第十八章:鎮魂歌
もうどれだけ泣いたのだろうか。
身体中の全ての水分が頬を伝って雫となって消えても、悲哀の声は尚も途切れることを知らない。そうすることで失った何かを取り戻せるかのように、ただただ泣いた。
天上が夜色の帳に塗り替えられても、柔らかな月の光が慰めるようにその身を照らしても、ミランはそれすらも知らないまま嘆き続ける。
押し寄せる悲しみに、何も考えられぬ頭で、いっそこのまま水に溶けて消えたいと思った。
この胸にぽっかり空いた隙間を埋めてしまいたかった。
「――っ・・・・ッ・・・―――」
もはや掠れて声にさえならない嗚咽が夜風にのって空に消えた。
――――ミラン
突然耳に響いた優しい声に、ミランの肩がびくりと揺れた。
――――ミラン
もう一度。
――――ミラン
聞きなれた懐かしい声が、ミランの瞳に生気を戻す。
「・・・・・・じ・・・さま・・?」
呆然と呟きながら、伏せていた顔をゆっくりあげた。白い頬には涙の跡がくっきりと残り、泣き腫らした目は真っ赤で痛々しかったけれど、その目には確かに光が戻っていた。
「じいさま・・・・」
応える声はもうないのだと、冷えた頭のどこかが告げていた。それでも探してしまうのは、覚悟なんて出来ていなかったからだ。その声をいつでも聞けると、当然のように信じていたからだ。
「じいさま・・・・」
ふらりとミランは立ち上がった。泣き続けて体力を失った身体が、急激な体勢の変化に悲鳴をあげるが、それにも気付かず揺れる身体を支えて歩き出す。ゆっくりと、深い湖に向かって。
――――ミラン、人が一人で出来ることなど限られているんじゃよ
知っている。だって自分は今とても寂しい。
みんな、いってしまったから。
一人にしないで、残していかないで。
いくなら一緒に連れていってほしかった―――!
――――ミラン、どうか・・・・
ぴしゃんと水の撥ねる音がする。
立つ気力も失った細い身体が、重力に引かれてぐらりと前に傾ぐ。
このまま、一緒に・・・
――――どうか迷わず、為すべきことを
「・・・え?」
無防備に投げ出された身体は、水の中に沈む前にぐいっと強い力で引き戻された。
前に移動していた重心が今度は引っ張られた後ろに移動して、そのままの勢いでぺしゃりと水の中に尻餅をついた。伸ばした足の先には尻餅をつけるだけの地面などなく、深く底の見えない暗い湖が広がるばかり。
聞こえた声と突然の強い力に放心していたミランは、やがて自分の身体を支える力強い腕に気付いた。この先には絶対に行かせないという明確な意思の込められた、そして実際にミランを引き止めたその腕に。
「――――っの、バカやろうッ!!!!」
耳元で轟いた怒声に、ミランは目を瞑り縮こまる。
「何しやがるつもりだった!このバカたれっ!!」
ごつんと容赦のない拳がミランの頭に振り下ろされた。瞬間、あまりの痛さに目がチカチカして、後ろから肩を抱くように回された手にしがみつく。
「・・・う・・・い、イタ・・・」
「痛いように殴ってんだから当たり前だ!これでちっとは目が覚めたか!!」
がしがしと大きな掌がミランの頭を掻き雑ぜる。
「いたたたた!ホント、痛いから!離してよ!」
出尽くしたはずの涙が、あまりの痛さに目の端に滲む。先程までの、全ての感覚が麻痺したかのような自分が嘘のようだ。
「誰が離すか!」
「く・・・首!首絞まってる!!」
肩に回されていた腕がいつの間にか首周りに移動していて、喉が押しつぶされるかもと思うほど圧迫される。ただでさえ泣きすぎて喉が苦しいのに、これ以上何かされたら本気で声が出なくなる。脳裏を一瞬よぎったイヤな想像に青くなり、ミランは自由になる手で必死に真後ろのガルクの頭をばしばしと叩いた。
「・・・・・・・ガル!」
切れ切れの声で名を呼ぶと、不意に加えられていた力が緩んだ。ほっと肩の力を抜いたミランの頭にコツンと何かが当たる。
「・・・?」
「・・・・・・離して、平気か?」
威勢の良さが微塵も感じられない低い声が、頭の後ろでくぐもって聞こえた。微かな吐息にミランの細く柔らかい髪が震える。ミランは後ろを振り向こうとしてみたが、どうやらコツンと当たったのはガルクの額のようで、完全に抱きこまれた姿勢のまま身動きがまったくとれなかった。
「離しても、もう大丈夫なんだな?」
再度、確認するかのように呟かれたその声にわずかな緊張を感じ取り、ミランはいたたまれなくなった。自分は彼にどれだけ心配をかけたのだろう。
「・・・・うん。大丈夫」
答えて、小さくこくりと頷いた。
「・・・・・・そうか・・・」
頭の後ろでほっと息を吐くのを感じ取ると、ミランを抱え込んでいた手がゆっくりとはずされた。温もりが離れてしまうのが寂しいと思いながら、座り込んだままミランは後ろを振り返る。そこには自分と同じように水の中に座り込んだガルクがいた。
「ガル・・・」
「って言うと思ったか、このボケ!!」
話しかけようと思った矢先、またも盛大な怒鳴り声と共に怒りの鉄槌がミランの頭上に振り下ろされた。ごいんと鈍い音が静かな夜空に響き渡る。
「――ったあああ!!な、何すんの!」
