り下ろされた。
私は思わず目を閉じる。
それと同時に私を衝撃が襲った。
斬られた――という実感だけ残し、私の意識は闇に沈んでいく。
どこか遠くで女性の叫び声が聞こえた気がした。
「……」
私は気がつくと見慣れない部屋にいた。
部屋には誰もいない。
「ここ、は……?」
体を起こすと、ずきんと頭に痛みが走った。
恐る恐る手を動かそうとして、私は左手に点滴がつながっている事に気付く。
「――もしかして病院、かな?」
ベッドを見るとナースコールが備え付けられていた。
やっぱり病院みたいだ。
「生きてたみたい」
私は、ほっと一息つきながらベッドの横にあった窓を見る。
外は綺麗に晴れていて雲一つない。
「あれ……今、何日なんだろ」
私が意識を失ってから、どれくらい経ったんだろうか。
カレンダーを見ると十一月だった。とりあえず一か月は経っていないみたいだ。
ちょっと安心したせいだろうか。
少しずつ、記憶が戻ってきた。
空を飛ぶ人。
閃く剣。
人の悲鳴。
そして落ちてくる何か――。
私は慌ててナースコールを連打した。
すぐに返事が返ってくる。
「もしもし赤錆さんですか? 気がつかれたんですね?」
「あ、あのっ……あの!」
「はい、すぐ行きますから待っててくださいね。大丈夫ですよ~!」
それだけ言い残してナースコールは切れた。
すぐ来てくれるみたいだ。
「よかった」
そう言った瞬間、病室のドアが開いた。
さっきナースコールを終えたばかりなのに随分と早い――。
「――む」
部屋に入ってきたのは看護婦ではなく、長身の男だった。
私の体が震えだす。
だって、その男は間違いなく、あの日、あの時に出会った長身の男だった。
「少女、済まなかったな。とにかく気がついてよか」
「きゃあああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
病院に私の悲鳴が響き渡った。
「大丈夫ですよー。赤錆さん、安心してくださいねー」
看護婦はてきぱきと点滴を交換していく。
「あ、あの人は、あの」
私はうまく喋れなかった。
だって目の前に私を殺そうとした――いや、殺人鬼が目の前にいるのだから。
「大丈夫よ。心配しないで」
看護婦さんは、そんな事も知らず呑気なものだった。
それにあの女の人は誰なんだろう。
長身の男にぴったりくっついて嬉しそうにしている。
黒く長い髪の毛で、かなりの美人だった。
足も手も細いし、顔も小さい。
その割に胸はかなり大きい……。
目は少し釣り上がっていて、何となく性格がきつそうな印象を受けた。
「赤錆さん、落ち着いてね?」
女の人は何故か私の名前を知っていた。
私は彼女を今まで一度も見たことないのに。
「意識が戻った事をご家族に連絡しますね。安静にしておいてください」
「あ、あの!」
「どうされましたか?」
看護婦が足を止める。
女の子の眉が一瞬、ピクリと動いた気がした。
「あ――いえ、何でもありません」
「じゃあ何かあったらナースコールで呼んで下さいね」
看護婦さんはそれだけ言い残し、忙しそうに部屋を出て行った。
目の前に殺人鬼がいると伝えたとしても、信じてもらえるとは思えなかった。
それに下手に刺激したら殺人鬼が何をするか分からない。
部屋は個室だった。
中にいるのは私と女の子、それから殺人鬼だけだ。
「初めまして。私の名前は黒守鵺よ」
最初に口を開いたのは女の人だった。
「くろもり……ぬえさん、ですか」
珍しい名前だった。
女の人の名前とは思えない。
「私は黒守羅刹。鵺は私の妹だ」
「くろもり……らせつ」
羅刹というのは、悪魔か何かの俗称だった気がする。
子供に酷い名前をつける親もいたものだなぁ、と思った。
「君の名前は赤錆加奈子で間違いないな」
「あ、はい……」
私は思わず頷いてしまったけど、少し後悔した。
殺人鬼に本名を教えてしまったのだから。
「では赤錆。君に残念なお知らせがある」
「残念? 私にとったら光栄な事ですわ、お兄様」
「いや、彼女にとっては残念に違いない」
私は何の話をされているのか分からず首を傾げる。
羅刹は一つ溜息をつくと、こう言った。
「君は、私の奴隷となったのだ」
「は……?」