「うるせーー!!いくら殴っても殴りたらねーよ!!このバカ!この小さい頭には何が詰まってんだ!空っぽか?!おまえ、オレが見てたから良かったものの、このまま行ってたら即土左衛門だぞ!いくら水の賢者って言っても水の中じゃ息出来ねーだろうがっ!!」
ガルクはがしっとミランの顔を掴むと、力任せに湖の方を向かせる。
「いいいいいたたた!首もげるっ!」
「言う言葉はそれかっ?!」
「あううう、ご、ごめんなさいーーっ!!」
半泣きで絶叫すると、顔の両側からぱっと手が離れた。無理矢理引っ張られた首が痛い。
ミランは痛む首と両頬を撫でながらじっとガルクを見上げる。
「このバカ!このバカ!このバカ!!」
「・・・・っバカバカ連呼しなくても・・・・」
「バカをバカと言って何が悪い!おまえ、あの光景見たんだろうが!!なのに自分から命捨てに行こうとするなんて、ただのバカよりタチわりーぞ!!」
「捨てになんて・・・っ」
「ああ?!じゃあ何で湖に行こうとした?『一緒に行きたい』とか思ったからじゃねーのか!?」
容赦ない言葉の攻めに図星をさされ、ミランは顔を俯ける。
その態度を見てガルクは、はあーっと盛大な溜息をついた。
「顔上げろ」
「・・・・・・」
「こっち見ろ、ミラン」
「・・・・」
有無を言わせぬ口調に、渋々ながらミランは顔を上げる。烈火の如く怒ったガルクを想像していたのだが、実際に顔を上げて見た彼の顔は、至極真面目なものだった。
「オレはこの村が沈む直前の光景を見た。それはおまえも見たはずだな?」
思い出したくない光景が脳裏によぎり、ずきっと胸が痛む。泣かないように歯をくいしばって、ミランはこくんと頷いた。
「なら、分かるだろ?みんなは何の為に戦っていた?彼らは誰のために覚悟を決めた?全ては誰のために、何のために?」
問う声はもう怒りを含んでいなかった。
諭すような低く静かな声でミランに答えを求める。
『あの子のお荷物になるのは御免ですよ・・・・私達の半分も生きていない子に、そんな辛いことさせるわけにいかないじゃないですか・・・・』
誰の為かなんて、明白だった。
『戦う術を知らない私たちは、あの子の重荷にしかなれません』
何の為になんて、聞くのも愚かだ。
全てはミランのために。水の賢者として認められてしまった自分の枷にならない為に、まだ子供の自分が余計な重荷を負わない為に、進む道を遮らない為に。
「・・・・・・・・僕の、た、め・・に・・・」
彼らは覚悟を決めた。全てをその命と引き換えに。
足りなかったのは、自分の覚悟だ。
彼らの方がずっとずっと確かに全てを見通していた。
「そう。だけどおまえのせいだとは言わない。ただおまえを愛していたから、選んだんだ。その道を」
泣くまいと顔を歪めるミランをガルクがそっと引き寄せた。広い肩に顔を押し付け、小さな頭をぽんぽんと叩く。
「自分のせいだと責める必要はない。だけど目を逸らすな。彼らの決断から――彼らの覚悟から。泣くくらいなら、根性据えて何が何でも生きて望む道をいってやるって思え。それが残されたものの・・・・願いを託されたおまえがやるべきことだ」
――――どうか迷わず、為すべきことを
水に沈む直前に祖父が望んだのは、嘆き立ち止まることじゃない。
「―――――っ」
伏せた目から涙が零れそうになる。
「泣くか?」
「―――っ」
ガルクの静かな問いに、緩やかに首を横にふって答える。
もう泣くだけ泣いた。
流した涙は、すべて自分の弱さの結晶だ。彼らは泣くことなど望んでいなかった。
だから泣かない。泣くよりも、出来ることがある。
ミランはガルクの肩からそっと顔を離すと、ぎこちなく微笑んだ。
「歌を」
愛してくれた人たちへ、祈りの歌を。
黄昏に目覚める月よ 優しき女神の御許
星空に奉げるは 鎮魂歌
願いましょう 祈りましょう
静寂と眠りのたゆたう この水面で
歌いましょう 祈りましょう
始まりと終わりを奏でる 祈りの歌を
水の中、互いに座り込んだままミランは朗々と歌声を響かせた。
星が隠れ、地平が明るむ黎明の空に。
ありがとうの言葉のかわりに、愛しき人への想いを込めて。
「・・・・?」
目の前で目を閉じ歌っているミランを静かに眺めていたガルクは、ふいに明るくなった周囲に気が付いた。夜は明けつつあるが、朝日はまだのぼっていない。
何故かと思い水の中に視線を落とせば、そこにはぼんやりと青く光る小さな玉がいくつも自分たちの周囲に集まっていた。驚きのあまり目を瞠ると、その玉は少しずつミランの歌にあわせてゆっくりと空へとのぼっていく。
その玉を守るように、水の精霊たちがくるくると周囲を回る。
「・・・・・・これ、は・・・」
不思議とイヤな感じはしない。未知のものだけれど、怖いとも思わなかった。
むしろ無性に泣きたくなるくらい、温かくて優しい光だった。
闇夜に旅立つ 愛しき人よ
ならばあなたが迷わぬように
私は灯を掲げましょう
過ぎし日の微笑みを
いつか見上げたあの空を
暖かな想いの光と共に
幸せ祈る 言葉をそえて
私は あなたを送ります
愛しき人よ
私は あなたを送ります
「――――っ」
すべての想いを言の葉にのせ空に放つと、地平から身を乗り出した太陽が天へと昇る無数の玉を白き光で包み込んだ。
青い青い優しい光は、始まりを告げる光の中に溶け込むように消えていく。
目を閉じたままのミランの眦から、ツウと一筋の涙が零れた。